佐野君にお詫びとしてどら焼きをあげた日から、わたしは佐野君と時おり話すようになった。佐野君にとってわたしは何もない日にどら焼きをくれた“いい人”らしい。わたしとしては佐野君に許しを乞うために渡したものだったので誤解を与えてしまっているのだが訂正するとなるとわたしが勘違いを起こしたことから説明しなければならないのでものすごい手間を要する。それにわざわざ“いい人”の称号を失うことも勿体なく感じた。ので、敢えて誤解を解かずにそのまま放置している。

「川原〜」

 リカちゃん含むいつものメンバー略していつメンで給食を食べていると、緩めのテンションの佐野君が声をかけてきた。対照的にわたし達のテンションはカッチカチに強ばった。さっきまで和やかに談笑していたというのに今はお通夜のように静まり返っている。

 ま、また来た……。緊張で胃がしくしくと鳴いている。ごめんよ、わたしの胃……。カレーのじゃがいもを恐怖で細くなった喉に無理矢理押し込みながら、恐る恐る佐野君に向き合った。

「な、なんでしょうか」

 時折話すようになったとは言え、わたしにとって佐野君はマジモンのヤンキー。マジで怖い。同い年だというのに敬語で話してしまう。

「櫛、持ってない?」
「も、持ってます」
「やったー! 貸して!」
「ど、どうぞ」

 わたしは瞬時にポーチの中から櫛を取り出し、恭しく佐野君に渡す。佐野君は「ありがと」とニコニコ笑いながら受け取りハーフアップに纏めていたシュシュを取る。すると、ぼわんと金色の髪の毛が広がった。

「今日イマイチなんだよなー。エマの奴下手こきやがって」

 唇を尖らせながら独り言なのかわたしに話しかけているのかよくわからない口調で文句をつぶやく佐野君にわたしは「はあ」と相槌のようなものを返す。わたしの櫛を使って髪の毛を梳かす佐野君をなんとなしに眺める。佐野君の髪の毛はブリーチを繰り返しているからか痛んでいた。もともと柔らかそうな髪質だから痛みも激しそう。将来禿げるんじゃ…と余計な心配を巡らせている時だった。

 ボキッと、不穏な音が鳴り響いた。

「あ」

 佐野君は櫛を自身の目の前に翳すと、間の抜けた声を漏らした。

 歯が、ポキリと、折れていた。

「うわーマジかー。ごめんね?」
「あ、はあ、いえ、別に…。適当に買った奴ですし、別に大丈夫なんで…えへへぇ」

 眉を寄せた佐野君に申し訳なさそうに謝られるが、東京なんたら会の総長に謝られても恐怖しか沸かない。実際、小学生の時に適当なお店で購入したものなので全く思いれがないので気にしていなかった。愛想笑いを貼り付けながら「気にしないでください」と言うと、

「マイキー!」

 教室の出入り口でぷりぷりと怒っている女の子が腰に手を当てながら、佐野君を呼んだ。

「お〜エマ、どした」
「どしたじゃないの! ウチのシュシュ返してよ! 体育終わった後返すって言ってたじゃん!」
「そんなことよりさぁ、オレの髪爆発してんのなんとかしてよ」
「そんなことじゃないのー!」

 佐野君の妹だ。佐野君の妹兼芸能人のような可愛い容姿を誇る彼女は学校の有名人だ。佐野君も可愛がっているようで、二人で仲睦まじく歩いている姿をよく見かける。現に今もわたしとの会話を早々に打ち切り、楽しそうに話している。彼の脳みそからわたしの櫛を破壊したことはとうに抜けているだろう。

 小さくため息を吐いてから再び給食に向き合う。リカちゃんが「お疲れ……」と痛ましげにわたしを見つめながら言った。







 受験生のわたしは週に三回塾に通っている。部活の後塾に通うのはしんどいが、これも華の高校生活を送るためだ。今頑張っておけば来年の今頃は女子高生。今は下の位置で髪の毛を二つに結んでいるが高校生になったら髪の毛を下ろして時々巻いたり軽く化粧もしてみたい。だから、一時間半の講習などへでもないのだ。嘘です。ものすごく疲れた。

 すいへいりーべーぼくのふねー。すいへいりーべーぼくのふねー。心あらずの状態で口の中で念仏のように唱えながら自転車を漕ぐ。六時間授業を受けた後部活をこなし更に塾の講習を受けた脳みそは疲弊しきっていた。

「あ、川原じゃん」
「川原って誰」

 すいへいりーべーぼくのふねー。

「同じクラスの奴。丁度いいや」

 すいへいりーべーぼくのふねー。

「川原〜」

 すいへいりーべーぼくのふねー。

「おーい、川原〜〜」

 すいへいりーべーぼくのふねー。

「川原ーーー!」
「うひょおっ!?」

 突然、佐野君が横から現れた。バイクで緩く走りながら、わたしの自転車と並走している。佐野君は「シカトすんなよー」と唇を尖らせた。どうやらわたしはぼうっとするあまり、佐野君からの呼びかけを無視していたようだ。サァッと血の気が引いて「すすすすすみません」と舌をもつれさせながら謝る。

