これが愛とは認めない


 窓を開けるとふわりと麗らかな風が頬を撫でた。心地よい風を目を細めながら享受していると、不意に名前を呼ばれた。

「鈴」

 甘みのある、軽やかな声。ピクッと小さく体が反応した。眉根が寄り、口角が下がる。不機嫌を露にしたまま声の方向に視線を下ろすと、想像通りの人物が立っていた。

「やっほー」

 軽薄な笑みを浮かべて、ひらひらと手を振りながら。肩まで伸びた栗色の髪に女性の召し物と言ってもまかり通るような赤い装い。この浮薄な男性は、蒙恬様。

 大変嘆かわしいことに、私の婚約者だ。



 渋々蒙恬様を家の中に通し、陽当たりの良い部屋で私は蒙恬様と机を挟んで向かい合っていた。だいすきなお茶もお菓子も、本当はこんな人に振舞いたくない。が、来てしまったものは仕方ない。曲りなりにも蒙恬様は私の婚約者。何のもてなしもしないで帰すような、無教養で無礼な女ではないのだ、私は。

「久しぶりだね。元気そうで良かったよ」

 茶杯を片手ににこにこと朗らかに微笑んでいる蒙恬様をちらりと一瞥してから、私は口を開いた。

「蒙恬様もお変わりないようで。まだ、三百人将なんですね」

 まだ、を強調してから、目を伏せながら静々と茶杯に口をつける。うん、美味しい。蒙恬様に飲んでいただくのがもったいないほどに、美味しい。
 蒙恬様は「あはは、相変わらずきついなあ」とけらけら笑って、意に介さないご様子。この人は私がどれだけ嫌味を言ってものらりくらりと躱してばかり。そういうところが、気に食わない。

「頑張ってるんだけどなあ。なかなかね」
「言うだけなら簡単ですわ」
「あいたたた」

 言葉とは裏腹に、蒙恬様は楽しげに笑っている。全く気にしていない。蒙恬様とは対照的に、私の機嫌は悪くなる一方だ。眉間に皺が深く刻まれていく。「それで」と声を尖らせ、底冷えするような視線を蒙恬様に向けた。

「一体、何の御用ですか?」
「なにって、そりゃあ」

 蒙恬様はにっこりと微笑まれた。

「可愛い婚約者の顔を見たかったから、だけど?」

 国中の娘が歓喜で打ち震えるような甘い言葉に対し表情筋ひとつ動かさない私を、蒙恬様はじいっと見つめる。何もかもを白日の下に晒してしまいそうな、澄んだ瞳で。数秒、視線が絡み合ったあと、蒙恬様はふっと表情を緩め、仕方なさそうに肩を竦めた。

「じゃあね、鈴」

 椅子を引いて、蒙恬様は立ち上がる。穏やかな笑みを口元に湛えながら、ひらひらと私に手を振る。下女に「あ、送らなくていいよ」と手で制したあと、ゆったりと踵を返した。蒙恬様が廊下を歩く音が、少しずつ遠ざかっていく。

「っあ〜〜〜!もお〜〜〜!!」

 緊張の糸が途切れた私は机に突っ伏した。母上に見られたらはしたない!と叱られるだろうが、どっと疲れが襲ってきた今、なりふり構う余裕など残されていないのだ。疲れた。ああ、本当に疲れた。ばくばくと激しい鼓動が今にも胸を突き破りそうだ。頬に手を添える。熱い。大丈夫かしら、顔に出なかった、わよ、ね?

 可愛い、可愛いって。あああもうそういうことを軽々しく言わないでください!!かわ…ひゃああああ!!
 真っ赤な顔を両手で覆いながら足をばたつかせて悶絶していると、下女の雪の呆れた声が降ってきた。

「まーた、よくわからない意地を張っていましたねえ、鈴様」

 主に向かっての口の効き方とは思えないがこれには訳がある。下女とは言えど、同い年で気心が合ったので、友人が欲しかった私の方から砕けた態度で接するように命じたのだ。

「だってぇ…」
「だっても明後日も明々後日もないでしょう。鈴様、蒙恬様のこと本当はだーいす、」
「いやあああああ!!」

 ガタガタッと立ち上がった私は慌てて雪の口を両手で塞いだ。突然口を塞がれ驚きで目を見開いた雪に、眉を吊り上げながら「あ・の・ね!」と食って掛かった。

「違うわよ!私は、あんな、あんな、優しくて家族思いで飄々としているなりにちゃんと色々考えなさっていて家柄を無暗にひけらかすでもなくしかし蒙家に生まれた誇りはきちんと持っておられる蒙恬様のことなんか、蒙恬様のことなんか…!!」

 ぎゅうっと目を閉じる。目蓋の裏側に浮かんだのは、にこやかに笑っている蒙恬様で。きゅうっと胸が締め付けられる。ああもう、出てこないでください!今私頑張っているんですから!!煩悩を突っぱねるかのように、大声を振り絞った。

「す、すきとかじゃないんだから―――ッ!!」

 このあと、私は。屋敷どころか天まで響き渡るような私の大声に駆けつけた母上に「はしたない!」とこっぴどく叱られたのだった。






「…全部、聞こえてるんだけどなあ」
 
 蒙恬様が苦笑していたのも、知らずに。



 

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