「マイキーって呼べんの、いつ?」

 佐野君はそう言うと、ハムスターのようにぷくっと頬を膨らませた。

「ええーっと……」

 わたしはクラリネットを片付けながら視線を明後日の方向に泳がせて言葉を濁す。

 一週間前、席替えが行われた。でもわたしと佐野君の席は移動しなかった。佐野君が権力を奮って、動かさせなかったからだ。

『オレの席は川原の隣で一番後ろの窓際って決まってんの』

 澄まし顔で答えた佐野君の言葉は意味がわからなかった。論理が破綻していた。だけど東京卍會総長様のお言葉には誰も逆らえない。だから佐野君とわたしの席は前と変わらず、一番後ろの窓際とその隣のままだった。

 しかもその日、佐野君は空き教室に顔を出すなり『なんでマイキーって呼ばねえの?』と拗ねながら聞いてきた。
 これにも、わたしは驚き、戸惑った。

 自分の隣の席にさせる。連絡先を登録させられる。マイキーと呼べと言われる。

 不可解な出来事が三つ並び、わたしはもしや佐野君に気に入られてるのではないだろうかと思いかけて、慌てて踏みとどまった。いかんいかんと首を振って自戒する。
 
 確かに、最近の佐野君は学校に来なくても放課後空き教室まで足を運んでわたしのクラリネットを聴きに来ることが多い。

 今≠ヘ気に入られているのだろう。

 でも、いつ反転するかわからない。好意の反対は嫌悪。なにかの弾みでオセロのように気持ちがひっくり返されて、夏休みに公園で会った時のような敵意の籠った眼差しを再び受ける可能性は充分にあり得る。あの時佐野君の怒りを買ってしまったのは、わたしはクラスメイトよりは関係性が上だろうと距離感を見誤り、わかったような口を叩いてしまったからだ。

 佐野君は猫のように気まぐれだ。今日は気に入られていても、明日は違う可能性がある。

 ―――『オレの何知ってんの?』

 だから、調子に乗ってはいけない。

 いつかの闇に沈んだ瞳を思い返し、うん、と頷く。
 わかったような口を叩いて、佐野君の不興を買いたくない。もうあんな怖い思いはしたくないしそれになによりも、

 幻滅されたくない。

 佐野君に幻滅される事を考えると、夏休み以上の途方もない恐怖がせり上がる。
 あんな風に凄まれる事の方がどう考えたって怖いのに、何でなんだろう。

「なあー、いつなんだよー」

 わたしの複雑な心境を全く知らない佐野君は唇を尖らせながら『はやく呼べ』と催促してくる。この前何でマイキーと呼ばないのかという質問を受けた時に『男子の事を小学生以来あだ名で呼んでないから緊張する』と言うと『じゃあ練習しといて』と返されたのだった。

「うん。まあ。うん。えーーとね。もうちょっとかな」
「時間かかりすぎじゃねえ?」
「まあまあ、えっと、うん、わたし緊張しいだからさ……」

 苦しい言い訳を交えながら、何故、わたしがマイキー呼びをのらりくらりと躱しているのかと言うと。

 佐野君が『オレと川原は、ずっとこの席だから』と先生に命令した後、佐野君がわたしに連絡先を登録するように命じた声は普通の大きさだった。佐野君が普通の男子だったなら、右から左に流される会話だっただろう。だけど佐野君は東京卍會の総長だ。皆、一挙一動に注目している訳であって、佐野君がわたしの連絡先を聞きたがった事を、皆、知った。

 わたし達女子中学生は、悪い男子に憧れがちだ。しかも佐野君は小柄だけど整った顔立ちをしている。カリスマ性に溢れ、喧嘩も強い。

 怖いので表立ってきゃあきゃあと騒がれる訳ではないけど、佐野君は、モテていた。

 佐野君の隣の席が続行された次の日、用を足して手を洗っていると一軍女子の竹中さんに声を掛けられた。

『川原さんのハンカチ可愛いねー』
『え? そう? ありがとー』
『ていうかマイキー君と仲良しだよね、最近』

 え、そこからその話題に移る? あまりに突飛な話題転換に竹中さんを見ると、顔が強張った。
 竹中さんは笑っていた。だけど、目は笑っていなかった。

『意外な組み合わせだから、吃驚した』

 あんたとマイキー君、全然釣り合ってないんですけど

 字幕映画を見ている訳じゃないのに、竹中さんの顔の下の部分にそんな文字が浮かんでいるように見えた。

 うちの中学の男子は皆、マイキー君と呼んでいる。そこにスクールカーストは関係していない。
 けど何故か女子は、トップに属している女子じゃないとマイキー君と呼んではいけないという暗黙のルールが敷かれている。何故かはわからない。気付いたら、そうなっていた。

