ほうっと息を吐くと白く染まり上がった。見上げた先の夜空は淀んだ空気のため星数は少なく月は雲に隠れて見えない。神秘的な月光や星の輝きの代わりに人工的なネオンが街を照らしていた。停電した街を一回だけ見たことあるけど、怖くて寂しい風景だった。北風が身に染みる。うう、と体を縮こまらせた後、マフラーに顔を埋めた。

「七海!」

 え。

 私が聞き間違えるはずがない、のだけど。実際に目にするとやっぱりどうしても驚いてしまう。振り向いた先には美希ちゃんが「やっほ〜」と、ひらひらと私に手を振っていた。ぽかんと呆けてから、慌てて手をぶんぶんと大きく振りかえす。美希ちゃんが一歩一歩、近づいてきて。ぴたり。私の隣で止まった。

「ふふっ、やっぱり七海だったの!後ろ姿だけでわかっちゃうって、ミキ、すごいでしょ?」
「う、うん。すごい!」
「えへへー!」

 きゃっきゃっと楽しそうに笑ったあと、美希ちゃんは「七海何してるの?」と訊いてきた。

「じゅ、塾の帰り。み…星井さんは仕事だったの?」
「うん。そだよー! 塾か〜。七海大変だねー」
「い、いやいや星井さんのが大変でしょ!」
「ううん。ミキ、ずーっと座ってベンキョーするの嫌いだから、すごいなって思う!塾って二時間くらい勉強するんでしょ?」
「や、今日は四時間だった」
「うわー!やっぱ大変!でも、わざわざここまで来てるの?遠くない?」

 美希ちゃんはうげーっと顔を歪めたあと、きょとんと首を傾げた。美希ちゃんの質問に私は、「あ〜…」と言葉を濁しながら視線を外した。

「みんなに内緒で来てるから…」
「なんで?」
「真面目に勉強してるの知られたら恥ずい、っていうか」
「なんで?」
「なんでって…」

 返事に窮しながら、美希ちゃんに顔を向ける。美希ちゃんはいつかと同じように、煽っている訳でも挑発している訳でもなかった。本当に不思議に思っていることが真っ直ぐな視線から伝わってくる。混ざり気のない澄んだ瞳を正面から受け取るのが心苦しくて、視線を足元に落としながら、だって、と呟いた。

「頑張って勉強して落ちたら、すごいかっこわるいじゃん」

 ぼそぼそと籠った声で紡がれた言葉は、風に吹かれたらすぐ飛んでいってしまいそうなほどふらふらと頼りないものだった。

「そんなことないの」

 美希ちゃんは空を見上げた。ほうっと息を吐き出すと、白く染まり上がる。桃色に艶めいた唇から、真っ直ぐな言葉が紡がれた。

「全然、かっこ悪くないの」

 私の目を見据える美希ちゃんの瞳に確固たる意志が感じられた。迷いの色は一切ない。威圧的ではないのに、何故か気圧されて、私は声を発することができなかった。

「美希、ずっと前、すごい頑張ったことあったけど、無理だったの」

 …え?

 言われた意味がわからなかった。

 美希ちゃんが、すごい、頑張っても、無理?…は?ん?なに、それ。どんな無理ゲーだよ!?

 美希ちゃんは昔を懐かしむような口振りで、ぽつぽつと零していく。少し、照れ臭そうだった。

「ミキ、どうしてもなりたかったものがあったの。でも、美希は駄目ーって言われて」

「ミキ的に、すごい頑張ったんだけど、それでも駄目って」

「…そのあと、みんなにすごい迷惑かけちゃったのはかっこ悪いって思ってたけど。…ああやって頑張ったのは無駄じゃない」

 無駄じゃないよ。

 零れ落ちた白い息と伴に紡がれた言葉は、胸に迫る声音を夜空に響かせた。

「だから、七海がもし超頑張って落ちちゃってもダメダメじゃないの」

 ふっと瞳が和らぐ。中学三年生の女の子とは思えないような、達観した微笑みだった。

「…私、かっこ悪い…!」

 気付いたら、溢れんばかりの羞恥の声がぽろりと零れ落ちた。

「超どうでもいいこと気にして悪いことしてるわけじゃないのにこそこそ縮こまって私すごい馬鹿じゃん…!うわ、恥ずい超恥ずい、馬鹿じゃん馬鹿じゃん馬鹿じゃん…!!」

 それは収まるどころか加速をつけてどんどん激しくなっていく。ていうか美希ちゃん絶対私のこと呆れただろうなうわあもうやだやだあーどうして私はあの時あんなことを神様タイムリープさせてくださいもうやだよーああー!

 激しい後悔の渦に巻き込まれ、全ての情報がシャットダウンされる。だから、びっくりした。ものすごく、びっくりした。

「七海って」

 くっきり二重瞼の澄みきった瞳が、突然目の前に現れて。

 一瞬、呼吸を忘れた。翡翠の瞳の中でぽかーんと呆けている間抜け面と目が合う。はあ、と吐き出され息が唇を撫でる。冷たくて、甘い匂いがした。
 美希ちゃんは口を開いたまま完全停止した私をじいーっと観察するように見据えながら、しみじみと呟いた。

「すごい速さで、口動くの」

 …それ、今言うことかな…?

