「菜摘ちゃん!? 今どこいんの!?」

 リカちゃんに電話を掛けると、リカちゃんは発狂したように叫びながら出てくれた。あまりにも大きな声で、わたしは思わずケータイから耳を離す。多分、ママがリカちゃんの家にわたしが行ってないかどうか連絡したのだろう。

 今、どこにいるか。

「……心配かけさせて、ごめん。今、は……」

 ごくりと唾を呑み込んでから、辺りを見渡す。意外と綺麗に整頓された、黒と白を基調とした大人っぽい部屋。腰を掛けたソファーは、わたしの体重分だけ沈んでいる。

「………マイキー君の、部屋………」

 電話の向こう側で、リカちゃんが一時停止したことが伝わってきた。まあ、そうなるよね。なる。わたしも逆の立場だったら、なる。けどあらぬ方向に妄想を広げる前に釘を刺さないとと思い、「リカちゃん、」と呼びかけた時だった。

「菜摘ちゃん、わかった! アリバイ作りだね…!」

 遅かった……! 予想通り過ぎる反応に、わたしは天井を仰いで脱力する。リカちゃんは鼻息を荒くして、話を進めていった。

「今日うちパパとママいないから、いくとこないならうちおいでよって言おうと思ってたんだけど、そーゆーことなら任せておいて!」
「え、いないの!?」
「うん、商店街の福引当たって旅行中! だからお姉と二人〜!」
「ちょ、まっ、それならわたし、リカちゃんち、」
「修旅の時菜摘ちゃんの寝顔の写メ撮ったじゃん! あれ、菜摘ちゃんのママに送っておくね! 今寝てるから電話に出せませんけど〜ってお姉にママの声真似してもらえばもうこれで疑われる事ないでしょー!」

 駄目だ。色恋沙汰が死ぬほど好きなリカちゃんは暴走しまくってわたしの話に全く耳を貸さない。「もしわたしに彼氏ができてそういうことになったら今度は菜摘ちゃんの番ね! そういうこと……きゃーー!」と騒ぎだす始末。頭が痛くなってきた。

 ………そういうこと。
 少コミと保健体育の授業とネットの知識でしか齧ったことのないことが、ぼんやりと頭に浮かぶ。
 裸になって、性器に触れあう。一般的にそれは、付き合ってたらいつかはすることになっている。

 ………いやいやいやいやいや。ぶんぶんと頭を振って、これ以上は考えないようにする。今日はただでさえ色々あったのに、もうこれ以上何かを考えることなんてできない。頭がパンクする。

「じゃあ、また……教えてね! えへへっ」

 可愛らしい笑い声が途切れ、ツーツーツー…と虚しい音が鼓膜の中で響き渡る。リカちゃんの暴走は気にかかるけど、とりあえず、ミッション成功だ。リカちゃんにアリバイを作ってもらい、マイキー君の家に泊まる。あとは心置きなく夜を……過ごす………だけ………。

 ………本当に?

 膝の上に丸めた拳をぎゅっと握りしめる。まだストーブはつけたてで部屋は暖まっていないのに、顔がすごく熱かった。

「菜摘ー?」
「うひょお!?」

 悶々と思い悩んでいるところにマイキー君に突然覗き込まれ、素っ頓狂な声を上げて驚いてしまう。

「変な声〜!」

 マイキー君はわたしの変な悲鳴が気に入ったのか、げらげら笑う。普通だ。学校にいる時となにも変わらない。

 ……そ、そうだよね。マイキー君のご家族もいるんだから……ね。

 無駄に意識しすぎるな。そう戒めているとマイキー君に「リカちゃんと話、終わった?」と訊かれた。頷いて、肯定を表す。

「う、うん。口裏合わせてくれるって」
「そっか。てか菜摘、風呂入れば?」
「あ、うん。ありがと。でもその前に、マイキー君のお家の人にご挨拶したい」

 マイキー君の部屋は母屋にはなく、庭の倉庫の中だった。わたしは母屋を通ることなく、最初からマイキー君の部屋に上がった為、まだ佐野家の人間に誰も会っていなかった。……緊張する。手土産持ってきてないし。ていうか佐野さんマイキー君こと大好きだし絶対気を良くしないよな……。

 悶々と思い悩んでいるわたしに、マイキー君はしれっと言った。

「じいちゃんもう寝てるし、エマはヒナちゃんちだからいいよ」

 脳みそがフリーズした。
 それはつまり、真夜中に、意識のある人間がわたしとマイキー君だけって事で。
 二人きりで、夜を過ごすようなもので。

「菜摘ー? パジャマねーの? 貸してやろっか?」

 固まっているわたしに、マイキー君は泰然とした態度で話しかけてきた。マイキー君をまじまじと見つめる。動揺も戸惑いも、何も浮かんでいない。わたしだけが、過剰に意識していた。
 …そ、そう。落ち着こう、菜摘。考えすぎなんだってば。すうっと息を吸い込んでから「だ、大丈夫」とぎこちなく笑った。

「パジャマ、持ってきたから」

 ボストンバッグを開いて、パジャマを探す。だけど漁っても漁っても、見慣れたピンク色のパジャマが出てこない。あれ、持ってこなかったっけ。眉を八の字に寄せて、手当たり次第に掴んで確認していく。色んなものを適当に投げ入れてきたからボストンバッグの中は全く整理されていなかった。どこだろう、と若干苛立ちながら更に漁ると、サクランボ柄のブラが少しだけ覗いているのが見えた。見慣れた自分の下着は、マイキー君の部屋で見るとわたしの心臓をざわつかせた。

