『失くすかも、しんねえし』

 心細そうな声がぽつんと落ちた時、沈みかけた意識が止まった。現実と夢の間を揺蕩いながら、今なら言えるなとぼんやりと思った。今なら、寝ぼけていたから、と言い訳できる。計算高いわたしは眠気を利用して口出しした。家族でも、東京卍會でも、彼女でもないのに。

 あんなこと言わなきゃよかった。じわじわと忍び寄ってきた後悔は、今も胸の中を漂っている。

 ただのクラスメイトの分際で絵に描いたような普通の中学生であるわたしに『弱くてもいい』なんて言われても何の慰みにもならないだろう。無敵のマイキーと呼ばれるマイキー君からしたら馬鹿にされてるように感じてもおかしくない。
  
 目が覚めるとマイキー君はいなかった。

 あの日からずっと、わたしはマイキー君に会っていない。




 2005年12月25日。

 わたしは同じグループの子達とクリパことクリスマスパーティーを行い、その帰り道でリカちゃんから猛攻を受けていた。

「ほんとに? ほんとにほんと?」
「ほんとだってば……」

 リカちゃんの執拗な追及にうんざりしながらもう何回目になるかわからない言葉を再度繰り返す。

「佐野君とは昨日会ってない。今日も会う予定ない。以上」
「えーー……」

 リカちゃんは面白くなさそうに、かつ勘繰るような眼差しを向けてきた。その視線を振り切るように、わたしはリカちゃんから目を逸らしてただ真正面を見据える。

「メールしてみなよ! メリクリーって! そしたら会いに来てくれるかも! バイクでニケツ! きゃーー!」
「リカちゃん落ち着いて」

 目をキラキラ輝かせながら暴走するリカちゃんに引きながら突っ込みを入れる。リカちゃんはマイキー君をひどく恐れていたけど笑顔でお礼を言われてから苦手意識が大分薄れたらしい。ちなみにリカちゃんは面食いだ。顔の良いマイキー君にリカちゃん呼びされ嬉しそうだった。
 ……正直、若干、いやかなり、面白くない。
 マイキー君のリカちゃん呼びを思い出し、静かに嫉妬心を募らせるわたしに気づかないリカちゃんは、うっとりとした声色で滔々と語る。

「あれだよね、菜摘ちゃんだけは佐野君のことわかってるってやつだよね。佐野君、めちゃめちゃ怖いけど本当は優しくて寂しがり屋……きゃーーー!」
「だから落ち着きなって……」

 きゃあきゃあと喧しいリカちゃんを諌めながら、リカちゃんの言葉を心の中で反芻する。

 菜摘ちゃんだけはは佐野君をわかっている
 本当は優しくて寂しがり屋

 その言葉にわたしの知りうるマイキー君を並べていく。無邪気に喜ぶマイキー君、拗ねたように唇を尖らすマイキー君、何の脈絡もなく会話を打ち切るマイキー君、無表情で殺意を口にするマイキー君。
 まるで万華鏡を覗き込むように、接する度に、くるくると表情を変えるマイキー君。

 万華鏡が映し出す無限の世界を到底把握しきれないのと同じだ。

「違うよ」

 わたしも、彼を理解できない。

 恍惚として紡がれたあまやかな言葉を淡々と跳ねのける。無感動な声にリカちゃんは虚を突かれたようだった。目を丸くして、わたしを見つめている。わたしは依然として、ただ真正面を見据えながら、抑揚を持たせず続けた。

