菜摘が唇をぎゅっと結びながら泣いている。よくわからなかった。何で泣いているのか。どうしてそんなに悲しいのか。少しも気持ちが理解できなかった。考えても考えてもわからない。途方に暮れたオレは『どうしたら泣き止んでくれる?』と直接本人に聞いた。そうする他道がなかった。
『……他の人と、もう、しないって言ってくれたら』
赤い鼻を啜りながら憮然として呟いた菜摘にそんなこと?≠ニ思った。だって、たかがセックスだ。腹が減ったから飯を食うのと同じ。溜まったから抜いた。ヤりたくなったからヤッた。オレにとっては食欲も睡眠欲も性欲も、みんな仲良く平等だ。
嫌がる菜摘の気持ちがよくわからない。けど、菜摘が嫌だと言うのならやめようと思った。悲しい顔をしてほしくなかった。少しも菜摘の気持ちが理解できない事に苛立たしさよりも寂しさが上回り『もう、他の奴とヤんない』と頷いた。
だから、泣き止めよ。
切々と祈りながら菜摘を見続けると、不意に、菜摘の目がやわらいで。
『……しょーがないな』
大仰に呆れた態度を取りながら、ふわりとほころんだ。
その笑顔を見た後、オレの中で時間が一回止まる。次の瞬間、心臓がどくりと動いた。未知の感覚が覚醒するように、びりびりと戦慄が走る。
『それならいいよ』
体の中で、血管が強く凝縮し満ち潮のように暴れていた。欲しい、欲しい、欲しい。色づくなんてものじゃない、まるで塗りつぶすように、心の中を“欲望”が支配する。
ほんとのオレは弱いんだと言ったら、皆はどうするんだろう。
菜摘は、どう思うんだろう。
オレは自分で自分をコントロールすることができない。
シンイチローが死んでから、どうすればいいかわかんなくなることがあった。少しでも油断すると、あっという間に闇の中に呑み込まれる。していいことといけないことの判別がつかなくなる。
タケミッちは叱ってくれるから。だから、だから菜摘は。そうやってこれからも、オレを許して。呆れても、軽蔑してもいい。けど許して。傍にいて。どんな時も、ずっとずっと。弱っちいオレの隣に、いてほしい。
欲望が増殖していく。止めどなく、果てしなく。
まるで“黒い衝動”だ。
気付いたらキスをしていた。菜摘の口の中に舌を入れて侵入した時、飢餓感が薄らいだ。菜摘を構成する細胞のすべてにオレのモノである証を刻み付けたかった。
セックスなんかで全てを手に入れることなんかできない。そんなこと知っている。だけどこれ以上の手段が思いつかなかった。心の繋げ方は曖昧だけど体のつなぎ方ははっきりしてる。チンコをマンコに突っ込めばいいだけだ。それなら一時的でも、真にオレのモンにできる。少しの間だけ、本当に繋がれる。だから全部丸ごとくれと言った。
怖い? と訊いたら、怖いと返ってきた。けどそのまま『でも』と言葉を継ぐ菜摘の目には、怯えも戸惑いも消えていた。ただ目の前に在るものをそのまま映していた。菜摘は自身の黒目に人形のように感情の抜け落ちた表情を浮かべたオレを宿しながら、淡々とだけど強く、言い切った。
『なんとかする』
その言葉に、固く強張っていた心がほどけるように柔らかくなったのを感じた。胸の奥が熱くなって、喉が湿っぽくなる。少し、泣きたいような気持ちになった。
キスをする。口をこじあけさせて、舌をねじこんで菜摘の口の中にオレの唾液を流し込む。オレから生み出したものを菜摘の体の中に入れたら、もうそれは、菜摘はオレのモンになるってコトになるんじゃないだろうか。そういうことにしたくて、そんな風に思った。
菜摘は終始ぎこちなく、気持ちの良いセックスとかかけ離れていた。
舌を絡ませようとすればすぐ奥に引っ込めるし、足を広げるのを極端に嫌がった。体もケンチンとこのねーちゃんみたいにふわふわしてないし、香ってくるシャンプーの匂いはじいちゃんと一緒。足は棒切れのように細く、胸も小さい。発展途中の女の中坊の体。
