夢を見る。
オレ達がバカ騒ぎしたせいで赤ちゃんが起きてしまい、エマにめちゃめちゃキレられる夢。
『待ちなさいよマイキー!』
目を三角に吊り上げたエマがオレにビールの缶を投げつけてくる。寸でのところで避けるけど、エマはオレに当たるまで攻撃を続けるつもりのようだ。オレはひゅんひゅんと投げられるビールの缶を避けながら、白い目で眺めていたオマエの手を掴むんだ。
『逃げんぞ!』
『え、なんで。わたし関係ないんだけど』
『あるし! オマエはオレのなんだから!』
オマエは訳がわからないと言いたげに眉に皺を寄せた後、盛大にため息を吐きながらも抵抗することなく、引きずられていくんだ。
振り向いて、オマエの顔を確認する。
目が合うとオマエはやれやれと肩を竦めてから、呆れたように唇を緩めて笑うんだ。
しょうがないなぁ、って。
パーちんのダチの彼女が殴られた挙げ句輪姦されたという話を聞いた時、腹の底で怒りと不快感が渦巻いた。多分、オレなりの正義感が燃えていたんだと思う。病室で眠り続けてるパーちんの彼女を見ると更に実感が沸いて、仇を取ってやっかという思いは更に加速した。
今にして思うと、他人事だった。
他人事だったから冷静に正義感を燃やしていた。
同じ目に遭った菜摘を見た時、思った。
決意なんて必要なかった。
生まれてきたことを後悔するような地獄を見せてやる
呼吸するように、そう思った。
イザナから菜摘を襲った奴等の身柄を教えてもらったオレは、奴等が年少から出所するのを待ち構え、出てきた瞬間拉致した。
オレの奥底にずっと住み着いている真っ黒い何かが、嬉しそうに囁きかける。誰の女に手を出したのか、わからせてやらねえとな? 地獄を見せてやれ。
オレは奴等をギリギリのところで意識を保たせたまま、両腕両足切断し目玉をほじくった。
倉庫の中で響き渡る殺してくれという断末魔を、イザナは心地良さそうに聴いていた。
オレは何も思わなかった。
返り血で服が汚れても、
生臭い匂いがこびりついても。
だって呼吸するのに何かを思う必要なんてないだろ?
菜摘を傷つけた。
オレから取り上げた。
だから、地獄を見せるのは至極当然で、特筆することはなにもない。
心が、魂が、夜よりも深い闇に覆われていった。
菜摘に会いたいという切望は真っ黒な欲望となり倫理観や正論をあっという間に食い尽くした。オレに異を唱える人間を衝動の赴くまま殺していく内に、気付いたら、手が真っ赤に染まっていた。
なんでこんなことをしてるんだろう。
なんで東卍の皆を殺してまで金を集めてるんだろう。
自分の行動原理に疑問を抱くと、いつかのイザナの言葉が脳裏に甦った。
『でも、川原菜摘は生きてるだろ?』
その言葉は甘美な誘惑となり、砂糖に群がる蟻のようにオレを惹き付けた。その言葉を思い出すだけで、どれだけ失意の中に沈んでいたとしても、魔法にかけられたようにオレの体は動いた。
エマは死んだ。だから会えない。
だけど菜摘は生きていた。ボロボロになりながらも生きていた。
だからいつ目が覚めて動き出すかわからない。
もしかしたら明日。
マイキー君って呆れたように呼んでくるかもしれない。
妄執のような願いはオレを雁字搦めにした。いや、願いなんて生やまさしいものではない。もう、呪いだった。
菜摘がいつ目覚めても大丈夫なように準備が必要だった。
菜摘のクラリネットは逃げる時に投げ捨てたらしく、壊れていた。菜摘の存在を認識し始めた頃、オレはクラリネットなんて楽器をほとんど知らなくて『パパからもらった〜ってやつ』と聞いたら『うん、それ』と菜摘は頷いた。あの頃は佐野君って呼ばれてたな。そう思いながら、百万円のクラリネットを買った。
イザナが調べてくれた菜摘の口座番号に、毎月、金を送れるだけ送った。菜摘が最高設備の整った病院で、最高の治療を受けられるようにさせた。
起きろ起きろ起きろ頼む起きろなぁ起きろって。
暗くて狭い、酸素が少しずつ抜けていくような地下室に閉じ込められたような気分だった。オレの周りだけ酸素が薄いのかひどく息苦しい。眠れない。菜摘に子守歌を吹いてほしいのにアイツは自分が寝てばかりで一向に起きない。ふざけんな、オマエいつまで寝てんだよ、なんなんだよ、なあ、なあ、なあ。
