きみの隣と隣のきみ


 つり上がった目の中で、真っ黒な目玉がぎょろりと動いた。

「こいつ、信っていうの」

 蒙恬様はいつもと同じように人好きのする笑顔をを浮かべながら、下僕のような装いをした青年に手を向けた。

「は、あ。信、様」

 今まで関わったことのない人種を蒙恬様に紹介されて、私は面食らった。たどたどしく挨拶をする。
 遠征から帰って来た蒙恬様は、変わったご友人を連れて来た。

「信はね、この前の遠征で大活躍したんだよ」
「まあなー!」
「やあやあ流石、信千人将!」
「いやいや蒙恬千人将も!」

 二人は顔を見合わせ「ギャハハハ!」「アハハハハ!」と大きく笑い合った。同年代の同性と打ち解けている蒙恬様のお姿を拝見するのは久しぶりのことだった。いつもの澄ました笑顔ではなく、屈託なく朗らかに笑っている。
 それを引き出したのは、この青年。出会って幾許も無い、この、信という青年。
 …。

「鈴?」

 ひとしきり笑い終えた蒙恬様は、不思議そうに首を傾げた。

「なんか、機嫌悪いね。どうした?」
「いえ。何も」

 つーんとそっぽを向きながら、つっけんどんに答える。なによ、あんな風に笑っちゃって。

「で。こいつ誰?」

 ぎょっと目が見開いた。こ、こいつ…!?こいつって、私のこと!?信じがたい思いでいっぱいになるが、信様の人差し指は私に向けられているので、私のことを言っているのだろう。貴族の娘として生きてきた私は、異性にぞんざいに扱われたことがない。目の前の見るからに粗暴な青年を呆然と見つめた。

「鈴っていうんだ。俺の婚約者」
「え! お前婚約者とかいんの!すげえ!」
「おぼっちゃんだからね」

 ふわりと。包み込むように頭に手を置かれた。髪型が崩れないように、優しい手つきで撫でられて、心臓が大きく波打つ。

「可愛いだろ?」

 一際大きく、心臓が飛び跳ねた。こんなの、別に、全然、どってこと。きゅっと下唇を浅く噛んで、動揺を悟られないように澄まし顔を作る。

「いや。普通」

 堂々と淀みなく答える信様の声は、火照った頭を十分に冷やしてくれた。








「すっげえうめえやべえうめえ!」

 小動物のように口いっぱいに食べ物を詰め込んで、同じ言葉を繰り返してばかりの信様に白い目を向ける。が、信様は一向に気にしない。というか、気付いていない。あ、食べかすが床に落ちた。
 蒙恬様のお家に信様と共に招かれた私は、三人でお茶をしていた。信様はお茶というか、ほぼ食事だけども。

「よく食うなー」
「そうか?こんくらい普通だろ。飛信隊にはもっと食うヤツいんぜ?」
「どうなってんだよお前の隊は」

 けらけらと肩を揺らして笑う蒙恬様は、とっても楽しそうだ。蒙恬様は肩の力が抜けているようで、抜けていないところがある。でも、今は本当に肩の力を抜いて、伸び伸びとされている。信様といっしょにいるのが本当に楽しいのだろう。
 …。

「何ガン飛ばしてんだよ」

 むうっと頬を膨らまして信様を睨みつけていると、不意に目が合った。威嚇するように睨みつけられ、身が竦みそうになるが負けてられない。この人には負けたくない。

「別に飛ばしてなんかいませんわ」
「ウソ吐け。今俺のことすっげー見てた」
「自意識過剰って言いますのよ、そういうの」
「ハァー?おい、蒙恬。お前の女生意気なんだけど」
「んー。鈴はこれが通常運転だからなあ」
「これが通常なのかよ。…ん?」

