かつてないほど憂鬱な気分で、月曜日を迎えた。

 あの後わたしはとぼとぼと家に帰り、すっかり塾に行く気力を失ったので仮病を使ってママを騙しずる休みをした。先生から下痢がひどいらしいので帰らせましたという連絡を受け取ったママはまんまと騙された。

 全てに対する気力がなかった。学校も行きたくなかった。またひたすら無視される空間に飛び込む事は、冬の海へ身を投げ出すような事のように思えた。だけどそれでもこうして門を潜りぬけたのは、ひとえに佐野君に会いたかったからだ。

 多分、今日、佐野君は学校に来ない。だけど佐野君に会える場所を学校以外知らないわたしは、ここに来るしかなかった。

 土日の間、わたしは佐野君に電話を掛け、メールを送った。返事はなかった。……多分、クラスの子達を殺すのは思いとどまったと思うけど、佐野君がかねてから殺したがっていた人の事はきっとまだ、殺そうとしている。

 わたしは佐野君が殺そうとしている人の事を何も知らない。その人が佐野君にひどい事をしたのなら、何かしらの罰は受けるべきだと思う。だけど、佐野君が自ら殺してしまったら、佐野君は、犯罪者になってしまう。一生下ろすことのできない十字架を背負ってしまう。
 
 ………さっさと龍宮寺君に電話しとけばよかった……。

 土日の間、佐野君から何か連絡はないかと仮病を装い布団の中で始終ケータイを触っていたら、仮病だということがバレて、カンカンに怒ったママにケータイを取り上げられた。自分が中学生であることが歯がゆい。大人だったらすぐケータイショップに行ってケータイを買えるのに。なんでわたしはまだこんな子どもなんだろう。

 今だって、佐野君の方が大変な状況なのに。わたしはたかがハブられている事がいまだに怖くて怖くて仕方ない。

 自分の無力さに腹立たしく思いながら、下駄箱から上靴を取り出して教室へ向かう。お腹の底が鉛を孕んだみたいに、重くなる。またひたすら無視されたり嘲笑されたりする、そんな一日が繰り返される。

 きりきりと引き攣るような痛みを胃に抱えながら、わたしは教室へ踏み込む。すると、一瞬で空気が変わった。

 みんな、わたしを見ている。怖々とした視線で、窺うようにわたしを見つめていた。

「川原、さん」

 おもねるような声だったけど、反射的に肩が跳ね上がる。この一週間、わたしはこの声が聞こえてくる度に身が竦んだ。生唾を呑んで声の先に顔を向けると、竹中さんが固い笑顔を浮かべていた。

「あの……ごめんね? ちょっとした、冗談、的な感じだったんだけど、なんかその、歯止め、きかなくて」
「そ、そう。そうなの。ほんと、ごめん」

 わらわらとわたしの元に女子達が集まってきて、皆、口々にごめんと言っていく。元同じグループの子が「だからさ」と愛想笑いを貼り付けながら、言った。

「佐野君に、言っといてくれない? 私たち、謝ってたって」

 それは、媚びるような声での懇願だった。

 すう、と心が冷えていくのを感じた。だけど同時に、安心もしていた。存在を否定される地獄から解放されるのだと、気が緩んだ。ムカつく。わたしも、この子達も。この子達はただ単に佐野君が怖いだけ。わたしに悪い事をしたとか思っていない。

 上っ面だけの謝罪に死ぬほど腹立たしく思っているくせに、わたしは、それに縋ることしかできない。

「………うん。わかった。大丈夫だよ。わたし、気にしてないし。佐野君も多分、あの時イライラしてたんだと思う」

 視界の端で、リカちゃんが申し訳なさそうに縮こまっているのが見えて、更に苛立ちが増幅した。だけどわたしは引き攣る口角を無理矢理持ち上げて頷く。すると、皆わかりやすくホッとしていた。わたしはそれ以上囲まれていたくなくて、自分の席にカバンを置くが否や、廊下へ出た。

