未来とは、今である。
 ――マーガレット・ミード





 チクタクチクタクチクタク。

 秒針が激しく刻まれる音が聞こえた。耳元に時計を押し付けられているような不快感に押され、意識が浮上する。

 起き抜けの頭に、突風のようにそれは突撃してきた。
 
「全部オマエのせいだ!!!」

 耳を劈くような怒声だった。ビクッと神経が強張り、竦み上がる。怒号の先に意識を集中させると、信じがたい光景が広がっていた。

 心臓が凍り付く。

 パパが、馬乗りになってマイキー君を殴っていた。 

『や、やめてよ! 何してんの!?』

 大声を上げたつもりなのに、全く出なかった。なんで…!? 喉元を抑えようとして愕然とした。喉が、なかった。いやあるにはあるけど、透けている。呆然としながら目元まで手を翳してみると、半透明の掌は向こう側の景色を透かしていた。震えながら、試しに壁に手を置いてみる。壁の感触を、感じなかった。
 声も出ない、触れる事も出来ない。今のわたしに意思を伝える手段をなにひとつなかった。

 どういう、こと。
 ようやく、今の自分の状況がおかしいことに気づいた。胸の中が瞬く間に不安で覆われる。体が無いのに、ひどく、息苦しい。

「返せ!!! ふざけんな!!! ふざけんな……!!!」
『やめて、やめてってば!』

 呆然としている間にも、時間は進んでいく。ハッと我に返ったわたしは、パパを止めに入った。必死に叫んでいるのに、パパはわたしの言う事になにひとつ耳を貸さない。目も顔をも真っ赤にして、眉を吊り上げて、ただマイキー君を殴っていく。マイキー君も抵抗ひとつしていなかった。わたしのパパなんて本気を出したら一捻りなくせに、ただ黙って殴られている。殴られることが、当然のように。

「父さんやめろって!」

 お兄ちゃんがパパを後ろから羽交い締めにして大声でたしなめ、ようやくマイキー君は解放される。

『マイキー君、だいじょ……』

 しゃがみこんでマイキー君の瞳を確認した瞬間、ぞっと背筋が凍り付いた。
 長い睫毛に飾られた大きな黒い瞳には、果てしない虚無が広がっている。すべての感情が抜け落ちていた。
 パパの憎悪に塗れた視線は一直線にマイキー君に突き刺さっていた。食いしばった歯の隙間から、荒い息が漏れている。こんな風に誰かを憎んでいるパパを見るのは初めてだった。だって、パパはいつも穏やかだ。怒られた事は何度かあるけど、どういう理由で怒っているのか理路整然と説明した上で怒っていた。それがこんな風に、感情を剥き出しにして殴りかかるなんて。どんな理由があろうとも暴力はいけないと、常々わたしとお兄ちゃんに説いていたのに。にわかには信じがたくて目を凝らしてパパを見つめる。パパによく似たそっくりさんかと思ったけど、間違いなく、わたしのパパだった。

「オマエなんかと関わらなければ……!」

 パパの目から、涙が溢れた。声にならない声が唇の端から漏らした後、膝から崩れ落ちる。お兄ちゃんも連なるようにパパと一緒にしゃがみ込んだ。お兄ちゃんの目も真っ赤だった。真一文字に結ばれた唇は戦慄くように震えている。

 どうしてパパもお兄ちゃんもこんなに取り乱しているのだろう。なんでマイキー君を殴ったんだろう。マイキー君はどうしてされるがままだったんだろう。疑問は次から次へと沸いていく。だけど疑問を解決する手段はなにひとつなく焦燥感は募るばかりだ。

 ……ママ、は?

 新たな疑問が生まれママの姿を探す。見つけた瞬間、喉の奥がヒュッと鳴った。ママは、ソファーに座っていた。それだけなら普通の事だろう。だけど、生気がなかった。幽霊のように青白く、目は落ちくぼんでいる。いつもの朗らかで優しいママの姿はどこにもなかった。

『ママ?』

 怖々と呼んでみると、ママがピクリと動いた。もしかしてママにはわたしの姿が見えるのかと思い、ママ! とさっきよりも強く呼びかけてみる。ママはふらふらと立ち上がった後、薄く笑みを広げた。ママはわたしの声が聞こえてる……! 喜びが沸き上がりもう一度呼ぼうとした時だった。

「母さんどこ行くんだよ!」

 お兄ちゃんが切羽詰まりながらママの腕を掴んだ。ママは首をかしげながら「家に決まってるじゃない」と微笑みを広げる。物わかりの悪い子を優しく諭すような、そんな言い方だった。

「ごはん作らなきゃ。今日はシーフードグラタンにするの。菜摘ちゃん、喜ぶだろうなぁ」

 お兄ちゃんは呆然としていた。ママを信じがたいものを見るような目付きで見ている。震えながら開かれた唇から「何、言ってんだよ……?」と空虚な声がぽろっとこぼれ落ちる。

「母さん、どうしたんだよ」
「なぁに、お兄ちゃん。どうもしてないよ。わたしは家に帰ってごはんを作るだけ。あ、でも食べに行くのもいいなぁ。菜摘ちゃんの高校合格、」
「母さん!!!」

