さよならをとじこめて


 とんとん、と肩を叩かれた。主の娘と下女として最低限の線引きはしているので雪とは考えづらい。母上かしらと、呑気に振り向いた。
 ぷにっ。
 頬に柔らかく指を突き付けられた。

「おお、鈴のほっぺたもちもちだ」

 ぷにぷにと感触を味わうように何度も突いてくる蒙恬様を見ても感情が追い付かない。ただただ呆然とするばかり。一体、何が。ああそうか、蒙恬様が私のすぐそこにいて、私の頬をつついてい、て―――?

 やっと、己の身に何が起こったのか理解した私は。

「ぎっ、ぎぃやああああああああ!!」

 耳を劈くような悲鳴を屋敷中に轟かせた。

「全く貴女って子は!何度大声を出したらいけないと言えばわかるの!はしたない子ね!」

 私の奇声に駆けつけた母上は事の次第を知るが否や、眦を吊り上げてガミガミとお説教を始めた。正論しか言われていないのだが素直に反省する気になれない。唇を尖らせて「だって、蒙恬様が!」と子どものように反論すると「口答えしない!」ぴしゃりと跳ねのけられた。うぐぐ。

「や、でも俺のせいですよ。 ごめんな、鈴?」

 蒙恬様はひょっこりと私の顔を覗き込んできた。右目を閉じながら『この通り』と言うように片手で拝む。深刻さに欠けた謝罪だが、それなりの誠実さは感じられた。いや、でも、ここで簡単に許してはいけない。年頃の少女の部屋に無断で入って(いくら雪に許可をとっていたとしても)、頬に触れるなんて、無礼千万。ここはひとつ、ガツンとお見舞いせねば。

「…まあ、別にいいですけど」

 んんんん!なんで!?なんで考えと正反対の言葉が出てきてしまうの!?つん、と澄ました顔の下で頭を抱える。

「よかった。ありがと」

 ふっと頬を緩めた蒙恬様に、とくんと胸が高鳴る。まともに顔を見ることができずに俯いていると「鈴」と蒙恬様に呼ばれた。人と会話をするのに目を合わせないのは失礼だ。ぐっと唇を噛みながら、必死に平静を装って蒙恬様を見上げながら「なんですか」と心持ち、低い声で答える。さらっと髪の毛を流そうとした手を、蒙恬様に掴まれた。え。
 固まった私に、蒙恬様はにこにこと笑いかけながら、軽い調子で言った。

「いっしょに出かけよう」

 …は、い?

 私が言葉の意味を理解するよりもはやくに母上の「まあ!」と歓喜に満ちた声が上がった。

「良かったわねえ、鈴!さあさあ、おめかししていかないと!」

 きゃっきゃっと華やいだ調子で私の背中を押す母上に「は、母上っ」と狼狽えていると「あ、」と蒙恬様が手で制した。

「すみません。あまり時間がないので、今すぐ出かけたいんですよ」
「あらまあ、そうなの。残念だわあ」
「なんで母上が残念がるのよ!というか私はまだ行くなんて一言も、」
「それに、着飾るまでもなく可愛いですからね、鈴は」

 時間が止まったかのように、私は固まった。

「若様ったらもうお上手なんだからあ〜!」
「いえいえ、事実を言っているだけですよ」

 蒙恬様と母上の楽しげな会話が耳から耳を通り抜けていく。ソレニ、キカザルマデモナクカワイイデスカラネ。ソレニ、キカザルマデモナクカワイイデスカラネ。ソレニ、キカザルマデモナクカワイイデスカラネ。ソレニ「鈴ー?」

 ひらひらと目の前で手を泳がされ、はっと我に返る。「あ、もとに戻った」けらけら笑う蒙恬様を確認するとカァーッと顔に熱が集まった。蒙恬様から一歩飛びのく。何か言いたい。平然と澄ましながら言ってやりたい。けど、うまい言葉を見つけられずに目を泳がすことしかできない。顔が熱い。どうしよう。顔に出てるわよね。あああもう、もおおおおお。

「じゃ、いってきまーす」
「へっ」

 蒙恬様が私の手を柔らかく包み込んだ。「ちょ、ちょっと!」と声を掛けても「なに」と涼しげに微笑まれる。なに、じゃ、ない!