 いつかは許したいと思っていた。リカちゃんとの思い出が、息づいていたから。

 だけど、今は。

「………ダッサ……」

 トイレに籠ると、自分の中の溜まっていたものを吐き出すように呟く。だけどそれでも、気分は晴れなかった。

 わたしは佐野君に『いつかは許したい』なんて言ってよかったのだろうか。
 今のわたしは真っ赤な怒りに支配されている。全然、許せそうになかった。





 佐野君はそれから二週間学校に来ないままだった。ようやくママにケータイを返してもらい、わたしは着信履歴と受信ボックスを急いで確認した。目を皿にして佐野君の名前を探したけど、どこにもなかった。

 やっぱり、龍宮寺君に電話をかけるしかない、よね……。アドレス帳を開いて『龍宮寺 堅』を眺めながら、ごくりと唾を飲み込む。彼は佐野君の一番の友達だ。東京卍會の一員だし言動も頼り甲斐に溢れている。佐野君が誰かを殺そうとしていることを相談するには彼が一番の適任者だろう。

 わたしがコンタクトを直接取れる人間は龍宮寺君か彼の妹の佐野さんだ。
 佐野さんから最近の佐野君についての話を聞こうかという案は浮かんだことは浮かんだ。
 けど、わたしは佐野さんと喋ったことが一度もない。突然初対面の女の先輩に家族について聞かれたら不審に思うだろう。それに、わたしがヘマをやらかして佐野君が誰かを殺そうとしていることを勘づかれたら彼女は卒倒するかもしれない……。そう危惧したわたしは聞くのを断念した。

 毎日、佐野君が殺人を犯したというニュースが入ってこないか戦々恐々として過ごした。
 けど、いつまで経っても佐野君が人を殺したという情報は回らなかった。先生たちの間で隠されている危険性もあったけど、担任の先生はいつも通り適当で呑気だった。自分のクラスから殺人者が出たら、流石にあの適当な先生も顔色を変えるだろう。

 佐野君が人を殺していない事は確か。だけど、何をしているのさっぱりわからない。

 君は今、何をしているの。

『オマエのこと、傷つけたくない』

 無表情だったけど、どこか途方に暮れているように見えた。寂しそうだった。悲しそうだった。最後に見た佐野君の姿が脳裏に浮かんで、胸の奥がぎゅっと狭まる。息が苦しくなった。

 知りたい。今佐野君がどうしているのか。きっと龍宮寺くんなら知っているはず。彼は東京卍會の一員だ。喋ったこともある。強面だったけど、良い人だった。

 ……よし、いくか。今日は土曜だし、この時間なら多分、起きてるだろう。

 意を決して通話ボタンを押そうとした時、画面が切り替わった。表示された名前を見て、どくんっと心臓が軋む。

 少し間を置いてから、わたしは通話ボタンを押した。ケータイを耳にあてると、聞きなれた声が怖々と耳に流れ込んできた。

「……菜摘ちゃん」
「……リカちゃん」
「お、おはよ……」
「……おはよう」

 時計は十時半を指していた。今、おはようとこんにちはの中間地点だな。そんなことをぼんやり考えながら、リカちゃんの何かを言いあぐねている感じの息遣いを聞く。やがてリカちゃんは意を決したように言った。

「あの。今から出てこれない?」




 落ちた紅葉の上を踏みしめると、ザクザクと気持ちの良い音が鳴った。だからわたしはわざと紅葉の上を歩いた。

「菜摘ちゃん、それ、好きだよね。一年生の頃からずっとやってる」
「うん。なんかこの音、好きなんだよね」
「銀杏踏んじゃわない?」
「うんこじゃないし別にいいよ」
「そっか」

 くだらない会話をしながら、わたしとリカちゃんは歩いていく。こうやって二人で歩いていると、ここ最近の出来事が嘘のようだった。

 わたしはもともと入っていたグループに復活し、以前のように皆と喋るようになった。何事もなかったように、笑い、愚痴り、皆と過ごしていった。こうやってなあなあに終わっていくもんなんだな、とぼんやりと思った。
 けど、リカちゃんに対しての絶対的な信頼感のようなものは薄れた。他のみんなはともかく、リカちゃんは一番の友達だった。プリクラにふたごちゃんって落書きを書かれた時は嬉しかった。
 一番仲の良い友達だったからこそ、わたしは、リカちゃんを許せないでいた。