 お兄ちゃんは聞くに耐えないと言うようにママの言葉の上から覆い被さるように、声を張り上げた。

「さっき医者から聞いただろ!? 菜摘はもう、もう目が覚めない事も覚悟――、」

 菜摘はもう目が覚めない。

 お兄ちゃんのひきつるような声が、突然、途切れる。お兄ちゃんの目から、大量の涙が流れていた。下唇を噛んで、必死に嗚咽を押し殺している。

 菜摘はもう目が覚めない。もう一度胸の内で反芻すると、一連の出来事がフラッシュバックした。
 さっきのマイキー君のように、わたしも股がられていた。殴られていた。殴られる度に脳が震え、視界が点滅し、最後は首を絞められた。
 だけど今は痛くない。
 そして目の前に広がる地獄絵図。わたしは家族に愛されてきた。パパは平凡な顔立ちのわたしを長澤まさみに似てるとか言い出すし、ママとは友達のように一緒に買い物することが多いし、お兄ちゃんとはしょっちゅうゲームする。末っ子で、甘やかされて育ってきた。愛情過多で鬱陶しく思うときもあった。けど、わたしはそれにずっと甘えてきた。だからわたしは皆のこんなに我を失った姿を、初めて見た。

 お兄ちゃんはわたしが死んだとは言わなかった。
 でも目が覚めない。
 
 医者という単語がお兄ちゃんの口から飛び出した事により、今更ながらに病院に居ることを実感した。白く無機質な壁の中に、薄いグレーのスライド式のドアが備えられている。

 その隣には、川原菜摘というネームプレートが掲げられていた。

 どくん、どくん、どくん。心臓が強く鼓動を打っていた。胸の真ん中が、強くざわめいている。
 夢遊病者のような足取りで、ドアに向かう。取っ手を掴んだ時、一瞬躊躇いが生まれた。ごくりと唾を呑み込んでから、一気に引く。

 予想通りの光景だったにもかかわらず、息を呑んでしまった。

 たくさんの管に繋がれている事によりかろうじて生きているわたしが、そこにいた。
 
 植物状態=@

 医療ドラマで時折見る言葉が頭に浮かんだ。

 この状況を招いた要因としてはしっくりきたけど、実感が乏しい。わたしが植物状態。不良に暴行を受けた結果なのだろう。

 わたしはマイキー君の彼女だ。
 だから狙われた。
 だから、わたしの家族は、マイキー君を恨んだ。

 ぽっかりと、心の真ん中に空洞が広がった。視界の中でただ眠っているわたしを再確認すると無性に腹立たしくなり、下唇を噛みながら強く睨みつけた。何呑気に寝てんの。あんたが寝てるから無茶苦茶になってるじゃん。

 ――菜摘!!!!

 マイキー君は、助けてくれたのに。

 最後の最後、意識が途切れる直前に隅っこで、金色がチカチカと点滅した。
 視界は朦朧としていたけど、声だけで誰かすぐにわかった。
 次の瞬間体から重みが消えて、来てくれたんだなぁと更に実感が強まって、ホッとした。

 あと、単純に嬉しかった。
 久々に会えたから、嬉しかったんだ。

 ドアの向こう側からパパの押し殺すような泣き声が聞こえた時、また眼球が熱くなった。いつまでも寝入っているわたしを最後にもう一度睨み付け、踵を返す。ドアを開けた先は、先ほどと変わらぬ悲惨な状況が広がっていた。

 パパは四つん這いになって泣き咽び、ママは薄く笑いながらぼんやりと宙を眺め、お兄ちゃんが泣くのを必死に堪えている。マイキー君は腫れた頬を抑えることもない。後ろ手をついた状態で座りながら、ぼんやりとわたしの家族を見上げている。

 けど、ゆっくりと、マイキー君は居住まいをただした。上半身を起こし、正座する。そのまま、頭を深く垂らした。額を、床に擦り付けていた。

「すみませんでした」

 マイキー君が、土下座していた。
 東京卍會の集会の時、ぴんと張った背筋を丸めながら。まるで、罰されることを望むように。

 どうして。
 なんで、謝るの。

 愕然とする。苛立ちに似た何かが蝕み、体がぷるぷると小刻みに震えていく。

「全部、オレのせいです」

 普段、謝らないくせに。
 謝ってほしいことは謝らないくせに、どうして今は謝るの。

 わたしを襲ったのは不良でマイキー君じゃない。
 君は助けてくれた。
 それなのに、どうして、そんなこと言うの。

 場地君のお墓の前の時みたいに、罪の在り処はすべて自分にあるみたいな、そんな言い方するの。

『そんなこと言わないでよ、頭を上げてよ、やめてよ、自分のせいじゃないことで謝んないでよ、総長なんでしょ、簡単に頭を下げれるような立場じゃないでしょ、ねえ、ねえ、ねえ……!』

 土下座しているマイキー君に、廊下に膝を付けながら怒鳴りつけるように懇願した。マイキー君の肩を掴んでガクガクと揺さぶろうとして、ハッとする。わたしの掌は、透き通っていた。