 もしわたしがマイキー君と呼ぼうものなら………。

 女子達の冷たい目が容易に浮かび上がり、ぶるりと寒気が走った。

 佐野君は怖い。だけど女子の集団も怖い。どっちも怖いわたしはコウモリのようにどっちにもへらへらと笑うばかりだった。

「ていうか、わたしもう行くね。今日塾だから」

 佐野君の恨めしげな視線から逃れるように立ち上がり、いそいそとクラリネットを片付ける。佐野君は「ちぇー」と唇を尖らせて拗ねていた。

 佐野君ととりとめのない話をしながら、廊下を歩いていく。時折東京卍會の話をすることもあるけど、わたし達は大抵は毒にも薬にもならない、次の日になったら忘れてしまうような些細な話をした。

「佐野君ってなんでヘルメット被んないの?」
「だりーもん。オマエだってチャリの時被ってねーじゃん」
「う、そ、それは」
「川原わる〜」

 二の句が継げなくなったわたしを、佐野君はけらけら笑った。ノーヘルで無免許でバイク走らせているけど、普段接している時は自由奔放な中学生なんだよなぁ。笑った顔を可愛いとすら思う。リカちゃんと一緒に佐野君を認識した頃のわたしが今のわたしを見たら驚くだろうなぁ……しみじみと思いながら、自転車を押して校門に向かう。

「じゃあね、佐野君」
「おう。………あれ」

 向かう場所が反対方向の為佐野君とわたしは校門でいつも別れる。いつも通り佐野君がわたしに手を振ろうとした時、何かに気づいたように目を瞬かせた。わたしの背後に何かいるのだろうか。そう言われれば、後頭部辺りに強い視線を感じる。

 自転車に跨りながら振り返ると、呆然と佇んでいるリカちゃんがいた。

「リカちゃん」
「へー、リカちゃん」

 佐野君は同じクラスだと言うのにたった今リカちゃんを認識したらしい。けどすぐ興味なさそうに視線をリカちゃんから外した。

「ばいばい、川原」
「う、うん。ばいばい」

 ひらひらと手を振った後、佐野君は踵を返して去って行った。佐野くんが消え、わたしとリカちゃんだけ取り残される。リカちゃんは唇を真一文字に結んで、視線を下に向けていた。何故か、何とも言えない気まずい沈黙が流れる。
 自転車をそろりそろりと押しながら、水の中を歩くような重い足取りで、わたしはリカちゃんに近づいた。

「リ、リカちゃん…? どしたの? てか、もう帰ったんじゃないの?」
「……忘れ物、したから。取りに来た」
「あ、ああ〜、なるほど……」

 リカちゃんの様子は妙だった。安易に声をかけることを許さないような、強張った雰囲気を纏っている。リカちゃんも吹部だ。それに中一、中三共に同じクラスだった。中学生活で一番長い時間を過ごしたのはリカちゃんだろう。最初から気が合って、沈黙も苦にならなかった。だけど今は、沈黙がものすごく重く圧し掛かってくる。

 え。なに。なんで。わたし、なにかしたっけ……?

 愛想笑いを貼り付けて思考回路を回らせながらぐるぐると考え込んでいると、リカちゃんが呟くように小さな声で言った。

「菜摘ちゃん、ほんとに佐野君と仲良いんだね」

 そこには咎めるような響きが在った。

「え……、えっと、まあ……」

 毎日ではないけど週に何回かは空き教室に遊びに来るし、連絡先も交換した。いつ佐野君の興味がわたしから外れるかわからない不安定さはあるけど仲が良い≠ニ言って差し支えないだろう。もしリカちゃんがいつものようなテンションで聞いてきたら、改めて仲が良いんだねと言語化されることに恥じらいながらも、わたしはもう少し晴れやかな気分で答えられただろう。