 それでもリカちゃんと喋っていると、何だかんだ楽しいことは楽しい。それが癪だった。リカちゃんへの苛立ちはまだ燻っている。だけど誘いを突っぱねることができずに、のこのこと出てきてしまった。

 許すことも、怒り続けることもできない。わたしは中途半端だ。

 多分、向かう先は公園だろう。今辿っている道のりが、わたしとリカちゃんが部活の後でよく寄った公園へのものだった。この公園は寂れていて、滑り台がひとつだけしかない。滅多に誰も来ない穴場だから、二人で楽器の練習をした。

 案の定、見慣れた公園にたどり着く。リカちゃんはそこで歩みを止めた。

 緊迫感の滲んだ静寂が流れて、リカちゃんがなにかを言おうとしているのが伝わってきた。

「菜摘ちゃん、」

 頬の筋肉が強ばっている。リカちゃんはひどく緊張していた。つられてわたしも身構える。

 リカちゃんは息を浅く吐いてから、固い声色で話し始めた。

「竹中さんから、メール回ってきたの。とりま謝ろうって。うちら全然悪くないけど、流石にマイキー君キレさせたらヤバいから謝っとこうって。だから月曜日、謝ったの、皆で。……でも、あんなん、違うよね。あんなん、菜摘ちゃん、強制的に許させられてるような、もんだよね」

 リカちゃんの声が、少しずつ、震えていった。左右にぶれそうになる焦点を引き戻し、もう一度わたしに合わせて、真っ直ぐに向かい合う。目が真っ赤になっていた。

「ごめん、わたし、すごい卑怯だった、ううん、今も卑怯、謝っても許される事じゃないかもだけど、でも、ほんとに、ごめん………!」

 リカちゃんが頭を下げた。ぼた、と地面に雫が落ちて染みを作る。

「ごめん、なんか、菜摘ちゃんが遠くにいっちゃうような気がして、寂しくて、なんか、なんか……!」

 リカちゃんの泣き声が鼓膜を揺るがす度に、リカちゃんとの思い出が、ひとつひとつ、胸の中に灯っていく。お泊り会をした日、遊園地に行った日、リカちゃんの好きな人をわたしだけに教えてもらった日。とりとめのない、どこにでもあるようなありきたりな思い出。だけどそれが、わたしの人生を豊かにしてきた。

 日差しを浴びた氷が溶けだすように、硬く強張っていたわたしの心も緩んだ。リカちゃんの肩に手を伸ばし、ぎゅっと抱き寄せた。嗅ぎなれた匂い。リカちゃんの家の、シャンプーの匂いだ。

「いいよ」

 呟くようにそう言うと、リカちゃんの動きが一瞬止まった。少ししてからしゃっくりが鳴って、リカちゃんは声を押し殺しながら泣く。

 泣いて謝られたら許すなんて、わたしも甘いのだろうか。
 だけど、やっぱり、許したい。
 なあなあにせず向き合ってくれたリカちゃんは、やっぱりわたしの知っているリカちゃんで、わたしはこれからもずっと、この子と友達でいたい。

 だから、許したいんだ。

 秋風が冷たい。だけど、泣いて火照っているリカちゃんが暖かかったから、そんなに寒くなかった。


「………うう、ごめん。泣きたいのは菜摘ちゃんなのに……」
「リカちゃん、それよりも鼻水。また垂れてる」
「えっ、やば!」

 リカちゃんは慌ててティッシュで鼻をかんだ。それから、ふふっと笑う。

「やっぱ菜摘ちゃん面白いな。菜摘ちゃん、なんかこう……ちょっと冷静というか、あっさりっていうか……。ドラマとかの雨に打たれながらの告白シーンとか、『傘差せばいいのに』って言うし」
「い、いやだって……なにもわざわざ雨の中言わなくてもって思って……濡れるし…風邪ひくし……」
「あははは! そゆとこ! 菜摘ちゃんって感じ! ………だから、菜摘ちゃんが、佐野君と仲良くしてるの、不思議だったんだ。佐野君といるメリット、よくわかんなかったし。…あっ、えっと、これは、悪口とかじゃなくて!」

