白皙の侵食


 蒙恬様と出会ったのは、今の半分しか背丈がなかったころ。空がとても青く澄み切っていて、風が少し強い日のことだった。

「はじめまして、蒙恬です」

 にっこりと穏やかな笑みを浮かべながら握手を求めてきた蒙恬様に、婚約者として可もなく不可もなくの印象を抱いた。人好きのする笑顔に緊張が解れ「はじめまして、鈴です」とその手を握ると、少年とは思えない固い掌の感触に目を見張った。

「俺の手がどうかした?」

 不思議そうに問いかけてきた蒙恬様に「手が」と返す。手が?と首を傾げた蒙恬様の手に、片方の手も添えた。ぎゅっと柔らかく包み込みながら、蒙恬様を真っ直ぐに見据えた。

「とても、痛そう。だいじょうぶですか?」

 あちこちにタコができていた。潰れていて、血が滲んでいる。蒙恬様は「ああ」と納得したように頷いて、水が流れるように笑った。

「だいじょうぶだよ。こんなの」

 訝しるようにじいっと見つめていると、蒙恬様は「ほんとだって」と困ったように笑った。本当なのだろうか。私だったら、こんなにたくさんタコができたら大袈裟に泣いてみせて周囲の心配をわざと買う。蒙恬様のように涼しい顔で振る舞うなんてこと、できない。

「どうしてこんなにタコができたんですか?」
「剣の修行とかしてるからかな。いつのまにかできてた」
「剣…」

 蒙恬様の掌を見つめながら、ぽつりと呟く。一体、どれだけ修行したのだろうか。想像もつかない。じいっと視線を注いでいると、蒙恬様が私の手の上に手を重ねてきた。

「鈴の手は柔らかくて、ふにふにしてるね」

 蒙恬様は「ははっ」と笑った。

「気持ち良いや」

 にぎにぎと感触を確かめるように握りしめられて、ぽっと頬に熱が灯った。はじめての熱に疑問を浮かべ、一体なんなのだと首を捻っていると、柔らかく手を引かれた。「へ」と間抜けな声を零す私に、蒙恬様はイタズラっぽく笑いかける。

「こっちおいで。いいとこ連れてってあげる」

 熱に浮かされたかのように、頭がぽうっとする。浮ついた足取りの私を気遣うようにして、蒙恬様は優しく私をいざなう。
 私は、その手を握り返した。タコが潰れないように、そっと。



「ここ、たくさん蟹がいるんだ。ほら」
「蒙恬様は蟹がお好きなんですか?」
「うん。爺ちゃんがさ、俺が蟹取ったー!って言ったら喜んでくれんの。それでもっと好きになった」

 ほら、こんな風に。
 蒙恬様はにひっと笑って、得意げに蟹を摘み上げた。年相応の笑顔にきゅうっと胸が高鳴った。また、これだ。今日の私はどこかおかしい。胸にそっと手を添えて、初めて抱く感情に大量の疑問符を頭上に浮かべていると。

「鈴」

 蒙恬様に、名前を呼ばれた。たった、それだけのこと。それなのに、何故かどくんと心臓が大きく動いた。

「は、はい!」
「うわ、吃驚した!どしたの、そんなおっきな声。俺、吃驚させちゃった?」

 ごめんねー?と眉根を寄せる蒙恬様に「そっ、そんなことないです!」と激しく左右に首を振った。

「その、私、なんかおかしくて、今日」
「おかしい?」
「はい。あの、蒙恬様とお話するとすごく心臓がドキドキして、いつもの私じゃなくなっちゃうんです」

 これって何なのでしょうか?

 大真面目に訴えかけると、蒙恬様はぱちくりと瞬いた。数秒経った後、蒙恬様の頬に赤みが差した。

「あれ、蒙恬様、顔が赤いです」
「え、あれ、ほんと?」
「ほんとです」

 こくりと頷く。蒙恬様は「そっ、か」と途切れ途切れの言葉を呟いて、ゆっくりと顔を背けたあと、摘まんでいた蟹をそっと地面に下ろした。私の前を横切って去ろうとする蟹に、なんとなく手を伸ばしてみた。