「わたし、佐野君のこと全然わかってないよ。本当の佐野君とか、全然わかんないし。……わかったとしても、わたし佐野君の事、一生理解できないと思う」

 夜よりも暗い、闇に沈んだ瞳。思い出すだけで背筋がぞっと凍り付く。
 あの夏、わたしは初めて殺意を前にした。

「わたしもさ、佐野君を本気で怒らせた事、あるんだ」

 リカちゃんは目を大きく見張らせると、半開きの唇から「え」と驚きの声をぽろりと零した。横目でリカちゃんの驚いた顔をちらっと一瞥してから、もう一度、前を見据える。

 真っ暗な夜空は所々灰色の雲が浮かび、月を隠している。街燈が地面に薄く積もった雪を照らしていた。

「夏休みにね、佐野君と偶然公園で会ったの。
 わたしがカツアゲに遭ってたところ助けてくれたんだけどさ、別に、わたしだから助けたって訳じゃなくて、女子相手に男子数人がカツアゲしてるのが気に食わなかったのと、あと、誰でもいいから殴りたかったんだと思う。
 前見かけた友達と一緒にいなかったから、友達どしたのって聞いたら、佐野君、だから何って怒ってきて。わたし、いつもの佐野君じゃない! ってテンパって、いつもの佐野君となんか違うからって答えたら、知ったような口きくな、ってマジ切れされた。
 わたし、あの時、死ぬって思った」

 夏休みのあの日まで、わたしは心のどこかで天狗に乗っていた。
 東京なんたら会の総長で皆から畏怖されている佐野万次郎≠ニ、それなりの交友関係を築いている事は、わたしの虚栄心を十分に満たした。
 驕っていた。
 彼をよく知りもしない癖にわたしに構ってくれる部分だけを本当の彼だと思い込み、『いつもの佐野君と違う』とのたまい、怒りを買った。

 マイキー君をわたしの物差しではかり、わたしにとって都合の良い部分だけをいつも≠竍本当≠ニいう耳障りの良い修飾語で、飾り付けた。

 わたしは計算高く、浅ましい。
 
「だから、わたしと佐野君がどうこうなることないよ。また怒らせちゃったっぽいし。単なるクラスメイトの癖に、変な事、言っちゃったから」

 マイキー君との仲はいつ切れるかわからないとちゃんと理解していたつもりだったのに、実際に口にすると鼻の奥がつんと尖った。どうしてあんなこと言っちゃったんだろう。何回目かわからない後悔が押し寄せて、喉の奥に熱いものが込み上がる。
 
 迷子のように心もとない寂しい声を聞いた時、馬鹿みたいな事を思った。
 わたしよりも強く凛々しく気高い男の子に、分不相応な事を願った。

「だから、絶対、ないの」

 守りたいって。
 弱いところを見せてほしいって。

 そんな、馬鹿な事。

 喉につっかかった熱い塊を吐き出すように息を吐くと、空気が白く染まった。リカちゃんは何も言わない。横目で確認すると、顔を俯けていた。二人して、無言でザクザクと雪を踏みしめていく。

 ……これ以上リカちゃんにマイキー君との仲を誤解されると気まずく居たたまれなかったから注釈を入れたけど、変に湿っぽくなってしまった。何ガチで語ってんのと引かせてしまったかも……と懸念が生まれる。淀んだ空気を払拭すべく、わたしは明るい声を作った。

「ま、もうすぐ高校生になるし。佐野君のこと、すぐ忘れるよ。それにわたしの人生計画、27歳で公務員か一部上場企業の人と結婚だから。その頃には『あー佐野君とかいたなー』ってなってるだろうしね」

 声に出すと、ずっと頭の中で描いていた未来予想図が思い起こされていった。そうだ。わたしの人生設計ではそもそもマイキー君と関わることなど全く予定に入っていなかった。
 
 わたしの人生設計。
 中学時代、つまり今は吹部に所属しながら勉強を頑張って第一志望校に合格。

 第一志望校に合格したら、可愛い制服が待っている。女子高だから出会いは乏しいだろうけど、高校では彼氏ができてもできなくてもどっちでもいい。また吹部に入ってクラリネットを担当して、そして第一志望の大学に向けて毎日コツコツ勉強。

 大学はそれなりに名の知れたところに入りたい。音楽系のサークルとボランティアサークルに入って友達と就職活動に向けてのネタを作るつもりだ。大学では彼氏を作りたいので、わたしと似たような男子と交友を深め、その内のひとりを適当に見繕いたい。