いつのまにか伸びた黒髪をぐしゃぐしゃに掻きむしりながら机に突っ伏した。顔にかかってきて鬱陶しい。煩わしさから乱暴に髪をかき上げて、それからポケットに手を突っ込んだ。中学時代に使っていたガラケーを取り出してデータフォルダをクリックすると、初めてデートした時に強制的に撮ったツーショットが画面に表示された。
菜摘は目を丸くして吃驚してる。間抜け面だった。
川原菜摘。
そこら辺にいる中坊の代表のような女だった。
たまたま同じクラスだった。たまたま隣の席だった。部活は吹奏楽部でクラリネットをやっていた。
三秒で忘れてしまいそうな顔をしていた。だから隣の席になっても全然覚えられなかった。だけどいつからか、菜摘の顔を見たいがために学校に行くようになった。
耳の下で揺れている二つ結びの片っぽを引っ張ると『ちょっとやめてよ』と、垂れ目がちの奥二重を少し吊り上げながら、マジでまあまあキレてきた。
大人しそうな顔をしている癖に、結構強かだった。それからちょっと毒舌。最初はどもりながら喋ってたくせに最終的にはチビと罵ってきやがった。マイキー君のバカ、アホ、チビ、チビ、チビ。チビの三連続だ。チビじゃねーしと言ったら、男子の平均身長調べてみろと鼻で笑ってきた。困った顔が見たくてエロいと囃し立てても涼しい顔で流したり、ため息を吐いたり、マイキーと呼べと言ってもなかなか言う通りにしなかったし、なあなあで始まるのは嫌だと言ってキスを止めてきたし、高校の制服に対してなんかコメント寄越せと言うから『これでヤッたら燃える』つったら何故か死ぬほど白い目で見てきやがったし。
全然可愛くなかった。生意気だった。
どこにでもいるような中坊の癖に。生意気なんだよ。ハブられたぐらいで泣く癖に。最初の頃オレにビビりまくってた癖に。
何の変哲もない、つまんねぇ女。
『いつもの佐野君と、なんか、違うし』
『……佐野君、わたし、子守歌吹けるよ』
『でも、戻ってくるだろうね』
『悩んでるってことは、許したいって気持ちがあるってことだから』
『頑張ったね』
『弱くたって、大丈夫だよ。今は、佐野君とわたししか、いないんだから』
『……しょーがないな』
それなのに。もう十年以上経っていると言うのに、どうしてオレの頭は未だに菜摘でいっぱいなんだろう。
笑った時の柔らかくなる目元だとか、食い物を頬張っている時の膨らんだ頬とか、勉強している時の真剣な眼差しが、ずっと、オレの心の奥底でゆらゆらと揺蕩っている。
『おいで』
抱きしめられた時の感覚なんてとうに忘れている。だけどあの時オレの心の中の柔く弱っちい部分まで掬い上げてくれたような感覚が、無性に泣き出したくなるような衝動が、今も胸に焼き付いている。
餓死寸前の人間が食い物を求めるのと同じように、オレは菜摘のぬくもりを求めていた。呆れてほしかった。笑ってほしかった。さわってほしかった。傍にいてほしかった。
マイキー君って、万次郎君って、
――川原菜摘
長年ただ思い出を振り返る為だけにしか使ってこなかったガラケーが、突然、本来の機能を取り戻した。オレと菜摘のツーショがこの十年焦がれて求め続けてきた名前に変貌を遂げ、目が自然と最大限に見開かれる。すっかりスマホに慣れていたオレはガラケーでの通話の仕方をすぐには思い出せずもたついた。ああ、そうだ。この受話器が開いているボタンを押せばいいんだ、逸る気持ちをそのままに乱暴にボタンをクリックし、耳に宛がう。世界が色づいていくような気がした。狭い箱から飛び出たような解放感に満ち溢れて新鮮な酸素が体内に流れ込む。
菜摘、菜摘、菜摘、
「……佐野万次郎、だよな?」
男の声が鼓膜を震わせた途端に、世界は瞬時に色をなくした。
そりゃ、そうか。
深い谷底に突き落とされたような絶望と果てしなく広がる虚無感に沈みながら納得していた。菜摘の周辺は常に探らせている。意識が戻ればオレに情報がすぐさま届くように手筈は整えていた。だから、電話口の相手が菜摘じゃないなんて当然の事。驚きに値しない。