 だけどリカちゃんはわたしと佐野君の関係性が良好であることを良く思っていないようだった。胸の中に薄い靄が掛かり、なんとも言えない圧迫感が宿る。

 元々リカちゃんは、佐野君がわたしにちょっかいを掛けることをよく思っていなかった。一学期の頃は『頼りないけど、先生に相談してやめてもらう?』と案じてきたほどだ。先生に相談しても良い方向に進むと思わなかったからお礼を交えながら断ると、リカちゃんは『そっか』と呟いてから言った。

『……ごめん、何の力にもなれなくて』

 申し訳なさそうに眉を八の字に寄せて、恥ずかしそうに、悔しそうに、リカちゃんは謝った。
 佐野君に『近寄らないで』と言う事なんて誰も出来ない。そんなの、当たり前の事なのに。
 わたしのことをリカちゃんなりに気づかってくれる事が伝わってきて、嬉しかった。

「………やめておいた方がいいんじゃない?」

 ……え?

 目を見張らせて固まるわたしを見ながら、リカちゃんはボソボソと続ける。

「佐野君、すごい不良じゃん。あんな人と仲良くしてたら先生から目を付けられるよ。竹中さんも、最近、菜摘ちゃん調子乗ってるって言ってたし」

 じっとりとした不快感が這い上がる。それはあっという間に胸の中を支配した。心臓の周りを、たくさんの靄が纏わりついている。

 竹中さんがわたしのことを良く思っていない事は薄々察していた。容姿が優れている訳でも話術に長けている訳でもないわたしが一軍女子もなかなか話しかける事の出来ない佐野君と普通に話しているのだ。分不相応で生意気だと陰口を叩かれているのは想像できる。だからそれはいい。いや、良くないけどいい。

 けど、昔、リカちゃんと『自分の悪口言ってたよって聞かしてくる子嫌だよね』って話をしたことあるのにも関わらず、リカちゃんは竹中さんがわたしの悪口を言ってる事を吹き込んできた。

 それに、それ以上に。佐野君の事をあんな人′トばわりされて、ムカついた。

 佐野君は確かに怖い。夏休みに感じた時の恐怖を思い出すと心臓がバクバクと騒ぎだし、全身から汗が滲み出る。

 だけどあの後、ごめんと謝ってくれた。ありがとうとも言ってくれた。
 
 強引で、小学生レベルの下ネタで笑って、友達が大好きで。時折、無性に寂しそうな顔をする。不良だし、怖いけど、それだけじゃない。

 そう反論したかった。だけど怒りと苛立ちが、リカちゃんと対話したいという意思を削いだ。何を言っても無駄だと突き放すような諦観が過り、わたしは口を閉ざししてから、無理矢理口角を吊り上げた。

「わかった。気を付ける。じゃあわたし、塾だから」

 リカちゃんの横を通り過ぎて、自転車に跨る。地を蹴ってペダルを漕ぐと背中に「菜摘ちゃん」と小さな声が躊躇いがちに飛んできた。でもそれは本当に小さな声で風の中にあっという間に紛れ込んだから、

 だから、聞こえなかった事にした。

 




 ただでさえ憂鬱な月曜日が更に重く圧し掛かっていた。リカちゃんと顔を合わせるのが気が重い。喧嘩をした訳じゃないけど、妙に気まずいまま別れてしまい、しかもその後電話もメールもしていない。

 わたしは友達と喧嘩をしたことがない。ムカつく事を言われても衝突するのが面倒くさくてへらへら笑ってやり過ごしてしまうのだ。こんなの初めてだ。佐野君とのアレは喧嘩というか蛇に睨まれた蛙というかまたなんか別のアレだしな……。

 はあっとため息を吐きながら、重い足取りで通学路を辿っていく。昇降口に到着し、上靴を床に落としながらため息を吐いた。

 ………まあ、何もなかった感じで気軽におはようって言えば、何とかなるか。

 うんと頷いて顔を上げると、同じグループの友達二人と目が合った。

「おはよー」

 いつも通り挨拶をする。当然返ってくるものだと無条件に信じ込んでいるわたしはへらへら笑いながら手を振った。

 二人は真顔で、わたしから目を逸らした。

 ……………え。

 ぽかんと口を開けている間に、二人はわたしに背を向けて廊下を歩いていく。ハーゲンダッツのブラックセサミについて盛り上がる楽しそうな声がどんどん遠ざかっていく。今すぐ駆けだしたら追いつけて話に加われるのに、わたしの足は根がはったように動かない。