 動揺を必死に押し殺し、平静を装ってマイキー君に声を掛ける。

「……ごめん、忘れたみたい。貸してくんない?」
「ほーい」

 マイキー君は棚の上に置かれた山積みの洗濯物から、灰色のスエットを取り出した。「ありがと」と受け取って、マイキー君から見えないように素早くブラとパンツをスエットの中に隠しながら立ち上がった。

「お待たせ。準備できた。お風呂借りてもい?」
「ん。こっち」

 マイキー君の後に、わたしは着いて行く。マイキー君の家って大きいなぁと失礼にならない程度に見渡しながら、進んでいく。古い家で、歩く度に廊下がぎしぎしと鳴った。

「風呂、ここ。これタオル。あ、つか菜摘。パンツは持ってきた?」
「あ、ある」
「そっか。じゃーな。あ、ドライヤーここな。他わかんねー事あったら、ま、なんとかして」

 マイキー君は適当に説明すると、「ごゆっくりー」と言い残して出ていった。パタン、とドアが閉じられる。……なんかものっすごくサラッとパンツの事聞かれたな。いや。まあ、いいんだけど。うん、深い意味ない。ないないない。今のわたし年中発情期みたいな男子と同じ脳みそになってる。

 自意識過剰っぷりが恥ずかしくなり、はあーっと息を吐く。よし、いい加減お風呂に入ろう。いい加減煩悩を捨てよう。いい? 菜摘。落ち着け、落ち着くんだ……。ぶつぶつと呟きながら裸になり湯船につかると、冷え切った体にお湯が染みわたり、ほうっと安らぎの息を吐いた。

 マイキー君がいないこともあり、思い切りきょろきょろと浴室を見渡す。人の家のお風呂って自分の家と使い勝手が違って面白いんだよなぁ。ステンレスのシャンプーラックにはわたしが普段使っているものと同じ銘柄のシャンプーとリンスーが並んでいた。もうひとつはメリット。佐野さん用と、マイキー君とおじいちゃん用って感じに分かれてるのかなと思うと、佐野家の日常が垣間見えたような気がして微笑ましくなる。マイキー君、勝手に佐野さんのシャンプー使って怒られてそう。

 ……ここで、マイキー君毎日お風呂入ってるんだなぁ……。

 そこまで考えが至ると、ピシッと体が固まるのを感じた。

 ここで、マイキー君は毎日、お風呂をに入っている。
 素っ裸で。

 ぎゅいんっとものすごい勢いで体温が急上昇するのを感じた。下唇を噛みながら湯船から出ると、わたしは高速で顔を洗い髪の毛を洗い体を洗っていく。佐野さんの物であろうシャンプーを借りるのは悪かったので多分マイキー君とおじいちゃんが使っているであろうメリットを失敬した。

 彼氏の家に泊まるってすごい。世の彼氏持ちはこんなことを平然としてるのか。
 世界中の彼氏持ちの女の人達に尊敬というか畏怖の念を抱きながら、お風呂を後にした。




 パパ:着信18件
 ママ:着信47件
 お兄ちゃん:着信5件

 マイキー君が今お風呂に入っているため、手持ち無沙汰のわたしはケータイを開いていた。おびただしい着信数に思わず「うっ」と呻いた。何とも言えない気持ちは徒労感となる。ベッドの脚に背中をずりずりともたれながら、息を吐いた。
 着信履歴はあらかた家族で埋まっていた。スクロールしてもスクロールしても、パパママお兄ちゃんが途切れない。受信ボックスもパパママお兄ちゃんだらけだった。何気なく、適当にメールを開けてみる。

『ママが言い過ぎた。ごめんね。今日、菜摘ちゃんの好きなシーフードドリアにします。帰っておいで』

 ……わたしに謝られても。
 ママが涙目でメールを打っている様子が想像できるけど、多分、本当に悪いとは思ってない。とにかくわたしに帰ってきてほしい一心なのだろう。

 ……あんな風にママに怒ったの、初めてだな。口には出さなかったけど、クソババアとか思ったし。

 わたしとママは仲が良い。よく一緒に買い物するし、今まで色んな相談に乗ってもらってきた。小言が鬱陶しくて喧嘩したこともあったけど、いつのにかどうでもよくなり、最終的には仲直りしていた。
 けど今回はなあなあに終わらせたくない。
 ママの事は好きだし、クソババアと思った事に罪悪感は抱くけど、だけど許せないものは許せなかった。

『……まさか自分の娘が、ろくでもない死に方しそうな子と付き合うなんて』

 思い出すだけで不快感と怒りが込み上げて感情が昂って、泣きたくなる。

「………絶対、許さない」
「あっちーー!」

 呟いたと同時にマイキー君がドアをバアン! と開けた。驚きのあまり硬直しているわたしの隣に、ずぶ濡れになったマイキー君がどかっと座り込む。マイキー君の動きにつられてシャンプーの匂いが舞うと、心臓がわかりやすくざわついた。