オレがこれだけ尽くしてやってるのに菜摘の体はなかなか慣れず、いれるのに時間がかかった。少しずつ指で解してなめてやっとの思いで入れる。処女ってこんなめんどくせえのかよと辟易した。けどそれ以上に、大切にしたかった。オレの手足は壊すことは得意だけど大切に触れることは苦手だった。だから逸る気持ちを必死に押さえつけて、オレなりに丁寧に触れた。
チンコ入れられて苦痛に眉間に皺を寄せている菜摘に、オレはせがんだ。
『万次郎って、呼んで』
菜摘は息も絶え絶えになりながら、今や滅多に呼ばれることのないオレの名を呼んだ。菜摘が呼ぶと、なんだか特別な音色になった。
『おいで』
夢でも見ているようにぼうっとした表情の菜摘に、包み込むように引き寄せられる。首筋に顔を埋めると、菜摘の匂いがした。特別甘くもないけど優しい匂いに、心が凪いでいくのを感じた。ぬるま湯に浸かるようにつま先まで暖まり、体がほぐれていく。
『大丈夫だよ』
菜摘はあやすようにオレの頭を撫でながら、根拠もなく呟く。
何が大丈夫なんだろう。オレは強く在らなきゃいけない。誰が倒れてもオレだけは立ち続けなければいけない。だって、東卍の総長なんだから。場地が、オレに命を預けてくれたんだから。シンイチローがいなくたって、オレは、創り上げなければいけないんだから。
オマエみたいな中坊に、抱きしめられたって。
『うん』
気づいたら、ガキのように頷いていた。何も知らない菜摘に苛立っていたのに。
撫でられたように、ささくれ立っていた気持ちが落ち着いていく。細く薄い体に包まれている内に、泥のような物思いが静かに溶けていくのを感じる。
全然気持ちよくなかった。オレばっかり動いていた。菜摘はただされるがままだった。不公平だ。
セックスで泣きたくなったのは、はじめてだった。
『見せたいものがある』と菜摘からのメールが夕方に入っていた事に、夜の七時になってから気づいた。メールは面倒くさいので電話を掛ける。『またサボったでしょ』と呆れかえる菜摘を適当にいなした後、オレ達は公園で落ち合う事になった。
「じゃーん」
公園に現れたオレに、まだ制服姿の菜摘は得意げに口角を上げながら合格通知書を見せた。月光と街燈に照らされて、白い紙がきらりと輝く。
「おー」と返すと、菜摘は面白くなさそうに目をすうっと細めた。
「なにそれ。もっと他にないの」
「だってオマエ、A判定だから余裕つってたじゃん」
菜摘は「そうだけどさぁ」と唇を尖らせた。オレに万歳三唱して喜んでほしいのだろうか。オレだって、菜摘の努力が実を結んだことは嬉しい。でも菜摘の通う高校にオレは行けない。女子高だから変な虫はつかねぇけど(ついたら殺す)、今後菜摘はオレの知らない場所でオレの知らない奴等と交流を深めていくのだと思うと、漠然とした寂しさが胸の中を漂った。
「ウソウソ。おめでと」
かと言って、そういった心情を知られるのは嫌だった。だってダサいじゃん。菜摘は妙にカンが鋭いトコあるから気づかれないように、すぐににぱっと笑って祝福を表し考える隙を与えないように新たな質問を繰り出す。
「オマエどーゆー学校いくの?」
「S女。制服が可愛いんだよ。えっと……あったあった」
菜摘はスクバをごそごそ漁ってから、S女のパンフレットを取り出した。制服のページを広げ、オレに見せつける。モデルらしき女子高校生が赤いリボンが映えている白いセーラー服を着ていた。スカートは紺色で、裾の辺りに白いラインが入っている。
「リボンなんだけど、ピンクと紺もあるんだって。気分で付け替えできるんだー」
「へー」
菜摘はもっと他に感想ないのかと言いたげに目で訴えかけてくるが、何をどう捻っても『へー』としか言いようがない。けど、清純を体現したようなセーラー服を見ている内にとあることが思いつく。そのまま口から零れ落ちた。