 信様が怪訝そうに、私を見た。

「なに顔赤くしてんだよ、お前」
「…へっ!?」

 頬を両手で包み込んだ。確かに、熱い。絶対、顔赤い。溢れ出した羞恥を怒りに転換させた私はキッと信様を睨んだ。は?と言いたげに首を傾げた信様に向かって、声を荒げる。

「し、信様のせいですわよ!」
「ハァ?なんでだよ」
「あ、あなたが、お、おま、おま…え…のお、おお、んなとかそういう…」

 恥ずかしすぎて、声が尻すぼみに消えていく。ごにょごにょと言葉を濁しているせいで、信様は聞き取れなかったようだ。「なんだよ?」と不可解そうに眉を上げる。

「ふっ、ははっ」

 不意に笑い声が噴出した。ぎょっとして声の先に顔を向けると、蒙恬様は背中を丸めて笑っていた。

「何笑ってんだよ。きもちわりィ」
「やー。ついね。うん」

 蒙恬様は目尻に浮かんだ涙を親指で拭いながら答えたあと、私にちらりと一瞥寄越した。
 ふっと、瞳が緩む。カァーッと熱が急上昇したのを感じた。ば、ばれ、ばれてる…!笑われた時点でバレていたのはなんとなく察していたけども…!
 蒙恬様の慧眼の前では全ての隠し事が無に帰す。私がこうして必死に取り繕っている姿は、さぞかし滑稽に映るのだろう。悔しい腹立たしい憎たらしい。膝の上で丸めた拳に更に力が入った。ああこれもそれも全部信様が変なことを言うからだ。ぎろりと信様を睨みつける。アアン?と睨み返された。

 蒙恬様は信様と遠征先で知り合ったらしい。飛信隊と言う信様が隊長を務める隊の活躍にかねてから興味を抱いていた蒙恬様から近づいたそうだ。同年代で同じ階級ということもあって話もそこそこに弾むそうだ。

「王賁と信は仲悪いけどね」
「アイツが喧嘩売ってくんだよ!」

 生真面目な王賁様と、野蛮で型にハマらない信様。…気は合わないだろう。いがみ合っている二人が容易く想像できた。

「で、その仲裁を蒙恬様がされていると」
「ご名答〜。王賁と信気付いたら喧嘩してるからさ、面白い」
「面白がってんじゃねーよ!俺はマジでムカついてんだよ!!」

 王賁様との喧嘩の内容でも思い出したのだろうか。信様は「あああああの野郎〜!!」と怒りでわなわなと手を震わせた。それを見て、あっはっはと笑う蒙恬様。度が過ぎるほど生真面目な王賁様、奇想天外な行動ばかりの信様、のらりくらりと躱してばかりの蒙恬様。もし、私が総大将だったら直属ではないと言え、己の下にこんな三人がついていたら眩暈を覚えるだろう。
 蒙恬様のおじいさまは、この前、廉頗と戦った。廉頗。私だって、知っている。他国にまで名を轟かせる大将軍。そんな人が率いる軍と戦ったのだ、この二人は。
 とりとめない会話を広げている二人にちらりと目を遣る。年相応の顔で笑ったり、怒ったりしていた。当然のようにここに座っているけど。
 一歩、間違えば。

「恬様」
「ん?」
「伝文が届いてますよ。至急だそうです」
「えー、それ今見なきゃダメ?」

 下女の言葉に面倒くさそうに眉を寄せた蒙恬様。私が無言で咎めるような視線を投げかけると、蒙恬様は仕方なさそうに肩を竦めたあと「ちょっと行ってくる」と席を立った。
 部屋には私と信様の二人が取り残された。
 ちょうどいい。好都合だ。

「信様。お聞きしたいことがあります」
「あ?」

 姿勢を正す。じいっと、信様を真っ直ぐに見据えながら、口を開いた。

「蒙恬様は、どのような戦い方をされていましたか?」

 信様は「どんな、って」とうなじに手を回しながら首を傾げた。一切の誤魔化しも虚偽も許さないと言うように、私は信様に視線を注ぎ続ける。

「一手二手どころか、三手四手先も見えてるっつうか。そういう戦い方してた。…アイツの頭どうなってんだ?」

 信様は、気味が悪そうに顔を顰めた。
 三手四手先も見すえた戦い方。噛みしめるように心の中で反芻して、ほっと胸を撫で下ろす。どうやら、今回は無理をされなかったようだ。
 信様は椅子に深く背を預けて天井を仰ぎながら「しっかしなあ」と感慨深そうに呟いた。

