あいしてるはいらない
瀕死を彷徨ったとは思えないほどの、穏やかな寝顔だった。まだ顔色は悪いがすやすやと立てられる寝息は規則正しい。斬られたと聞いて、頭が真っ白になって、母上に追い立てられるようにして蒙恬様のお家に訪れた。ただ眠っている蒙恬様をぼうっと眺めていると、日が暮れかかっていることに差し込んだ夕日で気づくことができた。
窓から吹き込んだ風が頬を撫でたのだろう。ぴく、と長い睫毛が一瞬揺れたあと、ゆっくりと、瞼が開かれていった。
茶色の瞳はぼんやりと宙を彷徨ったあと、人の気配を察知したのだろう、虚ろに、寝台の隣の椅子に腰を掛けている私に視線を投げかけた。
「…鈴?」
目覚めたばかりだからか、声は掠れていた。何でここにいるのかと蒙恬様の目が不思議そうに言っていた。
「…怪我されたって訊いて、駆けつけてきたんです」
ふわふわと浮いている曖昧な視線から逃げるようにして、私は顔を俯けた。膝の上でぎゅっと握りしめられた私の手が視界に映る。ああ、なるほど。蒙恬様は納得したように呟いた。きっと、言葉の意味を噛みしめるように何度か顎を小さく引いているのだろう。蒙恬様の癖だ。きちんと人の話を聞いて、例え自分と違う意見でも否定することはせず『そうだね』と、笑って受け入れてくれる。そういう、優しい人だ。蒙恬様に殺された人からしたら、極悪人なのだろうけど、私にとっては。
「お伝えしたいことが、あります」
熱く湿った吐息と伴に紡いだ言葉は、少し震えていた。釣られるように、膝の上で丸めた手も震えはじめる。ごくっと唾を飲みこんでから、ばっと顔を上げる。決意の眼差しを向けてきた私に、蒙恬様はぱちくりとまたたいた。
一気に伝えようと、口を開いた。
けど。
私の口は、氷づけられたように固まって、動かなかった。
「…鈴?」
酸素を求める魚のようにぱくぱくと口を動かすだけの私に、蒙恬様はきょとんとする。喉がひくひくと痙攣するように震えていて、声を発そうとしても、うまく出てこない。胸元を叩いて「んんっ」と、咳払いして、もう一度、口を開く。それでも声は出なかった。ただ、酸素を吸うばかり。何度も呼吸を繰り返しているのと、緊張のせいで、口内がどんどんかさかさに乾いていく。
どうしよう、ちゃんと、言いたいのに。こんな、みっともない姿。恥ずかしい、どうしよう。
想いを口にするだけのことすら出来ない自分が腹立たしくて、情けなくて。追い立てられるような焦燥感に、じんわりと汗が額に滲む。掌に爪が食い込むほど強く握ってから、もう一度、声を振り絞ろうと口を開いた。
すると。ぽんっと、柔らかく、掌を頭に置かれた。突然のことに目を見開いて固まる私の頭を、さすりさすりと、優しく撫でてくる感触を、私は知っている。この手の持ち主はいつだって、大人びたように笑いながら。
「だいじょうぶ。焦んなくていいよ。ちゃんと、待ってるから」
「ね?」と同意を促すようにして小首を傾げた時、肩まで伸びた髪の毛がさらっと揺れた。
ぽかんと口を半開きにしながら、呆けたような眼差しを向ける今の私はさぞかし滑稽だろう。かちこちに固まっていた心が解されていく。柔らかくなっていく。
そうなの。この人は。いつだって。
「…鈴?」
視界に、ゆっくりと水膜が張られていく。ゆらゆらと世界が揺れ始めた。
いつだって。私が子ども染みた我が儘をぶつけた時だって、自分を悪者に仕立て上げてまで、私を守ろうとしてくれていた。この人は、そういう人。
そういう、優しい人。
「すきです」
ぽろり、と。涙が零れ落ちた。ずっとずっと、抱えていた想いと一緒に。
涙の向こう側で蒙恬様の表情が動いたような気がした。
「へ」
間抜けな声の持ち主の手を掬い取るようにして持ち上げた。両手でしっかりと包み込んでも、まだ少し、足りなかった。ごつごつと骨ばった男の人の手は、私の手を悠々と超えてしまうほど、大きかった。
