わたしとマイキー君が付き合っている事は瞬く間に学校中に広がり、男子に姉御≠ニ呼ばれるようになった。本当に嫌だからやめてほしいと懇願しても『はい! 大変申し訳ございません姉御!』と返される始末。その事をマイキー君に愚痴ったら涙を流しながら爆笑された。女子は表向き態度は変わっていないが喋っていると時折怯えの色が見え、妙に気遣われるようになった。リカちゃん以外と気軽に喋れなくなり頭が痛い。けど、まあ、卒業まであと少しなのでそれまでの辛抱だと耐えることにした。

 わたしとマイキー君は付き合ってからもほとんど変わらない。
 塾までの息抜きに空き教室でクラリネット吹いて、マイキー君が聞きながら昼寝したり、曲のリクエストをしたり。それは今までと同じ。
 変わったことと言えば、バイクに乗せてくれる事が増えて、時々、キスするようになったくらいなものだろう。……くらい、でもないけど。

 だけど、それ以上に周りが急速に変化を遂げていた。
 わたしとマイキー君を見る眼差しが、変わっていった。




「悪いな、時間とらせて」
「いえ……」

 かつてないほど神妙な表情の先生に戸惑いながら、返事を返す。わたしの担任の先生は、いつも適当でだらだらしているのに、今はピンと張り詰めたような空気を纏っている。

『川原、今日の放課後いいか。少し、話がある』

 マイキー君が学校に来なかった日、先生は真剣な表情でわたしにそう声を掛けた。教師に『話がある』と頼まれて、用事もないのに断れる生徒は不良以外なかなかいないだろう。わたしは一般生徒の例に漏れず『わかりました』と頷いて、生徒指導室にやってきた。

 わたしは学級委員長を務めるほど真面目ではないけど、無遅刻だし、成績も良い。自分で言うのもなんだが手のかからない生徒代表のようなものだろう。呼ばれた原因を考えて出た答えは、できれば外れてほしいものだった。

「川原、佐野と付き合ってるのか」

 ……はあ。
 予想が的中し肩から背に掛けてどっと疲労感が圧し掛かった。わたしとマイキー君が付き合っている事は学校中に広がっている。つまり、先生たちにも知れ渡っていた。保健の先生に神妙な顔つきで『悩み事があるなら相談してね』と気遣われた時は、すうっと心が冷えていった。

 人を上っ面だけで判断してはいけないと、道徳の授業であれだけ説いていたというのに。

 舌打ちしたい衝動を抑えながら、冷静に、すげなく返事を返す。

「付き合ってます。でも、脅されたりしてません。わたしの意思で付き合ってます」

 先生の目を挑発的に見据えながら言ったのに、先生は表情を崩さなかった。依然として変わらない真摯な眼差しでわたしを見ている。機嫌を悪くすると踏んでいたわたしは意表を突かれ、戸惑いを覚えた。

「ああ。見ればわかる。川原は嫌がっているようには見えないし、何より、佐野は脅して誰かと付き合うような奴じゃない。……オレ、お前らの担任一年近くしてるんだぞ?」

 先生は悪戯っぽく笑った。案外、わたし達の事、結構見てくれてるんだと驚く。けど、それならなおのこと不可解だった。

「だったらなんで、わたしを呼びだしたんですか?」

 眉を寄せながら問いかけると、先生はひとつ頷いてから、滔々と話し始めた。

「教師をやって、二十年くらいになる。色んな生徒を見てきたよ。いわゆる、不良≠チて呼ばれる奴もたくさん受け持ってきた。万引き、飲酒、喫煙、カツアゲ、授業妨害する奴、たくさん見てきた。
 佐野は今まで出会ってきた不良≠フ中で一番いい奴だよ。無免許ノーヘルはいただけないが、大声を出して授業妨害することもない。万引きやカツアゲは一切しない。教師や生徒に暴力を奮う事は、絶対にしない。一学年下の妹の面倒もよく見ている。
 ……いい奴だよ、本当に」

 先生は自分の言葉を噛み締めるように、しみじみと言った。マイキー君を愚弄することがあれば反撃してやろうと構えていただけに肩透かしを食らい、わたしはポカンとする。
 その油断をつくように、先生は言った。