「私は行くなんて一言も…!」

 はっと口が動きを止める。蒙恬様はじいーっと私を見つめていた。私は蒙恬様の目に弱い。理知的で聡明な瞳に見つめられる、と。言葉を失う。体が動きを止める。体温が上がる。

「…ま、あ、暇、ですし」

 気持ちと裏腹の言葉をぼそぼそと籠った声で零す。んんんんんっ。自分が!情けない!不甲斐ないッ!!ああもうどうして私は!!今すぐ精神統一をはかりにどこかの山にこもりたい気分だ。

「ありがとう」

 にっこりと笑う蒙恬様に、たまらなく敗北感を覚える。いつだって私は、この人の掌の上だ。





「二人で出かけるなんて久しぶりだね、鈴」
「そうですわね」
「お互い忙しくなっちゃったからなあ」
「そうですわね」
「なんか食べたいものある?」
「そうですわね」

 頑なに『そうですわね』としか言わない私に蒙恬様は苦笑した。つーんとそっぽを向く。

「鈴〜」
「そうですわね」
「俺のこと好き?」
「そうで…ゲフンゲフンッ!!」

 同じ調子で答えようとした途中で目を見張る。思わず咳込んでしまった。ばっと顔を向けると、蒙恬様が「惜しかったなー」と笑っていた。こ、こ、この方はほんっとうになんというかまあ…!!羞恥と怒りでわなわなと震えている私に「ごめんごめん」と誠意が全く籠っていない声で謝る。

「あなたという人は…!そうやっていつもいつも…!」
「あはは、まあこれが俺じゃん」
「俺じゃん、じゃ、ありません!!」
「じゃあ王賁みたいに生真面目な俺ってどう思う?」
「少しいや大分気味が悪いです」
「でしょ?」

 軽やかに笑った蒙恬様は「あ」と何かに気を取られたような声を出した。ふらふらとお店に寄っていく。気まぐれな足取りは、まるで猫のようだ。何かを取り上げたようだが、蒙恬様は私に背中を向けている状態なので、何を取り上げているのかは見えなかった。

「鈴」

 蒙恬様はくるりと向いて、私をちょいちょいと手招きした。何なのよ、もう。不機嫌を隠さずに近づくと、何かを頭に翳された。

「やっぱり。似合う」

 青を帯びた紫色のそれは、私の好きな花。それは、桔梗の簪だった。

「お〜兄ちゃん良い目してるね〜」
「だろ? これいくら?」
「へ、ちょ、ちょっと!」

 財布を取り出す蒙恬様の袖を慌てて引っ張った。「ん?」とにこやかに笑う蒙恬様に(何笑ってるのかしらこの人!)、食って掛かった。

「いただく理由がありません!結構です!」
「絶対そう言うって思った。鈴は期待を裏切らないなあ」
「馬鹿にしてるんですか!?」
「いやいいと思うよー。素直で。はいこんくらいあったら足りるよねー?」
「…!? た、足りすぎっつーか…!兄ちゃん何者…!?」
「ちょっとお待ちなさい!いいです!いらないです!」
「え」
「いるいる。はい、払ったからいいよね。これ貰いまーす」
「まいどありー!」

 「ちょっと!」と言い募ろうとした私の頭にそっと手が添えられる。ぴきーんと体が固まる私に、熱が近づいた。

「ちょっと、動かないで」

 小さな子どもに諭すような口振りで、蒙恬様は私の頭を触っていた。蒙恬様の匂いが鼻孔をくすぐって、心臓が大きく跳ね上がる。暴れる心臓に呼応するかのように小さく震える体。バカ、落ち着いて。ちょっと、蒙恬様がすぐそこにいるだけじゃない。だいたい髪の毛ぐらい触られたって、全然、そんな、なんとも。

「はい、できた」

 声と伴に、熱が離れる。蒙恬様は私から一歩距離を置いた先で、にこにこと笑っていた。次第に、心臓が落ち着きを取戻していく。けど、同時に。寂しいとも、思ってい―――ないないないない!せいっせいした!
 一人で必死に否定していると「はい!」と陽気な声が飛んできた。見ると、真正面に私の顔があった。鏡の中の私が、ぱちくりとまたたく。

「ね?」

 鏡を掲げながら、蒙恬様は首を傾げて、さらりと微笑む。
 なにが『ね?』なんですか、とか。その余裕ありげな態度が腹立つのよ、とか。色々と言ってやりたいけど。
 緩みそうになる頬を必死に吊り上げる。むずむずと震える唇を真一文字に引き戻してから、こほんと咳払いをした。