「川原もひとっ走りしてんの?」
「ちげーだろ。塾の帰りとかじゃね?」

 低い声が背後から聞こえ視線を走らせると、顔の筋肉が強張っていくのを感じだ。ドラゴンボールや北斗の拳でしか見なかった髪型の男子が佐野君の後ろについていた。目つきは鋭く、中学生男子の平均をはるかに超えるガタイの良さ。どこからどう見ても、マジモンの不良。

「えーマジ。すげーじゃん。つーか学校の後勉強ってやべえ。川原ってM?」

 恐怖に引き攣っているわたしに佐野君は尚話しかけ続ける。舌をもつれさせながらも「え、Мではないです」とかろうじて返答した時には佐野君はもう自分の投げかけた質問に興味を持っていないようだった。「てかさ、」と話を切り替えてにこっと笑う。

「ちょっとついてきて」

 


 佐野君に連れられてわたしは百均にやってきた。何故だろう。ここで何か驕れという事だろうか。佐野君と佐野君の友達がわたしの前で楽し気に話しているのをわたしは後ろから着いて行ってる。刑務所に連行されている時ってきっと今のわたしのようにどん底の気分なのだろう。誰か助けてください、超絶逃げたい。

「なんで百均」

 辺りをきょろきょろ見渡しながら物色してている佐野君に、佐野君の友達がわたしの代わりに疑問を投げてくれた。いや本当にそれだよと後ろで静かに頷く。

「壊しちゃったから。川原の櫛」

 え。

「マジか。最低じゃねえか」
「だから弁償しようとしてんだろー。あ、あった」

 佐野君は「川原〜」とわたしを呼びながら振り仰いできた。ばちり、と目が合ってわたしは肩を跳ねさせる。挙動不審なわたしとは対照的に佐野君はいつも通り飄々とした調子で美容コーナーの前に立ち、櫛を手に取って、

「どれがいい?」

 首を傾げながら、訊いてきた。

「…………お、覚えてたんだ…」

 ぽつりと本音が零れ落ち慌てて口を抑える。しまった……! しかもため口で話してしまった…! 

 ムンクの叫びのごとく顔を引き攣らせていると佐野君は「いや、忘れてた」とあっけらかんと答え、ずっこけかけた。佐野君の友達も「忘れたのかよ」と呆れている。

「さっき川原見つけて思い出した。まあいいじゃん、思い出したんだから」
「それ川原サンが言う事でオマエのセリフじゃねーだろ」
「ケンチンはうっせーなー。なー、川原」
「え、えーっと、いや、まぁ、思い出して下さっただけでも光栄であるといいますか…」
「つかなんで川原敬語?」

 佐野君は心底不思議そうに訊いてきた。それは君が怖いからと答えられず、言葉に詰まる。「そ、それは…」と言いよどむわたしに佐野君は腕を組んで小さな子に諭しかけるような口振りで続けた。

「さっきみたいにタメ語でいこーよ。確かにオレはすげー奴だからビビんのわかるけど、川原はどら焼きの神なんだからさ」
「は? どら焼きの神?」
「川原、この前いっぱいどら焼きくれたんだ。超いい奴。あ、てか櫛選んだ?」

 佐野君に話しかけられ、何か答えざるを得ない状況に追い込まれる。どうしよう。ここで敬語を貫いたら『だからタメでいいって言ってんだろうが』とイラつかれるかもしれない。いやでも敬語を崩すのは、いやでも、いやでも、いや、ああ、なんかもう、めんどくさい。

「これに、する」

 本人がいいっていってんだから、いいでしょ。
 半ばヤケクソになったわたしは佐野君のお達しの通りタメ語で話しながら、赤色の櫛を取った。佐野君はわたしの手の中の櫛を見て「お、いいね」と嬉しそうに笑う。

「オレ、赤好きなんだ。気合うじゃん」

 佐野君はわたしの手から櫛を取り、鼻歌を歌いながらレジに向かった。

 い、いいんだよね? 佐野君がタメ語でいいって言ったんだからいいんだよね? 無敵のマイキー≠ノ恐れ多くもタメ語で話してしまった事実はわたしの手に余る恐ろしさで自問自答を繰り返す。すると、上から「川原サン」と低い声が降ってきた。見上げると、佐野君の友達がわたしを見下ろしていた。強大な威圧感に思わず後ずさりしてしまう。

「家、どこらへん。送ってくわ」

 つっけんどんな声から紡ぎ出された言葉がわたしを気遣うものだということに、一泊経ってから気づいた。

「い、いやぁ、そこまでしなくても」
「気にすんな。マイキー、アンタにすげぇ迷惑かけてるっぽいから、そのお礼。アイツ、悪気だけはねえから、許してやって」

 佐野君の友達は仕方なさそうにため息を吐いた後、歯を見せて笑った。笑うと同年代の男子のような幼さが見えて、おお…と感動めいた感情が胸の中に込み上げる。

「川原〜。はい、どーぞ」

 レジから戻ってきた佐野君がわたしにビニール袋を渡す。「あ、ありがとうござ、」と言いかけて、敬語はダメだったと思い出す。んんっと咳払いしてから、言い直した。

「ありが、とう」

 つっかえつっかえになりながらお礼を告げると佐野君はいつかのように緩く笑った。

「どいたま〜」
「ぶっ壊した張本人の台詞じゃねえだろ」





 

Every day is a new day.



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