「でも、佐野は駄目だ。オマエの手に負えるような奴じゃない」

 先生の真っ直ぐな目がわたしを射抜いた。冴え冴えとした強い視線に気後れをする。しかも、事実と言えば事実だ。痛いところを突かれて思わず口ごもる。
 
 リカちゃんとは出会った瞬間に気が合うと確信した。
 でもマイキー君には出会った瞬間に“違う”と思った。
 わたしとは違う世界で生きる人だと、脳は瞬時に判断した。 

「……知ってます、そんなこと」
「いや、知らない。オマエはわかっていない。佐野は、いい奴だ。惚れる気持ちはわかる。けどな、アイツは、普通の……オレ達では絶対しないような目付きの時がある。…………将来、何をするかわからない」

 先生は静かに頭を振ったあと、強く断言した。

 勝手なことを言わないで。
 先生にマイキー君の何がわかるの。
 そう、言ってやりたいのに。

『オレの何知ってんの?』

 一筋の光も差さない海の底のような、暗く黒い瞳。

『あいつらも殺すか』

 どこまでも続く空洞のような、空っぽの声。

 先生の言葉を裏付けるように、闇に沈んだマイキー君が浮かび上がった。

「昔の教え子が、少年院に入っててな。去年、面会に行ったんだよ。その時、佐野に会った。……いや、見たんだな。情けないことに、怖くて声をかけられなかった。すごい目で、少年院を見ていた。……常人がするような目じゃなかった」

 わたしは去年、マイキー君と一言たりとも喋っていない。だから、先生が見たというマイキー君の眼差しを知らないはずなのに、何故か、簡単に想像できた。
 わたしの知っている眼差しと同じものだという確信が、冷たい泡のように膨れ上がる。
 すうっと背筋を冷たいものが走り、喉が渇いていった。

「佐野はただの不良じゃない。ただの、暴走族の総長じゃない。オレ達には計り知れないものを秘めている。オマエじゃ、どうにもできない。……好きな奴の事、こんな風に言われて腹立つだろう。けど、大人の言う事は聞いとくモンだ。だてにオマエより長生きしている訳じゃない」

 どくん、どくん、どくん。心臓が、不穏に軋んでいる音が聞こえる。

 先生がマイキー君をただ詰っているだけだったら、こんなにも心臓がざわつくことはなかっただろう。だけど先生はわたし達をちゃんと見ていた。マイキー君の事を良い奴≠ニ評した上で関わるな≠ニ言った。
 わたしを慮っての言葉は煙のように広がり、胸の中を圧迫していった。
 胸が塞がれたように、息が苦しい。目の前が、ぐるぐる回る。

 殺意に滾った瞳、温度の感じない声。それに――。
 マイキー君の真っ黒な二つの瞳を見ていると、どうしようもない不安に駆られる事があった。
 どこまでもどこまでも続く、底の見えない穴を覗き込んでいるような、そんな気にさせられて。

「……わたし、帰ります」

 席から立ちあがり、踵を返してドアに向かう。

「……川原」

 先生の気づかわし気な声が背中に届く。どこか憐れむような声が神経を逆なでしてきた。だけど一番苛立たしいのは先生じゃない。
 ろくに反論も出来ずに歯噛みしながら立ち去ることしかできない自分自身が、一番ムカついた。







 やる瀬ない気持ちは十冊分の参考書以上に重く、わたしの肩に圧し掛かっていた。はあ、と何度目かわからないため息を吐いて、家路への道をまた一歩進める。今日は塾がないので、徒歩で帰っていた。

 先生の言葉を否定するだけの言葉を持てなかった。だけど肯定するのも嫌だった。どっちにも白黒つけることができない自分が苛立たしくて、奥歯をぎりっと噛み締める。

 明日学校休みでよかった。重く沈んだ気持ちを抱えたまま次の日も学校に行くのはしんどい。

「ただいまー」

 玄関に入ると肩に入っていた力がゆるやかに抜けていった。生まれてからわたしがずっと住んでいる家は、入るだけで体力面精神面共に回復させてくれる。ママの「おかえりなさい」を聞いたら、更に効果は絶大だった。

