川原菜摘ってどんな子だった?

 菜摘ちゃんが失踪したあと、色んな人に聞かれた。
 東卍の無敵のマイキーの彼女なんでしょ。相当ヤバイ子だったんでしょ?
 疑問の体で投げながらも皆「ヤバかった」を欲していた。だけどわたしは皆の希望には応えられない。ううんと首を振って、わたしの知っている彼女の姿を述べる。

 普通の子。
 普通の女子な、わたしの友達。
 







 ヤバイ。

「うっ、あ゛……っ」

 ヤバイ。とにかくヤバイ。

 門限に間に合わないと思い人気の少ない路地裏を通って帰宅しようとしたら、リンチの場面に遭遇してしまった。壁を曲がったところでは複数の不良がこれまた不良を囲いリンチしていた。ドゴッとかバキッとか切れ切れの呻き声が臨場感を伴ってわたしの耳に飛び込んでくる。初めて間近で暴力を見たわたしの体は恐怖で凍り付いた。複数で取り囲み一方的にひとりの人間の尊厳や生気を奪っていく様はひどく生々しく、胃の底から酸っぱいものが込み上がらせた。

 けい、けいさ、つ……!

 ぶるぶると震える手でスクバからケータイを取り出したところで、ここで電話したら不良達に気付かれると思い直したわたしは抜き足差し足で静かに後ずさっていく。
 
 ――カラン

 踵に何かが当たった時、血の気が引いた。視線を下に向けるとひとつの空き缶が転がっていた。まだコロコロと転がっているのを見て肌が粟立つ。誰が転がしたのかなんて、そんなの明白だ。

「――誰だ?」

 ここにはわたししかいない。

 訝しがるような低い声が明らかにわたしの方向に向かって投げ掛けられていた。一瞬にして喉が干上がり、心臓がミシミシと軋んでいく。足音がどんどん近づいてくるのを察したわたしは、地を強く蹴り、一目散に駆け出した。

「てめぇ! 逃げんじゃねーぞクソアマ!!!」

 し、し、し、死ぬ………!
 
 逃げんなと言うが逃げなかったらどうもしないと言うのだろうか。いや、絶対なんかする。なんかしてくる……!
 全速力で駆け出すわたしの背中に、柄の悪い罵声が次から次へと飛び付いてくる。足を止めたら言葉の暴力だけでは済まない、間違いなく、あの人の二の舞を食らう。嫌だ嫌だ嫌だ! わたしまだ嵐のライブに行けてない! 松潤のCメロを生で聴けてない!! ここで死ぬ訳にはいかない、という思いが火のようにわたしの体の中を駆け巡り、すうっと息を吸い込んだ。

「だ、誰かぁーーー!」

 息を切らせながらも全力で叫ぶと路地裏めいっぱいに広がった。お願いお願いお願い! 誰か助けて……! 切々と祈りながら足を前へ前へと進めていく。走りすぎて目眩を覚え、視界が点滅を始めた時だった。
 チカ、と金色の何かが瞬いた。

「オレの視界の中でクソダセェ真似してんじゃねーよ」

 ひんやりとした声が鼓膜にするりと入り込む。そして、鞭のように鋭い熱風が頬を打った。

「マイキー……!?」

 その呼び名にわたしが目を見張らせると同時に、頭の中で声が甦った。
 マイキー君とくすぐったそうにその呼び名を紡ぐ、わたしの友達の声が。

 背後の声に怯えが混じった後、呻き声と殴打音が続いた。ドサドサと何かが倒れていく音が重なったかと思うとテレビの電源が切れるように不条理に途切れる。
 背後が真空のような静けさに包み込まているのを感じながらも、怖いもの見たさで恐る恐る振り向く。
 やっぱりその人が立っていた。

 鮮やかな月光を受けた金髪が、白く光っている。

 シンプルな真っ黒なスエットを着こなしたわたしの中学の同級生――佐野万次郎君が倒れ込んだ不良達を無感動に見下ろしながら、悠然と立っていた。

 つまらなさそうな眼差しが、不良からわたしに移る。ビクッと体を強ばらせるわたしに、佐野君は飄々と手を挙げた。

「リサちゃんおひさ」

 リカです。




 リンチを食らっていた不良君はマイキー君に助けられたと知ると感動で目を輝かせていた。ひたすらお礼を述べる不良君に「リナちゃんにも礼を言えよ」とすげなく言う。リカです。「リナさんあざっす!」リカです。けど無敵のマイキー≠ニ不良君に『リカです』と反論する勇気を当然持ち合わせていないわたしは「い、いえいえ……」と曖昧に笑ってやり過ごした。

