川原菜摘。オレの隣の席だと言う女は、どこにでもいる中坊だ。

 
 特に面白い訳じゃないが、良い奴だ。ある日たくさんのどら焼きをくれた。

 川原曰く詫びの品らしいが何に迷惑掛けられたのかさっぱり覚えていない。全く気に留めていなかった。
 その日を境に、オレはようやく川原菜摘を認識する。

 なんとなくちょうどいい話相手で、だけど取り立てて気に入っている訳じゃなかった。そこにいるから話しかける。いなかったら話しかけない。手持無沙汰にそこらの野良猫に話しかけるようなモンだった。

 他のクラスメイトよりは印象に残っているが家族や東卍の奴らには及ばない、その程度の存在。

 オレは自分の中の衝動を持て余していた。どうしようもなく、気が立っていた。パーちんが捕まって、また大切なモンがなくなっちまうのかと虚無感とやる瀬なさと怒りがぐちゃぐちゃに混ざり合っていた。

 兄貴が死んだ時から、時々、どうしようもなく、なにもかもぶっ壊したくなる衝動に駆られる。

 オレの心を巣食っているドス黒い何かに、薄々感づいている。だけどまだ真正面から向き合えてなかった。
 もしかしたらオレは、自分の手で、大切なモンを壊すことができる人間なのかもしれない、ということに。

 そんな時、席が隣の女はオレに言った。

『いつもの佐野君と、なんか、違うし』

 愛想笑いを貼り付けた顔におもねるような声、三下そのものの女が何故か、オレの心の奥深くに押し込めたモンを見透かしているような気がして、

 どうしようもなく、腹が立った。






「難しい漢字………」

 チーム名を聞かれたので黒板にでっかく『東京卍會』と書いて教えてやると、川原はぱちぱちと瞬きを繰り返した。

「そんな難しい漢字知ってるなら国語のテストももうちょっとなんとかなるんじゃ…」
「勉強に出てくる漢字つまんねえもん」

 聞く耳を持たずにぷいっと顔を背けると「いや面白いとか面白くないとかじゃなく」と川原は呆れたように突っ込んできた。

 川原はいつも放課後になると空き教室でクラリネットを吹いていた。塾がある日は短時間だが、塾がない日は暗くなるまでここで吹いている。親には家だと集中できないから学校で勉強していると嘘を吐いているらしい。大人しそうな顔してしれっと嘘を吐く、結構したたかな奴だ。

 始業式の日から、オレは放課後もちょくちょく川原に絡みに行っている。元から話しかけやすい存在だったが、一学期の頃はオレにビビっていた為返答が『ああ、はあ』だとか『まあ、はあ』だとかで面白くなかった。けど最近はツッコミを入れてきたり呆れたり笑ったり、と感情を見せるようになった。タケミッチ程パンチの効いた奴じゃねえけど、無気力で淡白で適当な川原との時間は居心地が良かった。

「最初は東京万次郎會にする予定だったんだけど、全員に却下された」
「うん」
「おい、うんってなんだよー」
「あはははは。まあまあ。えーっと、佐野君、最初は何人から始まったの?」

 額に汗をかきながらも流れるように次の話題へ誘導した川原のしたたかさに「なんだよー」と唇を尖らせる。けどこれ以上問い詰めても川原は煙に巻き続けるだろうし追い詰めるつもりはない。仕方ないので疑問に答えてやる。

「5人」

 あいつの顔が浮かび上がらないように意識しながら平坦な声で答えると、川原は「へー」と意外そうにうなずいた。

「最初は少なかったんだね。今何人いるの?」
「わかんね、確か150人とかそんなとこ」
「ひゃくごじゅう」

 構成人数を聞くと川原は絶句していた。鳩が豆鉄砲を食ったようような間抜け面にオレは笑う。

「今日集会あんだけどさ、来る? 150人見れんぜ」

 川原は「えっ」と声を上擦らせた。ビビって怖気づく気持ちと東卍を見てみたいという気持ちで揺れ動いているようだった。「ど、どーしよ」と頭を抱えながら悩みだす。それから少しの間うんうん唸っていたが「あ」と気の抜けた声を漏らした。