「これでヤッたら燃えるな」
突然、ダイヤモンドダストが吹き荒れた。菜摘が漂白したんじゃないかってくらいの白い目で、かつ南極の氷から削り取ったんじゃないかってくらい冷たく鋭い眼差しでオレを睨み据えている。心なしかエマとヒナちゃんの『サイッテー!』『見損なったよマイキー君!』という幻聴も聞こえてきた。
「菜摘は燃えない?」
「燃えない。最低。超最低。ほんっっとに最低。てかそんなに燃えたいのなら燃やそうか、マイキー君を」
「えーー」
なんか言ってほしそうだから素直に感想言ったのに。なんなんだよ。女ってわかんね。ぶうぶう口をとがらせていると、菜摘はハァッと息を吐いた。けどそれから逡巡するように視線を彷徨わせる。
そして、ぽつりとつぶやいた。
「……汚さないんだったらいいよ」
言うが否や、ぷいと顔を背ける。少しだけ見える頬が、リンゴのように真っ赤だった。一瞬何を言われたか理解できなかった。でも、わかった瞬間に昂揚感が脳天まで突き抜ける。菜摘の手を取り、小指を絡ませた。
「ゆーびきりげーんまん、うーそついたらはりせんぼんのーます、ゆびきった!」
「………どんだけしたいの………」
菜摘は口角を引き攣らせてドン引きしていた。「ヤりたいもんはヤりたい」としれっと返すと、頬は更にぴくぴくと痙攣していた。
「なんだよー。自分から言ってきたくせに」
「だって、まぁ………ちょっと、言い過ぎたかなって思って」
菜摘は頬を赤らめながら気まずそうに目を逸らした後、じとりと睨みつけてきた。
「絶対汚さないでよ」
「任せとけって」
えっへんとふんぞり返るオレを白い目で眺めた後菜摘は、呆れたように息を吐いてから、柔らかく頬を緩めた。
菜摘のこういう顔を見るとどうしてか、胸の奥の一番柔い所がくすぐられて、目の奥が熱くなる。気付かれないように小さく息を吐いてから「菜摘」と呼びかける。
「なに?」
首を傾げると、耳の下で二つに結わえられた髪の毛が揺れた。菜摘は高校生になったら髪の毛下ろすって言っていた。もう少しでこれと見納めかと感慨深い気持ちに浸りながら、菜摘の首筋に顔を埋めた。
「じゅーでん」
言いながら、ああオレは疲れていたのかと今更ながら実感する。黒川イザナが異母兄弟でオレを潰そうとしている。言葉にすればそれだけの事実だ。恨みなんて死ぬほど買っているし、殺意を向けられたことは数え上げたらキリがない。
ただそこに血縁が絡んだだけだ。だけどそれだけの事実が、どうしてこんなに、やる瀬なくなるんだろう。
菜摘は黙って、オレの背に手を回した。小さな掌があやすように、オレの背を撫でている。ぬるま湯につかっていく。体が、心が、あたたまってとかされていく――これ以上は駄目だ。
肩の力が緩み切る直前でオレは顔を上げ、立ち上がって伸びをする。
「帰るかー。送ってやる」
停車していたバブに近づき、菜摘にヘルメットを渡す。だけど菜摘は受け取ろうとしない。オレの瞳の奥に潜んでいるものを見透かそうとするように、じいっとオレを見つめていた。
「被り方忘れた? ほら、こうだって」
「うわっ」
気づかない振りして菜摘からヘルメットを奪い取り、無理矢理被せる。「髪型崩れる!」と憤慨する菜摘に「別にいいじゃん」と返しながら、背を向けた。
今度の抗争は今までで一番デカい奴になる。
オレは東卍の総長なんだから、誰よりも強く在らないといけない。
だから、弱くなってる場合じゃない。
菜摘の家出にオレが関わっていた事は、なんとなく察していた。
頑なに家出の理由を口にしないし、オレんちに泊まった後送ろうとしたら頑なに固辞された。リカちゃんちに泊まったという設定を貫きたいだけでは無さそうだった。『家からちょっと離れたとこでいい』と気まずそうに籠った声で言う菜摘から、曖昧な予想は確信に近いものに変わる。オレと付き合ってる事で、なんか言われたな。