 今、絶対、聞こえてた。
 なんで。

 ドッドッドッドッと心臓が強く早鐘を打っていた。秋なのに暑い。体中に脂汗が滲んで、心臓が圧迫されたみたいに苦しかった。震える足を、一歩一歩動かしていく。

 教室に行けばドッキリでしたってネタ晴らしされるとかないかな。ごめんね菜摘ちゃん! って笑顔で謝ってくるとか、そんな感じじゃないかな。だって、そんな、わたしなにも、

 ―――『竹中さんも、最近、菜摘ちゃん調子乗ってるって言ってたし』

 リカちゃんの硬い声が脳裏に蘇り、どくんと心臓が軋む。そう言われた時、リカちゃんはただわたしが陰で悪口を言われていることを知らせたいだけなんだと不快に思いながらも軽んじ、なあなあにやり過ごした。

 あれは忠告だったのだろうか。それとも、わたしが調子に乗っているかいないかの審議だったのだろうか。

 教室に入ると女子の笑い声が聞こえてくると、いつもなら特に何も思わないのに何故か今日はビクッとした。自分の席に向かいながら目玉を端に寄らせて、女子達の動向を探る。

 わたしが属するグループはクラスの中心的存在ではない。集合写真では真ん中から少し外れた場所でひそやかにピースをする、そんな感じだ。だから集合写真の中心ではしゃいでいる子達とはそれなりに友好的な関係を築いているけど、普段は一緒に行動しない。

 わたしの属するグループと中心的な存在の子達で構成される竹中さんのグループが、楽しそうに喋っていた。「今度みんなでどこか遊びに行こうよ」という話題で盛り上がっている。

 わたしはその話題に入ってはいけない。誰にも何も言われていないのに、彼女達からわたしに対する拒絶は明らかだった。

 わたしと彼女たちの間は透明な膜によって分断されていた。

 手持ち無沙汰のわたしは英語の教科書をカバンから引っ張り出して、勉強する体勢を作り上げる。あえて話題に入らないというポーズを取らないと自分の中の何かが崩れ落ちてしまいそうだった。

 視界の隅っこで、リカちゃんと竹中さんが楽しそうに話している。そう言えばあの二人、同じ塾だったな。関係代名詞のページを読み込んでいる振りをしながら、ぼんやりと思った。





 ハブられて四日間経ってわかったことがある。

 音楽や体育等の教室を移動しないと受けられない授業がひどく苦痛な事と、ひとりで食べる給食の時間が、永遠のように長く感じるということだ。

 皆が楽しげに雑談してる中、わたしは黙々とクリームシチューを食べる。自分の咀嚼音なんて気にしたことなかったのに、今は妙に頭の中で響く。

 時折中立グループに属している委員長が心配そうにわたしを見つめていたけど、見ないようにした。縋りつきたいけど、巻き添えを食らわせたら申し訳ない。今や竹中さんと元わたしのグループはクラス内最大派閥だ。

 わたしが属していたグループが竹中さん率いる一軍女子達と楽しげに給食を食べている様子がダイレクトに伝わる。わたしは頭の中でクラリネットを吹きながら、聞こえないように努めた。

 佐野君が今週一回も学校に来ていないことに、わたしはホッとしていた。

 いじめられることはなにも恥ずかしくない。周りの人に相談しよう。
 大人は皆口を揃えて、馬鹿のひとつ覚えみたいに同じことを言う。本当に、馬鹿みたいだ。
 いじめられたら恥ずかしいに決まっている。同い年の同性と友好的な関係を築けず疎外されるなんて、コミュニケーション力に問題があるようなものだ。

 佐野君は、学校なんて狭い枠で生きていない。150人の不良を束ねる総長に取ってみれば、いじめなどママゴトのようなものだろう。クラスの女子とそつなく交流する事すらできない、なんて。

 喉の奥で淡が絡んだように息苦しくなった。自分のみじめさと情けなさに震える体を押さえつけるように、下唇をぎゅっと噛む。

 あの時、あそこでもっと申し訳なさそうに謝るべきだった。何に謝ればいいかわからないけど、謝るべきだった。分不相応な事をした。弁えて行動する。ごめんね、リカちゃん。そうしたらリカちゃんは塾で竹中さんに会った時、菜摘ちゃん謝ってたよと取りなしてくれただろう。どうしてあそこで油断したんだろう。今までそつなくこなしてきたのに。

