はじめて恋をした記憶


新開くんは、とらえどころがない。いつも穏やかに笑っていて、飄々とした人だ。口に含んだら甘味だけを残して、すぐに溶けてなくなってしまうわたあめのような男子だ。髪の毛もふわふわしているし。

出会った時から、新開くんはずっと笑っている。わたしの言葉で、よく笑っている。

でも、一度だけ。わたしの言葉で、氷のように固まったことがある。

『なんで、ウサ吉を飼おうと思ったの?』

そう問いかけた時、穏やかに緩んでいる瞳が大きく見開かれて、口角は不自然に上げられたまま固まって。

あの時、これは聞いたらいけないことなんだな、と本能が察知して、踏みこむのをやめたけど。

本当は、踏みこみたかった。

好奇心、と言うのは少し違う。未知のものを開拓する時のような、わくわく感ではなくて。

新開くんのこと、知りたい。

ただ、それだけだった。

…あれ、これを好奇心と言うのか。




「しーんかーいくん」

福富くんと喋っている新開くんのセーターの袖を引っ張った。びよーん、と伸びる。

「やあ、福富くん」

福富くんに、挨拶をする。真顔ですっと手を挙げる福富くん。いつ見ても凛々しい眉毛だ。福富くんの表情を真似て、鉄仮面になって、すっと手を挙げる。新開くんがぶっと噴いた。

「結構寿一に似てんぜ」

「ふふふ」

「そうか」

わたしは得意げに胸を張る。福富くんは真顔で頷いていた。新開くんは「ボケが二人」と笑ってから、わたしに向き直った。

「で、なんだ?」

「あのね、親戚から大量のリンゴを貰ったから、おすそ分け」

後ろに隠していたリンゴの袋を新開くんに突き付ける。すると、何故か福富くんの瞳が輝いた。あー、と福富くんを横目で一瞥してから、新開くんは笑った。

「寿一、リンゴ大好きなんだよ」

「え、そうなの?」

「リンゴは美味い」

「オレが好きなのは肉だ!!とか言いそうなのに…。わたしより可愛いもの好きだね」

「ついでに言うと、寿一の誕生日ひな祭りなんだぜ」

「可愛すぎるよ〜」

「オレは可愛くない。強い」

「ハイハイ、そうだな。寿一、リンゴ分け合って食うか。サンキュー、堀田さん」

白い歯を見せて爽やかに笑う姿にノックアウトされかける。が、踏ん張る。ジャニーズ顔負けの良い笑顔…!

「は、灰になる…!」

「また訳わかんないこと言ってる」

ははは、と肩を揺らして笑ったあと、新開くんは「ウサ吉にも食わせてやっか」と、袋を持ち上げながら言った。

とても優しい表情をしていた。慈愛に満ちた顔。頬が緩んでいる。

さっきの、わたしに笑いかけた顔の方が、整っている。涼しげに上げられた口角。程よく細められた瞳。交通整備がよくされた駐車場のように整っている。

今の顔は、緩んでいるせいか、ほんのちょっぴり、交通整備が乱れている。あ、こら、白い線踏んでいますよそこの車!という感じだ。丸めたあとの新聞紙のような、くしゃっとした笑顔。

