わたしが目を覚ましたのは、佐野さんのお葬式が終わった大分後の事だった。
 



「ほんっっっっとうに、すみませんでした!!!」

 耳の中でタケミっち君の大声が震え、キィンとハウリングが起こった。思わず「うるっさ……」と耳を抑えながら顔をしかめる。

 お見舞いに来てくれた龍宮寺君に『タケミっちもアンタの見舞いに来たいらしいんだけど、いい?』と言われたのが昨日の事。タケミっち君にお礼を言いたかったわたしは二つ返事で了承した。夏にちょっとだけ喋った事あるけど本格的に顔を突き合わせて喋るのはこれが最初だった。別に特別人見知りをする性質ではないけど、タケミっち君に会うとなると緊張した。

 彼に、どうしても聞きたいことがあった。

 ……んだけども。

「個室だからまだいいけど、ここ病院だから。もうちょっとボリューム下げて」
「す、すみません……!」

 なんっか締まらないんだよなぁ、この子……。ひとつ年下という事もあり、後輩に指示するような口振りで窘めると、タケミっち君は肩を縮こまらせて謝ってからわたしの言う通り声を潜めて、今度は大声を出したことによる謝罪を述べた。そして、また、冒頭の謝罪を繰り返す。

「……本当に、すみませんでした。菜摘さんが襲われたのは、オレのせいです」

 ぐっと拳を強く握りしめながら歯を食い縛るタケミっち君に、東京卍會って謝ってほしいことは謝らず謝らなくてもいいことは謝るのがブームなのかと呆れる。「だから」と溜め息を吐いてから呆れ返った声で続けた。

「わたしを襲ったのはタケミっち君じゃないでしょ。ていうかタケミっち君助けてくれたじゃん。……それに、」

 いつかはこうなったと思うし。

 言葉を区切り、続きは心の中で呟いた。

 マイキー君の隣にいる限り、わたしはきっと狙われ続ける。もう、わたしの運命のようなものなのだろう。
 マイキー君は圧倒的なカリスマ性を持っている。その代償なのか何なのかは知らないけど、マイキー君の放つ強大な光に憧れ畏怖し、食らいつくそうとするような、そんな人まで引き寄せる。
 マイキー君の場合は、それが運命なのかもしれない。

「……菜摘さん?」

 急に押し黙ったわたしを不思議そうに見つめているタケミっち君に視線を滑らせた。タケミっち君の瞳は、一見ぽやんとしているけどその奥にしっかりとした意思を湛えている。強く眩しい光が瞬いていた。

「タケミっち君、」

 その光を見据えながら、わたしはタケミっち君を呼び掛ける。
 彼に、聞きたいことがあった。

『その時のあいつはまるで時を越えたように、昔のまんまです』

 マイキー君に銃を突きつけられている人の言葉を、わたしは今更ながら思い出していた。
 そう。確かあの人は、千冬って呼ばれていた。マイキー君との会話にも何回か出てきたことがある。

『場地が連れてきただけの事はあるんだ、千冬。すげぇ根性ある』

 まるでお兄ちゃんのような顔つきで千冬君を評価するマイキー君は、すごく優しい目をしていた。だけど、未来のマイキー君はその千冬君ですら殺していた。昔ながらの東京卍會のメンバーを顔色ひとつ変えず殺していくマイキー君に届かない『やめて』を繰り返し絶望に沈んでいたわたしは千冬君の言葉の意味を理解しようとしなかった。けど、何か感じるものがあったのだろう。ずっと心の隅っこに引っ掛かっていた言葉が冷静になった今、ようやくはためき始めた。

「タケミっち君も、」

 未来に行ったことがあるの?

 そう続けようとして唇を開いたものの、あまりにも突飛な問いかけを口にすることは恥ずかしく、少し逡巡してから唇を閉じた。こんな質問をしたところで夢だと片付けられるのがオチだろうし、下手したら頭を強く殴られた後遺症がまだ残ってるのかもしれない…と懸念したタケミっち君にお医者さんに告げ口されようものなら入院が確実に延びる。

 わたしは現実主義者であるにも関わらず、あの不思議な体験をすんなりと現実のものだと受け入れていた。
 納得できる未来だった。
 闇の底に沈み人を殺すマイキー君に対しやっぱり≠ニ心のどこかで納得していた。

 ……彼女が思う事じゃないよな。自分の薄情さを確認する。そう、わたしはそういう人間だ。雨の中やっと思いを告げて両想いになったカップルに対し『傘差しながら言えばいいのに』と白けたツッコミを入れるような奴。
 わたしは冷たい。
 だから、こんなことも頼めてしまう。彼の人生を左右するような依頼を、平然と。

「……悪いと思ってるなら、お願いしていいかな?」
 
 当初投げかけるはずの質問を喉の奥に引っ込めて、わたしは別の言葉を用意した。

「な、なんですかね……?」

 タケミっち君は及び腰になりながら、話の続きを促した。『タケミっち、普段はすげぇヘタレなんだよなぁ』とマイキー君の呆れた声が鼓膜の中に蘇り、ほんとだね、と心の中で相槌を打つ。

 だけど彼は強い。マイキー君とはまた違う光を持っている。どれだけボロボロになろうが二本の脚で踏ん張り、立ち向かい続ける。諦める事を知らない、出来ない彼ならば。

「わたし、これからめちゃめちゃ頑張るんだ」
「……は、はあ」

 タケミっち君は、突然何を言い出すんだと言いたげな顔をしていた。訝しがるように眉を寄せながら曖昧に頷いているタケミっち君に、わたしは報告書を読み上げるように淡々と言葉を重ねていく。