オレの方もオレの方で、菜摘がオレの女って事を快く思わない奴等が何人かいるみたいだった。マイキーの女≠ヘ女版のオレってくらいすげぇ奴じゃないと嫌らしい。
なんだかなー。めんどくせ。
自分とその周辺のコト意外興味ないオレは、他人の色恋沙汰に首を突っ込みたがる神経の奴等がさっぱりわからず、考えるのを放棄した。菜摘の親から良く思われないのは面白くないけど、別にオレは菜摘の親と付き合う訳じゃない。
菜摘の家から少し離れた場所でバブを止めた後は歩きで菜摘を家まで送る。門の手前まで届けて「じゃーな」と踵を返そうとしたら、腕を捕まえられた。振り向くと、菜摘が畏まった顔でオレを見据えていた。
「マイキー君」
菜摘の声が妙に固い。それに上擦っている。「その、」と目玉を右に逸らしてから、再び正面に戻した。真っ直ぐにオレを見つめながら、いつもより少し早い口調で言った。
「今度、うちんち来ない?」
一拍の空白がオレの胸に流れ込んだ後、意味を理解した。まじまじと菜摘を見つめると、菜摘は目を逸らしながら「ガン見し過ぎ」とぶっきらぼうに呟いた。菜摘は照れると、不機嫌っぽくなる。
「……S女って、偏差値結構高いんだよ。だけど、わたし、そこに合格した。しかも特進コース。
だから、文句言わせない」
冴え冴えと光る強い意志を湛えた眼差しが、一直線にオレを貫いた。視線が交差し、静寂が降りたつ。
知ってた事を知られてた。菜摘の目を見て悟る。
別に気にしていない。菜摘の親は菜摘じゃない。好かれようが嫌われようが興味ないのは強がりでなく本心だ。特別嬉しくはない、けど。でも、家族にオレ付き合うことを認めさせたがる菜摘は、オレの心にほんのりと温もりを灯した。
「わかった。行く」
微笑みながら頷くと、菜摘は少し目を見張らせてから、「うん。来て」と嬉しそうに綻びながら頷いた。
「いつなら来れそう?」
「んー。天竺との抗争終わってからだな」
「天竺?」
「そういうチームがあんの」
「ふうん。三蔵法師が率いてそうなチームだね」
ボスはオレの兄貴だけどね。口に出さず心の中で呟く。
「ていうか、ほんと喧嘩好きだね」
「楽しいじゃん」
「どこがよ」
「絶対オレが勝つとこ」
「はぁ……そう……。でも、まあ楽しめてるならいいや」
菜摘は呆れと諦めの入り交じった表情を浮かべた後、しょうがないなぁと言わんばかりに唇を緩めた。
「怪我しないように楽しんできてね」
菜摘にしては珍しい、屈託のない笑顔だった。可愛かった。キスしよ。そう思ったあとで菜摘の家の前に立っていたことを思い出す。もうすぐ菜摘の家に邪魔するし、親に見られたらちょっとヤバイ。でもなんかちょっかいはかけたかったので、軽く頬を引っ張った。
「え。なに。意味わかんない」
「気分。じゃーな」
バイバイと手を振ると、菜摘は怪訝そうに眉を寄せながらも、左手で引っ張られた頬を擦り、右手でバイバイと手を振ってくれた。オレに向かって振られる、小さな手のひら。
鼻歌混じりに軽い足取りでバブに向かう。事態はなにひとつ解決に向かっていないのに、少しだけ、心が軽くなっていた。
夜風がオレの髪を揺らしたのでなんとなく触り、伸びた事を実感する。髪切ろっかな。シャンプーめんどいし。
髪短い方が、菜摘の親受け良かったりすんのかな。
そんなことを、ぼんやり思った。
冬の朝の空気は乾燥し、ピンと糸が張ったように張り詰めている。はぁ、と息を吐くと空気が白く染まった。
晴れて高校に合格したわたしは好きなだけクラリネットを吹けるようになった。流石に受験直前は練習をやめていたので、鬱憤が大いに溜まり、今はその解消に勤しんでいる。朝から部屋で練習すると家族からうるさいと苦情が出るので、朝早く起きて公園で練習することが最近の日課だ。