「すきです、すごく、すきです」
「え、ちょ、鈴」
「ぐすっ、すき、で、す」
「ちょ、待て、鈴」
困惑しきった声で「待ってほしい」と乞うてくる蒙恬様の申し出を、駄々をこねる子どものようにいやいやと頭を振る。「ええー…」と、困惑と照れが入り混じった声が上がった。
すき、と言葉にする度に。堰を切ったように感情が溢れ出して、止まらない。頬の丸みを伝って零れ落ちていく涙は、雨のように膝に降り注いだ。
泣きすぎて、声がなかなか出ない。でも、言わなきゃ。この二年間、逃げてたツケを払わなきゃ。そうじゃなきゃ、私。
蒙恬様の婚約者って、胸を張れない。
「こわ、かった、の」
ひく、ひく、と喉が震えていて上手く言葉を声にのせられない。途切れ途切れに紡がれた言葉は不格好でみっともなくて。でも、蒙恬様なら嫌がらず、辛抱強く、聞いてくれる。だって、そういう人だもの。幼い時、私が壺を割ってしまった時、一緒に父上に謝りに行ってくれた。この広い世界を包み込む空のように雄大な優しさを持ったこの人に、少しずつ、少しずつ、惹かれていって。
「こん、こん、なに、すきなの、に、死んじゃ、た、ら、わ、わた、し、どう、すれ、ば、いいの、って」
失うことが、何よりも、怖くなった。
初めて、『嫌い』と言った日のことは、今でも覚えている。
あんな嘘を吐いてまで私を置き去りにする蒙恬様が、ひどく腹立たしかった。そこまでして、私を置いていきたいのか。と、身勝手な怒りで体が震えた。どこまで私を馬鹿にしているのだと、思わず、手を挙げてしまった。白い頬に赤い手形がくっきりと映えている蒙恬様の横顔に少しも動揺は見られず、冷静に、悟ったような表情を私に向けてきた蒙恬様に、心の底から怒りが込み上げて。
『だいっきらい!』
衝動のまま飛び出た言葉。初めて口にした『大嫌い』は、私にある考えを閃かせた。
そうまでして私を置いていくような人をすきになる利点なんてないじゃないか。死ぬ時は死ぬ。私が待とうが待たないでいようが。
それならば。形だけの婚約者になればいい。嫌いになってしまえばいい。嫌いになってしまえば、蒙恬様が死んだって、私は傷つかない。
愚かな私が自分を守るために必死に考え付いた、知性の欠片も見受けられない浅ましい苦肉の策。他人が聞いたら、人差し指を向けながらげらげらと大笑いするだろう。
「…うん」
それなのに、どうして笑わないのだろう。口元は優しく弧を描いているが、それは私を馬鹿にしてのことではない。神妙な面持ちで相槌を打ちながら、話を急かすようなことは決してしない。私が話すのを辛抱強く待ってくれる。馬鹿だな、と、笑いもせずに。いつも、すぐからかってくるくせに。どうしてこういう時はからかわないのよ。理不尽な怒りから、じとりと恨めし気に睨みつけた。
「…まーた、急に怒る」
苦笑を零した蒙恬様に「だって、ずるい」と、唇を尖らせる。蒙恬様は意味がわからないと言うように、きょとんとした。
「いつも、そうやって大人じゃないですか。大して齢も変わらないのに。蒙恬様のことだもの。私の愚かな策ぐらい見透かしていたんでしょう?ずるいわ、本当」
鋭い眼光で捉えながら、拗ねた口振りで不平を零す。「えー?」と、蒙恬様は大袈裟に『心外だ』と言うように吃驚してみせた。こういう仕草が似合うところが憎たらしい。
「そんなことないって。もしかしたら本気で嫌われってかなーってちょいちょい思うことあったよ」
蒙恬様の笑顔に、ふっと影が差した。風が吹きこんで、髪の毛に視界が包まれる。はらりはらりと落ちてきた髪の隙間から、幕が開いていくように、蒙恬様のお顔が見えた。
「最低なこと言ったし、本気で嫌われたって仕方ないことをしたんだ、俺は」
