「あちぃー」

 佐野君はアイスの棒をくわえながら怠そうに呟いてから、わたしに顔を向け「職員室だけクーラーあんの不公平だよなぁ」と同意を求めてきた。佐野君はこんな感じで、時々わたしに話しかけてくる。突拍子もない話題を出されて同意できずに曖昧な返事を返すことも多いけど、こればかりは共感しかないので力強く頷いた。大人は中学生ならクーラーなくたって大丈夫でしょと気休めを言ってくるが最近の暑さは若いから≠ナ乗り切れるようなものではない。現に今もただ座っているだけで汗が滲んできた。うちわの代用として下敷きで仰いでいると、佐野君から「俺にもー」と催促されたのでパタパタと仰いで風を送ってあげると、佐野君は気持ちよさそうに目を細めた。佐野君、猫に似てる。

「はやく夏休みなんねえかなー。川原どっか行くの?」
「えっとー、部活しに学校行くのと、塾と、あと海行く」
「へー。海行くんだ」

 海かぁ。佐野君の茫洋とした声は何故か少し空虚な響きが在り、いつまでも消えずに生温い空気の中をゆらゆらと漂っているように感じた。

 海になんか、思い出あるのかな。

 わたしは最近ふとした瞬間に佐野君に疑問を抱くようになった。好奇心と言うには貪欲さが足りず、知識欲と言うには軽薄な、その程度の疑問。

「てか基本今と変わんねーじゃん、それ」

 とは言っても話題が変わればその疑問は瞬く間に消えてなくなる。夢よりも淡く儚い疑問だ。佐野君の指摘を受け、今回も例に漏れず疑問はあっという間にわたしの脳から追いやられた。「あははぁ、まあ、そうだねぇ」と同調しながら、仰ぎ続ける。というかわたしはいつまで仰げばいいのだろう。腕が痺れてきた…。

 佐野君はわたしと話すのに飽きたようで返事をしないまま、窓の外の空を見上げた。もくもくと昇る入道雲の向こう側を覗くように、遠くに視線を投げかけている。ジュースを奢ってもらった時に見た眼差しと同じものだった。

 最近、佐野君の人となりは少しわかった。確かに佐野君は不良だ。ノーヘル無免許でバイクを走らせ、喧嘩をしまくる。だけど彼は無駄に暴力を振るわないし自分より圧倒的に力のないものには手を上げない。

 だから下敷きで仰ぐのをやめても佐野君はわたしに殴りかかることはないんだろう。だけど、なんとなく仰ぎ続けた。腕が地味にしんどかったけど、風を送り続けた。

 空を見つめている佐野君の横顔から、なぜか、目が離せなかった。









 一学期の終業式も終わり、わたしは中学最後の夏休みを迎えていた。夏休みの序盤はコンクールに向けての部活と塾の往復でしんどかったけど、コンクールは初戦敗退の銅賞で終わった為今は塾一本だ。往復は往復で辛かったけど、ひたすら勉強漬けもこたえる。だから気分転換も兼ねてクラリネットを家で吹いていたら、ママに『そんな暇があるなら勉強しなさい』と怒られた。

 と、いう訳で。塾が終わった今、公園でクラリネットを吹いている。

 ブランコに座ってクラリネットを組み立てながら、辺りを見渡す。月が雲にの後ろに隠れている為か、ぽつりと佇んでいる街灯と家から漏れる微かな光だけが光源だった。風が木々を揺らす音が波紋のように静かに響き渡る。誰もいない公園は静寂という帳に包み込まれたようで、正直かなり怖い。夜の九時頃でも人の行き来がちらほらある河原で吹こうかとも思ったけど、塾から家までの帰り道に河原は通らない。面倒くささを取るか怖さを取るか。天秤に掛けて秤が傾いたのは怖さ≠セった。怖いと言っても住宅街の中の公園だし痴漢が出ても叫べば何とかなるだろう。