公園までの道を辿りながら、マイキー君は今日学校に来るのかなと物思いに耽る。
来てほしいな。卒業まであともう少しだし。もうちょっとしか、同じ学校にいられないんだし。
学校に縛られず広い世界で生きているマイキー君からしたら卒業なんて取り立てて騒ぐことではなく他の場所で普通に会えるだろと一蹴するようなことかもしれないけど、わたしはマイキー君と当たり前に会える場所を失うことが寂しかった。
……でも今日も来なさそう。
マイキー君から時折変な形の大根や“菜摘のおっぱい”というタイトルと共にどら焼きの写メを送られることはあったし(誰がどら焼きだ)、思い出したように電話がかかってくることもあったけど、最近のマイキー君は忙しそうだった。
マイキー君から直接話は聞いてないけど、天竺というチームと喧嘩することで色々と大変なのだろうということはうっすらわかった。
わたしは不良の世界に興味を持たないので天竺というチームの事を全く知らない。マイキー君もわたしに天竺について話さなかった。わたしに言ったところでと思っているのだろう。確かにそれは事実なんだけど、少し寂しい。
会いたいなぁ。
「川原菜摘サン?」
確かめるように名前を呼ばれて振り向くと、思わずぎょっとした。
人を見た目で判断してはいけません。その通り。知ってます。けどわたしは知ってはいてもわかってはいなかった。
振り返った先には奇抜な髪色に派手な髪型な明らかに不良≠フ二人がわたしをじいーっと見ていた。マイキー君には慣れたので友達以上に失礼な態度を取れるけど、不良にはどうしても委縮してしまう。
「そ、うです、けど」
「あ。へえー……そうなんだ」
怖々と頷くと、彼等は自分から聞いたにも関わらず納得してないようだった。上から下までじろじろと品定めするような視線をわたしに送る。なに。なんか、やな感じ。不快に思っていると、ひとりが眉を八の字に寄せながら両手を合わせて拝んできた。
「ちょっと来てくんない? その、マイキー君が今ヤバくてさ」
――え?
頭の芯まで真っ白に染まった。
驚愕に目を見張らせて固まっていると「ほら、急いで急いで!」と背中を押され、たたらを踏む。前方にはライトバンがとまっていた。わたしがさっき横を通り過ぎたライトバンだった。
「あれオレらの。送ってくからさ」
……車で?
バイクじゃないことに違和感が首をもたげ、目の前の不良をまじまじと見つめる。男子というより男の人と言っても差し支えない風貌をしていた。二、三歳ほど年上に見える。家出した時に東京卍會の集会を見たけど、大体皆わたしと同い年辺りだった。
それになんで、マイキー君がヤバいと言うのなら龍宮寺君からの連絡がないのだろう。彼はわたしの連絡先を知っているのに。
一度不信感を抱いたら、すべてがおかしく思えてきた。ヤバい≠ニ言う割には具体的にどうヤバいのかは言わない。妙に演技がかった仕草。中途半端に切羽詰まった態度。考える隙を与えないように、急かしてくる。
少しずつ冷静さを取り戻していくのと同時に、得たいの知れない恐怖がじわじわと侵食してくる。警告めいた閃きが脳を駆け抜けた。
この人たちは、東京卍會の人じゃない。
踵を返してわたしは走り出した。焦燥感が背中を押し、恐怖が喉元を締め付けていた。助けを呼ばなきゃと思うんだけど、声が、出ない。
あの車に連れ込んで、わたしをどうするつもりだったのだろう。
そう思うと冷たいものが一気に背筋を駆け抜けた。
「アッ」
「てめぇ、このクソアマ!!!」
背後から怒号が聞こえ、背中に飛びついてきた。予想が的中しても全く嬉しくない。恐怖を加速させただけだ。わたしは更に足の回転を速め、息を切らせながら全速力で駆ける。
逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ……!
