本気で殺されると思った日、わたしのお兄ちゃんも死に掛けていた。


「マジで死ぬかと思った、いやマジで、マジで。今までの腹痛の中で最強の痛みだった」
「もうそれ言うの五回目だよ」

 お兄ちゃんはベッドに寝転んだ状態で天井を仰ぎながら、盲腸との戦いを切実な口振りで語りかけてきた。初めは同情して真面目に聞いていたが三回目から飽きたので最近は適当に聞き流すようになった。

「んだよー。病人には優しくしろー」
「わたしジュース買ってくるー」
「おいコラ! 菜摘!」

 お兄ちゃんの罵声を無視し病室から廊下に出ると、病院独特の消毒液の匂いが鼻に少しつんと来た。病院にこんなに頻繁に来るのは初めてだ。お兄ちゃんももう少しで退院みたいだし、ちょっと探検でもしようかな。行く当ても決めずに普段立ち寄らない階でふらふらと歩き曲がり角に差し掛かった時だった。

「あ、」

 佐野君の友達に出くわした。

 …………Why?

 硬直しているわたしに佐野君の友達は平然と「えーと、川原サンじゃん」と言いながら掌を挙げた。な、なんで、ここに…と疑問が恐怖と共に駆け上がるが彼の装いを見て納得した。高身長にふさわしい大きな入院着を纏っている。この人もここに入院してるんだ。

「あー、オレな。この前の祭りで腹刺されたから入院してんの」
「へ…へえ…………大丈夫ですか………」
「おう、もうピンピンよ」

 わたしの表情から疑問を察した佐野君の友達が入院する経緯をを軽く教えてくれた。典型的な不良の入院理由で口の端が引きつっていくのを感じる。やっぱりやばい。

「ドラケン君、その人は…」

 少年らしい高い声が聞こえて顔を向けると、金髪のリーゼントの男子が佐野君の友達の隣に立っていた。不思議そうに目を丸くして、わたしを見ている。不良の出で立ちだが人が好さそうな顔立ちとオーラの為、あまり怖くない。この人ならわたしも普通に話せそうだなぁ、と親近感を覚えた。

「川原サン。マイキーと同中のダチ」

 ダチ。

 佐野君の友達がわたしをダチ≠ニ形容した時、少し前の佐野君がフラッシュバックした。夜を閉じ込めたような暗い瞳を思い出すと胸が詰まり、息苦しくなった。圧倒的な恐怖を前に立ちすくんだ夜の事を思い出すと。

 ぶるり、と寒気が背筋を走る。

 体ごと氷付けられたように、芯から冷えきっていった。

「…………どこかで見たような、見てないような………」
「何ブツブツ言ってんだ。つかタケミっち、ヒナちゃんと約束あんじゃねーの」
「あ! んじゃ、ドラケンくん、えと、川原さん、オレはここで!」

 金髪リーゼントの男子は何か用事があったらしい。慌てて踵を返し、走り去ろうとした…ら、佐野君の友達に「病院で走んな!」と怒鳴られて速足で去っていった。佐野君の友達とつるんでいる割に、親しみやすそうな性格だ。

「変な奴だろ、タケミっち」
「………タケミっちって」

 聞き覚えのあるあだ名だと薄々感じていたけど、ようやく鮮明に思い起こす事ができた。青い空の下、金髪を輝かせながら佐野君が楽しそうに呼んでいた。

 あれからまだ一ヶ月も経っていないと言うのに、もう大分昔の事のように思える。わたしはもうあの頃のように佐野君と話せない。

 だってわたしはどこにでもいる中学生だ。

 東京なんたら会の総長と“普通に”なんて、話せるわけがないし、話さない方がいい。

「あーもうマイキーから聞いてるか」
「…弱いのに、自分より強い人に立ち向かっていくんですよね」

 佐野君の嬉しそうな笑い声、今でも思い出せる。
 あんな風に楽しそうにしている佐野君を見たのは初めてだったから。

「そ。変な奴だよな。でも、超ビッ≠ニ来る」

 佐野君の友達が誇らしげに唇を緩めると、心臓の辺りが靄のようなものに包まれて、気付いたら、声を張り上げていた。

「わたし、佐野君の友達じゃないです。普通の、つまんない人間だし」

 投げやり気味の、尖った、カンに障る嫌な声だった。胸の底をざらりとしたものがさする。今のわたしの言葉を聞いて、佐野君の友達は不快だと思っただろうか。思ってもいいや。佐野君の友達なら女子は殴らないだろう。

 佐野君の友達や、佐野君になんてどう思われてもいい。不良となんて仲良くならない方がいいんだから。

 心の中で何度も自分にそう言い聞かせながら、ぎゅっと下唇を浅く噛んで俯く。すると佐野君の友達は「あ、」と思い出したように呟いた。

「そういやアンタ、マイキーと喧嘩中だったな」

 わたしの気分にそぐわない、あっけらかんとした声だった。だけど内容が現実場馴れしていて、うまくわたしの脳に入ってこなかった。

 わたしが佐野君と喧嘩してる。一般人のわたしが東京なんたら会を束ねる佐野君と喧嘩してる。

 ………はい?