 組み立て終わりマウスピースをくわえた。腹式呼吸で息を吐きだすと、聞き馴染んだ音が流れた。おお、これこれ、これだよ。久々のクラリネットに気分が昂揚し、胸が弾む。夢中になって思いついた曲を吹いていると、砂を踏む音が聞こえた。誰か入ってきたのかな、と入口に視線を滑らせた時だった。

 五人の男子たちが下卑た笑みを貼り付けながら、わたしを観察していた。腰でズボンを履き、靴を踏んでいる。髪の毛はワックスでオールバックに固めたり、つんつんに逆立てていたり。

 どこからどう見ても、彼らは、不良。

「高そうなもの吹いてんじゃん」

 足首を掴まれて引きずり降ろされたように、テンションが急降下した。サァッと血の気が引いていく音が聞こえる。マウスピースから口を外すと、歯の奥がガチガチ鳴り始めた。不良達はにたにた笑いながらわたしに距離を詰めてくる。恐怖でカチコチに固まっているわたしを見下ろしながら、彼らは言った。

「そんなもん持ってるくらいだから、お嬢だよなァ」
「いいなー。貧乏人にも恵んでくださいよー」
「わ、わかり、わかりました」

 お嬢様ではない。恵むどころか恵まれたいくらいだ。しかしそんな反論を目の前の強面男子たちにできるほどわたしは勇敢ではない。怖すぎて震えて歯が合わず、しどろもどろでしか喋れないごく普通の中学生だ。人生初めて遭ったカツアゲに対しわたしは迷うことなくお金を払う事に決め、鞄から財布を取り出しお札を全部差し出すと引っ手繰るように奪われた。けど、満足気に笑っていた不良はお札の種類とその枚数を見てから「あ゛?」と顔を顰めた。

「千円ってさぁ、舐めてんの?」
「え」

 わたしからしたらそこそこ大金なので、言われている意味がわからず思わず首を傾げる。それが癪に障ったのか、なんなのか。彼は一層眉を吊り上げて。

「舐めてんじゃねーぞこのクソアマ!」

 わたしの胸倉をつかんで無理矢理立たせた。生まれて初めて人から胸倉を掴まれて、わたしは目を白黒させる。

「何が『え』だ! 五人で千円で何ができんだよ! もういい! それ寄越せ!」

 クラリネットを無理矢理奪われ、息を呑む。ショックで一瞬頭が真っ白に染まった。

 クラリネットはわたしが二年生の時に両親に頼み込んで誕生日とクリスマス両方を合わせてのプレゼントとわたしのお年玉を足して買ってくれたものだ。わたしのすべての持ち物の中でいちばん高く、いちばん大切なもの。

「返して!」

 恐怖心が吹き飛び反射的に手を伸ばすと、クラリネットはわたしの手が届かないところまで高々と持ち上げられた。

「へー、やっぱこれ高いんだ」
「いいだろ別に。また買ってもらえよ」
「ヤフオクとかに売り飛ばす?」

 どこに売れば一番高く売れるかと男子たちの盛り上がりに比例するようにわたしは焦燥感を募らせていく。どうしよう、ほんとに売られてしまう。塾の帰り道に公園に寄り道してカツアゲに遭った結果盗られたのだから、両親も自業自得と言って絶対二度と買ってくれないだろう。高校生になったらバイトできるけどそれまでの半年間吹かずに生活するなんて絶対に嫌だ。だけど、どうやって取り返せばいいかわからない。話が通じるような相手じゃない。どうしよう、どうすれば、

「オレの視界ン中で糞ダセェ真似してんじゃねーよ」

 ひやりと冷たい声が暗闇の中浮き彫りになった。

 男子たちが振り向いた瞬間、ひとりの男子が文字通りぶっ飛びわたしの隣のブランコを越えて、茂みに突っ込む。

「マ……マイ、キー……!」

 男子たちの向こう側に、黒いスエット姿の佐野君が立っていた。教室で見せるにこやかな笑顔はなく、ただ、生気を感じさせないほど静かに佇んでいる。だけど強烈な存在感を放っていた。