 渦巻き始めた後悔は勢いを増しながら、精神の奥底へと潜り込む。

 というかそもそも、どうしてわたしは佐野君と関わりたいと思ったのだろう。佐野君と関わらなければハブられる事もなく、平穏に過ごせた。佐野君と過ごすことで内申にも響くかもしれない。パパもママも佐野君と交流ある事を知ったら眉を潜めるだろう。

 ―――佐野君と関わったって、良い事なにもないじゃん。

 理性的なわたしが、佐野君と関わらなければよかったのだと詰り始める。正論だ。その通りだ。だけど、だけど、だけど、

 佐野君の事となるとだけど≠ェついてくる。そして物事を冷静に考えられない駄々っ子のように馬鹿なわたしが、心の底から叫ぶのだ。
 
 だけど、知りたかった。
 
 ―――知ってどうする。

 わからない。どうしようもない。だけど知りたい。わたしは佐野君が知りたい。
 
 一年生の頃、佐野君を初めて見た時。怖そうな男子だと思った。
 だけどそれ以上に、彼から目が離せなかった。

 脱色を繰り返した金髪はくすんでいる。だけど眩しかった。視界の端に少し映るだけで圧倒的な存在感を放っていた。

 目蓋を閉じたとしてもいつまでもいつまでも光の点滅を繰り返し、否応なしに、わたしを惹きつけた。

 怖い所も知った。だけどやっぱり知りたい。寂しそうな眼差しの先に何があるのか知りたい。
 どんなことに喜んで、どんなことに怒って、どんなことに悲しむのか、ただ、知りたい。
 
 理性的なわたしがオマエは馬鹿だと罵ってくる。本当にそうだ。わたしは馬鹿だ。

 きっとわたしは過去をやり直す事ができたとしても、もう一度、佐野君の安眠を妨げてどら焼きを渡すだろう。

 だって、消えない。
 視界の端で点滅する光が、消えない。ずっと焼き付いている。

 ずっとずっとずっと、追い続けてしまう。

 考えてもどうしようもない物思いの中に沈みながら、水中で丸まるように、わたしは顔を俯けた。

 深く深く、首を垂れる。食べかけのクリームシチュー以外、目に入らない。だけどそんな狭い視野の中ですら、輝いていた。

 視界の端で、何かが点滅している。

「おはよー、川原」

 見上げた先には、わたしにゆるゆると手を振る佐野君がいた。

 秋の日差しを受けた佐野君の金髪がチカチカと光っている。ぼんやりと眺めているうちに佐野君はふわぁーっとあくびをしながら、席に着いた。

 佐野君、だ。
 
「……いやいや佐野君。もうお昼だよ」

 佐野君を認識すると、ほどけるように気持ちが緩んだ。釣られて涙腺も緩み、生唾を呑んで気持ちを引き締める。声を掠れさせないように努めながら、いつも通り突っ込んだ。

「そういやそうだなー。あれ? 川原珍しいな、ひとりで食ってんの。なんで?」

 佐野君の無邪気な問いかけに教室の空気が凍った。
 先生は知らないけど、男子達の間でもわたしがハブられていることは知れ渡っている。男子達からもハブられることはなかったけど、助けられる事もなかった。
 女子達の視線が突き刺さっているのを感じる。敵意の籠った監視の視線だった。絶対に言うなよ、という強烈な意思を感じる。

 ……言わないよ。

「今日はそういう気分だったから。勉強しなきゃだし」

 こんな情けない事、言える訳ない。

 いつものようにへらへらと笑って適当な事をでっちあげる。佐野君は「ふーん」と頷くと、立ち上がった。

「帰る」
「へ」
「じゃーな〜」

 佐野君はわたしに別れの挨拶を言う暇も与えず、教室から出ていった。

 い、一体何のために学校に来たんだろう……。ポカーンと口を開けていると、

「そういう気分、だってぇ」

 粘着質な嘲笑が耳朶に触れた。

 どくん、と鼓動が強まって、心臓が縮み上がる。クスクスと嘲笑う声は、女子たちの方から上がっていた。

「どんな気分だっつーの」
「一緒に食べてもらえばよかったのに」
「マイキー君があんなんと食べる訳ないじゃん」
「そうだよ。今までのだって暇つぶしでしょ」

 名前こそ出てないけど、彼女達は明らかにわたしのことを話していた。
 わたしのことを、嘲笑っていた。

 ドラマや漫画の中でいじめに遭っている主人公がただしくしく泣いているのを見るとイライラした。どうして立ち向かわないんだろう。勝手な事言うなと怒ればいいのに。
 今、自分がやられて初めてわかった。
 人間は自分への嫌悪をむき出しにされると、たじろぎ、声は喉に張り付き、体は硬直する。