 不良君が何故リンチに遭っていたのかと言うと、族抜けしたいと訴えたからだそうだ。「覚悟はしてたんスけどね。想像以上にきつかったっす」と腫れあがった顔で苦笑しながらもスッキリとした表情の不良君を、佐野君はじいっと見つめていた。何か考えているようでもあるし、何も考えてないようにも見える。真っ黒な瞳にはどういった感情が浮かんでいるのか、相変わらずさっぱりだ。

 さて。そんな人に送ってもらっているわたしの心境はどんなものでしょう。

 気・ま・ず・い。

 夜も遅いという事で佐野君が「送ってやる」と送ってくれることになったんだけど、歩き始めてからかれこれ五分経ったであろう今も、わたしと佐野君の間に会話はひとつもなかった。わたしは気まずさで窒息死しそうだけど、佐野君は特に気にしていない模様。それは多分、佐野君にとってわたしがどうでもいい存在だからだろう。気に掛ける必要のない存在だから、横たわる沈黙に対して何か思うこともなく平然とやり過ごせるのだ。リナちゃんとかリサちゃんとかコロコロ呼び名変わるし。下の名前呼びなのも菜摘ちゃんがわたしをリカちゃんと呼んでいたから、つられて呼んでいるだけだろう。

 菜摘ちゃん。

 久しぶりに心に浮かんだ名前が、水面に雫が落ちるようにして波紋を広げていく。菜摘ちゃん。中学の時の、わたしの一番の友達。一年生の時と三年生の時同じクラスだった。

 菜摘ちゃんが失踪してから、一年ちょっと経った。

『心配してくれてると思うけど、心配しないでね』

 手紙に綴られていた菜摘ちゃんの言葉を思い出すと、胸の奥がキュッとつままれたように痛み、寂しい風が吹き抜ける。漠然とした切なさがわたしを包み込んだ。

「……菜摘ちゃん、元気?」

 菜摘ちゃんの名前を出しても佐野君は動揺せず、中学の時と変わらない、感情の読み取りづらいポーカーフェイスで「んー、そこそこ」とのんべんだらりと返した。


 わたしの友達、菜摘ちゃんは退院してすぐ姿を消してしまった。佐野君も一緒に消えたので、それはそれは大騒ぎになった。血相を変えた菜摘ちゃんのママがわたしの家に怒鳴り込むようにやってきて「お願い! 何でもいいからあの子の行きそうなところを教えて!」と玄関で出迎えるや否や肩を強く掴み揺さぶってきた。
 わたしは菜摘ちゃんのママの血走った目を見つめるだけで精一杯だった。力なく首を振ることしかできなかった。何も答えられなかった。本当に何も知らなかった。知らされなかった。
 
 菜摘ちゃんのパパが菜摘ちゃんのママを宥めながら帰って行く。大人の女の人の狼狽しきった姿を見るのは初めてのわたしは呆然としながら去って行く背中を見つめていると「リカちゃん」と呼ばれた。
 菜摘ちゃんのお兄ちゃんは菜摘ちゃんのパパとママと一緒に帰る前に、わたしに訊きたいことがあるようだった。

「本当に、何も知らない?」

 じいっと探るような眼差しには縋るような色があり、心が痛んだ。答えたかった。わたしだって菜摘ちゃんの行方を知りたかった。だけど本当に何も知らされていいない。ふるふると首を振ると、菜摘ちゃんのお兄ちゃんは「そっか」と寂しそうに笑った。