 リカちゃんは慌てて首を振って悪口を言いたい訳じゃないと言い募る。今日は、前みたいにムカつかなかった。佐野君を闇雲に否定したいんじゃなくて、心の底から不思議に思っていることが伝わってきたから。

 だから、頷いた。やっぱり、わたしはリカちゃんと気が合う。共感しかなかった。

「そうだよね。わたしも、そう思う」

 夏休みの夜に味わった恐怖は、薄れてはいるけど忘れはしない。
 佐野君と関わった事により竹中さんからの反感を買い、あっという間に爪弾きにされた。
 それに今、佐野君は人を殺そうとしている。
 
 以前のわたしなら、佐野君を危ない人間だと見なし先生や親に報告して自分は関わらないようにしただろう。

 けど、今は、佐野君を止めたい。どうして殺そうとしているのか。その人と何があったのか知りたい。

「………なんか、知りたいんだよね。佐野君の事」

 ぽつりと、独りごちるように呟く。リカちゃんはじっとわたしを見つめてから、怖々とでも少し楽しそうに聞いてきた。

「あ、あの。前から聞きたかったことあるんだけど………聞いていい?」

 ……やっぱり、来たか。

 今まで、何度かリカちゃんはわたしと佐野君のことを知りたそうな顔をしていた。ハブられる前の日も、躊躇いながらわたしを呼んでいた。だけどわたしはいつも、気付かない振りをした。自分が佐野君のことをどう思っているか、直面したくなかったから。

 リカちゃんはわたしによく相談してくれたのに、わたしは言わなかった。自分の気持ちを全部共有する必要はないと思うけど、自分だけ言わないのは不誠実で不公平だ。面倒くさいけど、これがわたし達女子中学生の掟。

 それに、なぁ。諦観が胸の中に過る。そろそろ潮時な気がする。

 でも、だって、なぁ。

 リカちゃんはウズウズしていた。目を左右に泳がせてから正面に戻し、わたしを見据えた。わたし達以外誰もいないというのに、内緒話をするように、声を潜めた。

「菜摘ちゃん、佐野君の事、」







 午後は塾のリカちゃんと別れて家路を辿っていると、ケータイが長く震え始めた。普段メールを受信する事の方が多いので、電話をめずらしく感じる。ケータイを開くと驚きで目玉が飛び出かけた。

「もっ、もしもし!」
「よう」

 息せき切りながら電話に出たわたしとは対照的に、佐野君の声色は穏やかだった。まさか佐野君からかかってくるとは思わず心の準備ができていないわたしは、聞きたいことがあるのにうまく言葉が出てなこない。のんびりと話を切り出してきた佐野君にまごつきながら返答するので精一杯だった。

「川原さー、今、暇?」
「う、うん? えっと、まあ、暇」
「今、どこ? つかチャリ? 歩き?」
「あ、歩き。え、えっと…」

 現在地を告げると佐野君は「わかった」と言ってから、笑った。顔が見えないのにどんな顔で笑ったのか、なんとなく想像できた。

「迎えに行く」

 電話が切れて、わたしは立ち尽くす。えっと、つまり、ここで待ってろってこと、なんだよね? 
 