「ほんとに、頑張んの。すごい、もう、めちゃめちゃ頑張んの。だけど、わたしじゃどうにもならなかった時、」

 言葉にしながらそうなる可能性の方が高いだろうなと冷静に判断を下す。この道を選ぶ限り、わたしに昨日と同じ今日は来ない。毎日が波乱万丈でいつ命を落としてもわからないような生活になるだろう。

『オマエじゃ手に負えない』

 先生の言葉が脳裏に蘇ると、チクリと胸に棘のようなものが刺さった気がした。人は本当の事を言われると腹を立てるのと同じように、事実を告げられると、悲しくなる。反論できないからだ。

 だけど。

 深い森の奥のように静まり返った心の中で、ひとつの決意が固まっていた。きっと、ダイヤモンドよりも固い。
 誰にも傷つけることができない、揺るがない、譲れないわたしの想い。

「君には君の人生があるってわかってるけど、でも、」

 タケミっち君の瞳の奥を覗き込むようにじいっと見つめると、タケミっち君が静かに息を呑んだ。だけど、視線はわたしから逸らさない。一等星のような眩しい光を湛えながら、わたしを見返す。殺伐とはしてないけど、糸がピンと張られたように緊迫した雰囲気がわたし達を包み込んだ。

 すうと息を吸い込むと病院独特のアルコールの匂いが体に流れ込んだ。そして、体中の想いを全て、言葉に乗せる。

「マイキー君が負けそうになってたら、助けてあげて」

 静かに、だけど強く言うと、タケミっち君はぱちぱちと目を瞬かせた。

「ええー!? そんなことあります!? 逆はたくさんあると思うんすけど……」

 首を捻りながら紡がれた呑気な声により、一気に空気が弛緩した。この子、なんか人を脱力させるんだよなぁ。

『タケミっち、普段はすげぇしょうもねえの。けどさ、すげぇんだ。あんな奴、そうそういねぇよ』

 どこか懐かしむような口振りで熱っぽくタケミっち君を語るマイキー君を思い出し、心が和らぎながらも微かなモヤモヤが生まれる。初めてタケミっち君のことを聞いてから、わたしは彼を妙にライバル視してしまう。
 羨ましかった。
 マイキー君から絶大な信頼を寄せられている、タケミっち君が。
 わたしの方が先に出会ったのに、あっという間に、マイキー君の信頼を得ていた。わたしは何日もかけてようやく友達になれたのに、タケミっち君は出会った瞬間友達になっていた。

 だけど、龍宮寺君から今回の抗争に関する一連の出来事を聞いた時、叶わないと痛感した。分不相応な嫉妬心を抱いていた自分が恥ずかしかった。
 
 50対400。
 勝つなんて不可能だ。マイキー君と龍宮寺君は深い失意の中に沈み切っている。三ツ谷君や他の特別強い人達は全員入院していた。
 全員が諦めていた。
 その中で、タケミっち君だけが最後まで諦めなかった。
 銃を突きつけられても、一歩も引く事もなく。
 いつも諦めない。どれだけ力の差があっても、皆の為に踏ん張れる。昔テレビの中で見たヒーローのようだ。

 ううん、ようだ≠カゃない。
 花垣武道という男子は、紛れもなくヒーローなんだ。

 誰かを助けることができるのはヒーローだけ。アニメやドラマの中で、通りすがりの一般人が誰かを助けた話なんて見た事がない。
 マイキー君を助けられるのは、彼だけ。
 きっとわたしはそれまでの場繋ぎにしかなれないだろう。
 
『オマエじゃ手に負えない』

 また、先生の言葉が脳裏で蘇る。やっぱり否定できなかった。
 だって、今でも怖いんだ。

『あいつらも殺すか』

 軽々しく口にされる本気の殺意。深い海の底よりも深い真っ黒な瞳。
 
 顔色ひとつ変えずに、嬲り殺しにする姿。

 ――だけど。

「てかマイキー君今日来ます?」

 タケミっち君がマイキー君を探すようにきょろきょろと首を振った。わたしは「ううん」と静かに首を振ると「そうですかー」と残念そうに呟いた。

「最後にもう一回、会いたかったんだけどな」
「え? タケミっち君、引っ越すの?」
「えっ!? あ、えっと違うんですけど、まあ…アハハハハ!」

 タケミっち君は目を左右に泳がせた後、わざとらしい笑い声を上げた。挙動不審過ぎる態度に引いてしまう。なんかやっぱ変な子だな、この子。
 ……マイキー君、なぁ。

「というかマイキー君。一回も来てくれないんだよね」
「……え!?」

 タケミっち君は目を白黒させた後、あんぐりと口を開けた。「……マジすか?」と間の抜けた声で問いかけてくるタケミっち君に「マジ」とわたしは仏頂面で頷く。

『川原さんの見舞いに行きたいっつったら、一人で行ってこいって言われたんだけど……来てねぇとか、何考えてんだアイツ』

 眉間に皺を寄せながらいぶかしがる龍宮寺君はマイキー君の思惑が掴めてないようで、不謹慎ながらわたしは嬉しかった。タイムリープという反則技を使ってようやくだけど、初めて、龍宮寺君よりもマイキー君の考えていることを掴めた。
 