「……おかえりなさい」

 の、はずなんだけど。何故か今日のママは強張りながら、固い声でそう言った。

「手、洗ってきなさい。うがいもね。その後、リビングに来て」
「……え、う、うん」

 神妙な顔つきで指示を出され、面食らいながらうなずく。一体何だろう。手を洗いながらママの異変について考えを巡らせる。第一志望校もA判定だし、帰りが遅い事もないし、……真っ直ぐ家に帰らずにクラリネットをこっそり吹いている事がバレた、とか? いや、それだったらあんな顔はせず、最初から叱り飛ばしてくるだろう。
 
 皆目見当がつかないままリビングに入ると、ママは紅茶とケーキを用意していた。ドアの近くで目を丸くして佇んでいるわたしを確認すると、「菜摘ちゃんの好きなケーキ、買ってきたの」と微笑みかけてきた。

 な……なんなんだろう……。なんか、めちゃめちゃ気を遣われている……。

 恐る恐るソファーに座り、向かいのソファーに座るママを観察する。「菜摘ちゃん、ここのモンブラン、小さいころから好きよね」と無理矢理作った笑顔を浮かべていた。ママはわたしと違い、嘘が下手くそだ。

 おっかなびっくりしながら、モンブランをフォークで切り分けて一口運ぶ。昔から親しみのある味が口の中に広がって、少し頬が緩んだ。その隙を狙ったかのように、ママはゆっくりと口を開く。

「今日、PTAの用事で学校に行ってきたの。そこで田中さんに教えてもらったんだけど、菜摘ちゃん、佐野万次郎君って子と付き合ってるそうね」

 モンブランが食道を通過した後でよかった。そうじゃなければ、わたしは噴き出していただろう。

 田中さん。多分、隣のクラスの田中のママの事だろう。あ、あいつ、何親にべらべらと人の事情を話してんの……! 
 小学校から同じの田中が瞬時に思い浮かび、あいつ……! とわなわな拳を握らせる。

「田中さんから教えてもらったんだけど、佐野万次郎君ってすごい不良なんでしょう? ママ、菜摘ちゃんが不良と付き合ってるって聞いて、本当にびっくり、」
「えっ!? それマジ!?」

 素っ頓狂な声が背後から聞こえ振り向くと、開けっぱなしのドアの向こう側の廊下で、スエット姿のお兄ちゃんが目を丸くしてわたしを凝視していた。リビングに小走りで入ってくると、目を爛々と輝かせながら「おい菜摘マジかよー!」と肩をばんばん叩いてくる。

「ちょっ、痛いんだけど! てかお兄ちゃんには関係ないじゃん!」
「いーや、関係あるね! 無敵のマイキーはオレらの憧れなんだから! こえーけど!」
「……無敵のマイキー=H」

 ママが訝しがるように眉を寄せると、お兄ちゃんは得意げに語り始めた。

「佐野万次郎のあだ名がマイキーって言うんだけどさ、ぜってぇ誰にも負けねえから無敵のマイキーって通り名ついてんの! カァーッ、通り名! かっけぇー! で、マイキーってのがどれくらい強いかっていうと中一で黒龍って高校生のチームをぶっつぶしたくらい! しかも中一で東卍立ち上げたんだぜ!? やばくない!? 最初は数人で始まったらしいけど今は150、いや200? 300? ま、そんくらいすげぇ人数の暴走族の頂点に立つ総長、それが無敵のマイキー!」

 恍惚としながら早口で語られた言葉に、わたしは頭を抱え、ママは呆然としていた。

 暴走族だとか、喧嘩が強くてかっこいい、と憧れるのは未成年くらいのものだ。
 大人は。しかもママのように軽くお嬢様育ちでパパのような穏やかな人としか付き合った事のないような人からしたら。

 ちらり、とママを見やる。ママの顔は真っ青になり、唇がわなわなと震えていた。

 こうなるに決まってんじゃんこのクソバカ兄貴………!

 ぎらっとお兄ちゃんを睨みつけると「へ?」と間抜け面で返された。このクソバカボケ兄貴………! へ? じゃないっつうの……!