 なにか、何か言わなくちゃ。
 人を殺すってどういうこと。どうして。そんなことしちゃダメ。
 だけどどう言えばいいんだろう。
 というかそもそも、わたしが踏み込んでいいことなのだろうか。

 心臓がどくんどくんと騒いでいた。会いたい。話したい。だけど、どうしたらいいかわからない。思考回路は絡まり、ぐちゃぐちゃになっていく。

 すると、遠くから、バイクの排気音が聞こえた。
 
 バブゥゥゥン、と、風に乗って、やってくる。

 ガードレールの向こう側の車道に、佐野君はいた。
 いかついバイクに跨っている佐野君が、そこにいた。

「おひさー」

 ひらひらと手を振りながら、軽いノリで挨拶する佐野君。

 猫のように大きな瞳に、くすんだ金髪。男子にしては、小柄な体躯。

 蛹が羽化するように、ずっと奥底に秘めていた願いが体中から溢れ出した。

 わたし、佐野君に会いたかったんだ。

「川原、乗って」
「……そ、それに……?」
「バブ以外に何に乗んだよ。ほら、はーやーく」
 
 佐野君は顎をしゃくってバイクの後ろに乗るように命じる。こんなに大きいバイクを間近で見るのは初めてだ。周りを圧倒する威圧感に押されながら怖々と佐野君の後ろに跨ろうとした時、

「あ、これ」

 ヘルメットを差し出された。

「つけて」
「え。佐野君つけてなくない?」
「オレはいーの。無敵だから」

 しれっと澄まし顔で無茶苦茶な理論を言ってのける佐野君に、なんだそりゃと思いながらも心が温まっていくのを感じた。わたしが今まで一番長い時間を過ごした事のある佐野君だ。天上天下唯我独尊な、佐野君。

 小さく笑ってからヘルメットをつけて、佐野君の後ろに跨る。大きいバイクは自転車のように軽々とは乗れず、半ばよじ登るようにして乗った。

「よし……いいよー」
「オマエ死にてえの?」
「え、いやそんなことは………!?」

 佐野君の手が後ろに伸びてきて、無理矢理腰を掴まされた。続いてもう片方の手も腰に回させられる。

「そのまま手ェ組んで………おい、川原、」

 指示通りに動かないわたしに苛ついたのか、佐野君は不機嫌そうに振り向く。でも、わたしと目が合うと、目を白黒させてから、にやあっと笑った。

「川原えろ〜〜」

 更に顔に熱が集中していくのがわかった。からかうような目つきから逃れたくて、わたしはヘルメットを被ったままの状態で、佐野君の肩に頭突きした。

「そういうのいい。いこ、はやく。手、ちゃんと組むから」

 早口でまくし立てるように言うと、佐野君は「照れてやんの」とおかしそうに笑いながら前を向いた。

 そりゃ照れるよ。照れますよ。照れるのが普通だよ。佐野君の馬鹿。アホ。チビ。オタンコナス。

 心の中で佐野君を罵倒しながらわたしは半ばヤケクソになって、両手をぎゅっと組む。体の距離が近づいて、佐野君の匂いが強まった。

「じゃ、いくぞー」

 佐野君がアクセルを踏む。バイクが発信する。
 わたしの心音が鳴らすドキドキが、違うドキドキに変わった。

「は、はや、はやくないいぃぃ!?」
「川原うるせー」

 バブゥゥゥンという音の後、わたしの絶叫が続いた。






「全然スピード出さなかったのになー。川原ビビり過ぎ」
「いや…わたし…バイク初めてだから………」

 三十分後、わたしはようやく地上に降りる事が出来ていた。颯爽と立っている佐野君の隣で、わたしは息も絶え絶えになんとか踏ん張っていた。佐野君曰く低速だったらしいけど、バイク初心者のわたしからしたら高速だった。車と同じスピードを出せるのに、体全体が外気に触れる。二人までしか乗れないし、本当に早く走る℃魔フみに特化した乗り物だと思う。

 佐野君がわたしを下ろした場所は、山の中の駐車場だった。赤や黄色の葉っぱが山々を彩っている。ここ、何なんだろう。

 ……お墓?