「律子…さん、みたい!あ、律子…さんはね、ミキの事務所のプロデューサーなの!すっごい怖いんだよー!」
「え、あ、そうなの」
「そうなの!ミキがね、律子って呼んだだけで五時間もお説教してくるんだよ〜!」
「ご、五時間!?それは怖いね…!」
「でしょー!?」

 我が意を得たと言わんばかりに美希ちゃんはうむうむと頷く。すると、「ねー」と軽そうな声を掛けられた。視線を遣ると、私達よりいくつか年上…多分高校生と思われる軟派な男子二名が、下心丸出しの笑顔を浮かべながら立っていた。

「こんな時間まで女子二人でいたら危ないよ。俺等送ってく」

 俗にいう、ナンパというやつ。私、人生で、たった今、初めてされた。…とは言っても。こいつらの目は美希ちゃんしか見ていない。まあそらそうですわな。美希ちゃんは少しずつ有名にはなっているものの、誰もが知ってるアイドル!というわけではない。アイドル好きな人達の間では名を馳せているけど、アイドルにさして興味を持っていない人の間ではまだまだだ。この二人も、単に美希ちゃんが可愛いから声をかけてきたのだろう。美希ちゃんはナンパなんて慣れているようで、さらさらと受け流していた。

「ライン?やってるよー」
「じゃあ交換しよー」
「んー。ミキは別にいいかな〜。めんどくさいし」
「じゃースマホ貸して。俺やっとくから」

 美希ちゃんは「ん〜」と唇を人差し指で抑えながら、こてんと首を傾げた。い、いや断らないと美希ちゃん…!はらはらしながら見守る。こ、ここはそろそろ私がガツンといかなきゃならないのかな…!?姫を守る騎士のような気分になっていると、一人の男子が私に顔を向けた。

「じゃあ君の教えて」

 …こやつ私から美希ちゃんのID探ろうって魂胆だな。残念だったな!私も知らない!美希ちゃんと私、別に友達じゃないからね!ハッハッハ!!泣きたい。

 と、言えたらいいものの。ついでとは言え初めてのナンパに「え、えっとですね…!」と、顔を赤らめて狼狽えていると。きゅっと柔らかい何かに掌を包み込まれた。

 かと、思うと。

「逃げるが勝ち、なのー!!」

 思いっきり、引っ張られた。

 突然引っ張られて、足がもつれかける。が、なんとか体勢を崩さずに済んだ。美希ちゃんは脚の回転を止めることなく、どんどん私を引っ張っていく。景色が、世界が、目まぐるしいスピードで変わっていく。

「み…星井さん、あ、あし、はや…っ!」
「えー、そう?真くんのがもっと速いよー?」

 私の呼吸は早くも乱れていると言うのに、美希ちゃんは少し息を切らしている程度。そう言えば、美希ちゃんはいつも激しいダンスを涼しい笑顔で通していた。華奢で可憐な美希ちゃんが、私の何倍も体力を持ち合わせているということに、たった今気付く。そうだよ。あんなダンス、体力なかったら最後までできない。それは、もともとの美希ちゃんの能力だけでできることではないのだろう。頑張って、努力して。努力が叶わなくても歯を食いしばってまた頑張ってきて。

 そうして。誰もが羨むきらきらした成功の道だけを歩いてきたわけじゃないからこそ、今の美希ちゃんがいる。

 きゅっと胸が締め付けられた。


 走って、走って、走り続けて。流石の美希ちゃんの体力も尽きたようだった。はあはあと肩で息をしながら、二人して地面にへたり込む。繋いだ掌はびっしょりと汗に濡れていた。

「…ここ、どこ…」
「わかんない…」

 二人分の乱れた呼吸が重なる。俯いていた美希ちゃんは顔を上げて、私を見た後、一瞬大きく目を見張らせた。不意に喉を震わせたかと思うと、弓なりに仰け反りながら、私を指さして、大きく笑った。

「へ、へん、へんなかお!あははは!!すごい!!あははは!!」

 早々と体力を尽かせた私の顔が、どれだけ無残なものになっているか。恐る恐るスマホの内カメラを起動して、覗き込む。目は落ちくぼみ唇はしわしわに萎れているライトに照らされた私の顔が夜の闇の中に浮かんだ。

 ワタシ、ホラー、ダイキライ。

「ぎゃああああああ!!」
「あははは!!自分の顔に怖がってるのー!!」

 相変わらず空は淀んでいて月は雲に隠れ星も少ない。私を照らすのは頼りない街灯の光りだけ。けど、何故か、暗いとも寂しいとも思わない。冷たく乾燥した風が肌を刺す。走り過ぎて火照った頬に、ちょうど良かった。



top




- ナノ -