「リカ捨ててまでマイキー君に媚び売ってたのに見捨てられてんのウケる〜」
「ねー。私リカから聞いてビビったもん。忠告してあげたのに、余計なお世話的な反応されたんだよね?」

 クリームシチューのニンジンを掬って喉に押し込む。普段は全く意識しないのにニンジンが食道を通っていくのを感じた。

 ゴロゴロ、ゴロゴロ、ゴロゴロ。

「………うん。すごい、ムカついた」

 真っ逆さまに、落ちていく。

「オレは今ムカついてる」

 水面に雫が落とされたように、静かな声が広がった。

 目を見張らせた拍子に涙が零れ落ちた。だけど驚きですぐに止まった。佐野君がズボンのポケットに手を突っ込んだ状態でドアにもたれながら、女子たちのグループを見据えていた。

「なに、今の」

 ゆっくり、ゆっくり、佐野君は女子たちに近づきながら問いかける。その度に全員の顔が強張っていった。佐野君はリカちゃんの元で歩みを止める。見下ろしながら、氷のような冷たい声を降らせた。

「オマエ、川原のダチじゃねえの」

 リカちゃんは答えない。答えられないのだろう。顔が真っ青に染まっている。

「マ、マイキー君、待って、リカ、川原さんにひどいことされて、」
「黙れ」

 大きな声じゃない。静かな声だった。だけどそれは抜き身の刃のように鋭く、竹中さんを切りつける。

「殺すぞ」

 佐野君は言葉通りの殺意を漲らせて、威圧した。
 
 教室がかつてないほど静まり返る。給食費の時なんて目ではない。

 佐野君は、怒っていた。
 
 神経に氷水を流し込まれたように、わたし達は氷づく。中でも、竹中さんは体温を失ったように固まっていた。竹中さんの唇が喘ぐように動いた。ごめんなさいと蚊の鳴くような小さな謝罪は、命乞いのようだった。佐野君は答えず、再びリカちゃんに問いかける。

「オマエ、川原のダチだろ。なんでこんなクソダセえことしてんの」

 リカちゃんは一向に喋らない。喋れない。恐怖に雁字搦めになり、酸素を求める魚のように口パクパクさせている。

「なあ、聞いてんだけど」

 抑揚のない声で答えを促しながら、佐野君はリカちゃんの机に脚を掛けた。

 やばい、

「佐野君!!!」

 熱いものに触れたら手を引っ込めるように、わたしは反射的にお腹の底から大声を出して、飛び出した。ゆっくりとわたしに顔を向けた佐野君の腕を掴んで、必死に言い募る。

「こ、こうば、購買、行こ」
「は?」

 冷たい声だった。夏休みに聞いた時と同じ、感情に乏しい声だった。怖い、だけど、このままにしてたら、大変な事になる、佐野君をどこかに連れていかないと、

 ぐるぐる、ぐるぐる、回らない思考回路を必死に巡らせる。だけどうまく動かない。佐野君の瞳を近くで見ると、底冷えするような怒りが宿っていた。こめかみに青筋が浮かんでいる。改めて佐野君が怒っている事を目の当たりにすると、血の気が引いていった。怒っている。怖い。今すぐこの手を離して逃げ出したい。

 だけど、目を逸らしたら駄目だ。
 視線を外したら佐野君は、取り返しのつかない事をしてしまう。そんな気がする。

「お願い、お願いだから………!」

 そんなの、嫌だ。
 佐野君に、そんなことをさせたくない。

 それに、わたしは、

 わたしを気遣う瞳が、脳裏に浮かぶ。佐野君の腕を両手でぎゅっと握りしめながら、必死に懇願した。

 佐野君のこめかみから青筋が静かに引いていった。長い睫毛に縁どられた瞳から、ふれるものすべてを焼き殺すような冷たい怒りが、音を立てずに消える。

 一瞬だけ、清廉とも言えるような静けさがわたし達を包み込んだ。

 ―――ドンッ!