「いっ」

 指先に走った鋭い痛みにぎゅっと目を閉じて小さく悲鳴を上げる。目を開けると蟹が私の指を挟んでいた。視覚で確認すると余計に痛みが強まって、涙が眼尻に浮かぶ。

「うわ、だいじょうぶ!?」
「い、いたぁぁい、いたいぃぃ」
「ちょっと待ってて、うわ、こいつしつこいな」



 蟹が解放してくれた時には、私の指はすっかり腫れ上がっていた。痛い。じんじんと痛みが指を打つ。きゅっと下唇を噛んでないと泣いてしまいそうだ。視線を下に向けてぐっと堪えていると、ぽんっと頭の上に何かが置かれた。

「泣きたいなら泣いていいんだよ」

 はっと弾かれるようにして見上げると、蒙恬様は声音通りの優しい笑みを浮かべていた。ぽんぽんとあやすように撫でられ、心が解れていく。下唇を噛む力が抜けていく。泣いたって、誰も怒らない。蒙恬様はお優しい方だから、面倒くさい人間だと思われることもないだろう。

 だとしても。

 ぐっと手を握る。じんわりと視覚を蝕んでいく涙を振り払うように、声を大きく張った。

「嫌です!」

 きっと挑むように、蒙恬様に決意の眼差しを向ける。ポカンと呆気にとられていた。

「ここで泣いたら、タコがあんなにたくさんできてるのに泣きごと一つ言わない蒙恬様の、」

 すうっと息を吸い込んでから、一段と大きく声を張った。

「蒙恬様の婚約者として恥ずかしくて、私は自分を許せません!」

 爪が掌に食い込むほど握りしめた拳がぷるぷると震える。

「…いやー、そんな大した人間じゃないけどなあ、俺」

 気まずそうに視線を宙に泳がしながら苦笑を零す蒙恬様に「そんなことないです!」と力強く訴えた。

「たくさん、剣の修行してらして、お優しくて、蟹も上手に捕まえられて、とてもすごいお方です!」
「ぶっ」

 噴出した音に面食らって言葉が止む。目を白黒させていると「蟹って」と蒙恬様がおかしそうに笑っていた。

「蟹取りって長所になんの?」
「な、なります!私できませんでした!」
「それも得意げに言うことじゃないよ」

 けらけらと笑い続ける蒙恬様に話を煙に巻かれたように感じ、うぐぐと唸る。蒙恬様はひとしきり笑ったあと、ふうっと息を吐いた。

「…一応、蒙家の長男やれてるんだな、俺」

 ぽろりと零れた小さな呟きは、ほんのりと喜びで色づいていた。ぽかんと呆けていると、やんわりと掌を掴まれた。突如訪れた熱に、へっと声が漏れる。

「じっとしてて」

 優しいけど、有無を言わせない響き。蒙恬様は袂から白い布を取り出して、歯で噛みちぎった。細い布を、私の指に器用に巻きつけていく。

「はい、できた」

 人差し指を目の前に掲げると、綺麗に巻かれた布がキラキラと光っていた。す、すごい…手当もお上手なのね、蒙恬様って…。ぽけーっと感心しているとポンッと頭に手を置かれた。

「よく我慢できました」

 偉い偉い、と頭を撫でられる。
 不覚。
 油断していた。
 準備をしていなかった私は堪えることができずに「痛かったあ」とわんわん声を上げて泣いてしまったのだった。








 …そんなこともあった。確かにあの頃は胸を高鳴らせていたが過去の話だ。あの時頂いた布を今こうやって取り出しているのも、たまたまだ。机に置いた布を手に取って、目の前に翳す。

 …蒙恬様。
 ぽわんと幼い蒙恬様の柔らかい笑みが浮かんだ。

「まーた、鈴様蒙恬様からの頂き物をご覧になられてますね〜」

 ひょいっと覗き込んできた雪に固まったあと「ぬわきゃああ!?」と素っ頓狂な声を上げながら飛び上がった。

「どうせ、蒙恬様にお会いできなくて寂しく思ってるんでしょう?この前会いに来てくださったときに存分に甘えておけばいいものをー」
「な、なななな、あま、甘えるとか貴女何を言ってるの、私は蒙恬様のことなんて、」
「小さなころに頂いた布をあーんな目で見といて何仰るんですか。もういいじゃないですか」
「違う!!これは!!そう、気分よ!!無性に布を見たくなる時って誰にでもあるでしょう!?」
「ありません」
「私にはあるのよ!!」




 

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