「やっぱあの時、出てかなきゃよかったかな」
「……あの時?」

 首を傾げて問いかけると、菜摘ちゃんのお兄ちゃんは眉を下げながら笑うという器用な表情を浮かべて、おどけながら言った。

「佐野万次郎がやってきた時。……いやービビったなー。マジでチビりそうだった。けど、菜摘の事守んなきゃって思って必死に立ち向かったのにさ、菜摘ひどいんだよ。出てけってさ。佐野万次郎と関わったからあんな目に遭ったってのに、全然凝りてねえの。は!? って思ったんだけど、あの時のアイツ、見た事のない目をしてて、なんていうか、大人の女の人みたいな目をしてて……、」

 茶目っ気混じりの声色は次第に勢いが落ちていき、いつの間にかぽつぽつと小雨が降るような口振りになっていた。不自然に声が途切れ、菜摘ちゃんのお兄ちゃんは黙り込む。「そっか」と寂しそうに笑いながら呟いた声は、言い聞かせるようなものだった。

「リカちゃん、これ」
「……え?」

 菜摘ちゃんのお兄ちゃんに淡いクリーム色の封筒を向けられた。便せんに綴られた『リカちゃんへ』の文字は何度も見た事があるものだった。

 お腹空いた〜!
 わかる、そろそろお腹と背中がくっつきそう
 てかドラゴン桜の山Pヤバくない!?
 わたし阿部寛のが好き

 そんな風に明日になったら忘れるような些細なやり取りをわたし達は何度も交わした。菜摘ちゃんは小学生の時書道教室に通っていただけあって、トメとハネの効いた大人っぽい綺麗な字だった。
 メモ帳よりも便せんに綴られている方が、しっくりした。

「菜摘からリカちゃんへの手紙。読んでやってあげて」
 



「リエちゃんってS女なんだな」
「え! あ、うん、まあ、そんな感じです……!」

 突然佐野君に学校名を当てられ、わたしは狼狽えた。佐野君高校の名前とか知ってたんだ。……って、ああ、そっか。菜摘ちゃんもS女受けてたもんなぁ。わたしは普通科コースで菜摘ちゃんは特進コースだったけど、春からも一緒に同じ学校に通えるねと手を取り合って喜んだあの日がもう大分前の事のように思える。いや、まあ、結構本当に大分前だけど。

 季節はあっという間に巡る。菜摘ちゃんが不在の春は今年で二回目だ。

「さ、佐野君は最近どのようにお過ごされていらっしゃるのでしょうか……?」
「中坊の時と変わんねぇよ。ケンカばっか」
「な、なるほど〜! そうなんですね〜!」

 それにしても怖すぎて脚が震える………!
 佐野君はわたしを威圧することも脅すことも凄むこともなく、穏やかに接してくれているんだけど、それでも怖かった。

 わたしは彼の牙の鋭さを知っている。

 なんせわたしは佐野君に一度、マジモンの殺意を向けられた事があるのだから。

 中学の時菜摘ちゃんをハブッた事は苦い記憶としてわたしの中に残り続けている。
 菜摘ちゃん何でわたしに何も言ってくれないんだろう。菜摘ちゃんなんで佐野君なんかと楽しそうにしているんだろう。菜摘ちゃんがわたしから離れていってしまうように感じたわたしは寂しさと苛立ちに心を巣食われ、気付いたら菜摘ちゃんをハブッていた。ひとりで給食を食べている菜摘ちゃんに『いい気味だ』と溜飲を下げた。わたしに構わないから。佐野君ばっかだから。何にも話してくれないから。
 ハブる側に立った事で強者の気分を味わい妙な自信を着けたわたしは天狗となり、絶対的な権力を得たのだと浅ましい甘美な喜びに酔いしれていた。

 けどわたしはすぐに思い知る。

『オマエ、川原のダチじゃねえの』

 わたしの権力など、張りぼてように薄っぺらくて。

『オマエ、川原のダチだろ。なんでこんなクソダセえことしてんの』

 獰猛な肉食獣が牙を立てたら、あっという間に崩れるということを。

 佐野君の瞳が、声が、彼を作り上げる細胞のひとつひとつが、わたし達とは違っていた。生まれながらにしての絶対的な支配者。圧倒的な強さで全てを支配下に置き、頂点に君臨する。
 そんな人が、怒っていた。
 食物連鎖の頂上に立つ生き物が、今にも八つ裂きにせんとばかりの鋭い眼差しで、わたしを見降ろしていた。