 なにもできない。
 
 半透明の掌を見つめながら自分の無力さを実感する。気が狂いそうだった。

『やだ、やだやだやだやだ! こんなの嫌だ!!』
 
 髪の毛を掻きむしりながら頭を左右に大きく振る。自分への苛立ちで体が燃えるように熱かった。興奮で涙がぼろぼろと零れ、口の中に流れ込む。実体は持たない癖に、中途半端に体の機能を残している。何の皮肉だろう。泣く事が出来ても、自分の体温を感じる事が出来ても、声が出なければ、ふれることができなければ何の意味もない。
  
「なんで、菜摘だったんだよ」

 お兄ちゃんの空虚な声がぽつんと落ちる。15年間ずっと一緒に生活してきて、初めて聞く声だった。思わず顔を上げてお兄ちゃんを見ると、見た事もない顔をしていた。声色同様の虚ろな表情だった。

「オマエなら、選り取り見取りだろ。なんで菜摘を選んだんだよ。顔だって普通だし性格だって可愛げねぇし、いつもどっか冷めてて、そのくせ変なトコで甘えてきて、調子いい時だけお兄ちゃんって……っ」

 話していく内にお兄ちゃんの目が再び充血していった。嗚咽を堪えるように手を抑え、顔を俯ける。
 泣き叫ぶような声が響き渡った。

「帰れ、帰ってくれ、頼む、もう、これ以上、うちの家族を壊すな……!」

 マイキー君は土下座を崩さないまま、降りかかるお兄ちゃんの声をただじっと受けていた。お兄ちゃんの涙ながらの懇願はあっという間に空気に溶ける。だけど、わたしの鼓膜には残響として残り続ける。
 わたしのお兄ちゃんがマイキー君を憎み、苛む声が。

『お兄ちゃん違う! マイキー君はなにも悪くない! 責めないで!』

 必死に声を荒げて言い募るけどやっぱり聞こえない。お兄ちゃんの腕をつかもうとしてもすり抜けるばかりだった。なんでなんで、なんでこうなんの……!

 ねえってば! そう金切り声を張り上げた時だった。

 ――チクタクチクタクチクタク。

 ……これって。

 ここに飛ばされる前に聞こえた音が再び聞こえ、体が固まる。
 狂った時計のように、秒針が激しく刻まれていく音。
 何かに引き寄せられるように、わたしの体は宙に浮いた。

 え、ちょっと……!

 わたしが狼狽えている間も、どこかで、秒針は刻まれ続ける。

 ――チクタクチクタクチクタク、
 それは、時間が進む音。

「エマのことは、残念だった」

 褐色の肌の男の人が憂いを帯びた表情で、マイキー君に話しかけていた。

 場所は病院じゃなかった。灰色の雲に覆われた空の下、寂れた工場でマイキー君とその人は向かい合っていた。マイキー君は能面のように全ての感情が抜け落ちた表情で、黙っている。褐色の男の人は、フェンスにもたれながら空を仰いだ。

「時間は戻せない。エマは、オレ達の妹は、戻ってこない」

 ……え?

 言っている意味がわからない。もう一度聞きたかった。だけどわたしの存在に気付かない彼が、わたしの困惑を知る由もない。彼は話を変えた。

「でも、川原菜摘は生きてるだろ?」

 マイキー君を優しく見つめながら、労うように言った。優しい声だった。だけど、なんでだろう。
 わたし、この人がすごく怖い。

 三日月のように緩ませた瞳に、得体のしれない恐怖感を覚えた。背筋に冷たいものが流れ、喉がからからに渇いていく。

「生きてる限り望みはある。いつ、治療法が見つかるかわかんねえしな」

 それまで微動だにしなかったマイキー君の瞳が、揺らいだ。微かに光が舞う。彼は満足そうに頷いた。わたしには、舌なめずりしているように見えた。

 マイキー君、駄目。

「オマエはオレの、最後の肉親だ。手伝ってやる。オレらには稀咲も九井もいる。あいつ等がいくらでも金を稼ぐ手段を考えてくれんだろ」

 彼はマイキー君の肩に腕を回しながら、マイキー君の顔を覗き込んだ。目は細められているし口も緩んでいる。だけど笑顔には見えなかった。いたわるような声色の奥底には、何か潜んでいるように思えた。それはきっといつか表に顔を出して、マイキー君を丸ごと呑み込む。

「彼女もオマエに会いたがってるよ」

 彼がマイキー君の耳元に唇を寄せ柔らかく囁いた後、マイキー君はぽつりとつぶやいた。

「菜摘」

 いつかの、迷子のような頼りない声に目の奥が熱くなる。会いたい。わたしだってちゃんと会いたい。話したい。さわりたい。さわられたい。

 だけど、駄目。

 その声を聞いた彼が、にたぁっとほくそ笑む。色素の薄い瞳にはぎらぎらと憎悪と愉悦が滾っていた。マイキー君を本当に案じる人の顔じゃなかった。

 駄目、この人に近づいちゃ駄目。言う事を聞いちゃ駄目。お金なんかいい、いらない。マイキー君、ねえ、ねえったら、ねえ……!

