はじめて恋をした記憶


堀田さんは、ぼけっとしている。口をぽかんと半開きにしながら、宙をぼうっと見ていることもしばしば。食べ物への執着心が人一倍強い。変なところで笑いだす。どこか人とずれている変な子。子供っぽい口調で突拍子もないことを言って、子供っぽい仕草で感情を表現する。年の離れた妹みたいだな、と思っていたら。

『しっかりしなさい!!ウサ吉のお母さんでしょ!!』

きりっと眉毛を吊り上げて、オレを叱咤激励する姿は、オレよりも二つか三つ年上のように見えた。

寝ちゃえ寝ちゃえ、とオレの頭を無理矢理膝の上にのせたところまでは、子供が無邪気に遊具で遊んでいるようなあどけない笑顔を浮かべていたのに、瞼を下ろす瞬間に見せた顔はほんのりと朱に色づいていて、瞳が恥じらいを含んだ動揺で揺れていた。一瞬の出来事だったから、見間違いだったかもしれねェけど。

子供っぽかったり、大人っぽかったり。いろんな表情の引き出しを持っている。
何を言って、何をしたら、どんな表情を見せるのだろう。





「お菓子だー!!」

とりあえず、食いモンをやればきらきらと目を輝かせるということだけは、わかった。

この前の礼という事で、堀田さんに菓子の詰め合わせを渡したら、袋を両腕で抱え込みながらわーいわーいと飛び跳ねた。それに合わせて肩の位置まで伸びた髪の毛もぴょんぴょん跳ねる。

「マジでそんなんでいいの?」

礼がしたいから、何か欲しいモン言って。と、言ったら、即答で『お菓子!』ときっぱりと返された。『べ、別にお礼とかいいよ〜!』と言われても無理矢理押し付けようと思っていたので、拍子抜けだった。拍子抜けした次の瞬間、思い出した。そうだ、この子はこういう場面で遠慮するような子ではない、と。

堀田さんはキッとオレを睨みつけて、唇を尖らせた。

「お菓子を馬鹿にしたらダメだよ、グリコの社長は言いました。お菓子とは、世紀の大発明である、と!」

「…マジで?」

「これは嘘。わたしが作った。騙された?騙されちゃった?」

にしし、と悪戯が成功したとでも言いたげに笑いながら、オレの顔を覗き込んでくる。鼓動が少し早くなって、丸い瞳でじいっと見られることが少し息苦しいことを誤魔化すために、「いっぱいくわされたな」と笑い声をわざとあげた。

そうでしょう!と得意げに鼻を伸ばしたあと、堀田さんは「あ、そうだ!」と何かを思いだしたかのように両手をぱちんと合わせた。あのね、新開くん。といつものようにあどけない口調で前置きをしてから、本題を口にした。

「わたし、明日初めて合コンに行くの!」

ぱあっと、花が咲いたような笑顔で、大きく元気に朗らかに宣言した。

作った笑顔が固まって、思考回路が停止した。

オレを置いて、否応なく時間は流れる。堀田さんは楽しそうに話す。

「あのね、好きな人作りたいって言ったら、クラスの子が合コンセッティングしてくれてねー。そこでね、好きな人作ろうと思うの!頑張ってお洒落して、あと髪も可愛くしていこうと思うの、誕生日に依里ちゃんからもらったシュシュをつけて行こうと思ってんの!」

きらきらと、楽しそうな輝きを瞳に宿して、ふふっと緩んだ口元に手をあてて笑う。

堀田さんが楽しそうだ。いいことだ。

好きな奴ができる。いいことだ。

好きな奴も、ないよりいる方が生活にハリが出るだろう。

けど、そんな“正論”を、オレの心は受け付けない。焦燥感、不安が、胸のうちに渦巻く。あれ、なんだ、これ。細心の注意を払って意識しないと、眉間に皺が寄って口角が下がる。

「じゃあ、もうすぐ時間だから教室戻るね〜。未来の彼氏をハントしてきます!!」

びしっと敬礼をして、ひらりと身を翻す堀田さん。何か言おうと思って出てきた言葉は「あはは、頑張れ」と空虚な響きを持った笑いと励ましの言葉だった。正解だ、正解。これ以外言うことはない。堀田さんは、くるっと、身を反転させて、「うん!」とにこにこの笑顔で大きく頷いた。そして、パタパタと慌ただしく駆けていく。

心臓が少し騒がしい。口の中が少し乾いている。

頭の隅でひとつの考えが囁きかけてくるが「や、ないない」と口の中で打消しの言葉をひとりごちた。




…合コンって何時までやるもんなんだ…?