「きゃあ!」
「うわ!?」

 だけどそれは本当に、一瞬の事だった。佐野君が壁に拳を叩きつけると、破片がぱらぱらと床に落ちた。驚いたクラスメイト達が悲鳴を上げる。だけどわたしは声を上げる事もできなかった。立ち竦んでいると佐野君に手を掴まれて、引っ張られる。予想外の出来事に目を白黒させている間に、佐野君はどんどん進んでいった。

 教室を出て、廊下を歩いて、どこまでもどこまでも、進んでいく。
 
「佐野君、待って、痛いよ、佐野君……!」
「いつから」

 佐野君は前を見据えている為、どんな顔をしているかわからない。平坦な声だった。だけど、怒っていることはわかった。

「いつからオマエ、あんな目に遭ってた」

 バレた。

 サァッと血の気が引いていく。そう言えば、聞かれてた。聞いてたから、佐野君は怒ってくれたんだ。ああ佐野君は良い人だなぁ。でもどうしよう、嬉しいって感情よりも、

「き、気にしてくれるんだ。でも、大丈夫。ほんと、大丈夫だから」

 恥ずかしさが上回る。

 クラスの女子の輪から外されて悪口を聞こえよがしに言われていた現場を佐野君に見られて、わたしはただ、恥ずかしかった。みじめだった。

 佐野君は150人の不良の頂点に立っているのに、わたしは15人程度の女子の枠組みから弾き飛ばされている。

 あまりの違いに恥ずかしくて顔から火が噴き出そうだ。全身から汗が滲み、掴まれていない方の手を爪が食い込むほど握りしめる。

 少しでも情けなさを緩和しようと思って『気にしてない』と言うように、明るい声を作って言葉を続ける。張りぼてのように安っぽい虚勢を張った。

「あの、女子にはよくある事だから。だから大丈夫、ちょっとハブられたくらい、嫌われるくらい、」

 ああそっか。わたし、ハブられてるんだ。
 嫌われてるんだ。

 今まで心の中で思ってきたことを、実際に声に出すと、それは瞬く間に現実味を帯びた。
 ひく、と喉の奥が震える。眼球が熱くなって、涙が押し寄せてくる。体が小刻みに震え始めた。

 嫌だ、泣くな。
 泣いたってどうにもならない。泣くな、泣くな、泣くな、泣くな……!

 顔を俯けて口の中の肉を必死に噛んで嗚咽を堪えていると、歩みが止まって。

「川原」

 佐野君に呼ばれた。透き通るような声に、一瞬、思考を止められる。心臓が揺らいだ。少しすると、更に熱い塊がお腹の底から上がってきた。

 声を出したら、顔を上げたら、わたしは泣いてしまう。だから、何も答えられないでいると、佐野君はわたしの手を掴むのをやめて、握った。小柄なのに大きな掌だった。佐野君はわたしの手を握りながら、誘導するようにゆっくりと歩いていく。

 どこかの教室に入ると、佐野君は踵を返し、背中を向けながらドアの辺りに腰を下ろした。わたしを見ずに、前を見ながら言う。

「誰か入ろうとしたら殺してやる」

 その言葉の意味が一瞬わからなくて、わたしはポカンと呆ける。だけど、少しずつ、少しずつ、佐野君の言葉が体内に染み込んで、湧き水のように広がっていく。

「だから、泣けば」

 粗削りな優しさが、心を包み込んだ。

 佐野君の金髪が急速に滲んでいく。佐野君、と心の中で呼んだ時、留めていたものが決壊した。嗚咽は歯の隙間から漏れ、涙はとめどなく流れ出す。

「う、っ、う、ひぐっ、う〜〜〜〜〜…っ」

 足元からずるずると崩れ落ち、へたりと座り込んで、わたしは泣いた。

 悲しくて泣いているのか気が緩んで泣いているのか、よくわからなかった。
 だけど佐野君がそこにいるのかと思うと、更に、涙が溢れ出した。

 少し離れたところで、金色の光が滲んでいる。近づきもしない。遠くにもいかない。
 ただ、夜空に浮かぶ星のように、いつまでもそこにいた。

 いつまでも、いてくれた。






 

How far that little candle throws his beams.



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