音楽室に向かっている間、友達に「葛西筆箱は?」と尋ねられた。あ、と漏らす。友達のご愁傷様と言うような憐れみの眼差しに見送られながら廊下を逆走した。部活引退後にダッシュ三本分の距離はきつい。なんなんだ今日は厄日か。ぜえぜえはあはあ。肩で呼吸しながら、よろよろと机に近づく。机の上でぽつーんと置いてけぼりにされた筆箱をむんずと掴んだ時、背後に人の気配を感じた。なんとなく振り向いて、口があんぐりと開いた。
「おはようなの〜」
ふわあとあくびをしたあと、美希ちゃんは半分瞼を下ろした状態でそう言った。私の目は、点になった。仕事が終わってから途中で登校してきたのだろう。っていうか!挨拶!せっかく美希ちゃんがしてくれたんだから返さなきゃ!ナチュラルに!爽やかに!「お、お、お、おはよう」どもったー!キモーイ!!マジきもーい!!
一人悲壮に暮れている私を他所に、美希ちゃんは着々と準備を進めていく。…こういう場合、先に、言っとくべき、かな。いつまでも教室に残ってたらいっしょに行くこと強制しているみたいだし…。
…友達でもないのに。
ちくんと胸に針が刺さったような痛みを感じた。のそのそと重い足取りで出入り口へ向かう。
「えー?」
すると、非難がましい声が背中に飛んできた。今、この教室には私と彼女しかいない。加えて私は毎日彼女の歌声を聴いている。私が彼女の声を聞き間違えることは100パーセントないのだ。つまり、美希ちゃんが、私に話しかけてきたということで。信じられない思いを胸に、恐る恐る振り返る。美希ちゃんはむすーっと頬を膨らませながら、私を睨んでいた。
「君って、薄情者だね」
「…え」
「だって、ミキを置き去りにしようとした」
ちょっとくらい、待っててよ。
舌足らずの声で紡がれた命令に、くらり。うん、と紡いだ声は声にならなかった。
「ミキ、音楽の授業受けるの久しぶりー」
「そ、そだね」
隣で美希ちゃんが歩いている。その事実は私の鼓動を速めさせた。血液が沸騰しているかのように体が、熱い。
「ねえ、えーっと…君の名前、なあに?」
覚えられていなかったことにショックを受けなかったわけではないけど、納得の気持ちの方が大きかった。美希ちゃんはあまり学校に来れないし、大分前の告白が最初の会話なのだ。
「葛西七海だよ」
「七海ねー。わかった!」
美希、名前覚えるの苦手だから間違えちゃうかもだけど気にしないでね!あはっ!茶目っ気たっぷりに笑う美希ちゃんの声が耳から耳を通り抜けていく。み、美希ちゃんが私の名前を…生きててよかった!
「ねえねえ七海ー。今、音楽何やってるの?」
「えっとね、旅立ちの日にだよ!」
「あ〜、あれだね、えーと」
「ほら、白い光の中にって出だしの」
「それなのー!」
すごい。友達みたい。私の言葉に美希ちゃんが反応して、美希ちゃんの言葉に私が反応して。ぽんぽんぽんぽんと会話のキャッチボールが行われていく。幸せに浸りながらでれでれと頬を崩していると、「そうだ!」と、美希ちゃんが閃いたと言うように人指し指を天井に向けた。
「ねー。いっしょに歌ってみよーよ」
ピシリ。私の笑顔にヒビが入る音が聞こえた。
「あれ、やなの?」
私が固まっていると、美希ちゃんはこてんと首を傾げながら人指し指を口元に添えて顔を近づけてきた。整った顔立ちがすぐそこにあって、はっと我に返る。「ち、違うの!」と、私は慌てて声を張り上げた。
「み…、星井さんといっしょに歌うことが嫌なんじゃなくて、その、私音痴だからさ…!」
星井さんはいっそうきょとんとした。
「なんで?」
「え」
「七海が音痴だから、何なの?」
煽っているわけでも、挑発しているわけでもなかなった。大きな瞳は純然たる疑問の色を浮かべている。無垢な光に、虚を付かれた私はしどろもどろになりながら「だって、」と紡いだ。
「嫌じゃない?」
「嫌だったら最初から言わないの」
何を当たり前なことを言っているのだ、と呆れたような声だった。音痴だから、何。そんなの美希には関係ないの。えっと、まあ、はい。そっすね。
そうだった。失念していた訳じゃないんだけど。美希ちゃんとは、どこまでも、ゴーイングマイウェイなのだ。
「じゃー、行くよ〜」
「えっ」
「さんっ、はいっ!」
一泊間をおいてから、美希ちゃんは朗々と歌い上げる。私はと言うと。慌てて出した声は盛大に裏返ってしまい、美希ちゃんにお腹を抱えながら笑われてしまった。ほんとに音痴なの!って。他の人間にやられたら、すっごくムカつくんだろうけど。
「あはは、あはは!あんなに声裏返す人、ミキ、初めて見たー!あれ?聞いた?ま、いっかー!…ふ、ふふっ、ふはっ、あははっ!」
ほんのりと朱が差し込んだ滑らかそうな白い頬。目尻に浮かんだ涙が睫毛を飾る。きらきらと光って、とても綺麗で。
『可愛い』って、すごい。