クラリネットケースを投げ捨てて、ただ、一心不乱に逃げる。
「たす、たすけ、助けてぇえぇ……!」
早朝の閑静な住宅街に、わたしの掠れた声が響く。お腹の底から叫んだつもりなのに実際は気管支が収縮していたせいでうまく発声できてなかった。
半年前、どこかの学校の子が彼氏といる時に不良に絡まれて大怪我を負わされた後強姦されたと聞いた。わたしにとって、それはどこか遠い国の出来事だった。
だってわたしは不良と深く関わる事はない。せいぜい、隣の席の佐野君と少し喋るだけ。
そう、思っていたから。
今のわたしの交友関係に思い至ると、恐怖が激しく胸の奥底で蠕動した。何で追われているのかすぐにわかった。
廃墟手前の寂れた神社に入り、軒下に逃げ込んだ。必死に息を殺し両手で口を抑えガチガチと鳴る歯を抑えつける。地面を踏みしめる音が近づいた時は逆流するように血の気が引いていった。
「ここらへんだよなぁ? あーあ。なんでオレ等こっちなんだよ。エマがよかった」
「稀咲なりのマイキーへの敬意? なんだろ。いいじゃん。雑魚は好きにしていいつってたし」
「好きにしていいつってたけどさぁ。マイキー女の趣味しょぼすぎ」
「セックスがうまいんじゃねえの?」
「ギャハハハ! マジか! 菜摘ちゃーん、どこー? でておいでよー」
「マイキーにかけた寝技、オレにもかけて〜」
下卑た笑い声に肌が粟立ち、生理的嫌悪が恐怖と共にまさぐるように体に纏わりついた。胃の奥底から酸っぱいものが込み上げて、口元を覆う手に更に力を籠める。躊躇うことなく恐ろしく下劣な話題を口にする彼らが人間とは思えなかった。話が通じない。見つかったら問答無用に人間としての尊厳を奪われる。
袋小路に陥った鼠だった。思考回路はもうほとんど機能していない。
けいさつ。れんらく。でもいまここででんわしたらばれる。
こわい、
どうしよう、
だれか、
マイキー、君。
恐怖で狭まる思考の片隅で、金色がチカッと輝いた。マイキー君。マイキー君マイキー君マイキー君。頭の中はマイキー君しかいなかった。暗闇の中光を追うのと同じ原理で、マイキー君を求めた。
小刻みに震える手でポケットからケータイを取り出す。気温のせいだけではない寒気に支配されたわたしの体は自分のものなのにうまく動かない。いつもなら十秒あれば片付く事が一向に進まない。
マイキー君のメアドをひっぱって、ばしょをうって、たすけてってうって、そうしん。
送信完了の文字が画面に現れ、脱力する。あとはここで息を潜んで待てばいいだけだ。
何分待っただろう。何時間待ったのだろう。ケータイを開いたら灯りから居場所がばれそうで、時間を確かめることも憚られた。けど、しばらく下卑た笑い声も探るような足音も聞こえてこない。
……いなく、なったのかな。
いなくなっててほしい。いや、そう。きっとそうだ。もう諦めて、いなくなったんだ。希望的観測を胸に這いつくばったまま軒下を進んでいく。
きっともう、大丈夫。
「みーつけた」
喉の奥がヒュッと鳴り、一瞬にして干上がる。
軒下の先で、不良がしゃがみこみながら、わたしに手を振っていた。
失態に気付いた頃には、もう遅かった。這いつくばっていた手首を捕まれ、無理矢理引きずり出しされる。地面に転がっている小石が皮膚を削っていった。
顔をあげると、青く澄みきった空と舐め回すような目付きがあった。
本能が全身に“逃げろ”と指令を下していた。
上半身を起こし後ろ手をついて後ずさりする。
「いいだろ別に。減るもんじゃねえし」
不良の片側がニヤニヤと笑いながらしゃがみ込み、手を伸ばされる。
全身に、鳥肌が立った。
「やだ……!」
反射的に払いのけていた。わたしの細胞ひとつひとつが全身で拒絶していた。
彼はぽかんと口を開けた後、怒りにぐにゃりと顔を歪ませた。
「調子乗ってんじゃねえぞこのクソアマ!!」
熱でうたれたような衝撃が頬に走った。視界が高速で点滅を繰り返す。口から血の味がした。
「フラれてやんの〜」
「うるせえこのガキぜってぇ殺す!!!」
馬乗りになられてただひたすらに殴られる。殴られる度に脳が震えた。顔の骨が変形するんじゃないか。初めて男子に本気で殴られてその拳のひとつひとつの重みを実感する。
首に両手が回された。喉元を締め付けられ気管が狭まると、酸素が通らなくなった。どんどんどんどん、意識が遠退いていく。
「ぅ、あ……っ」
どんどん、どんどん、
わたしが、わたしじゃなくなっていく。
「バカだねー。マイキーと付き合わなかったらよかったのに」
意識が霞み、消えていく。
最後に聞こえたのは嘲りながらも同情を含んだ、そんな声だった。
◆
どうしてだろう。
どうしてオレは気づくのが遅いんだろう。
ドラケン君が到着するまで、オレとマイキー君は待合室で待っていた。どちらも何も話さない。マイキー君に至っては息をしているのかすら不明瞭だ。ひっそりと静まり返っているのに、身動ぎひとつしない。
エマちゃんが死んだ直後、いや、今も、どうして未来のエマちゃんについて考えなかったのか。あの時もあの時もあの時もいくらでも考える時間はあったじゃねえか……!