そう、ただ、世界が色を失くすだけ。菜摘のいない日常が、また続くだけだ。
再び世界は深い闇を湛え酸素は薄くなりいつも通りの日常が戻ってくると、脳が正常に機能し始めた。
植物状態の菜摘のケータイを好きにいじれる人間は、この世に三人しかいない。電話口から流れる声は、若い男のモノ。
「川原菜摘の兄だ。オマエに話がある」
十二年前、頼むから帰ってくれと懇願してきた、ひょろい男が脳裏に浮かんだ。
指定された公園に、オレは約束通りひとりで向かった。菜摘の兄貴は浩々と光る三日月を見上げていた。顔立ちは似ていないが、雰囲気が菜摘に似ている。どことなく引き締まらない、ぬぼーっとした雰囲気。菜摘に『カピバラに似てんな』と言ったら、『嬉しくない』と返されたことを思い出した。ぶすっとした膨れっ面が全然可愛くなくて、面白かった。
しょうもない思い出にすら浸ってしまうほどに魂が菜摘を求めていた。酸素を求めるのに理由なんてないのと同じだ。菜摘との新しい思い出が一向にできないから、オレは過去の取るに足らない思い出を記憶の底から引っ張り出すことで生き延びている。
髪を切った。菜摘の兄貴に会うのかと思ったら、気付いたらハサミで長ったらしい黒髪を切っていた。自分で切った髪の毛は無茶苦茶で、ざんばら髪のオレを見かねた三途が手先の器用な部下にオレの髪を切らせた。首領にはかっこよくいてほしいだとかなんとか言ってた。
どういう髪型にしてほしいか希望はあるかと尋ねてきた部下に、オレは答えた。
『ちゃんとしてほしい』
菜摘の男であることが当然のような、堅気の、普通の髪型。
砂利を踏みながら菜摘の兄貴に近づくと、菜摘の兄貴はゆっくりとオレに顔を向けた。菜摘の兄貴はやつれていた。頬がこけ、目が落ちくぼんでいる。見るからに疲れていた。菜摘が植物状態になってから、菜摘の母親は精神科に入院したらしい。菜摘はマザコンだ。事あるごとに『ママがさぁ』と話に出してくる。目覚めた時に母親がいなかったらきっと菜摘は悲しむだろうから、菜摘の母親の入院費も込みで毎月送金していた。
「来てくれてありがとう」
軽く頭を下げて礼を述べる菜摘の兄貴を、オレは無言でじっと見つめる。菜摘の兄貴はオレの言葉を求めていないようだった。顔を上げると、ひとりでに淡々と喋り始めた。
「オマエに連絡取りたかったんだ。だから、菜摘のケータイから何回も取ろうと思ってたんだけど、あいつロックかけててさ。片っ端から入れてってみたよ、菜摘の誕生日、家族の誕生日、友達の誕生日、他にもまあ、色々。……まあ一応なって思いながらオマエの誕生日調べてみたら、やっぱ、それだった。
0820、だった」
菜摘の兄貴が呆れたように寂しそうに息を零して笑いながら紡いだ数字に、一拍置いてから、慈雨のように心の奥底まで深く染み込んだ。染み込み過ぎて、痛いほどだった。ケータイのロックのパスが、オレの誕生日だった。言葉にしたらそれだけの事実が大きな音と鳴り、オレの心臓に反響を残し続ける。いつまでも、揺らし続ける。
「菜摘が、オマエの事、マジで好きなのはわかってたよ。一度、母さんに食って掛かってたしな。……母さんにあんな風に歯向かう菜摘見たの初めてだったよ。
……オマエも、菜摘の事好きなのはわかった。けどな、もういい」
菜摘の兄貴は懐かしむようにどこか遠くを見つめながら笑った後、またオレに視線を戻した。話し切り上げるように厳しい声色で言った後、自分の体の両側に置いているスーツケースをオレに向かって動かしながら、
「金はいらない」
菜摘の兄貴は表情に疲労感を滲ませながらも、瞳に確固たる決意を宿していた。菜摘の兄貴はスーツケースの取っ手をぎゅうっと掴むと手の甲に血管が浮かんだ。そして、そのままオレに向かって進める。オレは菜摘の兄貴に少しも触れられていない。それなのに胸を押されて突き飛ばされたような気がした。
「今までの金、ここに置いておく。
……今の医学じゃ無理かもだけどさ、いつか、治療法が確立されるかもしれないだろ?