 どうしてお見舞いに来てくれないのか、その理由をわたしは薄々察している。

「あ! 寝てる間に来たとか!」
「ううん。そういうこともないみたい。看護師さんに聞いてみたんだけど、来てないって言われた」
「じゃ、じゃあ、菜摘さん。東卍の解散も知らないんです、かね……?」

 自分の中で一瞬時が止まった。目を最大限に見張らせてタケミっち君を凝視すると、タケミっち君は厳かにこくりと頷いた。

 東卍。東京卍會が解散。マイキー君の人生そのものと言ってもいい存在を、手放した。驚きが次第に納得に変わりすとんと胸に落ちて、予感は確信へ進化した。

「そういうことね」 

 はいはい、とため息を吐きながら頷いてみせる。お見舞いに来ない理由も薄々察していたけど、これで確信した。あのバカあほドジ間抜けオタンコナスチビ野郎、と心の中で盛大に毒づく。今度会ったら、チビを四連発お見舞いしてやる。
 
「菜摘さんすごいっすねー……」

 タケミっち君が何故か感動したような眼差しをわたしに向けていた。「何が?」と訝しがると、タケミっち君は「いやだって!」と声を高めた。

「オレ、マイキー君が何考えてるかぜんっぜんわかんねえもん! なのに菜摘さんはなんかお見通しって感じがするっつーか、今も東卍の解散に思ったより驚かなかったし……! 流石、マイキー君の彼女っすね!」

 鼻息を荒くしながら熱く語るタケミっち君に冷や水を浴びせるようで悪いと思いながらも「そんなんじゃないよ」と諭すように、冷静に否定を入れた。天井を仰ぎながら、独りごちるようにぽつりと呟く。

「ただ、経験があるだけ。12年分くらいの」

 タケミっち君はきょとりと瞬いた後、わたしに訊いた。

「菜摘さんとマイキー君って幼馴染なんですか?」
「ううん。中三の夏に、初めて喋った」






 水色の空が、どこまでも続いていた。柔らかそうな白い雲がのどかにゆったりと泳いでいる。

 視線を下げると、桜の木々が蕾を膨らませていた。まだ肌寒いけど陽射しは春のものになっている。いつの間にか季節は巡り、冬は終わっていた。窓から差し込む麗らかな陽光を浴びていると「菜摘」と呼ばれ振り向くと、お兄ちゃんが「よ!」と手を挙げながらドアの隙間から顔を出していた。わたしも「よ」と手を挙げる。お兄ちゃんはわたしの病室に入るとパイプ椅子に腰かけて、優しく尋ねた。

「今日はどんな感じ?」
「ぼちぼち」
「そっか。てかもうすぐ退院じゃん。退院したら、なんか奢ってやるよ。バイト代入ったし」

 お兄ちゃんは、というかわたしの家族は、わたしが入院してからものすごく優しかった。不良に殴られてぱんぱんに膨れ上がった顔のわたしを見て、家族全員泣いた。そして喜んでくれた。菜摘が生きていてよかったと、涙を流しながら。
 ……愛されてるなぁ。
 家族の愛情を一身に受け、感謝と照れくささと愛しさが胸の中を温める。
 だけど同時に、同じくらい心苦しかった。

『マイキー君とタケミっち君が助けてくれたんだよ』

 そう言ったら、三人の顔から笑顔が消えた。神妙な顔つきのパパが家族の代表となり、わたしに告げる。まるで、小さな子に言い聞かせるように。

『彼の事は忘れなさい』

 わたしのこれからの人生を思ってこその、愛に溢れた言葉だった。

 マイキー君≠ヘすっかり禁句となっていた。言葉にこそしないけど家族全員がマイキー君を拒絶していた。わたしが襲われた元々の原因はマイキー君にあるというのが三人の共通認識のようだった。マイキー君が助けてくれたのに、三人の中では助けた事になってないらしい。そもそもの発端は、佐野万次郎だ。佐野万次郎にさえ関わらなければ。タケミっち君の家には菓子折りを持ってお礼に行ったようだけど、多分、マイキー君の家には行っていない。マイキー君は、わたしの家族の中でないものとして処理されていた。わたしの家族とマイキー君の関係性はあの未来よりはマシだけど、マシでこのありさまだった。

 お兄ちゃんが最近のバイト事情を面白おかしく喋っていると、ドアがスライドされた。なにげなく視線を送ると。

 チカチカ、チカチカ。
 金色が瞬いてた。

「よ」

 ドアの隙間からひょっこり顔を出したマイキー君が、わたしに向かって手を挙げた。

 マイキー君。

 会いたいと切望していた人がいざ目の前に現れると、強大な感情の渦に巻き込まれて、呼吸が一瞬止まった。

 マイキー君は飄々とした足取りで、わたしの病室に滑るようにして入り込んだ。制服でも特攻服でもない。黒いスエットの上に大きなパーカーを羽織っている、ラフな出で立ちだった。

 マイキー君、だ。

 顔が、声が、雰囲気が、体が。すべてがわたしの知っている、わたしの好きな男の子の形をしていた。未来でも過去でもない、今≠フマイキー君。
 実体を持った状態で会えるのは本当に久しぶりの事だった。同じ世界で同じ空気を吸えていた。

 お腹の底から次々と熱い塊がせり上がり、喉元にぎゅうぎゅう詰まる。堪えきれずに息を浅く吐くと、熱くて湿っぽい吐息が喉を震わせた。

 ごくりと唾を呑み込んでから、マイキー君、と呼ぼうとした時だった。

「な、なにしにきた!?」

 お兄ちゃんが声を裏返させながら、懸命に張り上げた。パイプ椅子から立ち上がり、わたしとマイキー君の間に割り込んだ。ひょろひょろの脚がぶるぶると震えている。今にも崩れ落ちてしまいそうだった。