でも、あたたかい。

秋だけど、春みたいな笑顔。

ウサ吉のこと、大好きなんだなあ、新開くん。

「新開くん、わたしもウサ吉にリンゴあげたい。ウサ吉のところに遊びに行っていい?」

そう問いかけると、新開くんは穏やかな瞳をわたしに向けた。緩められて、目元にポカポカ陽気が滲んだ。「おう、いいぜ」と嬉しそうに頷いた。

きゅーん。

あ、友達なのに、ときめいちまった。

「ウサ吉、最近食欲なくてさ。でもアイツ、大好物のリンゴなら食うかも」

「ウサ吉もリンゴが大好きなんだ。福富くんといっしょだね」

「ああ」

「ウサ吉が食っているリンゴを物欲しげに見るんだぜ、寿一。すっげー面白いんだ、その時の顔」

そんなこんなで。わたしは、放課後、ウサ吉に会いに行くことになった。










「ウッサ吉、ウッサ吉、ウッサ吉〜」

即興で作り上げたウサ吉の歌を口ずさみながら、軽い足取りで向かう。隣の、わたしの頭ぐらいの高さにある肩が小さく揺れた。

「新開くんはよく笑うねえ」

「だって、堀田さんが面白いからさ」

「ふうーん」

まあ、面白いなら何より。わたしは笑わせるつもりはないのだけど、よく笑われる。依里ちゃんが言うに、わたしは少し人と歩調がずれているそうだ。

あ、歩調。

新開くんの方が、わたしより足が長いのに、全然大股で歩いていない。わたしの小さな歩幅に合わせている。自然に。ナチュラルに。

「堀田さん?」

上から、声が降ってきた。顔を上げると「どうしたの」と柔らかく微笑んでいる新開くんが。

「うちの弟にモテる技術を教えてやってくれない?」

「え、藪から棒にどうした」

「うちの弟中学一年生なんだけどね…わたしが言えることじゃないんだけどね…すごい勢いでモテなくてね…可哀想になってきて…」

「そういえば、堀田さん弟いるんだよなー。オレもいるんだよ、弟」

「えっ、そうなの。中学生?小学生」

「中三」

そんなふうに、とりとめのない会話をだらだらと交わしていると、ウサ吉の小屋が視界に入った。わあ〜、と歓声をあげながら、ウサ吉の小屋へ小走りで向かう。

小屋の中を覗き込んでみると、ウサ吉は目を閉じて寝ていた。おやまあ、おやすみタイムですか。遊びたかったのに…と、がっかりして、はあっとため息を吐いてから、怠け者めー、とウサ吉をじいーっと睨む。

じいっと睨む眼差しは、見ていくうちに、疑問の眼差しに変わった。

なんだか、ウサ吉、ぐたっとしてる…?

でも、勘違いかもしれない。こういうことはわたしよりも普段のウサ吉の様子を知っている新開くんに聞くべきだ、と判断したわたしは「新開くん」と緊張した面差しで呼んだ。

「ん?」

「ちょっと、こっちきて」

新開くんの腕を引っ張って、小屋の中を覗き込ませる。「おお、大胆」とからかう声が耳を掠めた。けど、新開くんを纏っている柔らかな空気は、ウサ吉の姿を見た瞬間に、固くなった。

「ねえ、なんかぐたっとしてない?」

「…ほんと、だな」

「最近、食欲ないんだよね、ウサ吉」

「…ああ」

わたしの質問に、新開くんは、かろうじて、ぼそぼそと返していく。顔から血の気が引いていっている。この感じ、前も見た。ウサ吉をどうした飼ったのか、と訊いたあの時と同じような脆さを感じる。

人差し指を口元に運び、わたしは思考を口にした。

「…こんなにぐたっとしていて食欲ないって、深刻だよね。ウサギって何か食べ続けていないと死んじゃうって聞いたことある」

ぴくっと、新開くんの体が大きく揺れた。わたしは新開くんに顔を向ける。

「全く食べないって訳じゃないんだよね?」

ウサ吉が最近食欲不振ということを言っていた時の新開くんは笑っていた。全く食べなかったのなら、もう少し思いつめた表情をしているだろう。そう思って、わたしはこう問い掛けた。

でも、新開くんは、ぱちぱちと瞬きをするだけ。ずうっと、乾いた目でウサ吉を見据えている。返事をする気配はみじんも感じられなかった。

「新開くん、とりあえず病院に、」

もう一度、呼びかける。新開くんは、まるでわたしがここにいないかのように、答えてくれない。

「―――新開くん!!」

痺れを切らしたわたしは、新開くんの頬を両手で挟んで、わたしに向けさせた。不安定に揺れていた瞳が、驚きに変わる。長い睫に縁取られた瞳に、眉をつりあげているわたしが映っていた。

「しっかりしなさい!!ウサ吉のお母さんでしょ!!」

そう怒鳴りつけると、大きな目がさらに大きく見開かれた。新開くんの頬から手を離して、すくっと立ち上がる。新開くんは呆然と、わたしを見上げていた。

「中に新聞紙を敷き詰めたキャリーバッグ持ってきて!ウサ吉そこに入れるから!!わたしはその間にここから一番近い動物病院調べて、タクシー呼んでおくから!!」

「…わかっ、た」

新開くんに厳しく言いつけて。追い立てて。タクシーを呼んで。動物病院に連れて行って。診察してもらって。

そして、今、またタクシーの中。わたしは腕を組みながらしみじみと言った。

「お母さんじゃなくて、お父さんだね」

新開くんは、男子だった。上から下まで、男子だった。流れでお母さんと言ってしまった。少しばかり、恥ずかしい。新開くんはずっと黙っている。ぼうっとどこを見ているかわからない瞳を窓の外に向けている。