「わたし今日塾だった」
「サボれば?」
「マ、ママに怒られる」
「そか」
「あ、ていうか、そろそろ行かなきゃだった」

 川原は壁にかかった時計を見てから、いそいそとクラリネットを片付け始めた。毎回思うが組み立てんのも片付けんのもめんどくせえ楽器だ。

「オレも行こーっと」
「集会って結構早い時間にやるんだね」
「ちげーし。今からケンチンとタケミッチと銭湯行くんだよ」
「へえ。いいなあ」
「うわ、川原エロ〜」
「なんでそうなんの………」

 からかってやると、川原は長い紐の付いた布巾のようなものをクラリネットに通しながら、げんなりとした顔で返してきた。次に銀色のボタンにあぶらとり紙のようなものを挟んでいく。何回見てもめんどくせえ作業。よく飽きねえな、と感心する。オレなら最初の一日でやめる。

 けど、川原にはずっと続けてほしい。何でこんなことを願うのかはわからない。

 ただ、後から振り返ってみれば、この時の願いは後の離別に向けての予兆だったのだろう。


 どれだけ大切にしても、掬った砂が指の隙間から零れ落ちるように、なくなっていく。
 変わらないものはなにひとつないのだと嘲笑うように、時間は流れる。
 

  




 眠りから覚めると、見慣れた天井が視界に入った。チク、タク、チク、タク。秒針の刻む音に釣られて時計に目を遣ると、四時を過ぎていた。窓から差し込む光から察するに、今は夜じゃない。と、いうことは。

 のそりと起き上がり、リビングへ向かう。ダイニングテーブルの上に『マイキーへ』とメモが置かれていた。

『マイキーへ。全然起きないから先に行きます。エマより』

 だろうな、と納得してからあくびをする。今更行っても、なァ。学校サボったことに今更罪悪感等沸かない。じいちゃんもオレを躍起になって学校に行かせようとしねえし、教師はハナから諦めている。オレ自身、学校に思考を割く事などなかった。

『辞めてやるよ』

 人を食ったような笑顔と、せいせいしたと言わんばかりの声が頭の中に響き渡る。

『壱番隊隊長場地圭介は、本日をもって東卍の敵だ!!』

 さらさら、さらさら。
 砂の零れ落ちる音が、どこからか、聞こえる。

 稀咲を首にしろと頼むタケミッチの目は痛いほど真剣で、鬼気迫るものがあった。アイツが危険だという事は、オレもわかっている。だけど、今後東卍をデカくしていくには稀咲の力が必要だった。好きな奴と組んでいるだけじゃ、東卍はガキが組んだ地元のチーム≠ナ終わる。

 兄貴が見た世界も、オレも見たかった。あいつらと一緒なら、望んだ世界を創れると思った。

 ケンチン、三ツ谷、パーちん、場地、―――。

 あいつの顔が出てきかけて首を振ると、うなじから背中にかけてどっと疲労感が圧し掛かってきた。

 場地。
 ずっとオレの傍にいた。何回もボコボコにしたのに、何回もタイマンを申し込んできた。
 ホーク丸を体を張って守ってくれた。
 時代を創れと、オレに命を預けてくれた。
 それなのに、なんで。
 なんで、どうして、変わっちまうんだ。

 頭がぼうっとしていた。

 靄がかかったみたいに、うまく思考が働かない。

 虚無感と孤独感が腹の底で蟠り、ぐるぐると渦巻いている。底の見えない沼に静かに沈んでいくような、そんな気分だった時、不意に、どこからか、音が聞こえた。

 聞き覚えのあるメロディが微かに聞こえてくる。耳を澄ませて注意深く聞いてみると、いつか、川原が吹いてくれた曲だった。そういえば、じいちゃんが隣に新婚夫婦が越してきたと言っていた。多分、赤ん坊にでも聞かせているのだろう。

 聞こえてくるものは川原が吹いた子守歌だったが、川原の楽器の音色じゃなかった。いくつかの楽器が重なり合っていて、豪華だった。音楽に疎いオレには川原の素朴な音色のが合っているらしい。聴いていても、眠気を誘われなかった。