 ママは自分の心を静める為か、胸に手を当てながら深呼吸していた。お兄ちゃんからわたしに視線を戻し「菜摘ちゃん」と厳かに呼びかけるその顔は、悲哀に満ちていた。

「ごめんなさいね。ママ、気付かなかった。でももう大丈夫、ママが守ってあげる」
「……は?」

 涙を浮かべながら不可解な言葉を喋るママにわたしは目を点にするが、すぐにわかった。わたしが脅されて付き合っているのだと誤解している。ああ、今度こそそういう誤解ね。体から妙な具合に力が抜けていき、脱力する。はあ、とため息を吐いてから「違うってば」と顔の前で投げやりに手を振った。

「わたしは、自分の意志でマイキー君と付き合ってる」

 これ言うの今日で二回目なんだけど。苛立ちながら言うと、ママは息を呑んだ。「おおっ」と目を輝かせたお兄ちゃんに、ママは睨みを効かせる。それからもう一度、わたしに向き直った。険しい顔つきで「菜摘ちゃん」と咎めるように呼んでくる。

「なんでそんな子と付き合うの? よりにもよって暴走族の総長だなんて……。ほら、水越君とかじゃダメなの?」

 水越君。ああ、クラスの集合写真見せた時に『この子かっこいいじゃない!』とママが騒いでたな。そのあなたのお気に入りの水越君は、あなたの娘がハブられてた時に『女ってこえーよな』と笑ってたんですがね。移動教室にひとりで向かっている時に、せせら笑う声が聞こえてきたんですけどね。
 と言ったら問題が更にややこしくなるので黙って鼻で笑い飛ばす。するとそれがカンに障ったようだ。ママの眉が吊り上がり「菜摘!」と声高に呼び捨てされる。ママが怒った時の合図。小さいころから変わらない。

「ママはあなたの事を思って言っているのに! なに今の態度!」
「何にも知らないんだなぁ、可哀想って思って」
「オ、オレ、数学の予習してくる〜!」

 かき回すだけかき回しそそくさと逃げ去るお兄ちゃんを黙殺し、わたしとママの口論はヒートアップしていった。

「何も知らないのは菜摘の方でしょう! あなたの年頃はねぇ、悪い男の子が格好良く見えるようにできてるの! だから好きだとか思える! 大人になったらママが正しかったってわかる、なんであんな不良が格好良く見えてたんだろうって自分が恥ずかしく思えるから!」

 ママの言葉ひとつひとつがわたしの神経全てを逆撫でし、お腹の底から苛立ちが螺旋状に巻きあがった。恥ずかしく思うって、なに。怒りはどんどん加速し、丸めた拳がわなわなと震える。ママのプライドをずたずたに傷つけてやりたい衝動がまたしても顔を出した。「ハッ」と大きく鼻で笑い飛ばし、わざとらしく肩を竦めてみせた。

「ほんとに何も知らないね。わたしがいつ不良にきゃあきゃあ言った?」
「今言ってるじゃないの! 暴走族の総長だなんてそんな子と付き合うなんて……!」
「わたしは、マイキー君が暴走族の総長だから好きなんじゃない」

 ママに、好きな男子の話を深くすることはなんだか気恥しくて、一瞬口ごもる。だけどここで言わないと、ママはずっと誤解をしたままだろう。
 以前、リカちゃんにマイキー君を悪く言われた時、わたしは何を言っても無駄だだと最初から見切りをつけ、何も言わなかった。
 ……先生はマイキー君の事をなまじ見ていたから少し納得する部分を持ち出されてしまい、つい、流されてしまった。

 さっきの悔しさを思い出し、決意が固まる。もう同じ失敗はしない。今度こそ言う。ちゃんと、伝えるんだ。

 恥ずかしい気持ちを奥底に追いやる。ママの目を真っ直ぐに見据えながら、すうっと息を吸い込んだ。

「マイキー君は、しょうもないよ。うんこネタで大爆笑するし、わたしにクラでワンピースを吹けとかボーボボ吹けとか、うるさいし。
 櫛を貸して壊されちゃったことあるんだけど、弁償してくれた。いつもお菓子もらってばっかで悪いからって、ジュース奢ってくれたこともある。そういう、普通にバカで、普通に優しいとこもあんの。
 ……優しいよ、マイキー君は。わたしがどうすればいいかわかんなくて、ただ、縮こまってた時、マイキー君は助けてくれた。怒ってくれた。マイキー君の方が大変な状況だったのに、わたしのこと、考えてくれた。
 あとママは暴走族の総長って事が気になるみたいだけど、マイキー君、悪いチームの総長じゃないよ。チームの人に何人か会ったことあるけど、皆良い人だった。マイキー君と一緒でしょうもないことに爆笑して、怒って、また爆笑してって感じで……。普通、じゃないけど、普通の人だった」