「じーさんがやられそうな時、アイツすっげー勢いで廉頗に立ち向かっていって、すごかったな」

 頭から冷水を浴びせかけられたような気分になった。瞳が零れ落ちそうになるくらいに、大きく目を見張る。口内がからからに乾いていく。

 今、信様。蒙恬様が、廉頗に、立ち向かったって。
 呆然として身じろぎひとつできない私に気付かないで、信様は上機嫌に語った。その瞳は、おじいさまのことを語る蒙恬様と同じように、きらきらと輝いていた。

「じーさんの首は絶対に取られる訳にはいかねえつって、すっげー作戦考えたんだぜ!しかも一番危険な役まで背負って!お前の婚約者すげーじゃん!」

 ニカッと笑いかけてきた信様は、そこでようやく私の異変に気付いたようだった。

「…どうした?」

 怪訝そうな信様の声が、耳から耳を通り抜けていく。手足の先が冷たい。私の瞳はどこを捉えるでもなく、宙を漂った。

 やっぱり、あなたは。そうやって、容易く自分の身を危険に晒すのね。

「…から、」

 ぽろっと言葉が零れ落ちる。信様は聞き取れなかったようで、不可解そうに「は?」と右眉を上げた。先ほどの、意気揚々と武勇を語る信様の顔立ちを不意に思い出す。

 どうしようもなく、怒りが沸いた。

「だから、嫌なのよ…!」

 手をぎゅうっと握りしめながら、小さく叫ぶ。信様はぽかんとしていた。大量の疑問符を頭上に浮かべている。そうでしょう。あなたには、あなた達にはわからないでしょう。

「いつもいつもあなた達は、こっちの気も知らずに勝手なことしてばかり!待ってる間、こっちがどんな思いをしているか、考えたこともないでしょう!?置いていかれた人間の気持ちなんて、考えもせずに…!!」

 鋭く尖った眼差しを信様にぶつけながら、早口でまくし立てる。


 鈴、と私を呼ぶ声。
 おいで、と私が誘う固い掌。

 いつ、熱を失うかわからない。

「なにが、武功よ、夢よ、馬鹿じゃない、死んだら、死んだら…っ」

 ひきつけを起こしたように息を吸う。からからにかさついた喉からやっとの思いで声を絞り出した。

「だから、嫌なのよ、武将って…っ」

 その声は情けないことに、震えていた。熱い目頭を手で覆いながら、熱く湿った吐息を吐きだした。
 静かな部屋に、ギシッと椅子が軋む音が響いた。

「たりめーだろ。んなもん考えてる暇あったら素振りでもしとくわ」

 この場の雰囲気に似つかわしくない、馬鹿にしきった声。目元から手を退け、信様に視線を向ける。彼は声音と同様、馬鹿な人間を見る目で私を見ていた。耳に指を突っ込みながら、至極当然に言い放つ。

「待ってる人間とやらが何考えてるか考えてたら戦に勝てんのかよ。大体、置いていかれた、だァ?追い付こうともしない人間がぴーぴー喚いてんじゃねえよ」

 カッと怒りで目の前が真っ赤になる。口から怒りが衝いて出た。

「したわよ!着いていこうとしたら、絶対に駄目だって、許さないって、」

 徐々に涙声になって、掠れていく。眼の淵に浮かんだ涙を払うように、ふるふると頭を振った。違う、怖くなんてない、違う、違う、違う。

 あの、見るもの全てを氷づかせるような冷たい瞳。
 彼と私の間には、一生越えられない線があるのだと、突き付けられた。
 彼自身によって。
 
 私の葛藤なんてどうでもいいと一蹴するように、信様は「ハッ!」と大きく嘲笑った。更に怒りを焚きつけられた私は反論しようと口を開く。すると、射抜くような視線に押しとどめられた。獰猛な光に気おされて、言葉を失くす。

