探しものなら目を閉じて


 ――二年前

「蒙恬様、お久しぶりです!」

 久々に会う鈴はあどけない笑顔で出迎えてくれた。ぱたぱたと大きく振る尻尾が見える。久しぶりー。会釈すると、鈴はぱあっと顔を明るくさせた。鈴は本当に俺のことがすきだ。鈴曰く俺は頼りがいのある聡明で優しい男性、らしい。
 …優しい、か。ちくんと針が刺さったように胸が痛んだ。
 先の戦で見た、降伏した街に対する暴動が頭を過る。人間の本質が浮き彫りになった醜く愚かな光景。腰を振って女を犯す男たちを猿みたいだ、と思った。ああいうことをする人間がいることに、驚きはなかった。ああ、やっぱりな、と納得した。戦に当たって、ああいうことをする輩は絶対にいる。過去も、現在も、未来も。

 鈴は。慟哭する子どもの声からふいと顔を背け、何事もなかったかのような澄まし顔で立っていることを知っても、俺を『優しい』と言うのだろうか。

「…蒙恬様?」

 こてんと首を傾げて不思議そうに俺を呼ぶ鈴の声ではっと我に返った。「ごめんごめん」と軽く笑うと、を心配するように鈴は眉根を寄せた。

「お疲れなんですか?」
「ああ、まあそうだね。でもだいじょーぶだいじょーぶ。大したことないよ。俺遠征先でも気楽〜にやってるしさ」

 鈴が安心できるように余裕に溢れた笑顔を浮かべる。が、鈴は混ざり気のない瞳でじいっと俺に視線を注ぐ。水のように澄んだ瞳を正面から受け止めることは少し心苦しくて、曖昧な笑みを浮かべながら視線を僅かに泳がした。

 すると、ぐにゅっと頬を挟みこまれた。目を白黒させる。明滅する視界の中で、大層面白い顔をしているだろう俺を真っ直ぐに見据えている大真面目な顔をした鈴が厳かに口を開いた。

「笑わないでください」
「へ」
「無理して笑わないでください」

 ぱちぱちと瞬きをする。鈴は一言一言に真摯な重みを込めて紡いだ。

「私、蒙恬様の笑った顔がだいすきです。でも、だからって、無理に笑ってほしくないです。笑いたい時に笑っててほしいんです。怒りたい時には怒って、悲しい時には悲しんでほしいです」

 全ての感情を、笑顔で誤魔化さないでください。

 ポカンと呆けたあと、すっと心が軽くなったのを感じた。かちかちに固まった気持ちが解れていく。鈴が手を離す。頬から離れていく熱が名残惜しかった。

「…なんだかなあ」

 思わず、苦笑してしまった。鈴のこういうところにどうも俺は弱い。未だに俺を父上やじーちゃんの七光りでのし上がったと陰口を叩く人間は多い。いちいち気にしてられないし、全て笑って受け流していた時もだ。

『嘘つき!本当はちょっと腹立ってるでしょう!笑って誤魔化さないで!』

 目を吊り上げて俺以上に怒っている、というか怒り狂っている鈴が面白くて、本当に笑ってしまった。『な、なんで笑うんですか!』と目を引んむいた鈴が更に笑いのツボにハマって、また、笑ってしまった。
 でも、それから本当に怒りの気持ちが沸かなくなった。俺以上に怒ってくれる人間がいると思うと、本当に怒る気持ちがしゅるしゅると萎んでいくのだ。俺を嘲笑う人間がいても、地団駄踏んで怒っている鈴を思い浮かべたら全てどうでもよくなってしまう。

「―――あれ、」

 不意に、鈴が何かに気付いたようにぽろっと声を零した。視線が俺の右手に注がれている。ああ、これか。

「平気平気。いつか消える傷だしさ」

 剣の傷がついた右手をひらひらと泳がせながら笑った。安心できるように笑ったつもりだったのに。
 俺の思惑に反して、鈴はひどく傷ついたように瞳を揺らした。

 …え?