目が覚めて、また、好きな奴ができて、でも結婚とかになった時に、東卍のトップと関わってたことバレたらさ、白紙になるかもだろ?
頼む。
もう、菜摘に関わらないでくれ」
菜摘の兄貴は一息に告げると、体の中に溜まっていた感情を吐き出すように息を吐いた。物思いに耽るように目を閉じてから、オレにしっかりと焦点を合わせる。菜摘によく似た眼差しだった。オレの奥底にあるものをじっと探るような目つきが、菜摘に重なる。
「この金は、どこから手に入れた?
……正規の手段じゃないだろ? 菜摘の為想ってやってくれたのかもしれねぇけど、迷惑だ」
菜摘に言われたような気がした。
気付いたら。そう、まただ。また、気付いたら、オレは引き金を引いていた。バァン! と風船が割れたような音が炸裂し、菜摘の兄貴の額に風穴が空いていた。背中から倒れ込んだ菜摘の兄貴の頭部から真っ赤な液体が流れ、やがて排水口に吸い込まれていく。
……あれ?
自分が何をしたのか、よくわからなかった。とりあえず銃を後ろのポケットに戻して、それから、両手を目の前に翳した。今、オレ、多分また殺した。もう何人目だ。この手で何人殺してきたんだろう。二桁じゃ足りない。黙殺してきた末端の殺人も合わせれば、三桁を超えている。
今まで何人かに言われてきた。そんなことをされても菜摘は喜ばない。その度に耳を塞いで片っ端から殺してきた。うるせぇ、アイツはオレのモンだ。どうしようがオレの勝手だ。うるせえうるせえうるせえ死ね。
だけど今回は菜摘の肉親だ。オレは家族を失う絶望を知っている。体の一部をもがれたような痛みと喪失感が今も心臓を巣食っているというのに。ちゃんと、知っているのに。
殺した。
菜摘の家族を殺した。
「……あ……」
唇の端からぽろっと乾いた声が零れ、さっきまで菜摘の兄貴だったものの上に、落ちていった。
『お兄ちゃんがさぁ』
兄貴の事をとりとめもなく語る菜摘の表情が今もまだ胸に棲みついている。オレには見せない甘えたような表情が鼻についた。オレにもそういう顔見せればいいのに。菜摘の兄貴、ずりぃ。
菜摘は目が覚めたら、兄貴を殺したオレをどう思うのか。同じく兄貴と妹を殺されたオレにはすぐにその答えがわかった。
自分が本当に駄目≠ノなった事を今更思い知る。
この世界を司る神のような巨大な何かが、オレの脳に天啓を告げた。
菜摘の目が覚めようが覚めまいが、
人殺し
は、菜摘の傍にいられない。
二つの分かれ道があって、オレはその真ん中に立っていた。
右側は溢れんばかりの光に包まれているのに対し、左側は禍々しい漆黒の靄に覆われていた。
左だな。
息を吸うように左≠セと思った。タケミッちの腕の中で終わりだなんて、エマが好きな少女漫画よりも都合が良すぎる。
オレを信じ切っていたタケミッちの瞳は、夜空に冴え冴えと光る星空のようだった。馬鹿みたいにオレを慕ってくれた奴を、またオレは裏切った。それなのに泣いてくれた。過去に戻れるんだとしょうもなく優しい嘘を吐いてまで、慰めようとしてくれた。
人殺しのオレから目を逸らすことなく、真正面から向き合い、最後まで諦めずに助けようとしてくれた。
……あんな風になりたかった。
強い意志を湛えた瞳を思い浮かべると、流れ星のように、憧憬が胸の中に瞬いた。手を伸ばしても、オレには絶対届かない。
タケミッちのように強くない癖に、菜摘を欲しがった。
色んな罪を犯してきたけど、その中でも最も罪深いだろう。
シンイチローやエマはオレの兄妹だったから死んだ。オレが生まれてきたこそが問題だった。
たけど菜摘はオレが生まれようが生まれまいが、真っ当に、普通に生きれるはずだったんだ。
菜摘は、オレが生きてきた中で無理矢理掴んだものだった。オレとは違う世界の人間だとちゃんと肌で感じ、オレの傍にいる危険性も薄々感づいていたのに、それでも、手を伸ばした。届かない星を無理矢理つかみ取り、オレのモンだとうそぶいた。
菜摘はオレと関わらなければ死なずに済んだんだ。