 必死に言い募っていると、またしても場面が変わった。今度は龍宮寺君と三ツ谷君がいた。三人とも少し成長していた。龍宮寺君は髪型こそ変わらないものの黒く染め、三ツ谷君の髪の毛は伸びている。マイキー君は、短く切っていた。皆、大人っぽくなっている。

 ……よかった。

 心の底からマイキー君を想ってくれる人達の登場に安心して、体から不必要な力が抜けていった。あの人との縁はもう切れたのだろうか。ううん、まだ切れていなくてもこの二人に助言されたら、マイキー君も耳を貸すだろう。だって二人にファミレスで会った時、すごく嬉しそうだった。大好きな友達なんだってことが伝わってきた。思わず、少し嫉妬するくらい。
 もう大丈夫だ。龍宮寺君と三ツ谷君なら、きっと。

「あ? オレに命令すんのかテメェ」

 低くドスの効いたマイキー君の声は、殺意が籠っていた。『ケンチン、三ツ谷』と嬉しそうに二人を呼んだ時の声と、似ても似つかない。同一人物の声とは思えなかった。

 だけど二人は特に狼狽えていなかった。もう慣れきっているようだった。三ツ谷君は淡々と龍宮寺君の意見に賛成を唱える。マイキー君の頬に血管が浮かんだ。怒っていた。じゃれ合いの延長戦で怒るのではなく、本当に怒っていた。自分の意にそぐわない家来を見るような目つきだった。
 二人は当然の流れのように、膝をついてマイキー君に頭を下げた。どうして友達なのに、王様に乞うような態度を取るんだろう。

「オマエの選んだ道は修羅の道だ」

 どうして、そんなことを言うの?

 龍宮寺君と三ツ谷君の言いたいことがわからない。わかりたくなかった。わたしの知っている三人の関係性が瓦解していることなんて知りたくなかった。そんなの嫌だった。

 崩れていく。
 マイキー君の周りの世界が、色を失くし、崩れ落ちていく。


 また秒針が刻まれて、場面が変わった。

 どこかの事務所だった。マイキー君は目の細い男の人と向かい合いながら、横柄にソファーにもたれていた。男の人は薄いノートパソコンを叩いた後「で、こうなんだけど」とマイキー君に画面を見せつける。

「もっと稼げねぇの」

 無感動で問いかけるマイキー君に、男の人は「おいおい……」と疲れを滲ませながらも口角を上げた。無理難題を吹っかけられているみたいなのに愉しそうだった。

「これでも頑張ってんだぜぇ、ボス。でもこれ以上エグくしたら、」
「マイキー!!!」

 怒号と共にドアが大きく開かれた。男の人は言わんこっちゃないと言わんばかりに肩を竦めてみせた後、せせら笑いながら、振り仰いでその人を見上げた。

「うっせーよドラケン」
「黙れ。九井は席を外せ。オレはマイキーに話がある」

 龍宮寺君はこめかみに血管を浮かばせながら、鋭く尖った眼差しで細目の人を睨み据えた。けど細目の人は動じることなく、涼しい顔で澄まし「だ、そうだけど。オレはどうしたらいい? ボス」とマイキー君に指示を仰ぐ。龍宮寺君の言葉では動かないという事を示唆していた。

「ケンチンと話す。出ろ」
「へーい」

 マイキー君の指示にはすんなりと“九井”さんは従った。マイキー君の方が位は高いと言えど龍宮寺君だって副総長だ。あまりにも態度に差がありすぎやしないか。
 わたしは東京卍會のことをほとんど知らない。だけど、マイキー君ばかりに権力が集中した絶対王政じゃなかったはず。ファミレスで龍宮寺君と三ツ谷君に会った時、二人はマイキー君に砕けた態度を取っていた。

 九井さんが部屋を後にし、ドアの閉まる音が静かに響いた。

「やりすぎだ」
「なにが」
「とぼけんじゃねえ。一般人何人も死に追いやって、金巻き上げて……! こんなん東卍じゃねえだろ!」

 怒りと悲しみで戦慄くように震えながら言い募る龍宮寺君に、マイキー君は何の感慨も持たないようだった。無機質な瞳を龍宮寺君に向けながら「東卍はオレのモンだ」と答える。

「オレがやるっつったらやる。何人死のうが関係ない」

 龍宮寺君の目が大きく見張られた。呆然とマイキー君を見つめている。かつて、自分が憧れた人の変貌に愕然としていた。
 動揺で揺れていた瞳はやがて静かに収まり、龍宮寺君はマイキー君に焦点を定めた。薄い唇から、淡々とした声が流れる。

「オマエは今のオマエで川原さんに会えんのか」

 龍宮寺君からわたしの名前が出るとは思わず、戦々恐々と見守っていたわたしは固まる。マイキー君も同じようだった。大きく目が見開かれ、ピキッと顔が強張る。

「黙れ」

 空っぽだった声に、胸を圧迫するような凄みが帯びた。視線だけで人を殺せるのならば龍宮寺君は死んでいるだろう、それくらい鋭く尖った眼差しで、マイキー君は龍宮寺君を抉るように睨んだ。だけど龍宮寺君はひるまない。マイキー君の瞳を真っ直ぐに見据えながら、淡々と問いかけていく。

「汚い金で目が覚めて川原さんが喜ぶか。自分の命が大量の死体の上に成り立ってることを知ったらあの子は、」
「黙れ!!!」

 マイキー君は突然激昂し、テーブルを蹴りあげた。寸でのところで龍宮寺君が避け、壁に激突する。マイキー君の目は充血していた。白目に浮かぶ赤い線が怒り狂う龍のようだった。