「……マイキー君、髪、長いから乾かすの大変でしょ」
「うん。だから菜摘よろ〜」

 は? と目を点にしている間にドライヤーを押し付けられた。まさかの展開に「え、ちょ」と狼狽えている間に、マイキー君はわたしに背を向けていた。

「はーやーくー」

 じれったそうにせがまれて、ああ、もう駄目だなと観念する。わたしに拒否権はない。はあ、と息を吐いてからドライヤーのスイッチを入れ、くすんだ金髪に手を伸ばした。

 熱風を吹きかけながら手櫛で整えていく。激しく鳴り続ける心音を、必死に抑えつけながら。聞こえていませんように、と願いながら。

「あちぃー」
「我慢して。マイキー君、髪長いんだから」
「だりー、もう切ろっかなー」
「そういやマイキー君、一年生の時は短かったよね」
「へー。よく知ってんなぁ」
「マイキー君目立つもん」

 ドライヤーの音がうるさいから、声を少し大きくして二人でとりとめのない会話をする。落ちのないありふれた日常会話。思い出にもならずすぐに消えていくであろう会話。だけどわたしは、こういう話をマイキー君とするのが好きだった。

「菜摘は? 一年の時どんくらい?」
「わたしは今より短かったよ。ボブにしてた」
「へー。伸ばしてんの?」
「うん。高校生なったらね、二つ結びやめてくるって巻きたいんだ。ママも、」

 女子高生って感じでいいと思うと言ってくれた。
 そう続けようとしたことに気付いて口を噤むと、会話が一瞬途切れた。

「かーちゃんと喧嘩?」

 からかうような調子だけど、優しい声だった。わたしは無言でこくりと頷く。マイキー君は気配でわたしが頷いたのをわかったようだ。「そっか」と息を零しながら笑った。

「言いたくないなら言わないでいいし、家に帰りたくねえならずっとここいていいけど、でも、菜摘の後悔しないようにな。オマエ、かーちゃんの事好きじゃん。ママがママが〜ってしょっちゅう言ってるし」
「……人をマザコンみたいに言わないでよ」
「いーじゃんマザコンで。中坊なんだし」

 普段、小学生みたいな言動ばっかのくせに。時々こうやって、ものすごく大人≠ノなる。今、マイキー君はわたしに背を向けているからどんな顔をしているかわからない。けど達観しているような、大人びた表情をしているんだろうな、と予想はついた。

 親に嘘を吐いて無断外泊している事。ママにクソババア≠ニ思った事。家族に心配をかけている事。わたしはすべてに罪悪感を覚えている。悲しそうにわたしを呼ぶママの声を思い出すと、胸が痛んだ。

 ――だけど。

 わたしはベッドに上がり、マイキー君のつむじ辺りに熱風をかける。ドライヤーを左右に振りながら、「わたし、」とぽつりと声を落とす。

「確かに、ちょっと後悔してる。もっと他にも言い方あったなって思う。けど、」

 ドライヤーの電源を落とす。もう声を張り上げなくてもいいのに、さっきと同じ声量を出した。

「わたしだって、譲れないものがある」

 わたしは家族に大切に育てられてきた。愛されてきた。
 だけどそれでもどうしても、譲れない。
 何も知らない、知ろうともしない人に、マイキー君を侮辱されることだけは、譲れなかった。

 マイキー君はゆっくりと振り仰いで、わたしを見た。確認するようにぱちぱちと瞬きを繰り返した後、ゆるやかに唇を緩めた。

「菜摘、ちょっとだけタケミっちに似てる」
「……え、そうなの?」
「あっちー!」

 マイキー君は言いたいことだけ言うと、立ち上がりながらスエットを脱いだ。鍛えられた上半身が露になり、「へ」と間の抜けた声を漏らすわたしの隣に、どすんっと腰を下ろす。二人分の体重がかかり、ベッドがギシッと軋んだ。

「ドライヤー、ありがと」

 マイキー君は笑ってお礼を述べる。だけどわたしはかつてないほど心臓が暴れくるっていて、もう何も言えない。
 着やせするタイプなんだろうか。思ったよりも筋肉がついている。お腹が割れている。てかマイキー君脱いだ。つまり、つまり、つまり、つまり。
 少コミとネットと保健体育の授業の知識が頭の中でぐるぐると駆け巡る。体育館倉庫で押し倒されここがいいんだろと………。

「菜摘、腹減らね?」

 ぐわんぐわんと目の前が回っていると、マイキー君ののんびりした声が鼓膜を撫でた。押し倒されるのかと構えていたわたしの胸に、一拍の空白が生まれる。

 え。どら……やき……?

 マイキー君はベッドから立ち上がると、棚に向かい、どら焼きを二つ掴んで戻ってきた。

「はい、どーぞ」
「え。あ。ありがと」

 目を点にしているわたしを置いて、マイキー君はどら焼きの包みを開けるとむしゃむしゃ食べ始める。「うめぇー」と頬張っている様子は、ただ、のどかだった。

「菜摘も食えよ。美味いよ」
「あ、うん、い、いただきます……」

 促されて、わたしも恐る恐るどら焼きの包みを開けて頬張る。優しい餡子が硬直していた気分を解していった。美味しい。今日、晩御飯コンビニのおにぎり二つだったしなぁ……。今更ながらにお腹がそれなりに減っていた事に気づき、わたしはガツガツと食べ進める。

「美味しかった。ごちそうさまでした」
「ん。あのさ、菜摘」
「うん?」
「オマエ緊張し過ぎ」

 あまりにも不意に核心を突かれ、わたしは目を見張らせた。気付かれてた事に動揺と羞恥心で一気に熱が込み上げ、全身を支配した。絶対、からかってくる……! 普段しょうもない事で『菜摘エロ〜』とはやし立ててくるマイキー君の事だ。絶対、弄り倒されると覚悟を決め、唇を真一文字に結び耐え忍ぶ体勢を整える。だけどマイキー君はにたっと笑うこともなく、澄まし顔で。