もし過去に戻れるとしたなら、オレは、菜摘に近づかない。渡されたどら焼きを払い落として『いらねぇ』と突っぱねる。オレだって菜摘に近づいたせいで背負わなくてもいい苦しみを更に背負ったんだ。
果てしなく広がる漆黒の靄を見つめながら、言い聞かせるように、菜摘の存在を否定する。菜摘との思い出を塗りつぶすように、否定を重ねる。
「……キー君、」
いいんだ。あんな奴、いらない。
「……イキー君、」
ただ、席が隣なだけだったし。
「マイキー君、」
オレの人生は東卍が全て、
「ちょっと、マイキー君ってば」
ぐいっと肩を掴まれて後ろを向かされると、心臓が衝撃に貫かれ、息が止まった。奥二重の中に浮かんでいる黒目が、波のように揺れているオレの瞳孔を映している。
「無視しないでよ。ほんと、人の話聞かないんだから」
不機嫌そうに口をへの字にした菜摘が、立っていた。
大人になっていた。この前、病室で見た時と同じ姿をしていた。髪の毛は短くなり、顔からあどけなさが薄れている。棒のように細かった腕や足に適度な肉が付き、丸みを帯びた、大人の女の体型になっていた。
菜摘は腕を組みながら呆然と立ちすくんでいるオレをじとりと睨んでいたがふうっと息を吐くと「……わたしが言えた義理じゃないか」と苦笑した。
「わたしもずっと、無視してたもんね。マイキー君が呼んでくれたのに、答えなかった。ごめんね」
眉を下げて悲しそうに微笑んでいる菜摘が、オレの顔を下から覗き込みながら、両手で顔を包み込んだ。小さくやわらかな掌に触れられた瞬間、心臓に熱が灯った。
固く凍らせていた何かが、溶け出していく。
近づくな、触るな。手を振り払って拒絶したいのに、できない。
「ずっと、頑張ってたね」
菜摘との思い出は写メしか残っていなかった。だから、声はとっくの昔に忘れていた。それなのに聞いた瞬間、あっという間に鼓膜に馴染んだ。菜摘の声や息遣いが鼓膜を震わせる度に、小さな心の襞がひとつひとつ震えて眠っていた熱い塊を呼び覚ます。唾を呑み込むことで必死に押し止めるけど、次から次へと沸いて出てくる。
「ありがとう」
やめろ。
声を荒げて突き飛ばしたい。
だけどできない。
なんでだ。
目の前にいる女は、どこにでもいる。
オレなら一捻りだ。一瞬で殺せる。この前だって、できたじゃねえか。
菜摘を自分の手で殺した後の喪失感に耐えられず、フィリピンまで飛んでタケミッちに殺してもらおうとしたことを記憶の隅に追いやりながら、できると自分に言い聞かせる。突き飛ばせ、触るな、近寄るな、
――できない。
「百万円のクラは、わたし、ビビって吹けないけどさ。でも、ありがとう」
菜摘は掌の中のオレの頬の感触を確かめるように、親指で優しく撫でた。全方位に尖っていた心が丸みを帯び、肩から力が抜けていく。
「綺麗な女の人とか可愛い女の子に誘われてたのに、断ってくれてありがとう。約束、守ってくれたんだね。
ありがとう。……ありがとう」
菜摘の声に湿り気が帯びた。緩く細められた瞳に水の膜が薄く張られ、光を反射してきらりと輝いた。
干上がった喉を潤す為に、唾を呑み込んでから必死に声を絞り出す。
「だって、オマエ、めんどくせぇから」
小刻みに震えた情けない声を、菜摘は笑わずに聞いてくれた。オレの目をじいっと見つめながら「うん」と頷く。
「たかが、セックスで、泣くから」
「うん」
「約束破ったら、めんどくさそうだし」
「うん」
「オマエ、キレたら、めんどくせぇし」
「うん」
「オマエが、泣いたら、」
嫌だし
そう続けようとしたら、声が出なかった。
ぶわぁっと涙が視界を覆い、あっという間に埋め尽くした。嗚咽が次から次へと喉を這い上がり、思うように息ができなくなった。
頬から菜摘の手が離れ、オレの後頭部に移動する。菜摘は柔らかく包み込むようにオレの頭に手を這わせながら、自分の首筋に顔を埋めさせた。抵抗しようと思えばできる弱々しい力なのに、どうしてもできない。菜摘の首筋からほのかに甘い匂いが漂い、鼻孔を掠めた。そうだ、菜摘はこんな匂いをしていた。思い出した、そうだ、菜摘、菜摘、菜摘、菜摘菜摘菜摘菜摘菜摘菜摘、
菜摘、
