ありふれた明日が欲しい


 窓の外に、どこまでも青い空が続いていた。小鳥の囀りが鼓膜をゆるやかに震わせる。穏やかな昼下がり。柔らかな日差しが私の頬を照らしていた。
 国が滅ぼうとしているとは、思えないほどの。

 屋敷は不気味なほどしいんと静まり返っていた。国が滅ぼうとしているのだ。逃げる場所なんてどこにもない。私は寝台の上に横になって、ぼうっと、虚ろに宙を見つめていた。

 蒙恬様は、今、戦われているのだろう。当たり前だ。千人将なのだから。誰かの下について、指揮を振って。冷静に、適格な判断を下して。そして。
 自分を、窮地に追い込む。俺ができるから、俺がやっただけだ、と。穏やかに笑いながら、そう言う蒙恬様が容易く想像できて、眉間に皺が刻まれた。掌に爪が食い込むほどに、ぎゅうっと拳を握りしめる。カッとなって、とか。思わず、とかではなく。落ち着いた頭で冷静に計算した上での行動だから、余計に性質が悪い。だって、冷静に考えられているのに。他のことを少しは気にする余裕があるのに。私のことを、忘れているわけではないのに。
 それでも、命を賭して戦う。

 気付いたら、体が小刻みに震えていた。目に薄い膜が張られているため、視界はすっかりぼやけてしまっていた。手の甲で乱暴に拭ってから、鼻梁に沿うようにして両手で鼻と口を覆った。目を強く閉じながら、掌の中に納まるように、熱く湿った息を吐き出しながら、体を縮こまらせる。目蓋の裏側には、闇が広がっていた。何も見えない。だから、全部、わからない。もう、全部、全部、わからない、知らない。

『鈴』

 あんな、いつも私を置いていってしまう人なんて、知らない。

 脳裏に浮かんだ耳障りな声に苛立たしさから奥歯をぎりっと噛んだ。

 押し付けるように耳を両手で塞ぐ。隙間から滑り込んだ物音が鬱陶しかった。

「鈴、様」

 伺うように扉が小さく開かれたあと、ひっそりと息づくような声で恐る恐ると雪に名前を呼ばれた。聞こえなかった振りもしないまま、無視を貫く。もう、なにもかも、どうでも良かった。

「…鈴様、」
「すみません、急にお部屋にお邪魔して」
「…お祈り、しませんか?」

 静かな部屋に、雪の声はぽっかりと浮かんでいて、いつまでも漂った。ゆらゆらと漂い続ける言葉が不快に纏わりつく。どんな小言よりも、苛立たしかった。

「蒙恬様の、ために」

 きれいごとをぶつけられることは。

「―――バッカじゃないの!」

 空洞のように空っぽな綺麗な言葉に、精神を抑えていた全ての鎖が音を立てて砕けた。がばっと起き上がった私は、激情に駆られたまま、怒りに滾った瞳で雪を睨んだ。

「そんなことしたって、どうにもならないじゃない!祈ったって、祈らなくたって、死ぬ人は死ぬの!!」

 友達の婚約者も、姉上の旦那様も、絶対に帰ってくる。だから、待っててほしい。そう言って、戦に行ったくせに、結局帰ってこなかった。
 帰ってきますように、と、ちゃんと二人とも祈っていたのに。みしみしと骨が軋むほど手を組みながら、祈っていたのに。
 それでも帰って来なかった。

「蒙恬様が、戦に行かない限り、死なない可能性はないの!!私が何をしたって、無意味なの!!意味のないことをさせないでよ!!」

 金切り声で発作のようにまくし立て終えると、乱れた呼吸が口から漏れた。はあはあと肩で呼吸しながら、雪を睨む。雪は、何の感情も表に出していなかった。すうっと澄んだ目で、ただじいっと私を見ている。

「じゃあ、」

 おもむろに開いた口から、静かだけど確かな意思を持った声が紡がれた。

「ご自分がすべきことから逃げ出すような蒙恬様だったら、良かったのですか」

 その言葉は。

『てめえの大事なモンほっといて逃げるような男じゃねえから、惚れたんじゃねえのかよ』

 放たれた一本の矢のように真っすぐな声を、思い出させた。

 目を見張って、雪を凝視する。見透かすような瞳で私を捉えたまま、雪は言葉を継いだ。

「貴族の結婚なんて堅苦しそうだなとずっと思っていました。親の差し金で決められて、自分の意思は全く反映されない。鈴様が全くすきでもない男性と結婚されるなんて嫌だなあ、なんて思っていたんです。でも、蒙恬様とお話されてる鈴様を見て、杞憂に終わって。すごく嬉しかったです。…ううん、それだけじゃない、」

 ふっと、雪は口元を緩めた。

「蒙恬様のことを誇らしげに語る鈴様を見て、そこまで誰かを愛せるなんて、羨ましいって、思いました」

 しゅるしゅると、紐が解けていくように、記憶が蘇る。

『雪、蒙恬様ってすごいの。軍師の学校で一番なんですって!当たり前よね、あんなに頭良いんだもの!』
『ねえねえねえねえ!も、蒙恬様の剣のお稽古見てきたんだけど…!…っ、んんんんっ!!』
『…私、蒙恬様が、女の子に、熱い視線で見られるの、嫌。…ムッキー!!私の!蒙恬様なのに!!そりゃ、かっこいいから仕方ないけど!!』

 昔の私は、無邪気に、すきだすきだと、暇さえあれば口にしていた。いかにして、どのようにして、蒙恬様が素晴らしいか、雪に語り聞かせた。
 いつからか、それはなくなって、代わりに、嫌いだ嫌いだと呪いのように口にするようになった。

「鈴様、確かに、お祈りしても、亡くなってしまわれるかもしれません。祈りは絶対に届くなんて、私には言えません。でも、何もしないで、ご自分の気持ちから目を背けて、逃げないでください」

 信じて待つということを、諦めないでください。

 ひとつひとつに真摯な想いが籠められた雪の言葉が、胸に降り積もっていく。つられるようにして、視界を薄い水膜が張られていった。

 困ったように眉を寄せて笑った顔。
 けらけらとお腹を抱えながら笑った顔。
 大人びたように笑った顔。

 鈴って。私を呼びながら、優しく笑いかけてきた顔。

 記憶の中のあの人は、どれもこれも笑顔で。苦しい時も悲しい時も笑顔を見せるあの人が、すきで、嫌だった。私の前でくらい我が儘言ってもいいのにって、我慢しないでほしくて。子ども扱いされているみたいで、悔しかった。
 でも、当たり前だ。私は、どうしようもなく愚かな子どもなんだから、そんな態度を取られるのは当たり前だ。

 自分自身の戦いから放棄するような人間に、どうやって甘えろと言うのだ。

 丸めた手でごしごしと目蓋を擦る。痛みを伴うほど擦ったので、腫れ上がったかもしれない。でも、そんなのどうでも良かった。

 誰にでも出来る行為。意味なんてない。今、この瞬間、斬り捨てられているのかもしれない。
 それでも、放棄するわけにはいかない。
 あの人たちが戦っているように、私も、私の戦いをしなければならないのだ。

「…雪」

 ぐすっと鼻を鳴らしてから、不貞腐れたように呟いた。

「…ありがと」

 雪は大仰に肩を竦めながら、仕方なさそうに笑った。

「本当に、素直じゃないんですから」
「…うるさい…」
「昔はあんなに素直だったのに。口を開けば、」
「あーうるさいうるさいうるさい!!」

 祈っても、願っても。叶わない思いがある。嫌というほど突き付けられたと、この時、私は思っていた。

 思って、いた。
 

 

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