『なあ、聞いてんだけど』

 佐野君の脚がわたしの机に立てかけられた時、牙と爪が心臓に食い込んだように感じた。
 わたしは、あの時。本当に死を覚悟した。
 

 ………怖かったなぁ…。

 あの時の事を思い出すと、今でも凍りづけられたように体が強張る。菜摘ちゃんが止めに入ってくれなかったらわたしは今ここにいないんじゃないだろか。
 佐野君は菜摘ちゃんに止められた後、無言で菜摘ちゃんの手を掴むと、どこかに連れて行ってしまった。

 間抜け面で去り行く二人の背中を眺めている内に、二人は、もう二度と戻ってこないんじゃという予感が胸の中をぼんやりと漂った。突拍子もない予感のはずなのに何故か現実味があった。じわじわと恐怖に似た何かが体を蝕んでいく。

 菜摘ちゃんと会えなくなるのは嫌だ

 その思いは切々とわたしの心臓に食い込み、そして、自分がどれだけ愚かなことをしたのかようやく悟った。
 
 それから謝って許してもらえた。
 これからもずっと友達でいられるんだと思ったら、嬉しくて泣いてしまった。

 ……結局、連れていかれちゃったけど。

「リホちゃん」
「へ…、……!」

 佐野君に見せつけられたケータイには、菜摘ちゃんが映っていた。少し大人になった菜摘ちゃんが眉間にシワを寄せながら難しそうな顔をして書類とにらめっこしている。久しぶりに見た菜摘ちゃんにわたしのテンションは上がり、話相手が佐野君というのにも関わらずはしゃいでしまう。

「わぁー! 髪伸びてる! 二つ結びやめたんだ!」
「うん、やめちゃった。引っ張るの好きだったのに」
「佐野君やってたね……! 後ろから引っ張られた菜摘ちゃんが『ぐえっ』と呻いてたの覚えてるよ……! その後の菜摘ちゃんの白い目も……!」
「そーそー。別によくね? 減るモンじゃないし」

 唇を尖らせて拗ねている佐野君は、菜摘ちゃんの隣にいる時によく見せる表情を浮かべていた。わざと悪戯して構われたがる、小さな子そのものの振る舞い。佐野君は教室にいる時、そんな風に悪戯をしては菜摘ちゃんをわざと怒らせていた。菜摘ちゃんも鬱陶しそうに振る舞いつつも、嬉しそうだった。理想の旦那さんは相棒の右京さんのような落ち着いた人と言っていたくせに、佐野君だけは例外のようだった。

 佐野君と関わるまでの菜摘ちゃんは損得主義者だった。メリットがあるからやる。なかったらしない。将来の夢をなにげなく聞くと、S女合格した後は某難関大に入学しボランティアサークルに入って面接のネタを集めてからの公務員になると夢というか目標を滔々と語られた。

 そんな菜摘ちゃんが不良に恋をしている。口元を緩めながら、佐野君にさわられた髪の毛をくすぐったそうに撫でていた。わたしはそれを『なんかいいなぁ』と微笑ましく眺めていた。

 佐野君のケータイに映っている菜摘ちゃんを見つめている内に、わたしはあることに気付いた。写メの菜摘ちゃんが着ているスエットと今佐野君が着ているスエットが同じに見える。も、もしや。

「ペアルック……!」

 他人の色恋沙汰が大好きなわたしは、恋人らしい行動を間近で目撃したことによりテンションが上がって、興奮のあまり心の声をそのまま出してしまった。

「え?」
「あっ、え、えっと、おそろいの服持ってるんだなぁって思って! 写メの菜摘ちゃんと佐野君、同じ服着てるから」

 あたふたしながら答えると、佐野君はぱちくりと瞬いてから「ああ」と合点がいったように頷き、「違うよ」とあっさり否定した。

「オレの服を時々菜摘が着てんの」

 ……うおおおおおお……。中二以来彼氏ができていないわたし(しかも一週間で別れた)にはなかなか刺激が強く、頬の内側が熱くなりむずむずと痒くなった。か、彼氏の服着てるんだ。すごぉい……。