ベッドで、両手を組んで枕替わりにして寝ころびながら、掛け時計に目を遣る。夜の十時半を指していた。

合コン。堀田さんが合コン。また何か変なことを言って、浮いているんだろうな、と思うと笑いがこみあげてきて、自然と口角が上がる。でも、オレと同じように面白く感じている奴がいて、メアド教えてよ、とか堀田さんに言っているのを想像すると、なんだかすっげえイラつく。

堀田さんが参加する合コンは面白そうだから。だから、気になる。

心の中で、そう言ってから、ケータイをズボンのポケットから抜き取った。もう家にいるだろう。電話帳を呼び出して、『堀田美紀』のところまでスクロールしてから、通話ボタンを押した。


コール音が耳の中で鳴り響く。やけに長く感じる。秒針の音がやけに鮮明に聞こえる。電話かけるだけだろ。しかも相手は堀田さんだ。気負う必要なんて、少しもない。言い聞かせながら、瞼を下ろす。すると。

『しっかりしなさい!!』

と、眉を吊り上げた堀田さんが浮かんだ。
いつもの能天気な雰囲気はどこかへ消え失せて、凛々しくて、溌剌としていて。ウサ吉があんな状態だったというのに、オレは少しの間。

「はいはーい、もしも〜し」

堀田さんに、見惚れていたんだ。

…こんな能天気な声を出す女子に。

オレの意気込みを躱すように、能天気極まりない出だしで始める堀田さんに、出鼻を挫かれたような気分になった。ああ、堀田さんだなあ、としみじみ思ったあと、なんだか面白くなって、ぶはっと噴きだした。

「新開くん?なに?なんか面白い事でもあったの?」

「や、ごめん。気にすんな。…あの、さ、合コンどうだった?」

どくん、どくん、と心臓が重く響く。好きな人できた、メアド聞かれた、彼氏できた、と言われたらどうしようか、なんて考えている。どうしようか?どうもしねえよ。何思ってんだ、オレ。

堀田さんは、大きな声で自信満々に言った。

「ぜんっぜんモテなかった!!」

自信満々で言うべきじゃないことを。

「わたし、すっごく彼氏が欲しいです!とても欲しいです!!とても!!って何回も言ったんだけどなあ〜。すごい勢いでモテなかった。変なの〜」

目に浮かぶ。手をぎゅっと丸めて力強く『彼氏が欲しいです!!』と高らかに叫ぶようにして言う堀田さんの姿が。そして、あまりのがっつきぶりにウワァ…とドン引きしている顔も知らない男たちが。

「…そりゃ、残念だったな」

肩の力が抜けて、胸を撫で下ろしながら言う言葉ではない。けど、氷のように固まっていた不安が溶けていくのは、とめられなかった。

堀田さんのこと振ったってのに。堀田さんに彼氏ができたら嫌だ、って、なんだ、それ。

「男子はねー、取り分けしてくれる女子が好きって言うからさー、ごはん取り分けたんだけどね、一人の男子が玉ねぎ嫌いって言ってね、だからわたしは玉ねぎの素晴らしさを教えてあげようと思って玉ねぎの栄養分をこと細かく説明してあげたのに。気付いたらわたしの周りには誰もいなくなって…。なんだっけ、なんか、そんなタイトルの小説を幸子ちゃんが読んでたような…」

うーん、と顎に手をあてながら難しい顔つきで考え込んでいる堀田さんの表情を手に取るように思い浮かべることができる。何故だかそれが少し誇らしく嬉しく思う。

こう言ったら、こういう反応をとるんだろうな、ということを知れていることが、ただ、嬉しい。

へえ、と相槌を打っていると、堀田さんはあっけらかんとした口調で言い放った。

「さっき合コン終わったばっかりでねー、収穫ないと寂しいねえー。みーんな送ってもらってるのに、わたしぼっちなんだよー」

…え。

もう一度、時計に視線を走らせる。十時三十三分ぐらい、か?カーテンを閉めているからわかりづらいが、もう外はどっぷり闇に浸かっているだろう。こんな中、女子が一人で帰っているって。舌打ちしたい衝動を抑える。誰か送れよ。危ないだろ。

「堀田さん、家つくまで電話しよ」

「え、いいのー?わーいわーい」

堀田さんは無邪気にはしゃぐ。人の気も知らないで、と声をたてないで苦笑する。

堀田さんが話し手、オレは聞き手として会話をした。

雑誌に載っていた髪型をしようとしたんだけど、“ツイスト”という専門用語が出てきた瞬間に、やる気が削がれたこと。

二年ぶりにマニキュアを塗ったこと。

気に入っているグレーのチェックのワンピースを着て行ったこと。

今日の晩飯が唐揚げだったことを知って、弟に泣きながら『ひとつ、いやふたつ、いやみっつ残しておいてください。お願いします』と敬語で懇願したこと。

聞いた三秒後に忘れてしまうような、些細な出来事ばかりだ。取るに足らない。くだらない、と一蹴できてしまうものばかり。

なのに、なんでだろうな。

もっと、知りたいと思っている。

そうなんだ、と相槌を打ったあと、堀田さんは、ふふっと小さく笑いを零した。またこの子はよくわからないところで笑いだすな、と思っていると、あのね〜と間延びした前置きを置いてから、言葉を継いだ。