 少し先を見渡すと、灰色の墓石がたくさん見えた。なん、で。え、もしかして、佐野君、もう―――。

「オレのダチ、あそこにいるんだ」

 最悪の事態を予想し血の気が引いているわたしを宥めるように、穏やかな声が鼓膜の中に流れ込む。隣を見ると、佐野君が優しい目で少し離れた遠くを見ていた。時折見かける、空の向こう側を見る眼差しと同じものだった。

 凪のような瞳を見て、焦燥が引き、確信する。佐野君は、誰も殺していない。

 殺さなかったんだ。

「喋れねえけど、会ってやってくんね?」

 にこっと笑いかけてきた佐野君に、わたしは「うん」と頷く。「ありがとな」と呟くとそれきり口を閉じて、ゆっくりと、お墓に向かって歩いていく。佐野君の後ろを着いて行こうとして、やめた。足を速めて、佐野君の隣に並ぶ。

 ゆっくり、ゆっくり、佐野君の友達の元へ、二人で向かった。



 『場地家之墓』と彫られた墓石の前で佐野君は止まった。しゃがみこんで「よ」と手を上げる。つられて、わたしもしゃがんだ。佐野君の友達、場地君って言うんだ。佐野君はじいっとお墓を見ながら、淡々と言った。

「オレ、兄貴いたんだ」
「………え?」

 場地君の話ではなくて、お兄ちゃんの話を持ち出されて戸惑うわたしを他所に、佐野君は言葉を続ける。

「オレの兄貴、二年前、オレのダチに殺されたんだ。そいつ、東卍の創設メンバー。オレ、オマエに嘘ついた。ほんとは、六人なんだ」

 予想以上の出来事に、驚きで喉が塞がれた。声もでない。思わず目を最大限に見開いて、佐野君を見つめてしまう。佐野君はずっと同じ調子で、更に続けていった。

「オレの誕生日にバイクをやろうって思って盗みに入った先が、オレの兄貴の店。盗もうとしたとこ見つかって、やべえってなって、後ろからドガン。
 兄貴とダチが、いっぺんに消えた」

 雨のように静かな調子で佐野君は悲惨な思い出を語る。何の感情も宿していない瞳は、ただ、墓石に向けられていた。

「アイツが年少から出てきたら、殺そうって思ってた。ぶん殴ってぶん殴ってぶん殴ってぶっ殺したかった。
 アイツが、一虎が芭流覇羅として宣戦布告してきた時、心のどっかでちょうどいいって思った。
 これで遠慮なくぶつかれる。
 全部終わらせるつもりだった。
 ………場地が、あんだけ、一虎を許してくれって言ってたのにな」

 低く沈んだ声が浮上して、明るいものに変わる。佐野君はお墓を指さしながら、「こいつ、無茶苦茶なんだ」と茶目っ気たっぷりに言った。

「眠いってだけですれ違った奴ぶん殴るし、腹減ったら車にガソリン撒いて火ィつけるし」
「…………とっても愉快なお方だね……」
「川原ドン引きじゃん」

 佐野君は背を仰け反って笑った。げらげら笑ってから「けど、」とまなじりに浮かんだ涙を拭ってから言った。

「優しいんだ。
 オレと一虎、どっちの味方にもなってくれた。
 場地、東卍から抜けた振りをして、芭流覇羅のスパイになってさ。バレたら殺されんのに。
 オレと一虎が殺し合わずに済むように、ひとりで、頑張って、」

 そこまで言うと佐野君は口を噤んだ。言葉にしたくないのだろうとわかった。言葉にしたら実感が伴う。場地君がいない悲しみと寂しさに必死に耐えているのだろう。すう、と息を吸い込んでから、佐野君は続けた。

「何のために場地が死んだかオレは考えずに、一虎が場地まで奪ったように思えて、オレは一虎を殺すつもりで殴り続けた。
 だからタケミっちに、場地が死んだ理由考えろってめっちゃキレられてさ。何のために東卍ができたか、思い出して。
 オマエのことが、浮かんだ」
「……………え?」