大好きなウサ吉が弱っているのだから、あんなふうに動揺してしまうのは当たり前なのに。わたしは怒鳴りつけてしまった。しっかりしてほしかったのは間違いない本音だけど、わたしの存在を忘れてしまったかのような新開くんの振る舞いが悲しくて、怒りに転換させたのもあると思う。

「…ごめんね、新開くん。わたし、きつく言いすぎちゃったね」

ぺこり、と頭を下げる。すると、新開くんが横目でわたしを見てから、ふっと自嘲するような笑みを浮かべて、ふるふると首を左右に小さく振った。

「ああでも言われなかったら、オレずっと頭ん中真っ白なまんまだった。…堀田さんがいてくれて、マジでよかった。…ありがとな」

柔らかい微笑み。でもどこか少し寂しさが漂っていた。なんでだろう、と首を傾げるよりも前に、答えを新開くんが教えてくれた。

「なっさけねェな、マジで」

そう言ったあと、くしゃっと前髪を片手でつかみながら、自嘲を零した。

わたしは膝の上に置いている、ウサ吉が入ったキャリーバッグに視線を落とした。キャリーバッグの中のウサ吉はすやすや寝ている。点滴を打ってもらったら、だいぶ楽になったらしい。健やかな寝顔がそのことを物語っている。そっと、毛並にそって撫でてみたらウサ吉の眉間(?)に皺が寄ったような気がしたので、慌てて手を離した。

「…ウサ吉はしあわせだねえ。新開くんに、あんな情けない顔をさせるぐらい好かれてるんだから」

いつもの余裕綽々の微笑みはすっかり消え失せて、代わりに浮かんでいるのは切羽詰まった青白い顔。新開くんにあんな顔をさせられるのはウサ吉くらいなものだろう。罪な女だ。

「かっこいいし、優しいし、いい人だし、良かったねー。ウサ吉」

その言葉を聞いた新開くんは、「…いい人…?」と信じられなさそうに呟いた後、ははっと乾いた笑い声をあげた。そして、顔をわたしに向けた。無機質な光を宿した瞳が緩やかに細められる。

「オレが、ウサ吉の母親をひき殺したって言っても?」

肘を窓渕に置いて、頬杖をつきながら、そう言った。

車の中がシーン、と静まり返った。ラジオから流れてくる、この場に似つかわしくない甘ったるいラブソングが耳から耳を通り抜けていく。

「…うそ」

何秒かたって漏らした言葉は、とても陳腐なものだった。うそだって、思った。

「うそじゃないよ、本当のこと」

「だって、新開くん。優しいもん」

わたしが見たい映画でいいよって言ってくれた。

高いところにある本をとってくれた。

涎を垂らしながら見つめていたら、カニクリームパスタを一口くれた。

「本当。レースの最中、ひき殺した。ひいたってわかってたのに、急いで病院連れて行ったら助かったかもしれないのに、連れて行かなかった。勝ちたかったから。命より、勝利を選んだ」

新開くんは、淡々と、冷たい声色で述べていく。

「ウサ吉を飼うことにしたのも、罪悪感から。オレがウサ吉を飼ってる理由は罪滅ぼし。…なのに、今日また死なせるところだった。堀田さんがいなかったら、狼狽えて、病院に連れて行くことなんて思いつくことできなかった。…また殺すところだった」

くっと喉の奥で嘲り笑ってから、わたしに微笑みかけた。

「引いただろ?」

自信に満ち溢れた笑顔でも、飄々とした笑顔でもなかった。

今にも泣き出してしまいそうな、笑顔だった。

ごくっと唾を飲み込む。わたしは、真っ直ぐに、新開くんを見据えてから、口を開いて、真っ直ぐに、言った。

「引いた」

はっきりと。

新開くんは、そっと目を伏せてからふっと自嘲した。

『ひいてないよ』

『仕方ないよ』

そんな、思ってもいない言葉なんて言いたくなかった。取り繕った偽善の言葉なんて、その場しのぎのもの。今はなんとかしのげても、いつかはほころぶ。

「新開くん、」

わたしは、そんなかりそめで成り立つ関係を、新開くんと築きたくない。

優しくて、かっこよくて、よく笑って、のらりくらりと躱してばかりの新開くん。まだまだ知らないことばかりだ。そんな新開くんに、わたしは。

「アメリカの小説家、マーク・トウェインは言いました。『正しい友人というものは、あなたが間違っているときに味方してくれる者のこと。正しいときには誰だって味方をしてくれるのだから』と」