「ち、近づくな、これ以上菜摘に近づいたら警察呼ぶ!」

 お兄ちゃんはわたしを守ろうとしていた。マイキー君と違って殴り合いの喧嘩など小学生の時が最後であろうお兄ちゃんが、無敵のマイキー≠ノ立ち向かっていた。
 マイキー君は、お兄ちゃんに楯突かれているのに何も言わなかった。声を荒げる事も凄むこともしない。お兄ちゃんの背中に隠れて見えないけど、いつもの澄んだ目で瞳の奥を探るようにじっと見つめているのだろう。

 あの時と同じ。
 あの時よりは幾分マシだけど、根っこのところは変わらない。

『全部、オレのせいです』

 きっと、似たようなことを思っている。

「お兄ちゃん、ちょっと出てってくれない?」

 小刻みに震え続けている背中に向かってそう言うと、一瞬、動きが止まった。一拍置いてから「な、なに言ってんだよ!?」と目をひん剥かせてわたしを凝視する。

「なにもなんもないよ。ちょっと出てって」
「オ、オマエ、こいつのせいで……!」
「お兄ちゃん。一生のお願い」

 お兄ちゃんの目をじっと見つめながら、一言一言に真摯な思いを籠めて、初めて本当に一生のお願い≠使った。

「マイキー君と二人で話したいの」

 お兄ちゃんはポカンと口を開きながら、まじまじとわたしを見つめていた。少し固まっていたけどやがて「……あー!」とやる瀬なさそうに声を荒げた後、ガシガシと髪の毛を掻きむしってから踵を返した。マイキー君の横を通り過ぎる時に、ぎらっと鋭い視線で睨みつける。
 ガタンッとドアが乱暴閉められる。反動で一旦跳ね返り、静かにドアが戻っていく。スライド式のドアが閉まり、わたしとマイキー君だけの空間となった。

「兄貴、やるじゃん」

 マイキー君はドアに視線を送りながら、感心した様につぶやいた。

「え、なにが」
「オレにメンチ切れる奴、不良以外で初めて見た。見所あるよ、菜摘の兄貴」

 マイキー君はにこっと無邪気に笑いかけてきた。教室で見る時と同じ笑顔だった。だけどこの笑顔を教室で見ることはもうない。卒業式はわたしが寝ている間に終わっていた。
 マイキー君とわたしを繋げる空間は、なくなっていた。

 マイキー君は空になったパイプ椅子に腰かけると、わたしをじっと見つめた。そして、感情の読み取りづらい真顔を浮かべながら、気負うことなく、あっさりと告げた。

「オマエいらない」

 物を捨てるような、平坦な声で。

「もういいわ。飽きた。オレの女だからって事で狙われたの可哀想だから、一応助けたけどさ。やっぱ彼女とかそういうの、めんどいなー」

 マイキー君は腕を伸ばしながら大きく欠伸した。別れ話をするのも面倒くさそうだった。

「全然ヤらせてくんねーし。下手くそだし。フェラぐらいしろっつの。つーことで、」

 マイキー君はパイプ椅子から立ち上がると、また、にこっと笑った。綺麗な顔立ちを生かした、一部の隙も無い完璧な笑顔だった。

「ばいばい」

 語尾にハートマークでもついてそうな茶目っ気たっぷりの声色を残し、マイキー君は身を翻した。
 真っ直ぐに、ドアに向かっていく。何の迷いも躊躇いもない足取りだった。引き戸に手を掛けて、一気に開けようとした瞬間。

「……いたっ」

 わたしは両手で頭を抑えながら、痛みを訴えた。

 マイキー君の動きが止まった。俯いているからどんな顔をしているかはわからない。だけど戸惑っている事は気配でわかった。

「菜摘……?」

 茫洋とした声が鼓膜に流れ、わたしは更に「痛い、痛い……!」と切羽詰まった声を上げる。するとマイキー君が足早に近づいてきた。

「おい、どうした」
「痛い、頭が、割れそう……! 殴られた時の後遺症で、時々痛む、んだけ、ど……! 痛い、痛い……! 死んじゃう……!」

 半ば叫ぶように張り詰めた声で痛みを叫ぶと、マイキー君が息を呑む音が聞こえた。マイキー君はベッドの上に膝を乗り上げると、血走った目を左右に動かしながら必死に何かを探していた。やがて、大きな手がナースコールを引っ手繰るようにして掴む。
 ボタンが押される直前に、わたしは彼の胸倉を掴んで、思い切り引き寄せて。

 初めてわたしからキスをした。

 そのまま後ろに背中から倒れ込むと、シーツが受け止めてくれた。目を開けると、マイキー君の驚愕で見開かれた大きな瞳がすぐそこに在った。わたしが胸倉から手を離さないものだから、マイキー君はわたしの顔の両端に両手を置きながら覆いかぶさる体勢となっている。こんなに近づくのはお泊りの時以来だ。あの時、初めてのセックスにわたしは始終狼狽えていたのに、マイキー君は余裕綽々で、冷静だった。
 だけど今は違う。マイキー君が動揺していた。わたしの方が落ち着いていた。
 ざまあみろと思いながら「嘘」と小さく舌を出すと、マイキー君の瞳が大きく揺らいだ。その瞳を覗き込みながら、淡々と問いかける。