 川原にクラリネットで子守歌を吹いてもらった日、夢も見ずにぐっすり眠れた。いつものタオルケットがあったら、更に深く眠れただろう。夢と現実の間を彷徨っている時に、クラリネットの音色が意識を撫でるようにゆっくりと揺らし、誘われるように目蓋を開けていた。体を起こして、音色の先に視線を遣る。

 川原はクラリネットを吹いていた。オレに背を向けて、夕日に向かって吹いていた。

 柔らかな橙色の光が、川原を包んでいた。

「……あ、」

 記憶の糸がほぐれて、ようやく思い出して、寝起きの掠れた声が漏れる。なんで、川原が詫びだと言ってどら焼きを渡してきたのか、わかった。オレが川原のクラリネットに起こされたからだ。

 川原はあの時もクラリネットを吹いていた。いつも、クラリネットを吹いていた。

 あの日も今も、変わらずに、ずっと。
 





 学校に到着した頃になると、空は橙色に染まり上がっていた。帰宅する生徒とは逆に、オレは学校へ向かっていく。

 いるかいないかわからない。もしかしたら今日は塾で、いないかもしれない。

 川原のケー番もメアドも、オレは知らない。知らなくたって、何の問題もないからだ。わざわざ連絡を取り合う必要なんてないからだ。

 気が向いた時に会いに行けばそれでいい。だって川原は、いつもあそこにいるんだから。いなくたって構わない。オレにとってアイツはその程度の存在だ。

 ただ、隣の席なだけ。それももうすぐ終わる。ようやく席替えするらしい。確か、今日か明日か明後日するとか言っていたような。

 まだ頭は覚醒していなかった。寝ぼけているような足取りで階段を上がり、廊下を歩いていく。

 音が聞こえてくる。歩みを進める度にどんどん音が大きくなっていった。
 
 橙色の陽射しを受けながら、川原はクラリネットを吹いていた。

 オレの知らない曲を、かすかに体を揺らしながら吹いていた。

 いつもみたいに、いつもと変わらない姿で。

「……、あれ、佐野君?」

 ドアにもたれながら聞いていると、吹き終わった川原が視線を感じたのだろう、振り返ってオレの姿を認識すると目を丸くした。

「えっとー…、今の時間だと何て言えばいいんだろ、こんにちは……?」
「川原」

 「それ」と川原が大事そうに抱え込んでいるクラリネットに人差し指を向けて、オレは言った。

「これからも、ずっと続けんの?」

 ぱちくりと瞬いた川原を、じっと見つめる。視線を逸らせないように、深く、食い込むように。川原はぱちぱちと何度か瞬きを繰り返してからしげしげとクラリネットを見つめて「…うーん」と眉を寄せながら首をひねった。

「ずっと、って言われるとわかんない。楽しい事、他にもあるし」

 その言葉に、オレの何かが音を立てて引いていった。体が無力感に包まれる。胸の真ん中にぽっかりと空洞が出来たような気がした。

 さらさら、さらさら。

 砂の零れ落ちる音が、どこからか、聞こえた。

「でも、戻ってくるだろうね」

 零れ落ちる音が、止まった。静かに息を呑んで、川原を見据える。川原は大事そうに、クラリネットを見つめていた。

「わたし、クラリネットすっごい欲しかったんだよね。今までは欲しいものがあっても三か月経てば物欲消えたんだけど、これだけは例外だったなぁ…。パパとママにめちゃめちゃお願いして、誕生日とクリスマスと自分のお年玉足して買ってもらったんだ。こんなに高いものを子どもの内に買うこと、絶対ないと思う。
 うん、だから、続ける。一旦ちょっとやめたとしても、ずっと、吹き続けると思う」