 マイキー君との思い出をひとつひとつ振り返りながら喋ると、胸の中はいつのまにか暖かい思い出でぎゅうぎゅうと溢れかえっていった。喋っていく内に、目の奥が熱くなり、鼻の奥はつんと尖る。菜摘、とわたしを呼ぶ声が脳裏に浮かび、心臓を締め付けられた。駄目だ、感情的になっちゃいけない。落ち着かないと。
 すうっと息を吸い込んで、新鮮な酸素を体内に巡らせる。できるだけ平常心を保つように心掛けながら、呆気にとられた表情のママを見据えた。 

「わたしは、マイキー君がマイキー君だから、好きなの。不良だからとかじゃない。大人になっても、恥ずかしいなんて思わない」

 ママの目を真正面から捉えながら強く言い切ると、ママは口をあんぐりと開けてわたしを凝視していたが、やがてぐにゃりと顔を歪めて嘆かわし気にため息を吐いた。

「……佐野君って子の影響ね。菜摘ちゃん、昔はもっと素直だった。そんな風に口答えするような子じゃなかった」

 一拍経ってから、ママの言葉の意味を理解してから、呆然とする。深い虚脱感と徒労感に襲われた。ママは、この人は、わたしの言葉を子どもの反抗≠ニして片付けようとしている。物分かりの悪い子どもが駄々をこねているのだと、そう解釈している。

 ちゃんと言ったのに。ママに好きな男子の話するのすごい恥ずかしかったのに。
 ママの事好きだから、マイキー君の事、わかってもらいたかったのに。

 全身から、力が抜けていく。

「こんな事なら私立に通わせればよかった」

 ママは深く深く、ため息を吐く。わたしの言葉の意味を考えるようとする素振りは全く見えない。

 言葉が届かなかった無力感にただひたすらと茫然としながら、理解する。

 ママとわたしは、違う人間。

「……まさか自分の娘が、ろくでもない死に方しそうな子と付き合うなんて」

 だから。絶対に許せない言葉を言われる事もあるんだって事を――わたしは今、初めて知った。

 目の前が、ぐらぐらと揺れている。
 体中が冷え切っていた。それなのに、頭は沸騰するように熱い。

「……消して」

 からからに乾ききった喉から、やっとの思いで声を絞り出す。だけど震えすぎて、ママはよく聞き取れなかったようだ。「え?」よ眉を潜めて、問いかけられる。

 怒りが最高潮に達し、ぷつんっと何かが音を立てて切れた。

「取り消して!!」

 自分のものとは思えない怒号が口から衝いて出た。わたしの怒声を真正面からぶつけられたママは、ビクッと肩を震わせた。「え? え?」と眉を八の字に寄せて狼狽えているママが、悲劇のヒロインを気取っているように見えて、怒りが更に増幅する。

「今の言葉、取り消して! マイキー君に謝って! 謝れよ!!」
「ちょっ、菜摘……!」

 ソファーから立ち上がり、ママの肩を掴んで強く揺さぶる。もうわたしと背丈の変わらないママを乱暴に扱う事は雑作もなかった。ぐらんぐらんと、ママの体が揺れている。

「わたしちゃんと話したじゃん! 良い所たくさん教えたじゃん! なんでどうしてわかってくんないの!」
「落ち…着きなさい! 落ち着きなさいってば!」

 ママがわたしの手を振り払い、戸惑いながらわたしを見据える。どうしてこんなことをするのだろう、と不思議に思っている事が伝わってきて、更にわたしの苛立ちを煽った。
 
ろくでもない死に方しそうな子

 思い出すだけで、吐き気がする。かつてないほど凶暴な衝動が体の中を暴れ回っていた。
 ふざけんじゃねえ、クソババア。

「け、けど、暴走族でしょ。佐野君って子が将来どういう風になるか、ママ、想像できる」

『…………将来、何をするかわからない』

 先生の物憂げな表情が脳裏に浮かび、どくんっと心臓が唸るように鼓動した。

 将来、将来将来将来将来。
 まだ始まってもない未来の事を、どうして皆決めつけるんだろう。

 どうしてマイキー君の未来が、暗く濁ったものであると言い切るんだろう。

「ママ、菜摘には幸せに生きてほしいの。菜摘の人生に汚点を残すような子と関わってほしくない。ママは、」

 ママのわたしを想う言葉が虫の羽音のように耳障りで、わたしは耳を抑えた。カバンを引っ掴み、走って二階へ上がる。菜摘! とわたしを呼ぶ声を無視し、自分の部屋に入り込んだ。背中をドアにくっつけながらずるずると座り込むと、階段を昇ってくる音が聞こえてきた。慌てて全体重をドアに掛けて、絶対に入って来られないようにする。