「それ以上話したら殺す」

 熱く荒い息を吐きながら、龍宮寺君に剥き出しの殺意を突きつける。龍宮寺君は狼狽えることなく、ただ目の前のマイキー君を受け入れていた。小さく息をついてから、肩をポキポキと鳴らす。

「……ここらが潮時かもな。
 マイキー。オレは、汚ェ手でエマの墓前に手を合わしたくねぇ。
 刺し違えてでもオマエを止める」

 龍宮寺君の瞳に静かに決意が灯ると、二人の間が一瞬静まり返った。先に動いたのはマイキー君だった。脚を大きく振りかぶり、龍宮寺君の頭部を狙う。龍宮寺君は腕でガードしながらも顔を歪め、苦しそうに息を漏らしていた。

 わたしはそれを、ただ眺めていた。
 相変わらず手が透き通っている。声がでない。

 どうしてこうなったんだろう。

 二人の殺し合いを呆然と眺めながら思う。どうしてこうなったんだろう。どうしてこうなったんだろう。どうしてこうなったんだろう。何度も何度も、同じ道を辿るように。

 佐野さんが死んだ。
 守るべきものをなくしたマイキー君の喪失感は計り知れない。
 だってマイキー君は佐野さんが大好きだから。佐野さんってかわいいね。そう言ったら『キレたらこえーけどね』と憎まれ口を叩きながらも、満更でもなさそうだった。登下校の時はいつもマイキー君が車道を歩いていた。佐野さんを見つめる瞳にはいつも愛が溢れていた。

 どうして、この世界は、マイキー君からすべて取り上げていくのだろう。

 お兄ちゃんに続いて佐野さんまで。
 それから。

「テメェが菜摘を語んじゃねえよ!!!」

 マイキー君の泣き叫ぶような怒号に、胸の奥が粉々にくだけ散ったような痛みが走った。

「菜摘はオレのモンなんだよ、アイツをどうしようがオレの勝手なんだよ!!!」

 なんて、自分勝手な言い分。まるで聞き分けのない子どもだ。だけど、少しも腹が立たなかった。だって、必死に言い聞かせていた。そうしないと自分を保てないと言うように、声を張り上げていた。
 黒い瞳が、怒りと悲しみとやる瀬なさの狭間で揺らいでいる。じゃあどうしろって言うんだよ。そう、叫んでいた。

「やり切れねぇのはオマエだけじゃねえんだよ!!!」

 マイキー君に跨られた龍宮寺君が、マイキー君の拳を掴みながら吠える。吊り上げられた目の奥で悲しみが滲んでいた。今にも氾濫しそうな感情を強靭な精神力で留めるように、歯を食い縛っている。龍宮寺君も誰かを喪ったのだろうか。そういえばさっき佐野さんの事を話していた。もしかして、龍宮寺君って、

「――黙れ」

 マイキー君は龍宮寺君の胸倉を掴んでいた手を離すとポケットに手を伸ばした。そして、何かを取り出す。銀色に光るソレを目にした瞬間、全てが、色を失くした。灰色の世界の中で、ソレは嘲笑うようにてらてらと光る。

『駄目ぇぇえぇぇえぇ!!!!』

 喉が張り裂けんばかりに絶叫しながら、わたしは銀色に光るソレを掴もうと手を伸ばす。ソレを龍宮寺君に向けたら、もう、戻れなくなる。
 自分自身を顧みる思考は残されてなかった。今の自分の状況も、忘れていた。
 わたしの手は半透明で、あっという間にすり抜けられる。ソレ――折り畳み式のナイフは、わたしの手のひらを貫通し、龍宮寺君の喉元を掻っ切った。

 血が激しい勢いで噴射し、マイキー君は真っ向から浴びる。先ほどまでの強烈な怒りは瞬く間に鳴りを潜めた。また人形のような表情に戻ったマイキー君は、一瞬にして絶命した龍宮寺君をぼんやりと眺めている。
 少ししてから、ドアが開いた。眼鏡の男の人は血まみれのマイキー君と龍宮寺君の死体を見ても全く動揺していなかった。ケータイを取り出して誰かに何かの指示を出した後、そっとマイキー君の肩に手を置く。

「あとはオレがやっておく」

 マイキー君は頷かない。ただ、ぼんやりと天井を仰いでいた。その視線は一体何を捉えているのだろう。

 どうしてこの世界は、マイキー君から何もかも取り上げていくのだろう。
 大好きなお兄ちゃん、愛すべき妹、大切な親友。

 それから。

 透き通った掌を目の前に翳す。ナイフが貫通したのに、全く痛くない。

 付き合いたての頃、本当にわたしが好きなのかいまいち信じきれなかった。マイキー君はいつも飄々としていて何を考えているか、よくわからなかった。
 馬鹿だ。
 勉強はできても、わたしは馬鹿だ。
 