 就職先は不況にも強い公務員を目指したい。潰れる事のない職場って魅力的。わたしが欲しいのは、今日と同じ明日なのだから。
 そうして自分と似たような性格の男子と結婚して、子どもを産んで、育てる。

 ずっとわたしが描いていた理想の人生設計を滔々と語っているにも関わらず、空々しさがゆるやかにわたしを蝕んでいった。

「わたし達の年頃ってさ、悪い男子に憧れるもんだし。大人になったら、わたし、佐野君のこと、」

 忘れちゃうよと言おうとしたら、瞼の裏側で金色が鈍く光った。菜摘と呼ぶ声が、脳裏に蘇る。

 たい焼きを美味しそうに頬張るところ、
 うんこネタで大爆笑するところ、
 ドラゴンボールのオープニングを吹けと命令してくるところ、
 マイキーだってば! と不貞腐れるところ、

 泣き止むまで、一緒にいてくれたところ、

 人生設計に必要のないはずの無いマイキー君との日々が頭の中に溢れ返る。

 締め付けられたみたいに、胸の奥がぐしゃぐしゃになった。
 
「……わたしも、佐野君のこと全然知らないよ」

 リカちゃんの声が、躊躇いがちに紡がれた。リカちゃんに目を遣ると、リカちゃんもわたしを見ていた。左右に目を泳がせてから、もう一度、わたしに眼を向ける。瞳の中は、弱々しくはあるけれど、確かな意思が宿っていた。

「だけど、菜摘ちゃんのことは知ってる。……知ってる、つもり。
 菜摘ちゃんさ、部活入る前、サックスがいいって言ってたのに、村やんに顔がクラだからクラって決められてたじゃん」
「ああ……あったね」

 顧問に無茶苦茶な理論を押し付けられた在りし日のことを遠い目をして懐かしむ。最初は『ええー』とがっくりきたけど、今ではサックスよりクラリネットの方が好きだ。

「なっちとかメグもそんな感じで第一希望通ってなかったじゃん。二人とも半泣きでキレてたじゃんか。でも菜摘ちゃんは、まあいっか、って感じで。楽器だけじゃなくて、他の事も、いつもまあいっかって感じで。
 だけど佐野君の事になると、まあいっかで終わらせないっていうか、終わらせられないのが伝わってきて………」

 リカちゃんは訥々と喋る続ける。一言一言、確かめながら、手探りするように言葉を手繰り寄せていた。

「だからわたし、菜摘ちゃんが変わっちゃうのがなんか怖くて、ああいう、ひどい事して。……許してもらってからは、いいなぁって思うようになって。面白がってるところも、まあ、あるんだけど………、だけど、ほんとに、いいなぁって思って……」

 リカちゃんは、中学で一番の友達だ。だけど改まって話をすることは少なかった。
 夢見がちなリカちゃん。少女漫画が好きだからわたしとマイキー君の仲を美化して面白がっているのだろうと思っていた。
 だけど、わたしが思うよりもずっと。リカちゃんなりにわたしのことを想ってくれていた。

 心が打たれ、じいんと震える。締め付けられていた心臓がゆるやかにほどかれていくのを感じた。強張っていた頬が緩む。

「……ありが、」
「そっ、それに!」

 急に声を張り上げたリカちゃんに驚き、「!?」と仰け反るわたしに、リカちゃんは切羽詰まった調子で言い募ってきた。余すこと想いを全部伝えたいという気もちが、真摯な視線と熱っぽい声から伝わってくる。

「わたし、佐野君は、菜摘ちゃんのこと好きだと思う! 恋とかそういうのかはわかんないけど、絶対友達だって思ってる! じゃなきゃお見舞い来ないもん! 心配しないもん!
 だから、メリクリメール送っても、絶対嫌がんない、ていうか喜ぶよ!」