「童貞じゃねえんだから、そんながっつかねえよ」

 そう、さらりと言った。

 マイキー君は「だからもっと気楽にしとけ」と続ける。だけどあまり、耳に残らなかった。『童貞じゃねえんだから、そんながっつかねえよ』が、鼓膜にこびりついてぐわんぐわんと反響を続ける。

 童貞じゃない。それは、もう、経験済みということ。

「だれ、と?」

 喉が、からからに乾いていた。だから一旦、潤わさなければいけなかった。ごくりと唾を呑み込むと、真っ逆さまに落ちていった。

 マイキー君はふわあっとあくびした後、「ケンチンとこのねーちゃん」と言った。

「ケンチンの家、デリヘルでさ。オレの顔が好きってねーちゃんが中学祝いって事でヤらせてくれたー」

 龍宮寺君の家、デリヘルなんだ。すごいな。すごいって事はわかるんだけど、だけど今は、なんか、すごいって思えない。

 マイキー君、セックスした事あるんだ。

 暴走族の総長が中三でセックス経験済みなんて、別に驚く事ではない。去年のわたしが知ったら動揺することなく『ああ』と頷いて納得しただろう。
 何百人もの不良の頂点に立つ無敵のマイキー≠ェ、セックスした事あるなんて普通だ。何にもおかしくない。
 だけどそれなのになぜか、胸の中がぽっかりと空いている。

「何回したの?」

 知りたい訳じゃないのに気付いたら、そう聞いていた。怖いもの見たさみたいなものだろうか。ぼんやりと自己分析をする。

「数えてねえよ、めんど――え」

 寝ぼけ眼をこすっていたマイキー君はかったるそうにわたしに顔を向けた後、口を開けて固まった。なんで吃驚してるんだろう、と不思議に思う。

「なんで、泣いてんの」

 その答えは、すぐにマイキー君が教えてくれた。

 泣いて、る? 首を傾げると、涙が頬をつたっていくのを感じた。マイキー君が貸してくれたスエットに、染みがついている。

 わたし、泣いてる。

 ようやく気付くと、待ってたと言わんばかりに涙がどんどん溢れ出した。ぽろぽろぽろぽろと、どんどん涙の粒が転がっていく。

 わたし、マイキー君が他の人とセックスしてるの嫌なんだ。
 
 心の中できちんと言葉にすると、実感が追いついてきた。感情が、溢れる。
 
 知らない女の人と裸で抱き合いキスをしているマイキー君が勝手に脳内で再生されると、心臓を握りつぶされるような痛みを覚えた。やだ、やだ、やだ。聞き分けのない駄々っ子のように、頭をぶんぶんと振る。

「菜摘、え、なに。なんで?」

 マイキー君の戸惑った声に、苛立ちが募る。なんで、じゃない。マイキー君のせいでしょ。他の人と何回もセックスした事あるとか言うから。そう責めてやりたいけど、込み上げる嗚咽を押し殺すことで精いっぱいのわたしに、声を出す余裕などない。ただ、抱え込んだ膝に顔を埋めて泣くだけだ。
 わたしの小さな泣き声以外の音がすべて消える。マイキー君は呆然とし、二の句がつげないようだ。いつもしょうもないことで回っている口が鳴りを潜めている。

「……どうしたら、いい?」

 静寂の中、ぽつんと頼りない声が、呟くように落とされる。膝小僧から顔をずらしてマイキー君を見ると、マイキー君は途方に暮れたような表情をしていた。

「どうしたら、泣き止んでくれる?」

 東京卍會の集会を、さっき初めて見た。何百人もの不良を前に立ち上がり、圧倒的なカリスマ性を纏って指揮するマイキー君は、凛然としていた。『東京卍會初代総長』の刺繍が施された特攻服が風になびいている様子は圧巻だった。強烈なまばゆい光。そこにいるだけで空間を支配し、君臨する。ひれ伏し、崇めたくなる。
 何故マイキー君が総長として頂点に立っているのか。マイキー君の背中を見れば一目瞭然だった。
 それが今や、眉を八の字に寄せて困り果てていた。そのギャップに面食らう気持ちと良い気味だと舌を出したい気持ちと――悲しそうな顔をさせたくないという気持ちが同時に沸き上がった。

「……他の人と、もう、しないって言ってくれたら」

 鼻を啜りながら途切れ途切れに言うと、マイキー君はぱちくりと瞬いた。瞬きを繰り返すことで、わたしの言葉の意味を咀嚼しているようだった。

「オレが他の奴とすんの、やなの?」

 そんなこと?≠ニ言いたげな、きょとんとした面持ち。マイキー君とわたしの貞操観念の違いを感じ怒りと寂しさを感じながら、唇を引き結んだままこくりと頷いた。

「わかった」

 マイキー君も頷く。わたしの目を、強く見据えながら。

「もう、他の奴とヤんない」

 じいっとわたしの瞳を覗き込む、真っ黒な瞳。そこにはだから泣き止んでくれる?≠ニ窺うような色が宿っていた。叱られた後の小さな子のような振る舞いに、悲しみと嫉妬心でぐちゃぐちゃに絡まり合い蜷局を巻いていた感情が、少しずつ、ゆるやかにほどけていった。