 元を取らなきゃだしねと続けて、川原は笑う。夕日を背後に立つ川原の輪郭が、橙色に光っている。その光を見ているうちに、やがて、目の前がチカチカと点滅を始めた。

「…………ねみぃ」
「え」

 オレはなだれ込むように適当な椅子に座って机に突っ伏した。川原の「だ、だいじょうぶ?」と戸惑いながら気遣う声が聞こえてくる。

「川原、」

 意識はもう途切れがかっていた。眠すぎて頭が重い。ごろりと顔を向けると、川原の顔が見えた。『意味がわからん』と書かれた顔に、掠れた声で依頼する。

「子守歌、吹いてくんない?」

 川原はまた大きく瞬きをした。「そんなんでいいの?」と訝し気に問いかけてくる。

「うん」

 頷きながら、重たい瞼を重力に任せて下ろす。

 眠たかった。眠りたかった。

 兄貴が死んだ夜、泣いて謝る場地、俯きながらぶつぶつと呟いている、一虎。

 皆オレの為に動いてくれていた。それなのに今兄貴はいなくて場地は東卍を去り一虎は敵だ。
 
 なんでだ?
 なんで、みんな、変わっちまうんだろう。
 なんで、いなくなっちまうんだろう。

「うーん? わかった」

 川原はなにがなんだか…といった声で頷いた。きっと今も頭の上に大量のはてなマークを浮かべているのだろう。いつも通りの間抜け面なんだろうな。そう思うと安心感が満ちて、眠気が更に強まった。

「……失礼しまーす」

 うつら、うつら。少しずつ、現実から意識が乖離していく中、背中に何かを掛けられた。

「おお、サイズぴったり。ちょっとおっきめにしといてよかった」

 背中のあたたかいものから、川原の匂いがした。よしよし、と満足げな声が途切れ、少しすると、息を吸い込む音が続く。

 あの時と同じ音が流れた。音の粒がゆっくりと、鼓膜の中に入りこむ。

 いつかと同じ、いつもと同じ、素朴な音色。

 オレの意識が途切れる最後の瞬間まで、寄り添うように、鳴っていた。






 次の日、オレは朝から出席していた。オレが席に着いているのを見るなり担任は目玉を驚愕に震えさせ、口をあんぐりと開けていた。そんなに珍しいモンか? いや朝から教室にいるのは初めてだな。珍しいか。そうか。

 淡々と分析しながら、オレはその時間≠ェ来るのを待っていた。

 それ≠ヘ、オレが目を離した隙に行われる。絶対に、許す訳にいかなかった。

「じゃあ、するか、席替え」

 それ≠ヘ六時間目の終わりに、ようやく到来した。

「やっとかよ〜〜」
「先生もっと席替えやろうよー!」
「だってクジ作るのめんどくせえもん」
「もんじゃねえんだよオッサン!」

 やいのやいの言いながらもクラスメイト達は久しぶりの席替えに盛り上がっていた。ちらり、と隣に視線を滑らせる。川原は何とも言えない表情をしていた。少し眉を下げて、心あらずといった表情で前を見つめている。

「川原」

 呼び掛けると、川原は少しぴくりと動いてからオレを見た。ほぼ全員がうるさい中、オレ達の間だけ妙に静まり返っている。

「なに?」
「オマエ、視力落ちたりしてる?」

 川原はオレの質問の意図が掴めないのだろう、「ん?」と不可解そうに眉を寄せた。じれったくて、「どうなんだよ」と答えを急かす。

「してないけど……」
「じゃあ、大丈夫だな」

 なにが、と問い返す川原を無視し、オレは生まれて初めて、教室の中で挙手をした。

「センセー、ちょっといいー?」

 しいん、と教室が一気に静まり返った。全員の視線が、オレに集中している。ビビり過ぎだろ、いや仕方ねーのか? ま、いっか。

「な、なにかな?」

 ビビり倒している担任に、オレは言った。
 
「オレと川原は、ずっとこの席だから」
「え………?」

 担任が目を点にして、オレを見た。続けて、川原も見る。川原も目を点にしていた。

「つーことで。後は好きにしていいから」

 目的は果たした。席替えにすっかり興味を失くしたオレは前を向くのをやめて左側に体を向けて、川原を呼んだ。

「川原」
「はえ……?」

 ババアみてぇな驚きかたに笑う。つーかこいつはなんでこんな驚いてんだ?

 なにもおかしいことなんてないのに。

「はい」

 川原に向かってオレのケータイを投げると、川原は「!?」とあたふたしながらキャッチした。「し、死ぬかと思った……」と冷や汗をだらだら垂らしている川原に、当たり前のことを言いつける。

「オマエの番号とメアド、登録しといて」

 なにもおかしいことなんてない。
 オレのモンを、手元に置いておくだけなんだから。






 

The more one has, the more one wants.



prev | next
back


- ナノ -