 リカちゃんの剣幕に呆気に取られ、ぽかんと口を開けてしまう。いや、喜びはしないと思う。ていうかマイキー君って多分メール殆ど見ないし。そう言おうかと思って、やめた。わたしを元気づけようと必死なリカちゃんを無碍にする感じがして。

 喜びはしないと思う、けど。嫌がりもされないのなら。
 胸の内に決意が宿り、固まった。「……ありがと」と呟くようにお礼を言ってから、歯切れ悪く続ける。

「じゃあ、まあ、送るだけ、送ってみる」

 リカちゃんは目を輝かせ「うん!」と大きく頷いた。リカちゃんは素直でひたむきで可愛い。わたしもこういう性格だったらなぁ。無邪気さというわたしが到底手に入らないものを羨みながら、ケータイをショーパンのポケットから取り出した。寒さにかじかんだ手に息を吹きかけてから、両手の親指で文字を打っていく。一度親戚のおじさんの前にメールを打っているところを見られたらわたしの指の速さに圧倒されていた。別に、普通の速度なのに。

『マイキー君久しぶり。メリークリスマス』

「えー、それだけ?」

 勝手に覗き込んでいたリカちゃんをじろっと睨んでから「いいの」と返し、一瞬ためらってから、送信した。
 送信中の画面を乗り越えると、送信完了の文字がディスプレイに宿る。送っちゃった。不安八割達成感二割が胸中を占める。ふう、と息を吐くと「ていうかー!」とリカちゃんはにやにやしながらわたしを肘で突っついてきた。

「マイキー君って呼んでんじゃん! わたしの前では佐野君って呼ぶ癖にー!」
「……だってそう呼ばないと、佐野君怒るから」
「もー! 恥ずかしがらなくていいから!」

 リカちゃんの冷やかしを流しながら、家路を辿っていく。意識はずっとポケットの中のケータイに向けられていた。
 だけど、ケータイが震える事はなかった。




 ソファーに座って髪の毛を乾かしながら、ケータイをぼうっと見続ける。送受信ボックスを帰宅してからかれこれ30回は押している。だけど出てくる画面はいつも同じ。『新着メールはありません』

 ………こんなものだよなぁ。

 虚無感と諦観に沈みながら言い聞かせるように、わたしは『こんなものだ』と繰り返した。マイキー君、メールあまり見なさそうだし。見たとしても、あんな浅い内容に返事する気起きなさそう。相手も、わたしだし。

 ずうん、と気分が沈んでいく。
 この前まで、お見舞いに来てくれるぐらいには、多分、わたしのことを想ってくれていた。ハブられたら、本気で怒ってくれた。

 やっぱり、怒らせちゃったのかな。

 出口の見えない迷路に迷い込んだように、答えの出ない事をわたしはまた延々と考え込む。胸の奥が、湿っぽくなる。悲しい≠ェぐるぐると渦を巻いていた。なんてばかばかしいのだろう。メールが来た、来なかった。こんなことで一喜一憂して、恋愛ってほんとにばかばかしい。

 うじうじと悩む自分に嫌気が差し、重くため息を吐いてからドライヤーの電源を切りコードを引っこ抜いた。洗面所に直してから再びリビングに戻ると。

 ―――ヴーッ、ヴーッ、ヴーッ。

 引っ手繰るようにケータイを掴む。リビングだと誰かが降りてきて聞かれてしまう恐れがあるから、自分の部屋に駆け込んだ。ママが寝室から出てきて「静かにしなさい!」と怒鳴っていたような気がするけどもう全てどうでもよかった。

「も、もしもし!」

 息せき切りながらケータイを耳に充てると、

「でんの遅い」

 むくれた声が鼓膜を震わせると、安心感が肩の力を緩ませた。怒ってない。怒ってるけど、怒ってない。怒ってたら、きっと、電話してくれない。
 よかった。
 安心して、嬉しいのに。泣きたくなった。

 気付かれないように鼻をすすると、車の走る音が聞こえてきた。プップー、とクラクションの鳴る音が響く。

「……マイキー君、今、外なの?」
「うん。さっきまでケンチンと走って、喧嘩して、タケミっちとヒナちゃんがヨリ戻すの見て、そんでタケミっちとちょっと走ってきた!」
「……色々ありすぎない?」
「そーか?」