「ほんとに?」

 湿った声で問いかけると、マイキー君はもう一度「うん」と頷いた。真っ黒な瞳は、水晶玉のように透き通っている。

「菜摘が嫌ならもうしない」

 ほんとに、小さな子みたい。
 もう悪戯しませんと反省し、許しを乞うている小さな子。マイキー君は神妙な表情で、食い入るようにわたしを見ていた。視線を返している内に、ろうそくが灯るように、ぽっと心の奥が暖まっていく。

「……約束できる?」

 首をかしげて言い聞かせるように問いかけるとマイキー君はこくりと頷いた。幼さを感じさせる振るまいだった。簡単に許したくなかった。だけどそんな風にものすごく真剣に乞うように見つめられたら、駄目だった。

「……しょーがないな」

 少し大袈裟に呆れたように呟いてみせて、頬を緩めた。

 許してあげる。だからさ。

「それならいいよ」

 そんな不安そうな顔、しないでよ。 
 マイキー君が安心できるように微笑んでみせると、最後の涙がころころと頬をつたっていった。

 すると。あっという間に距離を詰められて、マイキー君にキスされた。

 ……ほんとにいつも急だな。何の前触れもなしにキスされて驚きのあまり涙が止まる。だから急にするなと何回も言っているのにと苛立ちながらもまたしても嫌じゃない。とりあえず、目を閉じるか。心臓がどくどくとせわしなく鳴っているくせに、平静を装いながら目蓋を下ろして感受すると。

「――!?」

 ぬるっとしたものに口を抉じ開けられた。思わず目を見開いている間に、舌が、口内にねじこまれる。

「ちょ、っ、ん、」

 肩を掴んで押し返そうとするけどびくともしない。後頭部に手を回されて、がっちりとホールドされる。押し返そうとする掌からどんどん力が抜けていった。

 いつのまにか、体は傾いていた。ぼすんっと布団に沈んだわたしの上に、マイキー君が覆い被さる。
 キスが止んで、マイキー君のくちびるが離れていく。それでもまだわたしのくちびるは燃えるように熱かった。
 ぜえぜえと息切れしているわたしを、マイキー君は平然と見下ろしている。

「が、が、がっつかないって……!」
「勃った」

 聞いていた話と違い抗議めいた口調で問いかけるわたしに、マイキー君はしれっと返してきた。勃った。……勃った……! 生々しい生理現象を突如投下され羞恥に打ち震えながら口をあんぐりと開けていると、またくちびるを塞がれた。ふたりの境界線が溶けてなくなるような深いキスに、目眩を覚える。

「まっ、ふぅ、んっ」

 舌の裏側に舌を差し込まれ、絡み取られる。唾の混じり合う音が響いた時、まるで火を呑み込んだように全身が熱くなった。頭が痺れる。思考回路が散り散りに散らばっていく。
 喋るどころか息ができない。酸素を吸うタイミングがわからない。視界が潤み霞んでいく。マイキー君の肩を掴んでいた手から力が抜けだらりと落ちる。すると、ようやく解放された。舌が抜かれ、久しぶりに新鮮な空気が口内を満たす。

「鼻で息すんだよ」

 マイキー君は淡々と告げた。まだ視界は曇っていて、どんな顔をしているかよくわからない。

「なん、で……!?」

 息を切らしながら、わたしはマイキー君に問いかける。

 性欲から来る暴走には思えなかった。さっきまで、マイキー君はずっと飄々としていた。童貞じゃないから飢えていないと発言した時も無理しているように思えなかった。
 それが何かをきっかけにして、急に動いた。

 全然わからない。
 マイキー君が何を思って、わたしとセックスしようとしているのか。
 目の前のマイキー君は今までのどのマイキー君でもなかった。無邪気でもカリスマ性に溢れている訳でも怖くもない。
 真っ黒な瞳は、澄んだ眼差しで全てを見透かすように、わたしの心中を覗き込むように、ただ、見つめている。

「マーキング」

 親指で濡れた唇を押されると、心臓までさわられたように感じた。どくんと心臓が大きく跳ね上がり、息が詰まる。黒い瞳から放たれる視線のすべてをあますことなく注がれる。

 ライオンに捕食される寸前のシマウマは、こんな心境なのだろうか。

 心臓が早鐘を打っていた。怖かった。犯されそうだからというよりも、マイキー君に、魂までまるごと呑み込まれそうな感じがして。

 真っ黒い瞳の中に、永遠に閉じ込められそうな気がして。

「オレのモンになってよ」

 視線を繋げたまま、マイキー君は更にわたしに顔を近づけた。
 至近距離で瞳を覗かれる。
 真っ黒な瞳が、すぐそこにあった。

『菜摘、オレのこと好きじゃん』

 あの日見た瞳と同じものだった。

 瞳孔の奥の先の光を捉えた時、胸の中でなにかが弾けた。炭酸の泡のようにしゅわしゅわと浮かび、やがて心の中へ溶け込んでいく。

 波が引くように、胸の中を巣食っていた不安や戸惑いが消えていくのを感じた。強く波打っていた心臓は、凪いだ海のように穏やかだった。

「しょっちゅう、わたしを自分の物扱いしてるじゃん」

 淡々と落ち着いた声が自分から流れたことに驚く。今にも犯されそうだと言うのに、どうしてか、平常心だった。少し前まで胸中を支配していた動揺や恐怖や不安はない。もう、わたしの心臓を揺らがすものは何もなかった。