 顔をあげ目を白黒させながら佐野君の友達を見つめると彼は平然とした顔つきで「マイキーが言ってたぜ」とことの次第を話し始めた。

「オレと喧嘩中に川原サンに会って、全部バンバン当ててくるからなんかムカついて八つ当たりしちまった、悪いことしたーって。学校始まったら謝りに行くと思うわ」

 でも、と一区切りをつけてから佐野君の友達は続けた。

「アンタがもうマイキーと関わりたくねえのなら、オレからやめとけつっとくわ」

 淡々と伝えられた内容は何故かわたしの心に、虚無感をもたらした。不良となんて関わらない方がいいとあれほど思っていたのに。

「川原サンが怖がってるからやめとけつったら、マイキーも引くだろ」

 佐野君の友達は平坦な声色で続けてから、わたしに焦点を合わせる。切れ長の瞳はわたしを射抜くように見つめていた。鋭くはないけど厳しい眼差しに、思わず背筋が伸びる。

「だから、マイキーとダチになるかどうかは、アンタが決めろ」

 佐野君の友達になるかどうかの選択権はわたしの手の中にあると告げられて、驚きから心の中に一泊の空白が生まれ「………はえ?」おばあちゃんのような声が漏れる。 

「わ、わたしが決める事じゃないと、思います。だって佐野君は、」
「アンタはどうしてえんだよ」

 少し苛立ったような声に遮られビクッと肩が跳ねたわたしに気づくと「あ、わり」と佐野君の友達は謝ってから咳ばらいをひとつ零し、声を整えてからわたしに問いかけた。

「マイキーは意味わかんねーことばっかするし、すっげー我儘だ。それに、アンタはこの前の八つ当たりだってマジでビビっただろうしな。もうマイキーと関わりたくねえつってもマイキーはアンタを責めねえよ。もうちょっかいかけねえ」

 もうちょっかいかけねえ

 その言葉が重く圧し掛かり、ずうんと気分が沈む。佐野君はわたしが嫌がるのならわたしに関わるのをやめるのだろう。何故なら、佐野君はわたしにそこまで関心を持っていない。たまたまそこにいる、少し話すのに丁度いい存在。いてもいなくてもどちらでもいい。ずっと前からわかっていた事実をなぞると、何故かいつも胸が苦しくなる。

 どうして?

 ただのクラスメイトで友達でも何でもないのに。

 関わりたくなんてないのに。

 もう一度、心の中でずっと言い聞かせていた言葉を唱える。だけどいつもそう唱えると、何故か、佐野君の横顔を思い浮かべてしまう。

 寂しそうに遠くを見つめる眼差しが、ずっとずっと、頭から離れない。

「でもアンタはマイキーの事結構気に入ってそうなのに、いいのか? このままで」 

 佐野君の友達の言葉は、わたしがずっと奥底に隠していた気持ちを浮き上がらせた。

 関わらない方がいいと言い聞かせたのは、諦めた方が楽だったから。少しは佐野君の事を理解できたと思ったらわたしの全然知らない理解の及ばない面を知った時、怖くて、同時にショックだった。全然佐野君のことを理解できていないのだと思い知らされたから。

 わたしは佐野君のことを全然知らない。わからない。彼はわたしの理解が追いつけない、とても怖い面を持っている。

 だけどありがとうとごめんねを言える佐野君も佐野君で、時折、寂しそうに空を見つめる佐野君も、佐野君で。

 うるせぇと寝ぼけ眼でぼやいた佐野君。
 どら焼きに目を細めて喜ぶ佐野君。
 ごめんと申し訳なさそうに謝る佐野君。
 タケミっちくんの話を楽しげにする佐野君。
 オレの何を知ってるのかと冷たく凄んできた佐野君。
 佐野君のいろんな顔があぶくのように次々と浮かんでは消えていく。最後に会った時の佐野君が思い浮かんだ時怖くて背筋が凍り、同時に、気になった。


 佐野君、今、何してるんだろう。


「アンタ、ケータイ持ってる?」

 佐野君の友達に不意に問いかけられて我に返る。「も、もってます」と答えると佐野君の友達は「貸して」と手を差し出してきた。なにがなんだかわからないが強面男子に貸せと言われて断る度胸はない。おずおずと渡すと佐野君の友達は「サンキュ」とつぶやいてから、わたしのケータイになにかを打ち込んでから私に返した。

「オレのケー番。マイキーとマジで関わりたくなかったら連絡しな」

 んじゃーな。
 佐野君の友達はくるりと背を向けスタスタと去っていった。揺れる三つ編みをぼんやりと眺めながら、ケータイを握りしめる。

 佐野君と関わりたいのか関わっていきたいのか。どちらの気持ちもわたしの中に在った。あの日の佐野君は怖かった。普通≠ゥら逸脱した行為をできてしまう人間の目がどんな色をしているのかを、わたしはあの日初めて知った。関わらない方が後々のわたしの為になると理性が静かに諭しかけてくる。

 だけど、

 佐野君の事を考えて関わらないようにしようと思う度に『だけど』が必ず着いてくる。頭の中に浮かぶのは青い空の向こう側、遠く遠くを見つめる寂し気な眼差し。
 佐野君の事、本当は優しい人だと思わない。彼の恐ろしい面をわたしはもう知ってしまった。わたしの理解が到底及ばない人だろう。


 だけど、どうしても、気になった。彼の眼差しは、一体何を求めているのだろう。



 


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