 相変わらずハードな日常を送るマイキー君に、呆れながら感心する。どういう風に過ごしてきたか聞く度に、わたしの想像を超える日常をあっけらかんと口にする。ほんとに、マイキー君は。喧嘩したとか捕まったとか、普段わたしが聞き覚えのない単語ばかり使って。
 引いているはずなのに、自然と口元が緩む。

「……君はいつも、ハチャメチャだね」

 “マイキー君”って感じのクリスマスだなぁ。しみじみと噛み締めながらそう言うと、思ったよりも柔らかい声になった。マイキー君の声が止む。少し間を置いてから「オマエさ」と、少し躊躇うようにわたしに問いかける。

「今、どこ?」

 デジャヴを感じた。まだあの頃は、秋だった。紅葉が舞い落ちる中、あの日もマイキー君から電話があった。

「家?」

 今、時間は夜の11時半。大抵の中学生は家で過ごしている頃。わたしも例に漏れずだ。帰りが遅いとしてもせいぜい夜の10時が限度。マイキー君もそれがわかっているからほぼ確信するような声で問いかけているのだろう。

 すうと息を吸い込む。暖房の効いてない部屋の空気がお風呂上りの火照った体に流れ込んだ。

「ううん。外。今、リカちゃん達とクリパしてた帰り」

 わたしは、しれっと嘘を吐いた。





 真っ白いダウンを羽織りながら自転車を漕いでいく。真夜中の冬空は空気が痛いほど澄み切っていた。

 寒い。湯上りに冬空の下待つのはめちゃめちゃ寒い。体の震えが止まらない。カイロ貼ってくればよかった。いや、でもそんな余裕なかった……。

 家を出る前の慌ただしさを遠い目をしながら思い出す。しれっと嘘を吐いた後、マイキー君が笑ったのが電話からもわかった。

『んじゃ、会おうよ。オレ、菜摘と喋りたい』

 好きな男子にこう言われて喜ばない女子がこの世にいようか。飛び上がりたい気持ちを必死に抑えて二つ返事で了承したわたしにマイキー君は迎えに行くと続けてきた。あ、やばい。嘘がバレないように、わたしは更に嘘を重ねる。

『あ、えと、じっと待つの寒いし、どっかで待ち合せない?』
『あー、そっか。じゃ、駅のコンビニは? 南口の方』
『わかった。そこにしよ』
『おう』

 電話を切ると、頬が緩んでいくのがわかった。いや、もう電話の時には緩んでいただろう。だけどずっと緩み続ける訳にもいかない。
 顔をきりっと引き締めるとわたしはパジャマを脱ぎ捨ててパーカーとダウンとデニムスカートとタイツを取り出した。クリパから帰ってくるなり放り出したポシェットを斜めに掛けて、鏡の前に立ち、髪の毛を耳の下で二つに結ぶ。ここはワンピースの方がいいかなと一瞬過るけど服に悩んでいる暇は一分たりともない。早くしないとマイキー君が来てしまう。

 パパとママの寝室の前を音を立てないように、廊下を歩いていく。静かに、静かに、階段を下りていく。
 音を立てないようにゆっくりとドアを開けると、肌を切り裂くような冷気がわたしを包み込んだ。だけど、臆する気持ちは全く沸かなかった。
 一歩踏み出して、ただ、前に前に進んでいく。

 会いたいという気持ちだけが、わたしを突き動かしていた。

 ―――いた。

 コンビニが視界に入るよりも先に、見つけた。コンビニの中の電気に照らされて、金髪がうっすらと輝いている。隣には、前乗せてもらったバイクが止まっていた。バイクに背を預けながら、ぼうっと空を見上げている。
 わたしが見つけた直後に、向こうも、わたしに気づいたようだった。