「わたし、マイキー君のものじゃなかったの?」

 水面は揺れることなく、ただ、水を湛えている。

「もっと」

 薄く開かれた唇から零れ落ちたマイキー君の願いが降ってきた。ぽつぽつと小雨が降るような拙い口ぶりで、マイキー君は願いを紡いでいく。

「全部。丸ごと」

 雪が降り積もるように、静かな声だった。感情に乏しく、淡々としている。

「オマエの全部、オレにちょうだい」

 彼氏から体を求められる時、甘ったるいムードに包まれるのだろうと思っていた。もっと多幸感に胸を締め付けられ、くすぐったくむず痒い気持ちになるものだとばかり、思っていた。
 だけど現実は、ただ、静かだった。平常心を保っている訳ではない。ただ、心が凪いでいた。目の前のマイキー君を空が青い事と同じように、すんなりと受け入れることができた。
 わたしとマイキー君がいる空間だけ切り取られて宇宙に放り出されたみたいだった。それくらい、静かだった。

「怖い?」

 マイキー君がわたしの頬に手を添えながら機械的に問いかける。空洞のように、ぽっかりと空いた声。気遣いからの問いかけというより、ただ、確認しただけのようだった。

 もし、この手を離したらどうなるのだろう。不意にそんな考えが首をもたげ、一瞬想像を巡らせる。ヤらせてくれなかったと振るんだろうか。それともわたしの意見など無視して無理矢理犯すのだろうか。
 わたしはマイキー君のことがわからない。けど、どちらでもないような気がした。

 この手を振り払ったらきっと彼は。
 何事もなかったように日常に戻っていくのだろう。
 焼き尽くすばかりの強烈な光を背負う無敵のマイキー≠ニして。

「怖い。でも、」

 頬に置かれた掌に、わたし自身の手を合わせると “この手を振り払ったら”のifの世界線が消え去っていくのを感じた。

「なんとかする」

 マイキー君の瞳を真っ直ぐ見返しながら言いきると、静けさは更に深まった。
 風が窓を揺らす音と小さな息遣いと秒針が刻まれる音以外、すべてが無くなる。

 繋がっていた視線が途切れた。二人ほぼ同時に目を閉じて、くちびるを合わせたから。深く深く、溶け合っていく。
 
 ベッドが軋む音が低く響いた。



 幸福感や快楽よりも、体を明け渡す畏れや恥ずかしさの方が上回っていた。熱かった。痛かった。蛙のように足を広げてまでどうしてこんな痛みに耐えているのだろうと、下唇を噛みながら思った。

 だけど。

「菜摘、」

 ぽたっと水滴が眉間に落ちてきて、一瞬目を閉じる。もう一度目を開くと、マイキー君から汗が滴り落ちていた。
 黒い瞳は、じいっと、わたしに向けられている。

「万次郎って、呼んで」

 だけど、金色の髪の毛の間で、瞳が揺れていた。
 ずっと揺れている。
 わたしを押し倒した時から、ううん、その前からずっと。
 抱いている時もずっと。
 真っ黒な瞳はゆらゆらと拠る辺なく、いつまでも揺れている。
 さみしそうに。
 迷子が、立ちすくむように。

「まんじろ、くん」

 息も絶え絶えに呟くように呼ぶと、マイキー君は「うん」と言った。体は腹筋が割れていて傷痕もいくつも残っているのに、口振りは子どものようにあどけない。アンバランスだな、とぼんやりと思った。

 痛みに耐えるために握っていたシーツから手を離し、マイキー君に向かって伸ばした。

「おいで」

 マイキー君の後頭部に手を回し、首筋に埋めさせる。乱暴に触れたら、触れた個所から崩れ落ちそうだったから、柔らかく、包み込むように。マイキー君はただ黙ってされるがままだった。

 わたしはくみしかれてる方で。マイキー君の言いようにさんざんされてきたのに。

 わたしよりも強く度胸もあり溢れんばかりのカリスマ性を持つ、目の前の男の子を。
 どうしてか、なんでか。
 この世の怖いものすべてから覆い隠してあげたかった。

 長い金髪に指を通して手櫛で梳かしながら、何の根拠もないのに、無責任に諭しかけた。

「大丈夫だよ」

 マイキー君は一拍置いてから「うん」と頷いた。やっぱり小さな子のような、返事の仕方。
 マイキー君は顔を上げ、わたしにキスをする。舌の入った深いキスだった。性器の繋がった状態でそんなキスをされたら、もうどこからどこまでがマイキー君で、どこからどこがわたしなのか、わからなくなった。

 境界線がなくなりひとつに溶けて混じり合っていくような、そんな錯覚を覚えた。







 物理的な衝撃が、胸に走った。

「ふがっ!?」

 何事かとパチッと目を開けて、胸元を確認する。一本の腕が投げ出されていた。二の腕から付け根、付け根から顔と視線を辿っていく内に、持ち主に行き着く。腕の持ち主であるマイキー君は、涎を垂らしながら寝ていた。
 
 ……この人は……。

 マイキー君の寝相の悪さに苛立ちが沸き睨んでやるけど、絶賛快眠中のマイキー君はもちろん痛くも痒くもない。すぴーすぴーと軽やかな寝息を立てている。暢気な寝顔からは昨夜の色っぽさは全く窺えない。
 