 全く痛みを覚えない掌を拳に丸めて目元を覆う。目蓋の裏が熱い。

 こんなにも、想ってくれていた。

 わたしに会いたいという切望の中で、マイキー君は苦しんでいた。
 わたしが中途半端に生き残ったせいだった。

 涙が止まらない。真っ暗な視界がぼやけて、更に、何も見えなくなる。

 闇が深まると、また、秒針の音が聞こえてきた。

 チクタクチクタクチクタク。

 時間が進む度、マイキー君は人を殺していく。昔雑談の中で聞いた名前の人まで、殺していった。人を殺す度に、マイキー君の瞳は闇に沈んでいった。

 眼鏡の人は稀咲哲太といい、褐色の人は黒川イザナというらしい。
 この人達はマイキー君が殺せば殺すほど、嬉しそうだった。あいつ等は大切な人間を喪ったことがないから、オマエの気も知らずに正論ばかり吐けるんだ。殺して当然だ。
 邪魔者は消せ。イヴにリンゴをけしかける蛇のように、柔らかい声色に毒を忍ばせてマイキー君を闇に追いやる。

 東京卍會は東京卍會じゃなくなっていた。
 マイキー君が五人の友達と立ち上げたチームは、欲望に塗れた反社会的勢力に形を変えていた。
 
 チクタクチクタクチクタク。

 時間は進む。また場面が変わる。
 大人になったお兄ちゃんが、どうしてか、マイキー君の前に立っていた。

「金はいらない」

 大きなスーツケースを体の両側に置きながら、げっそりとやつれた顔のお兄ちゃんはマイキー君にそう言った。マイキー君は無言だった。瞬きを繰り返しながら、お兄ちゃんを真顔でじっと見ている。

「今までの金、ここに置いておく。
 ……今の医学じゃ無理かもだけどさ、いつか、治療法が確立されるかもしれないだろ?
 目が覚めて、また、好きな奴ができて、でも結婚とかになった時に、東卍のトップと関わってたことバレたらさ、白紙になるかもだろ?
 頼む。
 もう、菜摘に関わらないでくれ」

 お兄ちゃんの必死の懇願を、マイキー君はただ聞いていた。
 怒る事も悲しむ事もなく。
 受け入れる事も否定する事もなく。


 チクタクチクタクチクタク。チクタクチクタクチクタク。チクタクチクタクチクタク。

 時間は止まらない。巻き戻る事無く、進んでいく。
 ただ、未来へと。

 また、場面が変わった。わたしは病院に居た。消灯された部屋は暗く、月明りだけが差している。最初に見た病院とは少し違っていた。ここはわたしの病室だろうか。ベッドで寝ている人間の身元を確認しようと枕元に立つ。驚きで、一拍の空白が胸の真ん中にもたらされた。

 大人になったわたしがそこにいた。
 誰かが整えてくれているのだろうか、艶のある綺麗なショートボブだった。二十代前半、いや、後半に見える。
 壁に掛けられているカレンダーに目を遣る。
 2018年1月≠ニなっていた。

 場面が変わる度に皆が大人になっていた事から時間が進んでいる事はわかっていた。だから、あまり驚きはしない。
 未来に来た事よりも驚くべきことが、もっと、あったから。

 マイキー君は直接的にも間接的にもたくさんの人を殺していた。東京卍會の詐欺や暴行により一般の人たちまで犠牲になっていた。末端の犯罪行為をマイキー君は咎めない。女の人だろうが子どもだろうが誰が傷ついても何も思わないようだった。

 目を覆いたくなるような殺し方をたくさんしていた。はやく殺してくれという断末魔がまだ鼓膜に残っている。マイキー君は、顔色ひとつ変えずなぶり殺しにしていた。
 友達もたくさん殺していた。三ツ谷君はマイキー君に絞殺されていた。きっかけはなんだったろう。マイキー君が誰かを殺すところを目撃し過ぎて、もう、何が原因なのか、誰を殺したのか、わからない。

『佐野はただの不良じゃない。ただの、暴走族の総長じゃない。オレ達には計り知れないものを秘めている。オマエじゃ、どうにもできない』

 いつかの、先生の言葉が靄がかった脳裏に浮かぶ。
 否定する事はもうできない。
 先生の言葉を裏付けるだけの場面を、見てしまった。

 マイキー君は人を殺す。あっけなく、簡単に。
 悪い人。
 わたしの手には負えない。

 だけど、

『よろしくな、子守歌』

 だけど、

『だから、泣けば』

 だけど、

『万次郎って、呼んで』

 だけ、ど。

『起きてよぉ………』

 自分自身に向かって、泣きながら懇願する。あんたのせいだ。あんたが、わたしが、あんなあっけなくやられるから。いつまでも寝てるから。

 だけどわたしは起きない。人工呼吸器の中で、呼吸を繰り返している。

 わたしが起きたとしても、何も変わらない。もうマイキー君はたくさんの人を殺してしまった。
 ううん、わたしがこの12年間普通に生きていたとしても、結局何も変わらないかもしれない。お兄ちゃんに続き、佐野さんを理不尽に奪われてしまった。わたしが意識不明の重体になったことはあくまでもひとつのきっかけで、結局彼は、こうなる運命なのかもしれない。

 だけど、わたし。

 ――ガラッ。

 突然、ドアが開いた。音の先に視線を遣ると、鼓動が強まった。
 
 動く度に、艶のある黒髪がさらりと揺れる。襟足が短くなっていた。
 センター分けになっている。
 初めて見る髪型のマイキー君だった。

 マイキー君はペタペタとサンダルを鳴らしながら、無表情でわたしに近づいてくる。
 大人のわたしに、近づいていく。
 窓から差し込む月光がマイキー君を照らすと、彼の服が返り血で赤く染まっている事がわかった。
 また誰か殺したんだ。
 だけどもう驚かない。マイキー君は息をするように、人を殺すようになっていた。