「なんかリサちゃん顔赤くね? 大丈夫?」
「えっ! あ、えーっとぉ……体調が悪いとかじゃなくて、その、なんか……大人だなぁと思って……」

 もじもじしながら答えると佐野君は一拍間を置いてから、にこっと口角を上げた。

「オマエ可愛いな」

 そして、あっけらかんとそう言った。

 目が点になり虚脱状態に陥った後、急速に熱が全身を支配した。声にならない叫び声が喉の奥で上がり、「へっ、ほえっ!?」と意味のない声をボロボロと零していく。

 か、かわ、可愛い……初めて男子に言われた……! しかもわたしは面食いなので佐野君に言われたとなると喜びも倍増だった。友達の彼氏に可愛いと言われて喜ぶ行為が褒められたものではないのはわかっている。だけどしょうがない。顔は良いんだもん佐野君。そ、それに佐野君が言ってきたんだから! わたしが言わせたんじゃないんだから! ね、菜摘ちゃん!

 佐野君がモテていたのは、ケンカが強いからとかカリスマ性があるからとか顔が整っているからというのもあるけど、こういうところもあるだろう。落ち着いた雰囲気に違わず、佐野君はいつもどこか達観している、透明な眼差しで周囲を見据えていた。同級生を可愛い≠ニ抵抗なく口にできるのはうちの中学では佐野君だけのものだろう。

 でも。菜摘ちゃんの前では。

「菜摘はさぁ」

 佐野君がゆっくりと話し始める。
 菜摘と呼ぶ声は真綿のように柔らかい。現実味に乏しくどこか浮世離れした声だからこそ、わたしを正気に戻させた。狂喜に舞い上がっていた心がゆるやかに落ち着く。

「照れたとしても、不機嫌になるじゃん。つーか最近照れねぇんだよな。キレることは多いけど。ズボンにティッシュ入れたまま洗濯したらブチ切れられた」

 それは佐野君が悪いのでは……? と思ったけど怖いので口出しせず、佐野君が語る菜摘ちゃんの話を黙って聞いていく。自分の食い扶持は自分で稼ぐと言ってココと呼ばれる人の仕事を手伝っている事。佐野君も手伝おうとしたら無茶苦茶にしてしまったらしく『お願いだから黙って見といて』と信じられないほど冷たい声で釘を刺された事。暇な時間は勉強して構ってくれない事。

 そう。佐野君は、菜摘ちゃんの前では子どもっぽかった。構え構えと甘えていた。

 佐野君が菜摘ちゃんの愚痴を語る声は、胸に染みるような優しいものだった。言葉の節々から愛情が滲んでいる。
 いとしいとしというこころ
 戀の成り立ちの意味をわたしは今、身を以て学んでいる。

 愛しい愛しいと、彼の心が震えているのが聞こえた。

「相棒ばっかで全然かまってくれねえから後ろからおっぱい揉んだら、手ェ抓られた。ひどくない?」
「えっ、えーっとぉ……」

 明け透けな事情を知ってしまい、またもや顔が熱くなる。後ろから、お、お、おっぱい、あ、はぁ、まぁ、そっかぁ……。「菜摘ちゃん杉下右京好きだから……」と口をもごつかせながら、わたしはまたもや過去に想いを馳せていた。

 菜摘ちゃんが佐野君のお家に泊まった翌日、わたしは『どうだった……!?』と電話を掛けて鼻息荒く問いただした。聞きたいことはたくさんあった。まず痛いのか。佐野君はどんな感じだったのか。セックスとは少コミのようなものなのか。

『……どうって言われても…』
『勿体ぶらないでよー! 痛かった!? どれくらい!?』

 菜摘ちゃんのぶっきらぼうな声がもどかしい。早く早くと急かすようにして矢継ぎ早に問いかけると『わかった!』と菜摘ちゃんは観念するように声を上げる。だから一旦止まってくれという懇願の色を帯びた声に、またしても自分が暴走していたことにようやく気付いた。少女漫画が大好きなわたしはついつい恋バナとなると身を乗り出して聞いてしまう。