 俺が驚いている間に、鈴は唇をきゅっと噛みながら苦しそうに視線を落とした。しがみつくようにして襟元をぎゅっと掴みながら、口を開いて、何か思うことがあるのかまた閉じて。逡巡を繰り返したあと、鈴はようやく声を発した。

「…蒙恬様じゃなきゃ、駄目なんですか?」

 戦慄くように震えたか細い声をそっと押し出したあと、鈴は、顔を上げた。切なげに揺れる瞳が縋り付くように俺を捉えて離さない。

「ねえ、他にも、戦できる人なんてたくさんいらっしゃるじゃないですか」

 無理矢理口角を上げながら、鈴は俺に一歩詰め寄った。無理矢理作られた笑い声は空虚で不安定に震えていた。おかしい。いつもの鈴じゃない。何かあったに違いない。一旦落ち着かせよう。それから鈴の話をきちんと聞こう。そう思った俺は鈴の肩に手を置いて宥めるように彼女の名をゆっくりと呼んだ。

「鈴。落ち着いて」
「落ち着いてます、私」
「うん。そうだね。でも、一回ちょっと座ろうか」
「落ち着いてるってば!!」

 泣き叫ぶような悲痛な怒声は、周囲の音を一瞬にして掻き消してしまう程の威力を放っていた。びりびりと空気が震える。緊迫感が溢れた残響に、俺は声を発するのを一瞬忘れた。呆けた俺を見て、鈴は「あ」と口を手で覆った。

 しいんと気まずい沈黙が流れる。鉛を孕んだかのように重かった。

 鈴、と呼ぶ。華奢な肩が叱られたかのようにびくりと跳ね上がった。

「何か、あったの?」

 ゆっくりと諭しかけるような声音をかける。

「何もないです。…ただ、」

 鈴はぎゅうっと下唇を噛んだあと、吐き捨てるように言った。

「男の人は、自分勝手ってことばかり、です」

 どういうことか、と問いかける間もなく。鈴は挑みかけるように俺を見上げた。

「私も連れてって」

 聞こえた耳を疑った。

「…へ?」

 曖昧な笑みを浮かべながら『冗談だろ?』と言うように、鈴を見る。けど、鈴は大真面目な顔で俺を真っ直ぐに見据えていた。無理矢理上げた口角が引き攣って、苦しい。

「私も、戦に連れてってください」

 俺に向けて紡がれたその声は、凛然と、溌剌としていた。

「…鈴」

 ゆっくりと紡いだ俺の声は妙に冷たかった。射抜くように鋭利な視線を鈴に向ける。鈴はちょっと震えただけで、ぴんと背筋を真っ直ぐ伸ばしてぎらりと俺を睨んだ。真っ直ぐな眼差し。強い意思が見受けられ、まるで冴え冴えと光る星のように綺麗な瞳だった。

「どういう意味か、わかってる?」
「わかってます。女性でも、軍師になっているお方はいます。だから、学校に行って、」
「人殺すよ?」

 考える隙も与えないように、どんどん言葉を被せていく。

「向うからしたら俺達は侵略者だ。秦が正義ってわけじゃない。秦での英雄は他国では殺人鬼だ。直接手を下さなくたって一緒だ。それに軍師って指揮する立場だからある意味兵士以上に人を殺すよ」

 数年前、鈴に軍略囲碁を教えた日のことを思い浮かべる。興味深そうに駒を眺める鈴にやる?と声をかけたら、もげるんじゃないかってほどに首を縦に振って、俺は笑った。ちょっと教えただけなのに、呑みこみが早く、見る見るうちに上達していった。きらきらと好奇心を輝かせて、楽しげに駒を触りながら、また今度教えてくれますか?と、問いかけてきた鈴に、うん、と優しく頷いてみせた。
 
 二度と、教えなかった。

 俺はいつだって、優しい『振り』をするのが上手だ。

「…でき、ます」

 絞り出すように紡がれた声は、風に吹かれたら消えてしまいそうなほど儚げだったけど、一本芯の通った声だった。
 きっと、本当は逸らしたいのだろう。不安定に揺れる瞳が物語っている。でも、鈴は。それでも、きちんと俺に焦点を合わせて、つっかえつっかえになりながら懸命に口を動かした。

「いろいろ、私のできる範囲で調べました。…蒙恬様がやっていることは、何から何まで正しいってことじゃなくて、たくさんの人の死の上にあるってこと、わかって、悲しかったです」

 幻滅してくださって、結構です。それでも、私。

「蒙恬様が死ぬよりは、他の人を死なせる方が、マシです」

 薄氷を踏むような時間がゆっくりと流れていった。鈴はただ俺をじいっと見つめている。嘘も罪も知らない無垢な瞳を真正面から受け取ることは、どんな拷問を受けるよりも苦痛なことに思えた。