 目がゆるやかに細められて、ふわりと口元がほころぶ。
 優しい微笑みをたたえながら、マイキー君が、わたしを見つめていた。

 心臓が高鳴る。体が熱くなる。
 身体中の細胞が歓喜の声を上げていた。

「おひさー」

 マイキー君はひらひらと手を振りながらのんびりとした調子で言う。つられて、わたしも穏やかな声になった。「久しぶり」と笑いながら、手を振る。

「ケーキ食おうよ」
「あ、うん。いいね」

 マイキー君はコンビニを指しながら提案する。頷くと、にこっと笑った。穏やかな笑顔。こういう時のマイキー君は暴走族の総長という感じが全然しない。
 二人で肩を並べてコンビニに入り、スイーツのコーナーを物色する。クリスマスだからか深夜だからかわからないけど、ケーキは二つしか残っていなかった。「品揃えわりー」とマイキー君は唇を尖らせる。

「菜摘どっちがいい?」
「うーんと、どうしよ。チョコとチーズかぁ」
「オレ、チョコ〜」
「聞く意味ある?」

 眉を寄せながら突っ込むとマイキー君はけらけら笑った。全くと呆れているのに、苛立つ気持ちも確かにあるのに、それ以上に可愛いと思ってしまう。ああ、本当に、恋愛って嫌。

 わたし達は流れるように飲み物コーナーに移動した。どれにしようかと物色していると、不意にマイキー君の気配を強く感じ視線をスライドする。
 真っ黒な瞳が、すぐそこにあった。
 目を見張らせ硬直するわたしに構わず、マイキー君はすんすんと鼻を鳴らしながら嗅いでいる。

「オマエ、なんか良い匂いする」

 どき、と心臓が逸る。まあ、さっきお風呂に入ったばかりだからね。だけどわたしはクリパ帰りの後のついで≠ナマイキー君に会っているという設定の為、事実を答える訳にはいかず少し目を逸らしてから、またしてもしれっと嘘を重ねた。

「フレグランスだよ。リカちゃんにつけてもらった」
「へー」

 マイキー君はすんすんと興味深そうに嗅ぎ続ける。好きな男子に匂いを嗅がれるというのはなんだかむずむずして落ち着かない。話題を変換すべく「マイキー君は何が好きなの?」とさりげなさを装って質問した。

「オレは甘いのー」
「マイキー君ってとことん甘党だよね。辛いのとか無理?」
「無理! なのにエマ、オレと喧嘩したらぜってー辛いモン作んの。ひどくね?」
「あはは、佐野さんやるなー」
「笑ってる場合じゃねーし!」

 ハムスターのように頬を膨らませて怒るマイキー君が可愛くて、笑うなと言われても笑ってしまう。「女ってどいつもこいつもSなんじゃねーの」とぶつぶつぼやいているマイキー君の横顔を盗み見しながら、漠然と思う。

 好きだなぁ。わたし、マイキー君のこと、好きだ。
 
 心臓の辺りがきゅうっと疼いている。痛くはないけど、少しだけ苦しかった。

 夜空の下ではよく見えなかったけど、室内だとマイキー君の顔がよく見える。鼻の辺りが少し赤い。唇の端も切れていた。

「殴られたトコ、大丈夫?」

 マイキー君の動きが一瞬だけ止まる。それから「わざとだし」と拗ねたように呟いた。

「あえてもらったんだよ。そこ、勘違いすんなよ」

 むすっとしながら答えるマイキー君を「はいはい」と軽くいなすと「なんかオマエ生意気!」と憤慨された。半年前だったら土下座して謝っただろう、だけど今は、ただひたすら可愛く思えた。

「でも、痛くなったら言ってね」

 レジに向かう直前に振り向いてそう言うと、マイキー君は面食らったように瞬いた。鳩が豆鉄砲を食ったような顔はやがて真顔に変わり、マイキー君はぽつりと呟く。

「そーゆーとこ」
「……え? どういうこと?」
「なんもねーよ」

 マイキー君は素っ気なくわたしの疑問を切り捨てると、別のレジに向かった。マイキー君の感情の変化が読み取れずポカンとしている間に、マイキー君は精算を済ませていた。「菜摘ー、はやくー」と急かされて、ようやく我に返った。