 マイキー君はパイプ椅子に腰を掛けて、わたしの寝顔をじっと見つめていた。ついこないだの事を思い出す。生理痛で寝込んでいるところにお見舞いに来てくれた。あの時、嬉しかったな。まだあれから半年も経っていないのに、もう十年以上前の事のように思える。

 マイキー君は、わたしの人工呼吸器に手を掛けた。
 ゆっくりと、取り外す。

 少ししてから、ピーッと機械音が鳴り響いた。

 わたしの命が止まる音だった。

 自分が殺される場面を目撃した人間は世界でわたしが初めてだろう。
 衝撃的な展開。恐ろしく、身の毛のよだつ光景。

 だけど、何も怖くなかった。
 やっと終わらせてくれたのだと思いすらした。

 だってマイキー君の傍にいられないのならば、生きていたとしても何の意味があるのだろう。 

「菜摘」

 マイキー君がわたしを呼んだ。

 ゆっくりと手を伸ばし、親指でわたしの唇にふれる。弾力を確かめるように、押していた。

「菜摘」

 もう一度、わたしを呼ぶ。
 低く、掠れた声だった。
 確かめるように、呼んでいた。
 
 わたしの頬の輪郭に沿うように手を這わせながら、わたしを見つめていた。

 マイキー君の喉が上下する。瞬きを何度か繰り返した後、

 真っ黒な瞳が、大きく揺らいだ。

「……っ」

 瞬く間に眼球に水の膜が張られ、崩れる。
 ガタン、とパイプ椅子が倒れた。

 マイキー君は雪崩れ込むように、わたしに縋りついた。

「ああ、あああああ、あああああああああああああああっ」

 わたしの首筋に顔を埋めて、マイキー君は慟哭する。

 途方もない孤独感に塗れた声だった。どこまでもどこまでも続く、際限のない寂寥感。終わりのない苦しみ。

 心臓を握りつぶされたとしてもこんなに胸が痛くなることはないだろう。マイキー君の慟哭が胸の真ん中に深く突き刺さる。

 マイキー君は、たくさんの人を殺した。
 直接的に殺された人も間接的に殺された人合わせたら、三桁は超える。
 大量殺人者。
 捕まったら死刑だ。
 きっと、死ぬべき人間なんだろう。

 だけど。
 だけど、わたし。

『マイキー君、』

 声にならない声で、マイキー君を呼ぶ。ふらふらと実体のない体で、マイキー君に近寄る。

 わたし、
 
 場地君のお墓参りの後、思った時と同じことを思う。
 これからも、何度も何度も、時計が回り続けるように、同じことを思い続ける。

 例え何人殺そうとも、どれだけ闇に沈んでも。
 どうしたって、どう足掻いたって。

 それでも、そばにいたい。

 もう一歩歩み寄ろうとした時だった。
 大人のわたしから、半透明の靄がゆっくりと浮かび上がる。人一人分の大きさの靄だった。やがてそれは人間の形となる。

 今のわたしと同じような大人のわたしが、そこにいた。
 慟哭の最中にいるマイキー君をじいっと見つめてから、彼女はわたしに静かに視線を移した。

『こっちのマイキー君は、後はわたしがなんとかする』

 誰かに直接話しかけられたことは本当に久しぶりだったから、わたしに向けられたものだと一瞬わからなかった。たじろいでから『なんとかって』と不信感を露にする。

 この人は、マイキー君の気も知らずにずっと寝ていた。理不尽な八つ当たりだとはわかっている。だけどそれでもムカついた。マイキー君が苦しんでいるのに何もできない自分が、未来も今もどちらも憎かった。 

 未来のわたしは『信用ないのもわかるけどさ』と苦笑してから、真っ直ぐにわたしを見据えた。

『君は間に合ったの。間に合った方の、わたしなんだよ。
 わたしの時は、もう、全部終わった後だった。
 ……わたしの時は、マイキー君はひとりで来た。だけど、君は違う。君の時は、タケミッち君もいた。マイキー君は、一人じゃなかった。
 タケミッち君が、間に合わせてくれたの。
 だから今度は、わたしが間に合わせる番だよ』

 淡々と語るわたしの言葉の意味がよくわからなかった。大人のわたしの時は、マイキー君がひとりで来た。間に合わなかった。だけど今のわたしの時は、タケミッち君も一緒だった。だから間に合った。

『……どういうこと?』
『まあ、つまりだね。君は、』

 大人のわたしは寂しそうに笑った。細めた瞳から、静かに涙が流れる。

『マイキー君の傍に、ずっといられる。わたしと違って』

 その言葉に、その声に、その笑顔に。
 大人のわたしが今の自分をどれだけ責め抜いているのかわかった。
 だって彼女は、わたしなんだから。

『ほら行って。若いんだから走れ走れ』
『え、ちょ、どこ、に』
『いいから。はい、走って戻る。わたしの場合は、それがトリガーなの。なに、マイキー君に会いたくないの?』