伏せられた瞼から覗く瞳が、寂しそうに揺らいでいた。はっと目を見開いて、蒙恬様を凝視する。ひとつひとつの部品が整っていて、本当に綺麗なお顔立ちだ。
誰もが見惚れるであろう美青年の儚げな微笑みに。
「…らないで」
私は。
「…ん?」
儚げな微笑みを引込めて、何事もなかったかのように耳を傾けてきた蒙恬様のお顔を、ぐいっと掴んで。
「見くびらないで!!」
キーン、と耳鳴りがするように、わざと大きな声で怒鳴りつけた。耳鳴りしているのかどうかわからないが、私の両手にむんずと掴まれた蒙恬様はぱちぱちと瞬きながら、呆然と私を見ていた。
「あんな嘘、わかるに決まってるでしょう!なに、私が本気にしたって思ってるの!?今までずっと!?ふざけないでください!!」
私は、怒った。雷を落とすようにして、怒った。
「わかるわよ、蒙恬様のこと、ずっと見てきたんだもの、というか、ああいうことを言うような人だったら、」
ありったけの気持ちを込めて、叩き付けるようにして叫んだ。
「すきになるわけ、ないでしょう!!」
掌の中の蒙恬様が大きく目を見張った。瞳の中に、ぜえぜえはあはあと乱れた呼吸を繰り返している私が映っている。って、うわ、髪の毛がすごく…ぼさぼさ…!!風が吹きこむ中暴れたから仕方ないことかもだけどこれはちょっと流石に嫁入り前の娘が婚約者の前で見せる姿じゃない、って、いや、それ以前に。
顔、近い。
カァーッと熱がこみ上がってきて、私は慌てて距離を取った。そんな私を見て、驚きっぱなしだった蒙恬様の顔に笑みが戻った。
「今、気付いたんだ?」
「ちょ、ちょっと熱が入ってたから、つい!き、気が動転してたんです!!」
「別にいいじゃん」
「良くないです!!嫁入り前の娘が、あんな、はしたないマネ…!」
両手で顔を覆いながら、掌の中で「ああー!」と叫ぶ。あはは、と軽やかな声が聞こえてきた。かんっぜんに面白がってる…!腹立つ…!!指の隙間から、その憎たらしい笑顔を伺う。蒙恬様は肩を揺らしながら、楽しげに笑っていた。何が「そうだな」よ。私のじめじめした視線を物ともせず、蒙恬様は穏やかに言葉を紡いだ。
「鈴は、俺のお嫁さんになるんだもんな」
試すような瞳を不意に向けられる。
かちり、と音がして。視線と視線が繋がった。
部屋の空気ががらりと変わったのを肌で感じる。体感したことのない空気に、息が詰まる。でも、不思議と不快感はない。息苦しいのに不快じゃないなんて、変な話だ。
体が熱い。目が逸らせない。ぐるぐると、脳みそが回る。
「鈴」
蒙恬様の声が蔦のように私の心臓に絡みついてきた。きゅっと締め付けられて、息を浅く吐き出す。私の体のように、熱かった。
「おいで」
「…なんでですか」
「ダメ?」
ぎらっと睨みつけて精一杯の抵抗をしてみても、ほうら、全てお見通しだ。ぎゅっと噛んだ唇の隙間から言葉にならない悲鳴が漏れる。全て悟られていることが腹立たしくて、寝台の端っこに腰を下ろした。意地でも、抵抗し続けてやる。嫌って言わなかった時点で抵抗になってない。という矛盾には気付かない振りをした。
「昔はあんなに素直だったのにな〜」
「う、うるさいです!」
「あ、でもさっきは素直だったね。久しぶりに鈴から『すき』って聞いた」
「ううううううううるさいですよ!!」
「あはは、照れてる! …でも、」
ゆるりと目が細まった。溢れんばかりの気持ちを声に乗せながら、蒙恬様は笑った。
「すっげー、嬉しかった」
打算も計算も見当たらない、心の底からの笑顔は、子どものようにあどけなかった。雲が晴れたように視界が広がった。世界が突然、眩しいものになる。やっぱり、この人はずるい。ちょっと、無垢に笑ったぐらいで、こんなにも私に大打撃を与える。
「…蒙恬様」
「なに?」