ナオトからマイキー君の関係者に関しての資料をオレは流し読みしていた。多すぎてこんなん覚えられねぇよと最初から匙を投げていた。クソクソクソ……! 佐野万次郎の家庭環境は確か載っていたはずだ、それなのにオレは別のことに興味を取られて、
――別の、こと?
不意に、どくんと心臓が大きく軋んだ。エマちゃんがバイクに跳ねられる前に感じたものと、同じ。
『佐野万次郎って彼女いるんだ』
川原菜摘(27):佐野万次郎の恋人
現代でナオト特製の資料を読み込んでいた時だった。飽き飽きしていた所に男だらけの東卍メンバーの中で女性の名前は目を引き、興味が沸いた。しかも佐野万次郎の恋人だという。金色の髪の毛をオールバックに撫で付けた冷たい目の男の写真と、川原菜摘の写真を見比べた。全くしっくり来ない。……と、言うのも。
『……ナオト、佐野万次郎ってロリコン? それとも川原菜摘が童顔ってだけ?』
資料に載っていた川原菜摘の写真はどう見ても中学生だった。出会って三秒後に忘れてしまいそうな、取り立てて特徴のない顔をしている。
『彼女の最新の写真はそこで止まっています』
ナオトは淡々と言った。
そう、それで。オレはナオトの次の言葉に少し驚いたんだ。へえ、マジかよって。
他人事だった。まだマイキー君と出会う前でオレはマイキー君の人となりを知らず、東卍は全員悪だと思っていた頃だった。だから、東卍トップの女をやるならそれくらいしょうがなくね? と川原菜摘の自業自得のように思っていた。
どうして決めつけたんだろう。
二人の事を、オレはなにも知らなかったくせに。
『マイキー君って彼女とかいるんすか?』
マイキー君と出会ったばかりの頃はまだ川原菜摘の記憶が一応残っていたのでそう聞いたら『んなもんいねーよ。めんどくせーし』と返された。それで納得していた。もしかしたらオレと出会ったことで、彼女と出会わなくなってしまったのかなぁ、なんてぼんやりと思った。
どうして想像を広げなかったのだろう。
オレがヒナと学校生活を送るように、マイキー君も菜摘さんと過ごしていたのに。
ゆっくりと、彼女への想いを暖めていたというのに。
そうしてオレは川原菜摘を記憶の隅に追いやった。いつしか、川原菜摘の名前も忘れてしまい、ドラケン君に紹介されても思い出せないほど、奥に奥に、追いやっていた。
『…………どこかで見たような、見てないような………』
どうして思い出せなかったのだろう。
現代で見た川原菜摘と、全く同じ顔をしていたというのに。
チックショウ……!
すべての点が繋がる。間に合え、間に合え間に合え……! 必死に祈りながら、首が折れそうなほど項垂れているマイキー君になりふり構わず詰め寄った。
「マイキー君!! 菜摘さん今、どこにいますか!?」
マイキー君は暗く淀んだ目をオレに向けながら「菜摘……?」とぼんやり呟いた。しかし、ただ虚無だった瞳に少しずつ焦燥が宿りやがて埋め尽くされる。
なんでエマちゃんが殺されたのか理由は明白だ。
その理由は、菜摘さんにも通じる。
彼女が、狙われない訳がない。
マイキー君はケータイを取り出して画面を確認すると、更に目を見張らせた。眼球がこぼれ落ちそうなほど、大きく。何かが起こっていることは、明らかだった。
「マイキー君、なにが……!?」
マイキー君はオレの問いに答えることなく、駆け出した。病院を飛び出し、どこかへ向かって一心不乱に走り続ける。
「マイ、キー君、マイキー君……!」
東卍一の脚力を誇るマイキー君は、オレを一瞥することもなく疾風のごとくただ前へ前へと進んでいく。オレが後ろから着いてきてることももしかしたら気付いてないかもしれない。気付いていたとしてもどうでもいいのだろう。
走りすぎてどんどん霞んでいく思考の中で、ナオトの声が響いていた。
『彼女の最新の写真はそこで止まっています。
15歳の頃からずっと、植物状態なので』