 俺はもう、ただ蟹を捕って喜んでいた頃には戻れない。

 ふっと表情筋を緩めてから「鈴」と、優しく呼んだ。

「俺達のこと、舐めてる?」

 温度の伴わない『優しい』声を、鈴に向けた。

「…へ?」
「そんな色恋に溺れた女の戯言でなんとかなるような場所に思われてたとか、残念だよ。結構頑張ってたつもりなんだけどなあ」

 悲しんだように眉根を寄せる。滑稽なほど、大仰に。ぽかんと呆けていた鈴は「ち、違います!」と声を張り上げた。

「私、そんな、舐めてなんて…!蒙恬様たちがひどく、頑張って、ううん頑張るなんて言葉では足りないほど、」
「じゃあ何で連れてってとかそういうこと言えんの?舐めてるからだろ?」

 表面的には穏やかだが威圧的な声で鈴の言葉尻を捉えて追い詰めていく。

「違います!私はただ、蒙恬様を、私の力で守りたい、」
「駄目だよ」
「っ、話を」
「許さない」

 冷え切った視線を鈴に向けると、鈴はびくっと固まった。その隙を逃さない。

「ねえ、鈴」

 考える猶予なんて与えてたまるか。
 三日月のように目を細め、甘ったるい声で労わるように紡いだ。一言ずつ、ゆっくりと。鈴の耳にきちんと残るようにして。

「お前に守られるほど、俺は落ちぶれていない」

 鈴の目が最大限に見開いた。じんわりと薄い膜が張られていく。少しでも気を緩めたら、水膜は壊れてしまうだろう。

 今が、絶好の好機だ。

 白く細い手首を掴むと、鈴はびくっと震えた。腕一本で両腕をまとめ上げることもできるだろう。
 鈴をしげしげと観察しながら「あー、でも」と、呟く。
 にこにこと笑いながら、鈴の耳元に唇を寄せる。甘い匂いが、鼻を掠めた。

「夜の相手には、ちょうどいいかも」

 足に激痛が走って、手首を掴んでいた手が緩んだ瞬間に振り払われた。

 小気味よい音が、空を切り裂いた。

 頬がじんじんと痺れたように熱を打っていた。足以上に痛い。平手打ちを食らった衝撃で横に向いた顔を、ゆっくりと正面に戻した。はあはあと荒い呼吸音に視線を向ける。
 ぎらぎらと敵意が漲った瞳で、鈴は俺を睨んでいた。力強く下唇を噛みながら、何かを呑みこんで、白い喉が上下に動いた。戦慄くように震えた唇から、泣き叫ぶような声が放たれた。

「だいっきらい!!」

 目尻に浮かんだ涙を乱暴に拭い取ってから、鈴は身を翻した。鈴の走る音がどんどん小さくなっていく。

「…これなら、戦えるかもなあ」

 へらりと笑ってから、呟く。やっと吸い込んだ冷たい空気が熱い口内を冷ましていった。いやそれにしても痛い。すっげー痛い。足踏んで相手の気を緩ませた後に平手打ち一発って。鈴は戦の才能があるな。誰もいない部屋で、一人で笑う。

 でも、あったとしても。
 優しいと思われなくても。
 嫌われたとしても。

 俺は、鈴に戦場に立ってほしくない。

『蒙恬様、見て見て!私、お花の冠作るのうまいのよ!』
『母上が毎日毎日うるさいんです、私ってあそこまで言われるほどはしたなくないと思うんですけど』
『ねえ、蒙恬様、私も蟹を捕れ…あいたたたた!!』

 目を伏せながら、瞼の裏に鈴を思い描く。

 綺麗な場所で、安全に囲まれて、そうやって。呑気に笑っていてほしい。
 優しさでもなんでもない。ただの俺の自己中心的な願望だ。それを無理矢理、鈴に押し付けて。ああ、最低だ。でも、これが俺だ。




『だいっきらい!!』

 怒りと悲痛に満ちた鈴の声が、今も、まだ、響いている。
 



 ミシミシと心臓が軋む。




 自分で選んだ道なのに、後悔なんて微塵もしていないのに、それでも痛いものは痛かった。





「若君、若君!」
「傷が…っ、こんなに…っ」


 あの時も、今も。


「脈が、どんどん…っ!」


 やべー。洒落にならない痛さだ、これ。


 細めた視界に、涙でぐちゃぐちゃになっている父上の部下の顔達が映る。最期に見る顔が、これって。

 どうせなら、さあ。
 最期は。

 重たい目蓋に逆らえず、そのまま閉じる。大分前に見たあの子の笑顔を思い描こうとしたところで、ぶつんと、意識が途切れた。



 

[back]


- ナノ -