すうっと息を吸い込んでから、挑むようにして強い意思を秘めた瞳で蒙恬様をしっかりと見据えた。
「私ばっかり、すきって言ってます。蒙恬様も、言ってください」
早口で手短に事実を冷静に述べた。ぱちくりと蒙恬様は瞬いたあと、気まずそうに視線を斜め上に飛ばした。
「なんですか。言えないんですか」
「や、言えないってわけじゃないけど。…照れるなーって」
たははー、と言葉の通り照れ臭そうに眉を下げたお顔が、大変可愛らしくて胸が高鳴ったのと同時に、よしっと丸めた拳を天に突き上げたい衝動にも駆られた。私ばっかり攻撃を食らうなんて、不公平だと思うのだ。この機を逃さない手はない。ずずいと近づいて「言ってください!」と命令するように言い放った。
「わかったわかった。言うから」
こうさーん、と軽い口調で言いながら両手を挙げたあと「あー、」と、声を鳴らし始めた。さあ、言いなさい。そして恥ずかしがりなさい。蒙恬様の表情の変化を逃さないように、じいーっと視線を注ぎ続ける。ふうっと観念したように短く息を吐いたあと、真っ直ぐな眼差しを私に向けてきた。
力強い瞳に、呼吸を忘れる。ふっと和らいでも、効力はなくならなかった。甘やかな視線に、金縛りあったかのように体が動かない。
形の良い唇が、ゆっくりと動いた。
「すきだよ」
慈しむように紡がれた声に、何故だか、泣きだしたくなった。
訳のわからない感情が胸に溢れ出して、苦しい。苦しいのに、嫌じゃない。悲しくないのに、泣きたい。鳩尾が締め付けられたかのように息がし辛くて眩暈がすごくて苦しくて熱くて切なくて。
「俺よりも俺のことで怒ってくれるところとか、すごく、救われてる。多分、自覚している以上に」
そっと手を重ねられた。私の手をすっぽりと覆い被れるくらいに大きな掌に、ぎゅっと握りしめられる。少しだけ、湿っていた。
「鈴は、俺のこと優しいってよく言ってたけど。そんなことない。あの時、あんな嘘吐いたのは、鈴の為じゃない。俺の為だ。鈴を少しでも死ぬ可能性から遠ざけたかったからだ」
私の手に覆いかぶさっている掌が少し震えた。蒙恬様は視線を少し私から外した。まるで叱られるのを怖がる子どものような仕草に、ふふと笑ってしまった。変なところで笑った私を不思議そうに見る蒙恬様の視線を受け止めながら、うん、と小さく顎を引いた。
「…私と、同じですね」
私も、そうだった。決して蒙恬様のことを思って言ったわけじゃない。恐ろしいほど自分のことしか考えていない。
死んでほしくない。私の傍にずっといてほしい。そう、願っても、絶対この人は受け入れてくれない。
「…そうだね」
哀愁漂う微笑みを浮かべながら頷いた蒙恬様の袖を、空いている手で引っ張った。
「なんで、戦に行かれるんですか?」
死んでしまうかもしれないのに。私を置いてしまうのに。
私の声は子どもが疑問を口にするようなあどけなかった。じいっと真っ直ぐに視線を向ける。蒙恬様は逸らすことなく、しっかりと受け止めながら、口を開いた。
「俺が、俺だから」
凛々しい声が、静かに響いた。
「父上の威光が重たくて、やってられない時なんてたくさんあった。なんで俺がこんなことやらなきゃならないんだって、何回も思った」
真っ直ぐに伸びた声が、心地よく染みわたっていく。そっと瞼を下ろす。驚きはなかった。きっと、そう言うだろうと思っていたから。
「王賁みたいに真面目に向き合うのはできないし、性に合わないけどさ」
一泊、間をおいてから紡がれた声は、力強い光を放つあの青年のように、どこまでも透き通っていた。
「蒙家の嫡男の俺にしかできないことだから、これからも、俺は戦に出続けるよ」
鈴が、どれだけ嫌がっても。
ゆっくりと目蓋を開けて、視線を上げる。いつもの和らいだ表情はない。代わりに、真摯な光が瞳の中できらめいていた。