狂ったように心の中で菜摘を呼ぶ度に、心臓がぎゅうぎゅうと強く収縮した。生きている時よりも生きている実感が体中に流れた。
「ありがとう」
違う。
「わたしのこと、幸せにしようとしてくれて、ありがとう」
違う、違う、違う。
菜摘の首筋に顔を埋めたまま、ぶんぶんと頭を振って必死に否定する。オマエの為なんかじゃない。全部自分の為だった。菜摘に起きてもらわないと自分が困るから、えげつない手段を使って金を稼いだ。ケンチンの言う通り、こんなことで菜摘が喜ばないとわかっていた。わかっていたくせに、どうしても目が覚めてほしくて、菜摘の気持ちなんて後回しにして、目覚めようとさせた。
菜摘の兄貴まで殺した。
駄目なんだ。こんな風にオマエに抱きしめられる資格なんてないんだ。
こんなことしちゃ駄目だ。菜摘はオレを、憎むべきなんだ。恨むべきなんだ。オレなんかと出会ったせいで人生無茶苦茶だと罵るべきなんだ。
「オマエの、兄貴、」
「うん。知ってる」
「なんでだよ、馬鹿かよ、ふざけてんじゃねえよ! オマエまで殺したんだぞ!!!」
「ふざけてない」
吠えるように怒鳴るオレに対し、菜摘の声はどこまでも冷静だった。「ふざけてないよ」ともう一度淡々と繰り返しながら、オレの頭をあやすように撫でていく。
「全部知ってる。昔のわたしが見てきたもの、全部流れ込んできたから。怖かった。殺してくれって断末魔、ずっと耳に残ってる。だけど、」
言っている意味がよくわからなかった。けど、あまり気にならなかった。それよりも、背中に移動した両手が気になったから。ぎゅうっと掻き抱くようにしてオレを抱きしめるその手は、戦慄くように震えていた。
「だけど、好きだって気持ち、消えなかった。他の誰が苦しんでてもそれよりもマイキー君の事ばっか、気になった」
一区切りつけてから、菜摘は観念したように息を零して笑った。
「……だから、まぁ、そういうことなんだろうね」
そういうことってどういうことだよ。
声に出した訳じゃないのに、オレの心の内の問いかけを菜摘は見透かしたように答えた。
「わたしはマイキー君がどうしようもなく好きで好きで、誰よりも、大好きで。どうしたって傍にいたいってこと」
まろやかな声で、歌うように。
駄目だ。
強く抑えていた感情が蓋から溢れ出しかけたのを感じ、ぎりっと奥歯を噛んだ。なんでだ。なんでコイツ、いつもこうなんだよ。苛立ちに似た何かが全身を駆け巡るのと同時に足に力を入れた。そうしないと、崩れ落ちてしまいそうだった。
こんな事思っちゃいけない。
両手に余るほどの人を殺してきた。
末端の奴等の暴動を取るに足らない出来事として黙殺してきた。
大量の人間の幸せを奪った人間が、望んではいけないんだ。
菜摘の掌がするすると動いて、オレの頭に手を添えた。優しい手つきが心の琴線を揺るがして、やめろよと苛立ちが沸いて、奥歯を噛むことで必死に抗う。
やめろって。なんでだよ。
「お疲れ」
どうして、いつも。
「ひとりで頑張ったね」
頼むから。
「だから今度は、」
首筋に埋めたオレの顔をゆっくりと持ち上げて、首を傾げながら下から覗き込むと。
「幸せを見つけようよ、ふたりで」
花が咲くように、ふわりと笑った。
ぷちんと何かが音を立てて切れると同時に、菜摘にしがみついた。オレの重みを真正面から受け止めた菜摘は耐えられずに、そのまま尻餅を着く。だけどオレは構わずに菜摘に抱き着いた。腕の中の菜摘が潰れるんじゃないかってくらい、強く強く抱きしめる。東卍のトップが、そこら辺にいるような女の見本例に縋りついていた。情けない、かっこわりぃ。だけど菜摘は茶化すことも驚くこともなく、まるで水面に落ちた花びらを掬うような手つきでオレを抱きしめた。
菜摘はいつもそうだった。
オレのどうしようもなく弱く柔い部分を、大切に包み込んでくれた。
幸せ。実体のないソレは、オレの手からするすると零れ落ちていく。オレがオレとして在る限り、擦り減っていく。だからこの手をオレは今すぐ突き放さないと、また、菜摘まで、だけど、ああ、せめて、今だけは、もう少しだけ、地獄に行くまでは、どうか、
「大丈夫。間に合ったから」
……え?