「ひとりでどこに行こうとしてるの?」

 水を打ったように、部屋が静まり返る。マイキー君はただ瞬きを繰り返していた。衝撃で揺れていた瞳が一点に定まると飢えた獣のような凶暴な光が宿り、

「何、意味わかんねぇ事言ってんの?」

 抉るような視線で、わたしを突き刺した。

 底冷えするような冷たい声が、わたしの神経ひとつひとつを凍らせていく。夏休みの時に感じた、いや、夏休みの時以上の恐怖が足元から忍び寄りあっという間に全身に巻き付いた。喉が干上がる。心臓が、マイキー君の手の中にあるような感覚だった。いつ握りつぶされてもおかしくない。

「東卍でも家族でもないオマエが、オレの何知ってんの?」

 侮蔑と憎悪を纏った氷のように冷たい視線でわたしを捉えながら、マイキー君は問いかける。全身の細胞が逃げろと叫んでいた。先生の『佐野はただの不良じゃない』という言葉がまた蘇る。先生、そうですね。この人はただの不良じゃないです。怖い人です。未来では、たくさんの人を殺していました。
 そう。わたしは12年分の未来とこの半年間、マイキー君を見ていた。

 だから、

「知ってる」

 知っているよ。

「マイキー君が怖くてヤバい奴って事、知ってる」

 底の見えない真っ黒な瞳を真っ直ぐに見据えながら淡々と言うと、マイキー君の目蓋がぴくりと小さく震えた。マイキー君は不愉快そうに目をすがめた。

「……あ゛?」

 たった一言なのに、強大な圧があった。聞いただけで、マイキー君がわたしよりも遥かに“上”であることがわかる。

「だから、そういうとこだってば」

 はあ、と溜め息を吐いてから白い目でマイキー君を冷たく見据えた。ほんと、そういうところ。さっきまで無邪気に笑っていたかと思えば急に何かのスイッチが入る。いつもいつもいつも。

「マイキー君は覚えてないかもだけど、わたしは夏休みにマイキー君に会った時のことずっと覚えてるよ。怖かった。今と同じことを言ってきたよね。今でも思い出すと、ゾッとする」

 あの頃、わたしはマイキー君のことを一見怖いけど本当は優しい男子≠ネんだと思っていた。
 自分の知っているカテゴリーに無理矢理マイキー君を分類することで、悦に入っていた。
 過去に戻ることができたのならば、わたしは過去の自分に尋ねたい。
 本当≠ヘ優しい男子って、なにそれ。“本当”は怖くないから、だから大丈夫ってこと?
 
 本当≠ノ怖かったら、離れてくの?

 万華鏡が見せる光の結晶は覗く度に形を変えるけど、すべて真実だ。嘘はなにひとつない。

 優しい笑顔もおどけた表情も生気のない瞳も、全部全部、マイキー君の一部分。
 
「わたしは、マイキー君のことが怖い。一緒にいると、時々、無償に不安になる。逃げ出したくなる」

 全部全部、知っていきたい。

 マイキー君が何度か瞬きを繰り返した後、真っ黒な瞳に青い炎が広がった。全てを焼き尽くさんばかりの、冷たい憎悪。マイキー君の全身から殺意が滲み出て、蛇のようにわたしの体にまとわりつく。夏休みの時のマイキー君が可愛く思えるほどの、敵意を越えた明確な殺意だった。

 怖い。
 この人が怖い。
 わたしの両端に置かれている掌は、長年の友達の命すら奪っていた。

 だけど。
 だけど、知っている。

「それから、そうだなぁ」

 胸ぐらを掴む手を弱めて、頬に手を滑らせた。真っ黒な瞳の奥のまた奥を覗き込む。

 ああ、やっぱり。

「結構、ビビりってことも知ってる」

 青い炎を湛えた瞳の奥底。ようく目を凝らして見ないと気付けない場所で、瞳孔が大きく揺らいでいた。哀しみが、光っていた。

 寂しい寂しいと、鳴いていた。

 わたしに怖いと言われたことに。
 逃げ出したくなると言われたことに。
 マイキー君は、ひどく、傷ついていた。

 怒ることで、哀しみから目を逸らそうとしていた。

 ……自分だって、ひどいこと言ったくせに。相変わらずの傍若無人っぷりに苛立ちが沸き上がる。けど、それ以上に、傷つけたことに対する罪悪感が勝り、悲しそうな光がいとおしくて、両手で包み込んだ頬を親指でやわらかく撫でた。

「小さな子みたいになるところ。何回も何回も、念を押すみたいにオレのモンって言ってくるところ。ちゃらんぽらんのくせに、責任感がバカみたいに強すぎるところも、知ってる」

 ブラックホールのような黒い目をじっと見続ける。
 底の見えない闇に、対峙し続ける。
 
「ずっと見てきた」

 12年分くらい、と続きは心の中でつぶやく。

 マイキー君は自分の心と生まれた時から付き合っている。ならば、わたしよりも当然自分のことを知っている。
 自分の手が人を傷つける可能性を、彼はずっと突きつけられている。

 自分のせいじゃないのに、自分のせいだと思い込む。
 下ネタを言うことよりも、ワガママなことよりも悪い、マイキー君の一番悪い癖。

「弱いくせに」

 “無敵のマイキー”に向かって、わたしは言う。

「ひとりじゃ何にもできないくせに」

 マイキー君の背中で、ゆらり、と黒い影が立ち上った。

「殺されてぇの?」

 闇の底から響き渡るような低い声が、ふたつの大きな手と伴に、わたしの首に巻き付いた。喉元に親指を置かれる。上から軽く押されただけで気道が圧迫され、息苦しさを覚えた。