「さみー!」
「さっむ!」

 コンビニから一歩出ると、冷たい空気に覆われて肩を縮こまらせながら二人で同時に叫ぶ。声が重なった直後、マイキー君が目を丸くしてわたしを見たかと思うと、ふはっと噴き出した。

「やべーな。超さみぃ」

 マイキー君の唇から零れた息が白く染まる。ふれたら、きえてしまいそう。マイキー君に雪のような儚さを感じ、何も言えず立ち尽くしてていると、マイキー君に腕を掴まれた。

「あそこで食お」
「う、うん」

 ザクザクと雪を吹きしめながら歩き、ガードレールにに腰を軽くかけた。ケーキを取り出し、カップを開ける。「いただきます」と呟いてから、プラスチックのスプーンでチーズケーキの表面を掬い口の中に頬張ると、それなりの美味しさが広がった。昨日家で食べたパパが奮発して買ってきたケーキの方が断然美味しいはず、
 なんだけど。
 ちらりと横を見ると、マイキー君もケーキを食べていた。美味しそうに頬張っている。
 ……廃棄寸前のチーズケーキが、五千円のケーキに勝つ日が来ようとは。もう一口掬いながら頬張る。昨日のケーキより特別な味が、また広がった。

「菜摘、一口ちょーだい」
「え。あ、うん。いいよ」
「ありがと」

 マイキー君はわたしのケーキにスプーンを伸ばす。マイキー君の口の中に入ったスプーンがケーキに触れた瞬間、心臓がどくんと跳ね上がった。

「うまー」

 にこにこと美味しそうに食べているマイキー君から顔を逸らし「ならよかった」と返す。多分、今、顔赤い。気付かれないようにしないと。どくどくと鳴っている心臓に沈まれ沈まれと言い聞かせる。

「菜摘」
「な、」

 に≠ヘ突然口の中に入ってきたチョコによって封じ込まれた。

「美味い?」

 首を傾げながら、マイキー君が問いかける。それでわかった。
 マイキー君がわたしにケーキを分けてくれたんだ。自分のスプーンで掬って、そのままわたしの口に突っ込んだんだ。
 ってことは、つまり。

 何もかも理解して顔に熱が集まっていく。やばい、絶対顔赤い。慌てて俯いた。夜でよかった。昼間だったら絶対バレてた。口の中いっぱいに広がるチョコがいつも以上に甘ったるく感じた。
 マイキー君からしたら、ほんと、大したことないんだろうけど、わたしにとっては。
 ああ、むずむずする。そわそわする。頭の中が、ぐるぐるする。

「タ、タケミっち君って、彼女いるんだね」

 これ以上口の中のチョコを意識していたら身が持たないと思い、わたしは無理矢理話題を作った。動揺しっぱなしのわたしとは対照的に、マイキー君は「うん、いるよー」と落ち着いて答える。

「どんな子?」
「良い子だよ。タケミっちの為ならすげー体張れる。溝中までタケミっちを迎えに行った事あんだけど、ヒナちゃん、オレがタケミっち拉致ってるって誤解しちゃってさ。タケミチ君はわたしが守る! ってビンタしてきた」
「え゛……」

 す、す、すっご………。顔も見た事のないタケミっち君の彼女に畏怖の念を覚える。マイキー君に、ビンタ。命綱無しでバンジージャンプに挑むようなものだ。

 だけど、それくらい、タケミっち君の事が好きなのだろう。

 マイキー君の為にわたしは体を張った事がない。助けられたことはあれど、助けた事なんて、一回もない。
 格の差を感じ、何とも言えない劣等感がちくりと胸を刺した。

 でも、それだけ好いてくれる良い子と、なんで別れたんだろう。
 疑問が沸き上がり、そのままマイキー君に投げかける。

「ヨリ戻したって言ってたけど…なんで一回、別れちゃったの?」
「ヒナちゃんの親に別れてくれって言われたんだってさ。不良と付き合ったら娘があぶねーことに巻き込まれるかもだから、やめろって」