 ………昨日。

 いや、正しく言うと今日だけど。何時間か前まで物理的に繋がっていた事を思い出し、全身を熱が駆け巡る。まさか中三で処女卒をするとは思わなかった。また人生設計が狂い、何とも言えない気分になる。しかもわたしの処女奪った奴はというと「どらやき……」と寝言を言いながらわたしの胸を揉み始めた。だれがどらやきだだれが。イラっとし、手の甲を抓ってやる。けど全然痛くなさそうだった。起きる気配は全くない。

 手、おおきいなぁ……。

 わたしのお兄ちゃんより身長低いのに、多分、手はお兄ちゃんより大きい。両手でマイキー君の手を取り、目の前に翳してみた。

 この手で人を殴り、バイクのハンドルを握りしめ、わたしの体をあちこちまさぐった。
 
 まじまじと見ている内に、お腹の奥底からじわじわと愛しさのようなものが生まれる。泉が沸くように、体中を満たしていった。見えない糸に引かれるように、マイキー君の掌に一瞬だけ唇を寄せた後、両手で握りしめて、胸の真ん中で包み込んだ。

「朝這い?」

 聞こえるはずのない声が聞こえ、ぎょっとして顔を横に向けると、マイキー君がわたしを真顔で見ていた。い、今の、見られて………。状況を理解すると羞恥心が込み上げ、顔が一気に熱くなった。顔から煙を出しているわたしをまじまじと見つめた後、にたあっと笑った。

「菜摘、えっろ」

 マイキー君は時折、こうしてからかってくる。その度にわたしは白い目を向けたり鼻で笑い飛ばしたり呆れたりといなしてきた。
 だけど今回は無理だ。反論できない。
 
 唇を真一文字に結んで黙って羞恥に打ち震えているわたしに、マイキー君は気を良くしたようだ。煽るように、嬉々としてはやし立ててくる。

「えっろえっろえっろ〜〜、菜摘のえっろ〜〜」

 訳の分からない歌を即興で作り上げ歌い続けるマイキー君に、わたしの中の何かが切れた。ブチンッ。布団の中で脛を蹴り飛ばすと「いっ」とマイキー君は顔をしかめた。

「っってぇ〜〜! なにすんだよ!」
「うるさいバカあほドジ間抜けオタンコナスチビチビチビ」
「は? チビじゃねーし菜摘よりでかいし」
「男子の平均身長調べてみれば? ……ってどこさわってんの!」
「オマエだって小さいじゃん。エマの1/3だろ」
「佐野さんは規格外、だから、揉まないでってば!」
「えーーーなんで」

 マイキー君は粘土をこねるように、わたしの胸を揉み続ける。その掌をなんとか外そうとマイキー君の手首を両手で握るが全く動かない。マイキー君は「もう別にいいじゃん」と平然としている。何時間前まで揉んでいたんだから別に今もいいだろとそういう事を言いたいんだろう。人の胸を一体何だと思ってんのこの人。

 そんな風に攻防戦を広げていたものだから、わたしは気が付かなかった。

「マイキー遅い! もうお昼だよはやく洗濯物――、」

 迫りくる、足音に。

 バァン! と荒々しくドアが開かれたその先で、佐野さんが立っていた。
 エプロン姿の佐野さんが、立っていた。
 ぷりぷりと膨らんでいた頬が、みるみるうちに萎んでいく。大きな瞳が、驚愕で見張られていく。
 わたしのマイキー君への苛立ちも、瞬く間に消えていった。もうそれどころじゃない。

 三人分の視線が絡み合った中、いちはやく動いたのはマイキー君だった。

「おう、エマ。おはよー」

 よっと手を上げるマイキー君は、本当に、いつも通りだった。







 助けてください。
 セカチューの森山未來の言葉が頭の中をずっと駆け巡っている。リカちゃんと見にいったなぁ。マックで『アキがぁ、アキがぁ』と泣きじゃくっていたリカちゃんに手持ちのポケットティッシュを全て渡した。と、そんな思い出を振り返りでもしないとやってられなかった。

「エマー、醤油取ってー」

 マイキー君以外誰も喋らないこの食卓では。

 無言でマイキー君に醤油さし渡す佐野さんから「ありがと」と受けとると、マイキー君は裏返しにした目玉焼きの上に醤油をどばどばかけてぐちゃぐちゃに潰していった。わたしはそれを『どういう食べ方…?』と引きながら眺める。マイキー君は妹に事後を見られたにも関わらず何も動揺していなかった。大物と崇めるべきか面の皮が厚いと引くべきか。

「あの……佐野さん、ありがとう。朝ご飯? というか昼ご飯用意してくれて……。美味しい…です……」
「……別に。有り合わせのもので作っただけだから」

 佐野さんはわたしに目を合わせず、つっけんどんに答える。ああああああああ。頭を抱えながら床を転げ回りたい。佐野さんのわたしへの好感度が地下へめり込んでいるのをひしひしと感じた。どうしてこんなことに。

「佐野さんっておかしくね? オレも佐野だし。エマでいいじゃん」
「佐野さんでいいし」

 佐野さんのチクチクした声が肌に突き刺さる。佐野さんがわたしにうっすらと嫌悪感を持つ理由は、わたしも兄を持つ身だからよくわかるものだった。

 マイキー君と佐野さんほどじゃないけど、わたしとお兄ちゃんも結構仲が良い。回し飲みするのに抵抗はないし、時々お兄ちゃんの服を借りる事もある。スマブラで夜通し遊んだこともしょっちゅうだ。ムカつく事も多いけど、わたしはお兄ちゃんが好きだ。そのお兄ちゃんを起こしに行った際に、知らない女が素っ裸で寝ていたら思う事はただひとつ。誰コイツ