「わたしねー、あまりにもモテなさすぎてねー、ちょっと、ひんそうに暮れていたの」

「…悲壮の間違いじゃないか?」

「あ、それだ!やー、うっかりうっかり!」

あははー、と笑ったあと、堀田さんは嬉しそうに言った。

「でも、新開くんと話せたから、まあ、いいや。終わりよければ全て良し!」

どんな顔をしているのか、だいたい想像がつく。屈託なく、ほころんでいるのだろう。

でも。

実際にこの目で見られないことが、もどかしくて仕方ない。

「どうしたらモテるんだろうねー。うーん、東堂くんに今度訊いてみようかなあ」

「別に、いいだろ」

「ん?」

「堀田さんは、そのまんまでいいと思う」

途切れ途切れに言葉を紡いでいく。思うように声が出せなくて、ぼやくような口振りになっている。頬が熱い。別段、恥ずかしいことを口にしているわけじゃないのに。

「っていうか、そのまんまの堀田さんがいい」

オレは、と小さく付け足したあと、何と言えばいいかわからなくなって、口を閉じた。電話の向こう側の息遣いがくすぐったく感じる。堀田さんはここにいないのに。

「…じゃー、まあ、いっか〜」

少しの沈黙の後、堀田さんは呑気な口調で言った。ふふっと恥ずかしそうな笑い声が耳をくすぐる。

「新開くんのお墨付きだしね」

きっと、へらっとした、表情筋の緩んだ笑顔を浮かべているのだろう。なんか食っている時みたいな笑顔。声音が証明している。想像がつく。わかってんのに。

直接、見たいって思ってる。

「てゆーかモテモテのわたしが自分でも想像つかないや…。それはわたしであってわたしじゃないや…」

「ぶっ。確かに」

「いやいやここは否定してよお。空気読んでよお」

「堀田さんにだけは言われたくねえなあ」

喉の奥でくつくつと笑うと、それもそうだね!と肯定の声が返ってきた。またそれが面白くて、笑う。

「家に着いたー。唐揚げ残ってるかなー」

「残ってるといいな」

「残ってなかったら泣く」

「ははっ」

「笑いごとじゃないよー!! …新開くん、」

ん?と軽く返すと、くすぐったそうにふふっと笑ったあと、堀田さんは言った。

「送ってくれて、ありがとう。すっごく楽しかった。ばいばい」

そう言って、堀田さんは電話を切った。ツーツーツーという機械音が鳴り響く。

…気付いてたのか。

ほとんどのことは空気を読めないくせに、時折こうやって察してくる。基準がわからない。本当によくわからない子だ。

…ばいばい、と言った時、堀田さんはどんなふうに笑ってたんだろ。
ぼんやりと、宙を見ながら思うと、コンコンとノックの音が響いた。「新開、寝てるか?」と寿一の伺うような声が聞こえてきた。

「起きてる」

「ちょっといいか」

「ああ」

身を起こして、寿一が入ってくるのを待つ。寿一がドアを開けて入ってきた。ビンを両手で持ちながら、オレに言う。

「これがどうしても開けられなくてな。オレも荒北も泉田も黒田も葦木場も東堂も駄目だった。最後の砦はおま…、」

寿一は言葉の途中でオレの顔をしげしげと見た後、「やはり、やめておこう」と淡々と口にした。え、と拍子抜けする。ビン開けようとすることぐらい、別にやるのに。そう言おうと口を開いたら、寿一の言葉が先に出てきた。

「顔が少し赤いぞ。微熱があるんだろう。今日は安静にしとけよ。もう寝ろ」

「…え?」

「じゃあな、おやすみ」

「じゅい、」

ち、と言った時には、パチンと電気が消されて。寿一はドアをパタンと閉めて出ていった。ドアの向こう側から、「福ちゃん、新開はどうだったァ?」「微熱が出てるようだ。みんな、静かにするんだ」「ええ!?新開さんが熱出てるんですか!?」「ッセェ!!フクちゃんが静かにしろつってんだろーが!!」「アンタが一番うるさいですよ」と、騒々しいやり取りが聞こえてくる。すぐ近くでしているやり取りのはずなのに、どこか遠くに感じる。それは、多分。

『送ってくれて、ありがとう。すっごく楽しかった。ばいばい』

堀田さんの言葉が、まだ耳に残っているからだろう。

堀田さんがどんな顔をしているかわかんねェけど、オレの顔は今少し赤いんだろう。寿一が微熱と勘違いする程度には。

ごとり、と動く心臓に、マジかよ、と小さく笑った。






けれどたしかにきみがいた


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