「ありがとう、ございます」

 蒙恬様はにっこりと笑いながら「どういたしまして」といつもの調子で言った。店主に「ありがとう」と鏡を返している蒙恬様を恨めしげに見る。

 私は悔しさから手を拳に変えた。掌に爪が食い込むほど、ぎゅうっと握る。
 いつもいつも、調子を狂わされっぱなしだ。この方には。幼い頃から、ずっと、ずっと。
 私のことなんて置いて、すぐどこかに行ってしまうくせに。
 連れて行ってくれないくせに。
 着いていこうとすることすら、許してくれないくせに。

「…遠征に行かれるんですよね」

 ぽつりと言葉を落とす。感情を抑え込んだ、色の無い声だった。

「うん」

 蒙恬様は穏やかな笑みを浮かべながら頷く。

「魏の方に、行かれるんですよね」
「うん。遠いなー。お土産で何か欲しいのある?」

 けらけらと笑いながら、冗談を飛ばす。いつも通りだ。例え、遠い国に戦いに出向く直前ですら、いつも通り。

「…総大将って、おじい様なんですか?」

 じ、っと見上げる。蒙恬様は一瞬大きく目を見張らせたあと「ご名答!」と、おどけた。

「よくわかったね。女のカンってやつかな?」

 そうかもしれない。
 声には出さず、心の中で呟く。
 蒙恬様は、感情を抑え、冷静に務めることに長けている。憎らしいほどに。幼い頃から、子どもとは思えないほど聡く、与えられた役割をそつなくこなし、その場に適した感情を表に出す。
 でも、そんな蒙恬様が、たった一人の子どもに戻る瞬間。屈託なく笑い、甘えられる場所。それが、おじい様の隣だった。
 今だって、覚えている。
 おじい様のお話をする時の、蒙恬様の輝いた瞳。夜空の星を映したように、きらきらしていた。

「…無理は、」

 しないでくださいね、と続きかけた口を閉じる。言っても無駄だろう、と悟ってしまった。無理をする。この人は。おじい様のためなら、無理をする。己の全てを投げ打ってでも、おじい様を守ろうとする。こうやって私を街に連れて来たのも、もしかしたら最後かもしれないから?もしかしたら、もう、会えないかもしれないから?もしかしたら、もしかしたら、もしかしたら。確証はない。けど、根拠のない不安とも笑い飛ばせない。

「―――鈴」

 澄んだ声に呼ばれ、はっと我に返る。色素の薄い静謐な瞳がじいっと私を見据えていた。

「…あ、えっ、と」

 咄嗟に言葉が出てこず、瞳が彷徨う。蒙恬様は依然として私を見つめていた。隠しきれない。この、何もかもを見透かすような瞳の前では。
 それが、無性に腹立って。
 ぐっと奥歯を噛みしめてから、私は髪の毛をさらりとすくった。ふんと鼻を鳴らし、腰に手をつく。平然とした顔つきで、傲慢不遜に言い放った。

「調子に乗り過ぎて、羽目を外さないように」

 ぱちぱちと瞬いたあと、蒙恬様は「りょーかい」と涼しげに笑った。

「ほんとかしら。蒙恬様、結構、羽目外すじゃない」
「えー、そう?」
「大分前、お酒呑んで、変な踊りを踊られていたじゃないですか」
「わ、あれ見られてたのか。ずりー」
「…? なにが?」

 何が『ずりー』なのかさっぱりわからずきょとんとすると、蒙恬様は体を前に傾けて下から覗き込んできた。悪戯っぽく瞬く茶色い瞳に、目を丸くした私が映る。

「だって俺は鈴の舞、最近見れてない」

 蒙恬様は少し寂しそうに、笑った。

 ずるい、と思った。
 私が桔梗を好きなことなんて、もうとっくに忘れられていると思っていた。私の舞のことだって、とっくの昔に興味を失くしたのだろうと思っていた。
 それなのに。
 こうやって、不意打ちしてくるなんて。

 蒙恬様は、ずるい。

 蒙恬様が私の表情を窺えないように、ふいと火照った顔を背ける。すうっと小さく息を吸って、呼吸を整えてから。きちんと蒙恬様を見据えた。

「今度、見せてさしあげます」

 真摯な眼差しで射抜くようにして。一言一言に意味を込めて。

 私とあなたの、未来の約束。

「…うん」

 蒙恬様はゆっくりと頷く。
 私の言葉を受け止めるように、優しく笑った。



 

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