「知ってるから、なに。それがどうした。無理なんだよ、オマエなんかじゃ」

 感情のない声でマイキー君はわたしに戦力外通告を告げる。

「オレ、簡単に人殺せんの。誰でも殺せる」

 ぐりぐりと喉元をなぶるように押さえつけられる度に、気道が歪んだ。

「次はケンチンか、タケミっちか、オマエかもね」

 ぐにぐに、ぐにぐに。喉が、マイキー君の手の中で弄ばれる。

 漆黒に塗り潰されたマイキー君の瞳に、マイキー君の奥底にある何かが、水面下から浮かび上がっていた。
 その“何か”は、覗き込んでも覗き込んでも、全貌が見えない。

「オレはオマエらと違う。こういう風にできてんの」

 自分を異形の怪物のように見なしながら、淡々と線を引いていく。ここから先には入ってくるな。オレに近付くな。

「オレは、ひとりで生きて、死んでいく」

 決意に溢れた声でも、絶望に沈んだ声でもなかった。マイキー君はただ受け入れていた。
 ひとりで闇の中に堕ちることこそが運命だと、悟っていた。

 ……ムカつく。

 ぶすぶすとお腹の底で苛立ちが燻り始め、あっという間に広がる。ムカつく。ムカつくムカつくムカつく。
 大体、彼女が入院しているというのにお見舞いに来ないわ来たら来たでセックスが下手だの暴言を吐きしかも今軽く首を絞めている。なんなの。なんなのなんなのこの人。

 いつのまにか恐怖よりも怒りが上回っていた。

「それがなに」

 怒りの滲んだ声をマイキー君に向けると、マイキー君は不愉快そうにぴくりと眉毛を動かした。氷を削ったような冷たい眼差しに対し、わたしも同じように冷たい目で見返した。冷えきった視線がぶつかり合い、病室は液体窒素を撒き散らしたように凍りつく。

 未来のわたしは後悔の中沈んでいた。自分を責め抜いていた。だからただひたすらに『ごめんね』を繰り返していた。

 だけどわたしは間に合った。未来のわたし≠フ言う通り、この手には、無限の可能性が詰まっている。

 マイキー君に対する負い目はない。
 だから言いたいこと、やりたいこと全部やってやる。

「そんなん知らない。
 わたし、一緒に行くから」

 これからもずっと、マイキー君の傍にいるんだから。

 マイキー君の瞳に、雷のように驚愕が走った。わたしの首に宛がわれた手から力が抜けて解放感が広がり、ふうと息を吐く。大きく見張られた目が『何いってんだ』と問いかけてくるけどわたしは答えることなくしれっと話を進めた。

「待ち合わせどうする? 初めて一緒に出掛けた時と同じとこでいい?」

 マイキー君は唇を戦慄くように震わせながら、呆然と呟いた。

「オマエ、なに」
「なにってなにが」
「気、狂った?」
「彼女の首絞めかけた人に言われたくない台詞だね。全然狂ってません。お医者さんのお墨付きだよ。精密検査の結果、これなら春から普通に高校通えるってさ。まぁ、もう行かないけど」

 マイキー君の瞳に不安めいた驚きが靄のように漂っていた。「菜摘」と焦燥感を滲ませながら、わたしを呼ぶ。

「高校行かないって、なに」
「だってマイキー君ここから離れるんでしょ? どうせ止めても聞かないし。わたしが着いてくしかないんだから、じゃあ行けないじゃん。というか、マイキー君に着いていったら高校行く余裕なさそうだし」
「え、は……? だって、菜摘、勉強、すげぇしてた」
「まぁ他のことでいつか役に立つでしょ」
「菜摘、」

 明らかに動揺しているマイキー君を見るのは気持ちよかった。今まで散々振り回されてきたリベンジができて、溜飲が下がる。

「マイキー君が一度決めたことをやめないのと一緒。わたしもやめない。絶対に着いていく。誰を傷つけても、パパや、」

 菜摘、とわたしを優しく呼んでくれるパパの声を思い出すと心臓に亀裂が入ったみたいな痛みを覚えた。喉の奥から熱いものがせり上がる。いつも優しかった。小さな頃、疲れてるのに肩車してくれた。目に変なフィルターがかかってるらしく、本気でわたしを美少女だと思っている。

「ママや、」

 口うるさかった。過保護さに辟易したこともあった。だけどわたしのことが本当に大好きで、わたしがなにかに合格したり賞をもらう度に、自分のことのようにううん自分のこと以上に喜んでくれた。

「お兄ちゃん、」

 何回も喧嘩した。何回もムカついた。だけど半日経てばどうでも良くなって、いつのまにかまた二人でゲームした。喧嘩なんて殆どしたことがないもやしっこのくせに、わたしを守ろうとマイキー君に立ち向かった。

「リカちゃん、」

 “ハブった”と自覚して謝ることってすごく勇気を必要することだ。だって、誰だって自分を“悪い人”なんて思いたくない。けどリカちゃんは謝ってくれた。応援してくれた。家族の誰も認めない、わたしですらなかなか認めたがらなかった恋心を、リカちゃんだけは後押ししてくれた。