 男子たちは酸素を求める魚のようにパクパクと口を開閉させながら目配せをし、うん、と示しあわせたように頷き合う。

「ご、ごめんな、マイキー君。ここ東卍の縄張りってことオレら一瞬忘れててさー。マジでごめんなー。じゃ、帰るわ」

 男子はわたしにクラリネットを押し付けるように返し、そそくさと早足で佐野君の横を通りすぎていく。だけどそれを、彼は許さなかった。

「ひとりの女相手に、複数の男がカツアゲ」

 報告書を読み上げるようなのっぺらぼうな声だった。先程までわたしと佐野君の間に五人の不良がいたがひとりは伸びており残り四人は出口に向かっているため、わたしと佐野君の間には何も隔たりはなかった。佐野君の顔がよく見える。感情の抜け落ちた表情を浮かべていた。人形のように綺麗で、底の見えない“無”が広がっている。

「んな奴等、オレがただで帰すとでも思ってんの?」

 状況的に見ればわたしは今佐野君に、助けてもらっている。だけど、どうしてだろう。目の前の佐野君は確かにわたしの隣の席の佐野君なのに、得体の知れないものを前にしたような恐ろしさが在る。

「気楽すぎじゃね?」

 佐野君が振り仰いだ為、顔が見えなくなる。だけどきっと笑っているのだろう。愉悦を含んだ声だったから。
 だけど、楽しそうじゃなかった。

「……っ、いくぞお前ら!!!」
「ま、まじで!? マイキーだよ!?」
「仕方ねーだろこうなったら!」
「あ、あっちは一人だ!!!」

 不良たちは逃げられないと悟ったようで覚悟を決めたように叫びながら佐野君に向かっていく。佐野君はひとりひとりを軽やかに避けながら、脚を高く振り上げて蹴り倒したり、拳で殴ったりしていた。決着が着くまでに三分もかからなかっただろう。あっという間に、四人とも倒れた。

 佐野君はぼんやりと気絶した不良たちを見下ろしてから、わたしに一瞥もくれず踵を返した。一言くらい何か言われるだろうと構えていたので拍子抜けする。と、というか。助けてくれたんだからお礼言わないと。

 去り行く背中に向かって、声を張り上げる。

「さ、佐野君! ありがとう!」

 佐野君は足を止め、振り仰いだ。真っ黒な瞳がわたしに向けられる。佐野君は確かめるように瞬きを繰り返してから「ああ」と無感情に呟いた。今初めて、わたしの存在に気づいたような口振りだった。どうやら、同じクラスの人間がカツアゲに遭っていたから助けたという訳ではないらしい。そう悟った時、わたしという存在がいかに佐野君の中で小さいかを思い知り、心の中をひゅるるると虚しい風が吹き抜けた。

 ―――バチィン!

「わっ!?」
「チッ」

 強烈な破裂音が響き渡り、仰け反りながらわたしが上げた悲鳴と佐野君の舌打ちが同時に発生した。佐野君が自身の腕を叩いたのだった。え、な、な、なに………。佐野君の奇行に引いていると、佐野君は「かっゆ」と苛立たしそうに腕を掻き始めた。あ、なるほどと納得する。よくよく観察すると佐野君の体は至るところに虫に刺されていて腫れていた。わたしは公園に入る前に虫除けスプレーをかけたから無傷だが、佐野君は素肌の為集中攻撃を受けたのだろう。

「ムヒ、いる?」

 カバンからムヒを取り出して佐野君に差し出すと、佐野君は無表情でわたしをちらりと見やり「ありがと」と小さく呟いてから、ムヒを受け取った。

 それきり、わたし達の間で会話が終わる。佐野君がムヒを塗ってる間、沈黙がひたすら横たわっていた。

 な、なんか、気まずい。というか今日の佐野君は、なんか、変。全身から虚無感と苛立ちが綯交ぜになった空気が発されている。

 わたしをカツアゲしてきた不良達は佐野君が現れるとクラリネットを返し、公園を出ていこうとしていた。それなのに、佐野君は暴力を振るった。佐野君から喧嘩を売っているように見えた。というか………。