「私のこと、すきですか?」
首を傾げながら問いかける。不意な質問にたじろぐことなく、蒙恬様は一言一言に想いを込めて、誓うように言った。
「すきだ」
でも。お前の望みには応えられない。そう言っているようにも聞こえた。
私がどれだけ泣いても喚いても、蒙恬様の決意を変えることはできないだろう。蒙恬様は、信様のことを自分の信念に真っ直ぐだと言っていたけど、蒙恬様もよ。あなたも、自分の信念にどこまでも真っ直ぐ。自由な鳥のように見えて、あるかどうかもわからない場所へ一心不乱に飛んでいく。私を、置いて。
「…私も、」
ふっと笑みを零すと、丸く大きく膨れ上がった涙の粒が転がって、頬を伝っていった。
「すき」
聡い故に周りの期待をわかってしまって、面倒くさいなんて言いつつ、絶対に逃げ出さないところ。年相応にじゃれあっている姿が、可愛らしいところも。ああでも、自分の力量をきちんとわかっているくせに、時々無茶するところは、嫌い。他の女の子にも、すぐ可愛いと言っちゃうところも、嫌い。
すきなところ、嫌いなところ、どんどん出てくる。それでも、最終的に、すきだ、と思うのだ。どうしようもなく、ただ、すきだ、って。
「すき、です」
私は詩を詠むのは苦手だから、単調に、同じ言葉を繰り返すことしかできない。だから、何度でも、何度でも、気持ちを紡ごう。
「…っ、ひっ、う…っ」
良かった。死ななくて良かった。私には、まだあなたの死を受け止められる覚悟はできていない。これから先も、そんな覚悟できる気がしない。幸せを感じれば感じるほど、失くした時のことを思うと、ぞっと体に寒気が走った。
ぐっと奥歯を噛んで、お腹の底から込み上げてきた熱い塊を必死に押しとどめる。
それでも、やらなきゃならないのだ。帰りを信じて、待つ。それが私にできる、唯一の戦いなのだから。
不意に、音もなく引き寄せられた。ぱちぱちと瞬いた視界に映るものは蒙恬様の肩越しの世界だということに少し経ってから気付いた。
生きてる体温は、当たり前だけど温かった。どくんどくんと鳴る心音は、どちらのものなんだろう。
「も、もう、」
「恬」
きつい口調ではなかったけど、突っぱねるような響きは孕んでいた。へ、と声を出す。ぎゅうっと、存在を確かめるようにして抱きしめられた。少し痛くて、器用な蒙恬様らしからぬ抱き方に、心が熱くなった。
「恬って、呼んで」
おねだりするような甘い声を、耳元で囁かれた。吐息がかかって、びくっと肩が跳ねる。すると、くつくつと喉で笑う声が聞こえてきた。カァーッと羞恥と怒りがこみ上がってくる。意のままになってたまるもんですか!と、負けん気が沸いた。
「あ、あなたが言うべきこと言ったら、呼んでさしあげます」
つんっと尖った口調でつっけんどんに言い放つ。
「言うべきこと?」
蒙恬様は不思議そうに呟いた。
そう、一番言ってほしい言葉。それさえあれば、甘い囁きも、抱擁も、いらない。
「…帰ってきた時に、言う言葉です」
はっと気づいたように、蒙恬様が息を呑んだのがわかった。体を離して、私を見つめる蒙恬様は優しさと愛情で満ち溢れていた。すきだって、また胸が鳴いた。
「ただいま」
花びらが水面に舞い落ちたようだった。波紋が広がっていき、じわじわと胸に染みわたる。熱い塊がまたこみ上がってきた、震える喉で、懸命に押し返す。けど、今回は堪えきれなかった。
涙腺が決壊して眼からとめどなく溢れ出した涙がぼろぼろと転がり落ちていくのをそのままに、恬様に抱き着いた。
喉を締め付けられたような掠れた声で、私は言った。
言いたくて言いたくてたまらなかった、もうひとつの言葉を。
あいしてるはいらないfin.
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