「みんなを、」

 わたしの人生を形作り彩ってくれた人達の顔を思い浮かべると、視界がふやけた。喉に貼り付いた声を唾を飲む込むことで流し込み、決意を口にした。

「みんなを、捨ててでも、一緒にいる」

 真空の中に閉じ込められたような静けさが、わたし達を包み込んだ。

「なんで」

 ぽろり、とマイキー君の唇から抑揚のない声の粒が転がり落ちた。真っ黒な瞳が頼りなくゆらゆらと揺れている。

「なんで、そんなことすんの」

 あまりにも簡単すぎる問いかけだった。既に一度、わたしは龍宮寺君からその問いかけをもらっている。

『アンタはどうしてえんだよ』

 初めて聞かれた時は悩んだ。不良と関わったって何の特にもならない。龍宮寺君に甘えてもう二度と関わらないように手筈を整えてもらうべきだと自分に言い聞かせる度に、わたしの心は叫んだ。

「知りたいから」

 あの日も、今も、ずっとずっとずっと。
 わたしの心はマイキー君を求め続けている。

「マイキー君のこと知りたいから。傍にいたいから。それだけ」

 そう、それだけ。
 マイキー君に出会ってからずっと、この欲望はわたしの胸の真ん中で居座り続けている。

 怖くても、痛くても、誰を泣かせても、誰を傷つけても、譲れない。

 わたしに運命を変える力なんてない。あんな風に時間を跳躍することもあれが最初で最後だろう。
 どうにもならないかもしれない。
 どうにもできないかもしれない。
 わたしの手に終えない何か≠宿しているマイキー君はどう足掻いても深い闇の中に堕ちていくのかもしれない。

 だけど、それが何なのだろう。

「ずっと一緒にいたい。だから、ずっと一緒にいる」

 わたしがマイキー君のことを好きで、大好きで、この世のなによりも愛しく思う気持ちにどう関係するのだろう。

「ていうか。わたしを手放すって意味、ちゃんとわかってんの? わたしが他の人と付き合ってもいいってことになるんだけど」

 マイキー君の上目蓋がぴくりと不自然に動いた。真正面からマイキー君を見据えながら、わたしは尋ね続ける。

 マイキー君の真っ黒な瞳の奥で何かが燻る。そして、あっという間に燃え上がった。

「わたしがマイキー君以外の男子と付き合うってことだよ。いいの、それで?」

 嫉妬なんて生易しいものではない、もっと苛烈な何かがマイキー君を身の内から焦がそうとしていることを確認した上で、わたしは淡々と、更に煽っていく。

「わたしが他の人と、手を繋いだり、キスしたり、セックス、」

 突然、マイキー君がしがみつくように抱きしめてきた。枕に顔を埋めながら二本の腕でぎゅうぎゅうとわたしを抱きしめ続ける。
 マイキー君の匂いがした。初めてセックスした時死ぬほど緊張していたけど、マイキー君の匂いを嗅ぐ度に少し心が和らいだことを思い出した。

 マイキー君は不思議だ。一緒にいると無性に不安になって、だけど一緒にいたくて、緊張して、安心する。
 万華鏡のように、覗き込む度にくるくると移り変わる。

「それ以上言わないで」

 掠れた声で紡がれた必死の懇願に、わたしは「なにそれ」と憮然として返した。

「だってそういうことじゃん」
「……」
「別れるってそういうことだよ」
「……」
「マイキー君に止める権利なんてないんだからね」
「やだ」
「やだって言われてもないもんはないよ」
「駄目」
「だから駄目って言われても」
「やだ。駄目。無理」

 駄々っ子のようにいやいやと首を振るマイキー君に呆れ果てた。なにそれ。別れるけど他の奴とは付き合うなって理不尽にも程がある。ああ、でもマイキー君はいつもそうだったな。自分勝手で我儘で、振り回される度に意味わからんと頭を抱えながら――愛おしかった。

「菜摘の馬鹿」

 枕に顔を埋めたマイキー君は、くぐもった声でわたしを詰る。

「何回も、何回も何回も何回も何回も必死に言い聞かせて、誓って、必死にここまで辿り着いたのに、なんで、そーゆーこと言うんだよ」

 わたしの上に覆いかぶさる体が、カタカタと震えていた。

「オマエのこと傷つけたくないのに、なんで、そんなことばっか、言うんだよ」

 声も震えていた。
 マイキー君は、ただ、ひたすらに怯えていた。今や無敵のマイキー≠フ見る影もない。ここにいるのは怖がりの15歳の男子だった。

「絶対守るとか、幸せにするとか、そんなん、言えないのに、」

 更にぎゅうっと抱きしめられると、体が軋んで痛みを訴えた。だけど不快ではなくて、心地よさすら感じた。

「解放、できねぇじゃん」

 今にも泣きだしそうな声が鼓膜を震わせた瞬間、やっとだ、と思った。やっと、ようやく。

 マイキー君は強い。いつだって強く在ろうとする。少しだけ肩の力を抜いても、すぐに、また無敵のマイキー≠ノ戻ってしまう。

 弱いくせに。ひとりじゃ何にもできないくせに。

「……だからさぁ」

 気付いたら声が湿っていた。涙腺が緩んで、視界がふやける。マイキー君の背中に手を回しながら、負けじと抱きしめ返した。きっとわたしの力程度じゃ痛いなんて思わないだろうけど、仕返しとばかりに強く強く抱きしめる。

「そんな怖がらないでよ、わたし、マイキー君に傷つけられることなんて絶対ないんだから、マイキー君が隣にいることで不幸とか思わないから、勝手に決めないでよ、ばか、あほ、どじ、ちび……」