 佐野さんはマイキー君が大好きだ。仲良さそうに登校しているのを何度も見た事がある。『大好きマイキー』とマイキー君の腕に絡みつく佐野さんからは、その言葉の通りマイキー君が大好きな事が伝わってきた。
 その佐野さんが、マイキー君の事後を見てしまった。しかも相手はよくわからない奴。
 ああああああああああああああ。

「ごっそーさん。ふわぁ〜〜〜。ねっみ。寝よ」
「え」
「部屋戻っとくなー」
「ちょっ、待っ……!」

 伸ばした手ははかなく宙を掠める。マイキー君は背中をぼりぼりと掻きながら、リビングを後にした。

 マイキー君がいなくなった後、しいん、と静寂に静寂を重ねたような静けさが降りる。

 わたしも急いで食べてマイキー君を追いかけるか。いやでも片づけはしないと。とりあえず味噌汁を啜ってこの場をなんとかしのぐか……! 今わたしが無言なのは味噌汁を啜ってるからであって喋る事がないから無言なんじゃない……!

 佐野さんがサイドポニーに纏めた毛先を指に巻き付けながら、床に視線を向けていた。なんか喋った方がいいんだろうけど何を喋ったらいいかわからない。沈黙で窒息死しそう。ああえっとわたし後輩と何喋ってたっけ……?

「いつから、マイキーと付き合ってるの」

 ぽつんと落ちた声がわたしに向けられたものだと一瞬わからず固まった。だけどこの部屋にはわたしと佐野さんしかいない。一瞬呆けてから「え、えっと」とまごつきながら答える。

「クリスマス……かな。マイキー君がそう言ってた」
「ふうん」

 興味なさそうに呟きながら、くるくると髪の毛を指に巻き付け続ける。こういうところマイキー君に似てるな……。聞いておきながら別にそんな興味ないってところ……。気まぐれな性質に佐野家のDNAを感じ、微笑ましさと虚脱感の間で揺れながら「まあ、そんな感じ」と口角を無理矢理上げて笑う。

「流されてんの?」

 佐野さんが髪の毛を巻き付けるのをやめて、わたしを見た。大きな瞳が、挑むようにわたしを見据えている。

「マイキー、欲しいものは絶対手に入れないと気が済まないし、付き合お付き合おって言われて、その気になってるだけなんじゃないの? 顔もいいし、東卍の総長だし、まあいっかって、適当な気持ちなんじゃないの?」

 敵意の籠った眼差しに言葉を失う。『半端な気持ちで付き合うなら許さない』と吊り上がった目は言っていた。マイキー君への愛情が強い眼差しからわたしの中へ流れ込み、体中に浸透していく。
 この子、本当に良い子だなぁ。そう思うと、緊張で強張っていた頬から力が抜けていくのを感じた。
 だから、無理することなくするりと思いを言葉にできた。

「流されてないよ」

 そう言った後、思わず苦笑が零れた。なんとまぁ、信憑性の薄い。

「一か月ちょっとで彼氏の家に泊まるような奴に言われても…って感じだよね。けど、ほんとだよ。流されてない。何も考えないで……ああいうこと、したわけじゃない」

 初めてだった。どう動けばいいかわからなかった。声を出すことは恥ずかしかったし足を広げることには強烈な抵抗感を覚えた。だけど最後は、自分自身で選択した。わたしが自分の意志で、マイキー君とセックスすることを選んだ。

「マイキー君のこと、抱きしめたいって思ったから、した」

 胸の中にある思いを言葉にすると、口の中が猛烈にむず痒くなった。なんとかしたくて味噌汁を煽ると空になった。神妙な顔つきで黙ってわたしを見つめていた佐野さんは立ち上がると、コンロの前に立った。

「お味噌汁、いる?」
「え、あ、ありがと。ほしい」

 佐野さんは小さく顎を引いた後、コンロを回した。お鍋をかき混ぜている姿が様になっている。学校では美少女ギャルって感じなのに。もしかしたら、佐野さんずっと家事をやっているのかな。そう思うと、ママの手伝いもろくにせずに自分の事ばかりにかまけている自分自身が情けなくなった。思わず肩を縮こまらせる。

 佐野さんの白い小さな掌が、わたしに出していたお椀を取った。お椀にお味噌汁を注ぎ入れ、またわたしの前に戻してくれる。お味噌の良い香りが鼻孔をくすぐる。口に含むと、体中に優しいぬくもりが染み渡った。

「おいし……。佐野さんって料理上手だね」

 一朝一夕では生み出せない家庭の味に脱帽して独りごちるように呟く。すると佐野さんは「当たり前」とつんと澄ました後、頬をやわらげた。

「ウチ、ずうっとマイキーのご飯作ってきたんだから!」

 誇らしげに胸を張るその姿は茶目っ気に溢れた愛らしいもので、そこらのアイドルなんて目じゃない。あまりの可愛らしさに心臓が高鳴る。分不相応な願いが、胸の中に宿った。

 佐野さんの事、エマちゃん≠チて呼びたい。
 今はまだ無理だけど、いつか、きっと。

 きっと。








If there were dreams to sell, what would you buy?



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