 首を傾げながら彼女は簡単な質問を投げかける。わざとらしく作られたすっとぼけた表情が憎たらしい。
 1+1は何になるでしょうか。それくらい簡単な問題だった。

 マイキー君はたくさんの人を殺した。反社会的勢力のトップに君臨し、日本を震撼させている。

 だけどわたしは躊躇うことなく答えられる。

『会いたい』

 未来のわたしは今のわたしの言葉を聞くと、無感動に頷いた。そう、それが当然だ。取り立てて驚く事ではない。

 視線を交差させてから、わたしは無言で踵を返す。ばいばい、さようなら、またね。何も言わなかった。
 病室を出ていく直前『ごめんね』という声が聞こえた。
 わたしの声だった。

 マイキー君、ごめんね。
 ごめんね。
 ごめんね。


 大人になったら、大人になるものだと思っていた。

 だけどどうやら、そうでもないようだ。
 ごめんねを繰り返す大人のわたしの声は情けないほど震えていて、ぐちゃぐちゃだった。
 今のわたしと何にも変わらなかった。
 マイキー君の事が馬鹿みたいに好きなままだった。

 走る。走って走って走って走って、走る。
 目の前がチカチカと高速で点滅していた。走りすぎて肺が痛い。実際に喋る事は叶わない癖に身体機能は生きている時と同様に動かせば動かすほど疲れるとか、一体何なんだこの状況は。

 何もかもがわからなかった。

 間に合ったとか間に合わなかったとかさ。
 もう、よくわかんないけど、走ればいいんでしょ。
 走ったら戻れるんでしょ。

 脳裏の裏で、チカッと金色が瞬いた。わたしが喋ったことのあるマイキー君は、ずっと金髪だった。チカチカ、チカチカ。星のように、瞬いている。思い出すと胸の奥が熱くなって、視界が潤んだ。

 会いたい。
 会いたい。
 会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい、

 会いたい

 病院から飛び出して、街を駆け巡った。
 初めてマイキー君と喋った場所に向かった。

『っるせぇ………』

 不機嫌を露に寝ぼけ眼を擦りながら、マイキー君は河原を昇る。確か、オレンジ色の光が金髪を淡く透かしていた。
 あの時はマイキー君の不興を買ったかもしれない事がただ怖くて綺麗だとかそんなこと思う暇なかったけど。
 今度会ったら、また、夏の河原で夕日をバックに立ってもらおう。
 もう一度見たい。今度こそしっかりと焼き付けたい。
 マイキー君はすぐ髪型変えるから。
 だから、黒に戻す前に、一度、見せてもらおう。
 わたし、彼女なんだからさ。それくらいの我儘、聞いてよ。

 河原にたどり着いた。あの時、マイキー君が立ってたであろう立ち位置に向かって、足を強く踏み出して、
 
 飛ぶ。

 マイキー君がそこにいたら、飛びつけるように。
 ひとりでどこかに、行かせないように。

 強く跳躍した時、時計がカチリと鳴る音が脳裏で響いた。

 時が止まる。
 世界が巻き戻されていく。
 秒針がぐるぐると反時計回りに動いていく。

 ジェットコースターが急降下する時のように、一瞬浮遊感に包まれた後、急速に落下していく。衝撃を和らげようとぎゅうっと目を閉じた。

 目蓋の裏に、マイキー君が浮かんだ。
 机の上に腰を掛けながら、脚をぶらぶらさせてわたしのクラリネットを聴いている、いつもの姿。
 取り立ててはしゃぐこともなく、つまらなさそうにすることもなく、ただ穏やかに聴いてくれる、いつもの姿。

 良い事ばかりじゃなかった。
 マイキー君は我儘で自分勝手でハチャメチャで、いつも振り回さればかりだった。
 
 しょうもないことでエロいとからかってくる。
 小2のような下ネタで爆笑する。
 情緒なんて全くなくて、自分の気分次第でキスしてきた。
 これでヤッたら燃えるとか言われた時は殺意一歩手前の怒りが込み上がった。

 ――2017、2016、2015、2014

 好きになる予定なんかなかった。
 穏やかな男子を好きになるつもりだった。
 人生設計を着々と進めるはずだった。

 ――2013、2012、2011、2010

 だけど、一度知ったらダメだった。
 
 バイクに乗せれくれた時の背中のぬくもり。
 不貞腐れて尖らせたくちびる。
 強引な癖に包み込むようにふれてくるてのひら。
 
 ――2009、2008、2007

 菜摘って。
 わたしを呼ぶ時の、柔らかな声。

 一度知ってしまったら、もう、手放せない。

 ――2006

 カチリ、と秒針が止まった。
 引き戻される。強く強く、どこかに引っ張られる。

 そこに降り立った時、元の時代だと直感が働いた。着地するが否や、地を蹴る。

 マイキー君はこの病院のどこかにいると直感が働いていた。きっとこの力はマイキー君の傍にいたいという想いが原動力になっている。だからいつも、未来のマイキー君の隣に弾き飛ばされていた。

 ううん、今だけじゃない。
 わたしの力の源は、いつもマイキー君だった。

 引退してから半年経ったから持久力がなくなってる。肺は限界を訴えていた。動悸が激しい。だけど脚を止めるわけにはいかない。

 会いたいから。
 今の君に会いたいから。

 マイキー君の今の中で、光りたいから。











Even if I've met the end,I'm shining with you.



prev | next
back


- ナノ -