 しゃっくりが込み上がり、罵声を途中で切らしてしまう。チビをあと三回は言いたかったのに。いつのまにか溢れ出した涙が頬を伝い口の中に転がり落ちてくる。

 怒ってたのに、悲しい訳じゃないのに、涙が次から次へと溢れる。

「うう〜〜……」

 マイキー君がゆらりと動き、枕から顔を上げた。
 そして、いつものように。何も聞かずに、キスしてきた。

 冷たいくちびるが離れる。ぐちゃぐちゃになった視界ではマイキー君がどんな表情をしているのかよくわからなかった。
 少し沈黙が降り立った後、マイキー君がぽつりと問いかける。

「キレねぇの?」

 いつもキスの後『急にしないで』と文句を垂らしてばかりのわたしが無言だから不思議に思ったのだろう。その問いかけに答えようとした。でも、気付いたら全然違う事を口走っていた。

「もっと」

 ひくっと嗚咽を上げながら、必死に声を紡いでキスをねだる。マイキー君は何も言わなかった。頷きすらしなかった。だけどまた、キスしてくれた。ひんやりとしたくちびるが、わたしの熱いくちびるを冷やしてくれる。マイキー君のくちびるは、淡い雪のようだった。冷たくて柔らかい。ふれた瞬間に、すぐにとけてなくなる。

 もっと、もっと、もっと。

 だからわたしは何度もねだった。何度も何度も何度も、譫言のように同じ言葉を繰り返した。マイキー君はずっと、無言で応えてくれた。最後は何も言わなくても、自らキスしてきた。いつもの突然のキスでも、セックスの時の激しいキスでもない。世界の隅っこでこっそり内緒話をするような、ささやかで柔らかいキスだった。

 何で涙が出てきたのか、その理由はキスを受けているうちにわかった。
 寂しかったからだ。わたしは、寂しかった。マイキー君に会えないことが、さわれないことが、さわってもらえないことが、ただ、寂しかった。

 もしかしたらこのキスでまた、未来が変わるのだろうか。
 マイキー君が大量殺人犯にならずに済むにはどうしたらいいか、全然、わからない。手掛かりは何もない。
 だけどわたしは、マイキー君の傍にいたい。
 運命が変わろうが変わらまいが、ずっと、隣にいたい。
 諦めたくない。
 マイキー君が諦めたとしても、諦めたくない。
 誰を傷つけてでも、誰を犠牲にしてでも、マイキー君が幸せになることを、絶対、諦めない。

 だから。だから、ごめん。
 ぎゅうっと目を閉じると、目蓋の裏側で太陽のような金色が光り輝いた。夏の陽射しのように明るく、あっという間に夜を塗り替える。
 
 ごめん。タケミっち君。
 わたしが駄目だった、その時は。

 何度目かわからないキスを交わした後、マイキー君はもう一度枕に顔を埋めながらわたしを抱きしめた。かき集めるような手つきで強く抱きしめられる。まるで、わたしの存在を確かめるように。

「菜摘」

 ひどく弱々しい声で、名前を呼ばれる。

「万次郎って、呼んで」

 嗚咽を必死に押し殺しながら、一文字一文字に想いを籠めて、彼の名を呼ぶ。

「万次郎、君」

 彼は何の反応も返さなかった。ただ、もう一度同じ調子でわたしを呼ぶ。

「菜摘」

 少し涙の滲んだ声で、必死に声を紡いでいた。ありったけの勇気を振り絞りながら、弱い自分をわたしに見せてくれた。

「オレのモンになって」

 ガラス細工のように繊細な声に、胸の奥がぎゅうっと狭まり、息が詰まった。誰のためでもない、自分の願い。意地っ張りなこの人はなかなか口にしてくれなかった。
 ささやかでちっぽけな願いは暖かな光となって、わたしの心の中に舞い降りる。小さな星のように、チカチカと瞬いていた。

 だけどきっと、まだ全部じゃない。わたしじゃきっとこの人のすべてを掬い上げることができないことがもどかしくて悔しくて悲しくて、

 でも、そう、だけど、だけど、だけど、一緒にいたい。
 一緒にいたいの。
 わたしの命が尽き果てる、最後の瞬間まで。

「いいよ」

 嗚咽を押し殺しながら無理矢理口角を上げて、呆れたように笑ってみせる。痛んだ金髪に指を通しながら、あやすように撫でた。

「しょうがないから、なってあげる」

 体も、心も、魂も。あげられるものは全部あげる。
 だからお願い。
 どうかいつか、『幸せだ』って笑ってね。

 万次郎君の熱く湿った息が、首筋に触れた。ごめん、と微かな声が鼓膜を撫でる。謝ることなんてなにひとつないのに。どうして謝ってほしい事は謝らなくて、謝らないでいい事は謝るんだろう。

 わたしの人生設計はただひとつ。
 君のとなりで生きていくこと。

 小刻みに震えている体を抱きしめながら、窓の外の空を見つめる。

 どこまでもどこまでも、空は続いていた。
 晴れているけど、白く霞んでいる。淡い水色を湛えた春の空だった。

 窓から柔らかな陽射しが差し込んで、彼の金髪を淡く透かす。目を閉じても、輝きは目蓋の裏側でいつまでも点滅を繰り返していた。

 冬が終わり、春の始まりを告げている。

 わたしが彼以外のすべてを捨てた日は、泣き出したくなるような優しい空が、どこまでも広がっていた。








The day of the end is like today.



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