「菜摘、」
「入ってくんな!!!」

 ドア越しに息を呑む音が聞こえた。ママが固まっているのを確認し、クローゼットからボストンバッグを引っ張りだす。下着、貯金箱、財布、充電器を乱暴に投げ入れてから肩に掛ける。最後にクラリネットのケースを持って立ち上がった。

 ドアを開けると、ママの窺うような眼差しとばちりと視線が重なった。ママはわたしの姿を確認すると、驚愕で目を見張らせていく。

「な、なに、その荷物……!」
「家出」

 ママの目が大きく見張られた。口は酸素を求める魚みたいに、パクパクと動いている。「何馬鹿なこと言ってるの!」と腕に伸ばしてきたママの手を、わたしは思い切り振り払った。

「さようなら」

 茫然とするママに冷たく言い放つや否や、わたしは階段を駆け下り、玄関のドアを開けて外に飛び出した。十代のわたしが全力で走ったら、ろくに運動もしてない四十代前半のママは絶対に追い付けない。

「待ちなさい! 菜摘! お願い、待って……!」

 ママの悲痛な声が背中に飛びついてくる。だけどわたしは振り向くことなく、そのまま走り抜けた。





「大変申し訳ございませんがお泊りとなりますと親御様のご承認が必要となります」

 綺麗なメイクを施されたお姉さんに、一部の隙も無い笑顔で断られた。

「……わかりました」

 粘ってもホテルの規則を変えられる事はないだろうし、警察を呼ばれるかもしれない。だからわたしに残された選択肢は引く≠アとしかなかった。気落ちしながらも同意し、ホテルを後にする。

 ホテル4軒、ネカフェ7軒、マン喫5軒を回った結果、軒並み断られた。年齢を聞かれたら「18歳です」って答えたにも関わらず、だ。こんな事なら化粧を覚えておくべきだった……と今更ながら後悔が押し寄せてくる。とりあえずどこかに泊まろうとネオン街に繰り出したものの、まさか、ここまで断られるとは……。思った以上に自分が中学生≠ニいう容姿をしていることを突き付けられ、色んな意味で肩を落とす。龍宮寺君なら絶対大丈夫なんだろうな……。

 ………今、めちゃめちゃ馬鹿な事やってるな……。
 去年のわたしが今のわたしを見たら『何無謀な事やってんの』と鼻で笑うだろう。わたしはいつだって、計画通りに生きてきた。羽目を外すことなく、毎日部活に勤しみ、良い高校良い大学に向かって、こつこつと勉強し、普通の人と結婚する。わたしの人生設計に中学時代に家出≠ネど組み込んでない。 

 だけど、どうしてもあの家にいたくなかった。
 生まれてからずっとわたしを大切にしてくれた人が、今は、世界で一番許せない。

 ……ていうか、ほんと、どこで寝よう。

 下着やら貯金箱やらを詰め込んだボストンバッグが、肩にずっしりと食い込む。最初はリカちゃんちに泊めてもらおうと思ったけど、すぐに却下した。絶対に、リカちゃんのパパとママがわたしの家に電話して連れ戻される。他の友達はハブられた時から友達と思えなくなっていた。実はわたし、友達一人しかいなかったのか、と失笑してからため息を吐いた。

 ふらふらとネオン街を歩いていく内に、警察官っぽい人を何人か見かけた。わたしの存在を認識したら、間違いなく補導してくるだろう。

 ……ヤバいな。
 息を潜めて存在感を消し、わたしは路地裏に入りこんだ。人気のない方へと足を進めていく。そうして、人目を気にしながら歩いている内に――わたしはいつのまにか、武蔵神社にたどり着いていた。