 呆然自失としながら話を聞いていたら、突然、佐野君はわたしを話題に出し、わたしは目を点にする。佐野君はわたしを見ると「ぶはっ」と噴き出した。

「なに、その間抜け面」
「だ、だって、変じゃない? わたし、この流れで出てこなくない…?」
「変じゃねーし。オマエ、言ったじゃん」

 佐野君はぷくっと頬を膨らませてから、唇を緩ませた。子どもっぽい表情から一変した、大人びたものになる。

「悩んでるってことは、許したいって気持ちがあるって」

 空を仰ぎながら、佐野君はどこか懐かしむような口振りで続けた。

「一虎の事ぶっ殺したいけどさ、アイツとまた馬鹿やりてえって気持ちも、多分、どっかにあったんだ。……ずっと仲間でいてほしかった」

 まあ、アイツ、オレのモンだしな。
 佐野君はおどけながら付け加えて、歯を見せて笑った。

 あまりにも壮大な話を聞き、わたしはただただ圧倒されていた。一虎という人が佐野君のお兄ちゃんを殺した事。場地君という人が二人を止める為に死んでしまった事。中学生の枠から大きく外れた話でわたしの手に余る事だった。

 だけど、ひとつだけ、わかる事がある。

『オレと一虎が殺し合わずに済むように、ひとりで、頑張って、』

 場地君だけが頑張ったような口振りで話すけど、それは、佐野君もじゃないのかな。

 佐野君はずっと、責任の在り処は自分にあるような口振りで話していた。今だって、感謝と悔恨が入り混じった視線でお墓を見つめている。

 その姿かどうしてか、転んで痛いのに泣くのを必死に堪えている小さな子のように思えて。

 半ば無意識のうちに体が動き、佐野君の頭に手を伸ばす。しゃがんでいるからすぐ届いた。

「佐野君も、頑張ったよ」

 脱色を繰り返した髪の毛は痛んでいるけど、思ったよりマシだった。指が絡まないように、髪の毛の表面だけを撫でていく。

 冷めてる、と時々言われる。

 雨の中告白してやっと結ばれた恋人たちに対し、『傘させば?』と言うから。
 番組の企画で苦しそうに走りながらやっとの思いでゴールした人に対し、『そんなに苦しいなら途中でやめればいいのに』と言うから。

 だってその人の願いはその人のものだ。他人が自分の望みを叶えるために頑張ろうが努力しようが、それはわたしのあずかり知らぬところ。

 誰かが頑張った事に対し、心を動かされることなんて一回もなかった。

 それなのに、どうしてだろう。
 佐野君だけは、例外だ。
 お兄ちゃんを殺した友達を許そうと頑張った佐野君の頑張りは讃えたくなった。
 
 感じた事のない気持ちが胸の奥底に泉が沸くように生まれ、心を満たしていく。暖かくてだけど少し切ない。そこには佐野君が幸せに過ごせるようにという祈りも混ざっていた。

「頑張ったね」

 頭を撫でながら、もう一度言った。
 
 ……って……。

 佐野君が目を丸くしてわたしを凝視していることに気づき、ハッと我に返った。熱が羞恥心と共に全身を駆け巡る。

「ご、ごめん……! なんか、体が勝手に、」

 言い訳を並べていた口が不自然に止まる。
 佐野君が、頭をわたしに向けていた。
 佐野君は何も言わなかった。だけど、佐野君から発される空気が物語っていた。

 もっと撫でろって、ことで……いい、のか、な?

 恐る恐る、佐野君の頭に再び手を伸ばす。怖々と、撫でていく。佐野君は何も言わなかった。されるがままだった。
 佐野君が、小さな子に見える。教室でリカちゃん達に殺意を滾らせていた時はあんなに大きく見えたのに。

 ……けど、そうだよなぁ。佐野君って、まだ、15歳なんだよなぁ……。

 ぼんやりと既に知っている事実を心の内で反芻する。わかっているけど、わかっていなかった。お兄ちゃんを殺されて許すとか許さないとか、まだ中学生の男子が背負っていい問題じゃない。

 佐野君にずっとせがまれていた事を思い出す。言ったら、喜んでくれるだろうか。今それどころじゃないと無反応だろうか。どちらにしても嫌がられることはないはずだ。
 佐野君が不快に思う可能性が低いのなら、ただ、わたしが恥ずかしいだけなら。