 マイキー君は淡々と経緯を説明する。何か考え込むように視線を下に向けたかと思うと、笑った。今度は明るい声で、説明をしてくれる。

「でもその後、タケミっち泣きながらごめぇえんって謝ってさ。やっぱ別れんの無しにしてって。そんであと、なんか言ってたな。絶対守るとか、そういうの。トラックにひかれてもーとか言ってた」
「へ、へええ……」
「あれ、菜摘引いてる?」
「いやなんか例えが具体的でちょっと怖い」
「ぶはっ! タケミっちに言っとこ!」
「いや言わなくていいけど………」

 げらげらと笑っているマイキー君は笑うのに必死で、わたしの言う事など聞いてないようだった。儚げに見えたかと思ったら、またこうして馬鹿笑いする。何が何だか。小さくため息を吐いてから、ヒナちゃん≠ノ思いを馳せた。

 ヒナちゃん。マイキー君にも太鼓判を押されるような良い子
 そんな彼女がどういう経緯でタケミっち君を好きになったのか理由は知らない。だけど、一緒にいる理由だけは、わかった。

「ヒナちゃんは、守ってもらいたいから一緒にいるんじゃないと思うけどな」

 ぽつりと独り言をつぶやくと、マイキー君が馬鹿笑いをやめた。突然やめたからかまだ口元は笑みの形をしているけど、目は呆気に取られたようにぱちぱちと瞬きを繰り返していた。
 
 スルーされると踏んでいたわたしは少し面食らう。
 じゃあ、まあ、どうせ聞かれてるのなら。
 
 タケミっち君に抱いたモヤモヤを言葉にすべく、わたしは口を開ける。すうと息を吸い込むと、冷たい空気が口の中を冷やした。

「タケミっち君の事、好きだから一緒にいるんだよ。一緒にいたいんだよ。親の気持ちよりも、ヒナちゃんの気持ちを一番にしなよ。
 ていうか。
 せっかく、守りたいぐらい好きな子に好きだって想われてるんだから、自分の気持ちも、大事にしなよ」

 ぱちぱちと瞬きをしながらもわたしをじいっと見入っているマイキー君の視線を受け止めている内に、じわじわと羞恥心が沸き上がってきた。

「ど、どうせ言うなら、こっちもついでに伝えといて。タケミっち君に」

 な、なんか、熱く語ってしまった。一回しか会ったことのない男子をマイキー君越しに説教とか、一体なんなんだろうわたしは。ケーキをスプーンでつつくことでばつの悪さを解消しようとする。

 だって、羨ましかった。だからムカついた。すごく好きな子の傍にいられる権利を一度は手放したタケミっち君が、腹立たしかった。

 だって、もし、もしわたしが、マイキー君に恋愛感情を持たれるような事があったら。

 ……って考えても虚しいだけか。甘ったるい夢想はあまりにも現実味に乏しく、妄想は瞬く間に消えていく。
 そうして、ありもしないもしも話に鼻で笑いかけた時だった。

「菜摘」

 澄み切った冷気の中、冴え冴えとした声が響き渡る。振り向いた瞬間だった。

 くちびるに、冷たくてやわらかいものがふれた。
 
 瞬きを繰り返した眼差しの先、すぐそこに、真っ黒な瞳があった。長い睫毛に縁取られている、大きな瞳。

 閉じられて、見えなくなった。
 また、くちびるを柔らかい何かが覆う。
 それは、チョコとチーズの味がした。

 キスをされている、とくちびるを塞がれながらようやく気付く。
 
 キスをされている。
 キスをされている。
 キスをされている。

 わたしはマイキー君に、キスをされていた。










For it was not into my ear you whispered, but into my heart. It was not my lips you kissed, but my soul.



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