 見上げた先には、厳かで神聖な雰囲気を湛えた、鳥居が立っている。

 階段に腰を下ろすと、一気に疲れが押し寄せてきた。今日だけで色々あった。先生とママに同時にマイキー君と別れろって言われるとか。ほんと一体、何。

『オマエの手に負えるような奴じゃない』
『ママ、菜摘には幸せに生きてほしいの』

 優しく思いやりに溢れたお言葉。
 はやく消したいのに、いつまでもいつまでも鼓膜に残り続ける。うるさくて、鬱陶しくて、たまらず耳を塞いだ。

 ――ブォン、ブォン。

 どこからか、バイクの音が聞こえる。ちょうどいい。全部、掻き消してほしい。ろくでもない死に方しそうな子≠ニため息混じりに呟いたママがまた浮かんで目をぎゅうっと閉じると、真っ暗な世界が広がった。

 ――ブォン、ブォン。バブゥゥン。

 チカチカと、光が点滅している。どんどんどんどん、音も光も、強くなる。何かと思って目を開けると、目蓋が最大限に見開かれたまま固まった。

 視界にはたくさんの暴走族で溢れていた。真っ黒い特攻服に身を包み、マイキー君が乗るようなバイクに跨りながらたむろしている。

 これって。わたし、この場にいたら、

「そこのガキ! 見せモンじゃねえぞ!」

 ………駄目な、やつ。
 
 怒声が飛んできて、びくっと体が震えた。奇抜な髪色に派手な髪型の男子がわたしを強く睨み据え、詰め寄ってくる。

 今すぐ立ち去らなきゃと思うのに、強面の不良に突然怒鳴りつけられたショックで体が硬直した。一向に立たないわたしに痺れを切らしたのか、腕を引っ張って無理矢理立たされる。強い力で「いたっ」と思わず声が漏れた。

「ボサッとしてんじゃねえ! さっさと、」
「オマエ、誰のモンに手ェ出してんの?」

 霜が降りるように、冷たい声が静かに響いた。ぱちくりと瞬いた次の瞬間、ドゴッと鈍い音が鳴り、わたしの腕を掴む手から力が抜けていった。強面の不良が白目をむきながら倒れる。伸びている彼を――マイキー君は、冷たく見下ろしていた。

「ムーチョ」
「あ?」

 感情のない声でマイキー君が誰かを呼ぶと、大柄な人がかったるそうに振り向いた。マイキー君は鋭い視線をムーチョ≠ニ呼んだ人に滑らせ、静かに、だけど圧を滲ませながら言う。

「テメェの隊員の教育ぐらいちゃんとしろ。東卍はいつから女に手ェ出すようなチームに成り下がった?」
「ああ、わかった。今日から一人一人の女性に手を出してエスコートしてさしあげなって言っとくわ」

 二人の冷たすぎるあまり火傷しそうな視線がぶつかり合い、液体窒素をまき散らしたように周囲が凍てつく。

「マイキー。ムーチョ。やめろ。今は内輪もめしてる時じゃねえだろ」

 龍宮寺君は静かに二人を諫めると「川原さん、ごめんな」と眉を八の字に寄せてながら沈痛な表情で頭を下げてきたので、わたしは慌てて顔の前で両手を振る。

「だ、大丈夫大丈夫! 龍宮寺君が謝る事じゃないし!」
「いや、隊員の取り締まりは副総長の義務だろ。オレからもあいつ何発か殴っとくわ」
「いやいやほんとにいいから! そんな事されたら寝覚めが悪い!」
「アンタ、実は結構いい性格してるよな。そーゆートコ、マイキーの女って感じ」

 褒められてるのか貶されているのかよくわからない事を、龍宮寺君は笑いながら言う。すると、東京卍會全員の視線がわたしに向けられた。

「マイキーの……女!?」
「マイキーの!?」
「総長の!?」
「マイキー君のォ!?」

 何十人もの視線が束になってわたしに突き刺さり、居たたまれなさ過ぎて縮こまる。「ただの中坊じゃねえか」という落胆の視線がものすごく痛い。いや思うよね、マイキー君の彼女と言えば佐野さんのような金髪巨乳美少女を想像するよね、吃驚するのはわかる、わかったからあまり見るなぁぁぁあぁぁ……。

 恥ずかしさと居たたまれなさに押しつぶされそうなわたしとは対照的に、マイキー君は平然としていた。四方八方から視線を浴びせかけられているのに、「菜摘」といつものように、わたしを呼ぶ。