 ごくりと唾を飲み込んで、息を吸い込む。一思いに言った。

「頑張ったね、マイキー君」

 佐野君の頭が小さく動いた。顔を上げていくのがわかって、わたしは手を離して顔を背ける。今の顔は見られたくなかった。

「なんでこっち見ねえの」
「……なんでも」
「意味わかんねえ。てかもっかい」
「もっかいって何が」
「さっき! マイキーって呼んだ!」
「さっきはさっきだよ」

 なんとかわたしの顔を覗き込もうとする佐野君から逃れるように「お水取ってくる」と早口で言ってから立ち上がる。
 ずんずんと進みながら、リカちゃんの言葉を思い出していた。


『菜摘ちゃん、佐野君の事、好きなの?』


 興味津々に問いかけてきたリカちゃんに、わたしは『わからない』と答えた。

『どう思ってるのか、考えないようにしてる』

 仏頂面で続けると、リカちゃんは 『……え?』と訳が分からなそうに眉を潜めた。何言ってんだ、と顔に書いている。わたしはむすっとしながら『だって』と続けた。

『今だって、佐野君のことばっか考えてんのに、どう思ってるのか答え出しちゃったら、もっと、考えちゃうよ』

 恥ずかしい気持ちを少しでも相殺できるように憮然とした顔つきでボソボソとぶっきらぼうに答える。傍から見たら、何かに拗ねているように見えるだろう。

『佐野君とわたし、全然違うし。佐野君が何考えてるか、全然わかんないし。どうこうなること絶対ないし。どうしようもないことに時間つかいたくない。無駄、ロス、だから、考えない。わからない。知らない。終わり』

 早口で捲し立てて話を打ち切り、空を仰いだ。

 空の向こう側には、無数の星が存在している。だけどすべてに名前がある訳じゃない。

 星はどれだけ光っていても、名づけられない限り星にならない。
 ならば、その存在を認めたくないのなら、名づけなければいいのだ。

 リカちゃんはあんぐりと口を開けてわたしを見ていた。それから、ハァーッとため息を吐いて、

『往生際悪すぎ……………』

 ほとほと呆れたように、そう言った。




 リカちゃんの馬鹿、アホ、オタンコナス。
 わたしがずっと見ないようにしていた気持ち、無理矢理向かわせてきて。おかげで今、意識して意識して仕方ない。

 顔が熱い。体が熱い。後ろから「なー! 川原ー!」としつこくせがんでくる佐野君の声が聞こえる。

「なあってば!」

 見ざる聞かざる言わざる。意識をなるべく遠くに飛ばしてもっかい呼べとうるさい佐野君の声を遠ざける。大体さっきのだってすごい勇気を振り絞ったんだから。男子をあだ名で呼んだのなんて小学生以来なんだし、だいたい、相手は佐野君だ。東京卍會の総長をあだ名で呼ぶ。女子の間では一軍しか呼ぶ事は許されない。わたしがどれだけ勇気を振り絞ったのか、佐野君は気づいていない。

 気になって気になって仕方ない男子の事を愛称で呼ぶことが、どれだけ恥ずかしいか、佐野君はわかっていない。

「こっち見ろってー!」

 佐野君はわたしの前に回り込んできた。慌てて顔をなるべく後ろに向けるように回すと、顔事がしりと掴まれて、無理矢理正面を向かされる。むすっとふくれっ面の佐野君と、至近距離で目が合った。

「こっち見ろってば。菜摘」

 頭の芯まで真っ白に染まった。ふれられたところが熱を持つ。瞬く間に広がった。ぶわあっと産毛が総立ちし、体中を巡る血液が勢いを増し、心臓がばくばくと鳴っている。

 こうなるとわかっていたから、考えないようにしていたのに。
 だからこれ以上、想いを加速させたくなかったのに。

「変な顔」

 佐野君はわたしの心境も知らずに失礼なことをのたまう。それから、無邪気に笑った。悪戯が成功した事を喜ぶ、小さな子どものようだった。
 その笑顔を見たらもうだめだった。溢れてしまった。初めてきちんと言葉にして、胸の中に在った気持ちを表現してしまった。
 これ以上、抑えきれなかった。



 わたし、佐野君が好きだ






It is impossible to love and be wise.



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