菜摘の声に反応し顔を上げる。菜摘は潤んだ瞳で、名残惜しそうにオレを見つめていた。
「間に合わせてくれたよ。マイキー君の大好きで大切な友達が。今のわたし達は、消えてなくなる」
「どういう、」
菜摘の言葉の意味を図ろうと問おうとしたら、突然、眩い光に包み込まれた。菜摘の体の感触が消えていくと、血の気が引いた。待って、もう少しだけ。もう少しだけでいい、あとはちゃんと、オレ頑張るから、今度こそ、ひとりで苦しむから、だから、もう少しだけ、
「ごめん、もう少しだけ、待ってて……!」
オレの心の内の言葉を知ってか知らずか、全然違う用途で菜摘は引き取る。菜摘の頬に流れた涙が、積もりたての雪のように光っていた。
体が、後ろに引っ張られる。
まるで、動画を巻き戻すように。
「また、一人にさせちゃうけど……!」
心苦しそうにぎゅっと眉間に皺を寄せてから、菜摘はすうっと息を吸い込んで、思い切り声を張り上げた。
「絶対絶対絶対、会いに行くから!!!」
キィン、と耳の中でハウリングが起こる。そういやそうだった。菜摘ってテンション低めだから普段はボソボソ喋るけど、吹部だった。肺活量を生かした無駄にでかい声が、くわんくわんと鼓膜の中で反響を続ける。
「っるせぇ………」
耳を抑えながら思わず呟くと、菜摘は目を見張らせてから笑った。今にも泣き出しそうな笑顔だった。
暖かい風が突風のように巻き起こり、髪の毛をさらった。真っ白な光が閃光のように飛び込んできて、思わず目を閉じる。
引っ張られる。
どこかに引っ張られていく。
後ろに。
過去に。
時計の秒針が急速に反時計回りを起こしている映像が、瞼の裏に浮かんだ。
「……イキー、おい、マイキー!」
ハッと我に返ると、ケンチンがオレを心配そうに呼んでいる事にようやく気付いた。
「ごめん」
「大丈夫か」
気づかわし気な視線を笑い飛ばそうとして、口角がうまく上がらなかった。「ケンチンこそ」と憎まれ口のようなものをかろうじて口にする。いつもなら「あ? 舐めてんのか?」とつっかかるくせに、ケンチンは唇を閉じるとそれきり押し黙った。
色んな事があった。
エマが死んだ。
菜摘が襲われていた。
なんとかギリギリのところで間に合って、病院に駆け込んだ。
ケンチンにぶん殴られた。
ヒナちゃんから、タケミッちのタイムリープの事を聞いた。
一生分の出来事を全て詰め込んだような一日だった。悲しみ、憎しみ、怒り、驚き、色んな感情が凝縮されて脳みそも胸の中もぱんぱんに膨れていた。
もう、立ちたくない。だけど、立たないといけない。
だってオレは、東卍の総長なんだから。
待っていてくれる奴等が、いるんだから。
弱いオレを強いと信じてくれてる奴等が、いるんだから。
「行こう、ケンチン。ヒナちゃん」
三ツ谷が仕立て上げてくれた特服を翻しながら、病院を出る。
『エマを殺したんだ。菜摘にも重傷を負わせた。全員皆殺しにしねえとな』
オレの中に巣食っている真っ黒な何かが、ひそひそと耳元で話しかけてくる。今日の出来事を経て、以前よりもコイツはオレの中ででかくなった。菜摘の上に跨っている男を視界にいれた瞬間、今までで一番、巨大に膨れ上がった。殺意に変貌を遂げた衝動がオレを突き動かし、蹴り飛ばしただけでは到底飽き足らず、更に攻撃を続けようとしたオレにタケミッちが罵声を浴びせた。