『ごっ、ごめん、つい……!』
『ううん。リカちゃんにはお世話になったし、ちゃんと言う。……言う、んだけど』

 こほん、と咳払いしてから恥ずしそうに菜摘ちゃんは続けた。

『もうちょっと待ってて。今、いっぱいいっぱいだから。いつかちゃんと言う』

 菜摘ちゃんは少ししてから、約束を守ってくれた。
 ただ、伝え方はいつもと違った。声ではなくて、手紙だった。
 大人っぽい綺麗な字で、初体験について教えてくれた。

 最初は寒かったけど、だんだん暑くなっていったこと。
 裸を見られるのが恥ずかしくて電気を消したのに、暗闇の中でだんだん目が慣れて見えるようになり、恥ずかしかったこと。
 痛くて苦しかったけど、嫌じゃなかったこと。

 あんま参考にならなくてごめんね。初体験についての話はそう締めくくられていた。

「佐野君は菜摘ちゃんのこと、好きなんだね」

 気が付いたら喉から滑り落ちるようにして、想いが零れ落ちていた。
 藪から棒の質問のはずなのに佐野君は狼狽えていなかった。もう、彼の中では当たり前のことなのだろう。

「うん」

 頷いてから、ふわりと笑う。

「大好き」

 儚げで優しい微笑みは、水面に雫が落ちるようにわたしの胸の中で波紋を広げ、未知の感情を宿らせた。わたしは佐野君に恋をしていない。友達の彼氏、ただそれだけだ。送ってもらったらもう二度と関わることもないだろうし、それを寂しく思うこともない。けど何故だか、鼻の奥がつんと尖っている。
 誰かが誰かを心の底から想うという事は、その思いに触れた人間の心に傷を残していくものなのだろう。そうじゃないと、この胸の痛みに説明がつかない。
 この痛みを体感するのは二度目だ。一度目は、菜摘ちゃんの手紙を読んだ時だった。


 リカちゃんへ

 急にいなくなってごめんね。
 心配してくれてると思うけど、心配しないでね。

 今度は本当に家出をします。今にして思うと前の家出は家出じゃなかったね(笑)
 前の家出はただママを困らせたかっただけの反抗だったけど、今は違う。ほんとは困らせたくない。だけど、ママを困らせてでも優先したいことがあるの。
 
 詳しい事は言えないんだけど、万次郎君がこの街を出ていくのでわたしも一緒に行きます。もちろん、脅されてる訳じゃありません。わたしが一緒にいたいだけ。一緒にいたいから一緒にいる。それだけ。

 嘘って思うかもだけど、わたしは今幸せです。
 ずっと傍にいられることがほんとに嬉しい。……なんかもう、完璧恋愛脳の馬鹿女だな笑

 リカちゃん、ずっと応援してくれてありがとう
 リカちゃんはわたしよりも早く、わたしが万次郎君の事好きって気持ちを認めて後押ししてくれたね。
 何かある度にいつも喜んでくれて、ほんとに嬉しかった。

 ありがとう。
 わたしにとってリカちゃんは、一生の親友です。

 後悔するとしたらひとつだけ。
 リカちゃんともっと恋バナしとけばよかったなぁ。


 

 何度も何度も読み返したから、もうすっかり覚えてしまった。会いたいなぁ、と漠然と思う。会って、喋りたい。最近ネタないけど、わたしも菜摘ちゃんと恋バナしたいよ。
 
 会いたいという気持ちは泡のように膨れ上がる。衝動のまま唇を開いた。
 かつてわたしに殺意を向けた男子に対し、冷静に問いかける。

「じゃあ、返してくれないよね」

 佐野君の目を初めて真っ直ぐ見据える。わたしは佐野君が今も昔も怖い。こうして真正面から向き合うようにして焦点を向けるのは初めてだ。瞳は夜を溶かしこんだように真っ黒だけど濁ってはいない。
 佐野君は澄んだ眼差しをわたしに向けながら、薄い唇を開いた。

「うん」

 霜が降りるような静かな声が、わたしの心にそっと積もる。

「菜摘、オレのモンだから」

 空が青いのと同じだと言わんばかりの口調だった。だから渡さない。決定事項を述べる佐野君の声が、淡々と夜の街に響き渡った。

 深い深い水底に潜り込んだような気分だった。世界中からすべての音が消し去る。
 呼吸することすら躊躇われるほどの、静けさ。

 何も言えずに、わたしは唇を閉じる。佐野君もそれ以上何も言わなかった。無の空間がわたし達を包み込む。勿論楽しくない。だけど、気まずいのともなにかが違った。
 
「……あ、えっと。わたしんち、このマンション。送ってくれて、ありがとう」

 そんな風に無言で歩き続ける内に、わたしの家に辿り着いた。
 エントランスに続く道の前でわたしは佐野君に『ここまででいい』と言外に伝える。佐野君は「うん」と頷いてから、ひらひらと手を振った。