「どした?」

 穏やかな、優しい声で。

 その声を聞いた瞬間、体に不必要に入っていた力が空気が抜けるように萎んでいった。凝り固まっていたなにかが、ゆるやかに溶けだしていく。無性に、泣きたくなった。
 瞳の奥がぐにゃりと歪んだのを感じて、慌てて下唇を噛む。すると、大きな掌がわたしの手を包み込んだ。

「ケンチーン、ちょっと適当にやっといてー」

 マイキー君は龍宮寺君にアバウトな指示を出すと、わたしの顔を覗き込みながら、柔らかく言う。

「いこ、菜摘」

 にこっと笑ってから、わたしの手を引っ張るマイキー君。わたしは黙って、マイキー君に着いて行った。声を出したら、絶対、泣いてしまうから。
 マイキー君もその事をわかっているのだろう。いつもならわたしが何か言葉を返すまで菜摘菜摘とうるさいのに。今は一回も、催促してこなかった。
 あの時と同じように、無言で、ゆっくりとした足取りで、わたしをいざなってくれた。
 
 


 神社の裏に回るとマイキー君はくるりと振り向き、もう片方の手も握ってきた。わたしの両手を掴んで、ゆらゆらと左右に揺らしながら「なーべーなーべーそーこぬけ〜」と歌い出した。さっきまでの威圧感はどこかへ消え去り、わたしの前でよく見せるのんべんだらりとした姿だ。さっきは総長≠ニいう名に相応しいカリスマ性を放っていたというのに。違いがあまりにも顕著で、「なつかし」と笑みが零れた。

「笑った」

 言いながら、マイキー君も柔らかく目を細めた。手を揺らすのをやめて「菜摘」とわたしを静かに呼びかける。

「何があった? どうしてひとりでいた? つか。その荷物、なに?」

 わたしに肩に掛かっているボストンバッグを顎でしゃくりながら、マイキー君は言った。マイキー君の視線を真正面から受け取る事がなんだか気まずくて視線を下に向けた。マイキー君のブーツを見ながら、ぽつりと言葉を落とす。

「家出した」

 マイキー君は狼狽えることなく「なんで?」と更に質問を重ねる。だけど今度は答えたくなくて、わたしは口を噤んだ。ママがマイキー君に対しひどいことを言った事は絶対に知られたくなかった。

「答えたくないならいいけど。でも、夜にひとりで歩いちゃ駄目。ぶらぶらしたいなら、オレを呼んで」
「……マイキー君に、迷惑かけたくない」

 ボソッと呟くように答えると、顔を両手で掴まれた。持ち上げられ、視線が上がる。憮然とした顔のマイキー君がすぐそこにいた。吃驚している間にキスされる。かぶりつくようなキスから解放された時、ちゅっとリップ音が鳴った。

「いいから、呼べ」

 眉間に皺を寄せながらふくれっ面のマイキー君に、わたしはなすすべもない。あっという間に熱が全身を支配した。肩にかけたボストンバッグとクラリネットのケースを強く掴むことで、崩れ落ちそうな足をなんとか踏ん張る。まただ。また、こういう風に、急に。
 わたしだけいつもこんな風にマイキー君に無茶苦茶にされてる事が悔しくて、「……また勝手にキスする」と形だけの不満を漏らした。ほんとは全然、嫌じゃない癖に。

「ふーん?」

 マイキー君もわかっているようで、後頭部で手を組みながらにやにやとわたしを見つめている。全部見透かされているみたいで腹が立つ。ぷいっと顔を背けると、マイキー君は喉の奥で笑った。

「ん」

 マイキー君がわたしに手を差し出したのが視界の隅に映った。視線を戻す。案の定、マイキー君がわたしに向かって、手を差し出していた。

「荷物貸して。オマエ今日行くトコねーんだろ?」

 頷こうとして頷けなかった。
 マイキー君が、とんでもないこと言ったから。

「オレんち来なよ」

 上目蓋と下目蓋が最大限までこじ開けられる。唇が半開きの状態のまま固まる。
 心臓が、どくんっと大きく跳ね上がった。

 目の前のマイキー君を、ただ、ひたすらに凝視する。

 マイキー君は飄々とした顔つきでわたしを見ていた。そこには何の躊躇いも畏れも無い。特筆すべき感情は、何も宿っていなかった。
 









There are no facts, only interpretations.



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