『マイキー君! そんなことしてる場合じゃねえよ! 菜摘さんが大変なんだぞ!?』
……普段、あれだけビビりでヘタレてる癖になぁ。土壇場になると強くなるタケミッちの事を思うと心が和らいだ。だけど、真っ黒な何かはまだ執拗に、囁きかけてくる。
『菜摘はいいよ。生きてんだから。でも、エマは?』
――エマ。
マイキー! 朗らかな呼び声が不意に脳裏に浮かび上がると、黒い衝動がにんまりとほくそ笑んだ。
『エマは戻ってこないんだぜ? じゃあ、やることはひとつだよな?』
そうだ、エマは戻ってこない。
世界でたったひとりの、オレの妹。
握りしめた拳に力が入ると、黒い衝動は歓喜に震えながら見悶えた。全身に禍々しい靄が流れ、体を支配する。殺せ、殺せ、殺せ。殺意が心の奥底に固まりかけた、その時だった。
『なんて顔してんの』
呆れたような声が、聞こえた。
菜摘の声だった。聞き間違えるはずがない。足を止めて振り返る。誰もいなかった。木々が、葉を擦り合わせながらそよそよと揺れるだけ。
「マイキー…君?」
ヒナちゃんが不思議そうにオレを呼んだ。もしかしたら、ヒナちゃんの声を菜摘と聞き間違えたのか。だけどヒナちゃんは今初めてオレに話しかけたようだった。それに、聞き間違えるだなんてそんなことありえない。オレが菜摘の声を間違えるなんてことは、絶対にない。
ごめん、と心配かけさせた事をヒナちゃんに謝ろうとしたら、また、聞こえた。
『喧嘩、好きなんでしょ? わたしにはよくわかんないけど。というか、全然わかんないけど』
今ここにいるみたいに、菜摘の声が鮮明に聞こえる。いつの間にか黒い衝動は鳴りを潜めていた。
『まあ、とにかく』
はぁっと呆れたような溜息が鼓膜をくすぐる。
『怪我しないように楽しんできてね』
いつかの、あの時の笑顔が浮かんだ。
喧嘩を楽しむオレに不可解な眼差しを向けた後に見せた、菜摘にしては珍しい、屈託のない満面の笑顔。
でも、最近どこかで見たような気がする。
最近だっけ、もっと後の話だったような気もする。十年くらい、後のような。
――いや、今じゃない。
今は、それを考える時じゃない。今、オレが、東卍の総長がすべきことは。
ぱしんと両手で頬を叩いた後、憂いを帯びた眼差しでオレを見つめるケンチンのケツに蹴りを食らわせた。ドゴッと鈍い音が鳴り、ケンチンは声にならない悲鳴を上げる。
「てんめ……っ、何すんだゴラァッ!」
「うっせーなー。シケた面してるから喝入れてやったんじゃん。笑えよ、ケンチン!」
口角を上げて、ニカッと歯を見せて笑った。
そうだった。
喧嘩は、殺し合いじゃない。
自分の全力をぶつけるために、楽しむために、オレ達は拳を交わす。
「祭り
なんだからさ!」
ケンチンが呆気にとられたようにパチパチと瞬きを繰り返した後、ふっと唇を緩めて不敵に笑った。
「んなこたぁ知ってんだよ! わざわざいうんじゃねえつーかケツいてぇんだよ! これからバイクなのにどうしてくれんだ!」
「し〜らね〜。座布団でも敷けば〜?」
「テメェこのクソマイキ―――!!!」
悲しみも、怒りも、やる瀬なさも封じ込めて、オレ達ははしゃいでみせる。ヒナちゃんは目を丸くしてからゆるりと細めて、唇を綻ばせた。
その隣で、光が舞う。
ヒナちゃんの隣で、左右に小さく揺れていた。
いつかの。いつもの。オレに向かって振られる小さな掌のようだった。