「リヨちゃん、ばいばい」

 最後までわたしの名前を間違えたまま、佐野君はわたしに別れを告げる。くるりと身を翻し去って行く背中は悠然としていた。同い年の男子とは思えない風格を漂わせた佇まいを、わたしはぼうっと見つめる。

 佐野君は友達の彼氏。それ以上でもそれ以下でもない。
 だけど、友達の彼氏だ。でも、わたしの友達を奪った。
 なんだかよくわからない理由で、連れて行ってしまった。

 ギュッと拳を握り締めながら、去り行く背中を変わらず見つめ続ける。どんどん小さくなっていくのに、強烈な存在感はなかなか弱まらない。

 チカチカ、チカチカ。金色が光っている。

 佐野君を尾行して二人の住処を突き止めて警察に連絡し、菜摘ちゃんを強制送還させる方が後々の菜摘ちゃんの為になるんじゃないだろうか。

 全うな考えが浮かび上がる。わたしの友達を、“正しいレール”に連れ戻すための手段。
 菜摘ちゃんの家族も喜んでくれる。
 みんなが、幸せになる。

 足をそろりと一歩進めると、小さくて大きな背中が少しだけ近づいた。

 このままの距離を保って、少しずつ、少しずつ尾行すればいい。

 そしたら、わたしはまた会える。

 わたしの友達、ううん。わたしの親友。
 話したい、会いたい。

 どうか、どうか、

『マイキー君、』

 菜摘ちゃんの呆れながらも嬉しそうな笑顔が脳裏に浮かんだ時、ぶちんっと何かが切れて、弾けた。心の赴くままに、お腹の底から叫んでみせる。

「佐野くーーーーん!」

 佐野君が足を止めて、振り返った。首を傾げながら背後に立つわたしを凝視している佐野君に向かって、全速力で走る。
 佐野君は待っててくれていた。「どしたリエちゃん」と不思議そうにわたしを見つめている。呼吸を整えるべく深呼吸してから、わたしは無敵のマイキー≠ノ対峙した。ぱちくりと瞬いている瞳を真っ直ぐに見据えながら、告げる。

「可愛いって、彼女以外に言っちゃ駄目!!!」

 両手をぎゅっと握りしめながら切々と訴えると、佐野君は目を丸くした。佐野君が二の句を告げないでいる間に「それから!」と続ける。

 神様も仏様もご先祖様も、この願いは叶えられない。
 叶えられるのは、目の前のこの男子だけ。

 わたしの親友、菜摘ちゃん。
 どうか、どうか、

「結婚式にはぜっっっっったい呼んで!!!!」

 ずっと、笑っていて。

 佐野君はしばらくぱちぱちと瞬きを繰り返した後、息を零しながら笑った。眉を下げながら、猫のように目を細めておかしそうに口元を綻ばせている。わ、わたし大真面目に言ったのに……! 憤慨したいところだけど佐野君を相手に怒ることなどできない。唇を真一文字に結んで黙り込む。ていうか偉そうに言っちゃったな。え、あ、これ、ヤバイ…!? 今更になって恐怖心がせり上がりあたふたしていると。

「リカちゃん」

 佐野君に呼ばれる。今度は間違っていなかった。

「オレ、オマエのこと結構好き」

 顔の良い男の子に好きだと言われたのに、不思議と舞い上がらない。
 だってわたしはもう知っている。
 この人が本当に愛しいものを語る時の、柔らかな声色を。
 泣き出したくなるような、優しい音色を奏でることを。

「菜摘のダチが、リカちゃんでよかった」

 ほら、やっぱり。
 菜摘と呼ぶ時とリカちゃんと呼ぶ時の声が、全然違う。




 

The most I can do for my friend is simply to be her friend.



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