きちんと向き合って、きちんと言葉をぶつけて、誰よりも味方でいたい。

名言を声高々に引用したあと、にこっと笑いかけた。新開くんは「…え?」と間の抜けた声を漏らして、目を真ん丸にしている。

「引いたよ。なんて人だって思ったよ。新開くんがウサギをひいたことしか知らなかったら、新開くんのこと最低男子って思っていた。でも、さ」

ひい、ふう、みい、と指を折りながら、少ない思い出を数え上げていく。

「新開くんは、わたしに高いところにある本を取ってくれたでしょ。見たい映画、合わせてくれたでしょ。パスタくれたでしょ。ポッキーくれたでしょ。そうだ、自転車にも乗せてくれたでしょ。わたしの質問に嫌な顔しないで全部答えてくれるでしょ。歩幅合わせて歩いてくれるでしょ」

ほうら、と得意げに胸を張った。

「いいところ、たくさんあるよ。怖い顔で走るところとか、ウサギをひき殺したところは、正直ひく。けど、いいところもたくさんあるもん。ひいたけど、わたし、新開くんのこと好きだよ。福富くん達だって、そうだと思うし、それに、」

視線を再び、膝の上に戻した。すやすやと静かに気持ちよさそうに寝ているウサ吉を見てにっこりと笑いかける。

「ウサ吉だって、新開くんのこと大好きじゃん。ウサ吉ね、新開くんに撫でられてる時がいっちばん嬉しそうなんだよ」

今度は、新開くんに向かって笑いかけた。

新開くんは、ずっと、目を見開いている。厚ぼったい唇が、わずかに開いて、何か言おうとした。でも、何も言葉は出てこなくて、ゆっくりと閉じられた。

「っていうか、ちょっと嘘ついたでしょ、新開くん。ウサ吉のこと飼っているのは、罪滅ぼしからかもしれないけど、今の理由は違うでしょ」

腕を組んで、むすっとした表情を浮かべて、新開くんを軽く睨みつけた。

「大好きだから、いっしょにいるんでしょ?」

ウサ吉のことを、罪滅ぼしで飼っているのだとしたら。あんな、男前が台無しになるような情けない顔はしない。絶対だ。一億懸けてもいい。

新開くんは、また口を開いた。少しだけ開いた口から、震えた声で紡がれた。

「…うん」

たった一言。だけど、そこにはたくさんの戸惑いと、たくさんの愛情が詰まっていた。

心がぽかぽかと暖かい気持ちで包まれていく。わたしはウサ吉に「ちょっとごめんね」と起こさないために小さく声をかけながら、そっと膝から下ろした。新開くんの腕をやんわりと掴んで、半ば無理矢理頭を膝の上にのせた。

「…え?」

吃驚している声が、下から聞こえる。新鮮だ。いつも上から降ってくるから。

「今日は疲れたでしょー。ささ、寝ちゃえ寝ちゃえ。疲れた時は、寝るのが一番。ね、運転手さん」

「え、お、おじさんに話ふるのかい、お嬢ちゃん。おじさんは二人の世界に入らない方がいいかと思ってずっと黙ってたのに…」

「運転手さん、二人じゃないです。ウサ吉もいます。それに運転手さんのこと仲間外れにした覚えはないです。仲間外れは駄目です。いじめ、かっこわるい」

「…彼氏ー、彼女、いっつもこんなんなの?」

運転手さんは、呆れたような声で“彼氏”に問いかけた。はて、彼氏とは…。…え。もしや。

新開くんがははっといつものように笑った。

「そうなんです、いっつも、こんな感じ」

目元を腕で隠しながら、楽しそうに笑った。

か、彼氏…?いや、わたしって新開くんにフラれたよね…?ん…?はっ、あれかな?三人称みたいな感じかな?Heみたいな感じかな…?そ、それだ…!!危ない、勘違いするところだった…!

ふうっと額に滲んだ汗を腕で拭う。視線を何気なく新開くんに向けると、目が合った。ゆるり、と細められた瞳に、心臓がどきりと反応した。

「…んじゃ、お言葉に甘えて寝かせてもらうな」

そう言い残して、新開くんは大きな瞳を閉じた。伏せられた睫がとても長くて見入ってしまう。

もっと、ずっと、見ていたくなって。

「…運転手さん、新開くんがもっと気持ちよく眠れるように、ラジオのボリューム落としてくれませんか?」

運転手さんは優しい声で「はいはい」と言いながら、ボリュームを下げてくれた。ラジオから流れてくる透き通るような小さな歌声は、子守唄に打ってつけのようで新開くんは瞬く間にすやすやと寝息をたてはじめた。

ごろごろと動いている心臓がうるさい。新開くんの眠りを妨げてしまわないか、心配だ。





心音に触れるとき


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