 視線を左右に滑らせても、背の高い彼はどこにも見えない。派手な髪型に龍の入れ墨を施した奇抜ないでたちで、だけど言動は結構常識人な、佐野君の友達。

「佐野君、今日、友達と一緒じゃないんだね」

 他に適切な話題が見つからなかったわたしは佐野君の友達の不在についてなにげなく問いかけた。すると、頭を垂れながらふくらはぎにムヒを塗っている姿のまま、佐野君は止まった。

「だから、なに」

 聞いた事もない剣呑な声に圧されて、一瞬、息が詰まる。頭を垂れているから顔は見えない。だけど、苛立ちが加速した事だけは声色でわかる。え。わたし、なにか、地雷踏んだっけ。頭皮から冷や汗が滲み、首筋を伝っていく。動揺で二の句を告げないでいるわたしに、佐野君は顔を上げた。

 冷たく鋭い眼差しに一直線に貫かれ、心臓が縮み上がる。佐野君は墨のようにドス黒いオーラを背後に湛えながら、わたしに対峙した。

「なに、って聞いてんだけど」

 喉が急速にからからに渇いていき、恐怖で思考回路がこんがらがっていく。目を泳がせながら愛想笑いを貼り付けて「あ、えと、あ」と意味のない声を漏らしてから、重たい空気を払拭できることを願って、軽い調子で言った。

「あ、あまり良い気分じゃない、みたいだから、その、友達と喧嘩でもしちゃったのかなーって思って。いつもの佐野君と、なんか、違うし」

 あははと最後に笑ってみせると、佐野君の表情から、更に温度が下がった。真夏なのに、氷点下まで下がったように、寒気が全身を覆う。

「オマエさ」

 佐野君が一歩踏み出しわたしに距離を詰めると、心臓が悲鳴を上げた。体の細胞一つ一つが逃げろと叫んでいる。

 逃げないと、殺される。

「オレの何知ってんの?」

 さほど身長差がない為、近づかれるとほぼ目の前に佐野君の顔があった。海の奥底のように暗い瞳の中、恐怖で引き攣ったわたしが揺らいでいる。殺される、死ぬ、殺される、死ぬ、殺される、なんとか、なんとかしない、と

「す、すみ、すみま、せん」

 謝らないと。

 悪いと思ってでの謝罪ではない。佐野君の機嫌を少しでも良くしたくて、この場から逃れたくて、わたしは謝罪を口にした。土下座もすべきなんだろうけど、足が、動かない。

 佐野君は目を細めてわたしを睨むように眺めた後、ムヒを無理矢理わたしの手に握らせた。小柄だけど手は大きい。わたしを殺そうと思ったのなら、きっと、簡単に殺せてしまえるのだろう。

 佐野君は無言で公園を去っていく。街頭が、彼の金髪を照らした。教室で見る時の太陽のような輝きは放っておらず、月のように白く光っていた。
 佐野君の姿が完全に消えると、足から力が抜けた。全力疾走したように荒い呼吸を繰り返しながら、クラリネットを抱え込んでぎゅっと体を縮める。心臓がバクバクと鳴っていた。

 今まで、何回も死ぬと言った。嬉しすぎて死ぬと言った。お腹が減って死にそうと言った。河原で佐野君の安眠を妨げた時は、死を覚悟した。

 だけど今回は今までで一番、本当に、死ぬかと思った。

 殺されると思った。

 渡り廊下で佐野君と話した時、何が普通で何が普通じゃないのか安易にカテゴライズすることに不快感を覚えた。わたしの知っている佐野君は不良だけど普通の男子中学生なところもある、と思っていた。

 なんて馬鹿なのだろう。それは死を前にしたことがない平和ボケした楽観主義者の綺麗事だ。何が普通で、何が普通じゃないのかなんてそんなの、目を見ればわかる。

 一筋の光も差さない海の底のような、暗く黒い瞳。
 どこまでも続く闇が広がっていた。


 

 

I don’t want to be alone, I want to be left alone.



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