「肩を並べたいからじゃなくて、置いてかれたくないから、って理由でついてこようとする女なんて俺だってお断りだ。そんなの仲間じゃねえ。ただのお荷物だ」

 ぎらぎらと輝く漆黒の光に、ひどく既視感を覚えた。そうだ、蒙恬様に似ているんだ。己の道を見定め、一歩一歩、進んでいく。確固たる意思を宿した、強い光。眩しくて、つい、目を逸らしてしまうほどの。

「つーかよ、」

 静かだけど、苛烈な声。挑むようにして、問いかけられた。

「てめえの大事なモンほっといて逃げるような男じゃねえから、惚れたんじゃねえのかよ」

 真摯な重みを持ったその言葉に、目を見張った。
 惚れてない、すきなんかじゃない。そう、言いたいのに。

 鈴、と私を呼ぶ蒙恬様の声が邪魔をして、うまく、言葉にできない。

 そんな私を見て、信様は我が意を得たと言わんばかり「ほーらな」と、得意げに言った。馬鹿にしきったその声で、はっと我に返る。信様は、完璧に私を馬鹿にしていた。目がそう言っている。わなわなと込み上げてきた怒りのままに言葉をぶつけようとしたら、押しのけられた。

「戦え」

 凛然とした、真っ直ぐな声に。

「なにも、戦に出ることだけが戦うってことじゃねえ。お前にはお前の戦いがあんだろ」

 信様の瞳は、放たれた飛矢のように、どこまでも真っ直ぐだった。

 初めて示されたもうひとつの道に、興奮が止まらない。どくどくとうるさい心臓を抑えるかのように、そっと胸に手を添えた。

「私の戦い、って?」
「知らねえよ。自分で考えろ。探し出せ」

 にべもなく跳ねのけられ、むっと眉間に皺がよる。けど、不快ではなかった。晴れ渡った青空のような爽快感が胸に広がった。

「信様。その、先ほどはお見苦しいところを見せて、申し訳ございませんでした」

 深々と頭を下げる。この人に頭を下げるのは正直癪だけど。たくさん迷惑かけた。その筋は、きちんと通しておかねばならない。
 そして。
 顔を上げ、信様を真っ直ぐに見据えた。

「ありがとう、ございます」

 …正直、お礼を述べるのはもっと癪だけど。だってこの人、お礼したら調子に―――、

「まーな!いいってことよ!」

 バンッと背中を強く叩かれた。驚愕で目を見開く。

「ちょ…っ、女性を叩くなんてあなたねえ!一体どういう教育を受けてきたの!?」
「いっちいちうるせー女だなー。痛くねえように叩いてやっただろ」
「そういうことを言ってるんじゃないわよ!あと痛かったです!!」
「あーうるせーうるせー。お、蒙恬」
「蒙恬様!!信様ったらすごく失礼なのよ!」

 扉の近くで目を白黒させている蒙恬様に、信様の蛮行を訴える。しかし蒙恬様の反応はどうにも薄い。ぽりぽりと頬を掻きながら、ゆっくりとした足取りで戻ってくる。んー、と曖昧な笑顔を浮かべながら椅子に腰を下ろした。

「お前そのキーキーした声なんとかなんねえの?」
「キーキーなんかしてません!だいたいお前お前失礼ね!私には鈴って名前があるの!」
「そういやそんな名前だったな」
「もう忘れたの!?」

 ぎゃーぎゃーと喧しく喚いている私たちを困ったように見つめていた蒙恬様は、不意にぼそりと呟いた。うまく聞き取れなくて「蒙恬様?」と首を傾げる。

「今、何と仰いましたか?」

 少し勿体ぶるようにして、仰々しく思案に耽る姿勢を取る蒙恬様。

「…内緒」

 人差し指を口元に宛てながら、意味ありげに笑ったあと、信様を呼んだ。なんだよとぶっきらぼうに振り向いた途端、信様の額が蒙恬様の人差し指に弾かれた。

「〜ってえな!何すんだよ!」
「自分の胸に聞いてみるんだなー」

 いつも通りの雲のように掴めない物言い。けど、いつもと少しだけ違うように聞こえた。



 

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