はじめて恋をした記憶


澄みきった青空に点々と浮かぶのは鰯雲。ああ鰯。鰯が食べたい。真っ青な空の下、赤いトンボが二匹勢力を尽くしていた。

「幸子ちゃん幸子ちゃん」

幸子ちゃんの腕を引っ張る。「なに?」といつも通り穏やかに笑っている幸子ちゃん。わたしは二匹のトンボをさした。

「あのトンボたち、交尾してる〜!」

「…へ。わ、わー、ほんとだ…」

「子孫繁栄頑張れ〜!」

少し頬を赤らめて顔を俯ける幸子ちゃん。もう処女じゃないのに。自分だってああいうことしているのに。依里ちゃんに言わせると『カマトトぶっている』らしい。

「幸子ちゃんはカマトトだなあ」

依里ちゃんの口振りを真似て、うんうんと実感を込めて頷きながら言う。

「だ、だって、その、」

しゅう〜と頭から湯気が沸いている。なにやらごにょごにょ言っているが、面倒くさいので放置してうまい棒をもっさもっさと食べる。うまい棒はコーンポタージュに限る。

今日は幸子ちゃんといっしょに自転車競技部の追い出し会にきた。幸子ちゃんにいっしょに見に行かない?と誘われたのだ。追い出し会…!?新開くん達嫌われてんの!?とビックリしたら違う違うと笑って返された。ちょっと荒っぽいお別れ会のようなものらしい。よくわからないけど、卒業までに自転車漕いでいる友達を観たいし、了承した。

わたしの友達。新開くん。東堂くんとはあまり喋ったことないから友達なのかどうかよくわからない。荒北くんともあれ以来喋ってないから、多分友達じゃない。わたしの自転車競技部の友達は新開くんだけ。

「ここらへん、新開くんが走るって。東堂が言ってた〜」

「え、そうなんだー!わー!わー!」

心が浮き立つ。新開くんが来るまでに、うまい棒を食べ終わらねば。急いで食べたので喉に詰まった。幸子ちゃんが「だ、だいじょうぶ!?」と心配しながら、わたしにペットボトルのお茶を渡してくれた。お母さんみたい。優しい。好き。ありがとう、とたっぷり咽たあと受け取った。

周りに誰もいない。幸子ちゃんは東堂くんに特別に新開くんが走ると思われる場所を教えてもらったらしい。わたしのために。ありがたや、ありがたや。新開くんのファンクラブが目を血眼にして探した情報を知っているなんて…。ああ、自慢したーい!いいでしょ〜、って自慢したーい!

「幸子ちゃんは東堂くんにいつもの指さす奴やって〜っていうところに混ざらなくてよかったの?」

「わたしが言うと、東堂こけちゃうの」

「そう言えば、前そんなことあったって言っていたねえ。東堂くんは幸子ちゃんの前だとかっこ悪くなるよねえ〜」

「そ、それ東堂の前で言わないであげてね…。東堂かっこ悪いって言われるとほんとに落ち込むから…」

「ほ〜い」

適当なことを話しながら、二人でのんびりと待つ。秋特有の冷たさを孕んだ風がわたしの頬を撫でて髪をさらっていく。うーん、こんな日は焼き芋が食べたい。新開くん達はスポーツの秋なんだろうけど、わたしはやっぱり、食欲の秋。焼き芋、栗、サンマ、カボチャ…ふふ…ふふふ…。

「わ、美紀ちゃん涎出てるよ」

「え…?ぬ、おお、ほんとだ」

カーディガンで涎を拭く。また冷たい風が頬をさらっていく。すると、次の瞬間。打って変わったような熱風が、わたしの頬を殴るようにして触れた。風の方向に目を向ける。唸るような怒声が耳を刺す。疾風のような速さで駆けてくるのは二人の男子だった。豆粒のような大きさは、あっという間に距離を詰めて、わたしの前を通り過ぎた。

人を食ったような態度、穏やかな微笑みは消え失せていた。けど、あれは間違いなく。

「新開、くん…?」

目を点にして、ぽかーんと半開きにした口から、信じられないという声音が自然と滑り出た。







写真を撮り終えて、スポドリを飲む。ぐびぐびと喉を鳴らす。走ったあとのスポドリは格別にうまい。ぐ〜と腹が鳴った。なんか食いモンねェかな、とポケットに手を滑り込ませて、パワーバーを口にする。美味い美味い。

…なんか、視線を感じる。

じいーっと、後ろからオレを観察するような視線を感じた。振り向くと、堀田さんが壁の陰から隠れて、目を細めて珍獣を見るような眼つきでオレを凝視していた。その隣に、困ったように笑っている吉井さんもいた。

「おお、吉井、堀田さん。オレの走りはどうだった?と、聞きたいところだが、見れてないよな?」

「うん…。あんなすごいスピードで坂登るから、新開くんと泉田くんの見てからじゃ、流石に追い付けなかった」

「ワッハッハ、そうだろうな。まあまた見せてやる」

快活に笑っている尽八と、嬉しそうに頷く吉井さん。微笑ましい。目元を緩ませて二人を見守る。堀田さんは、その間もオレを凝視していた。視線を合わせると、ばちり、と静電気が流れたように、堀田さんは飛び跳ねた。

「堀田さん? どーした?」

首を傾げて、笑いかける。堀田さんは「うーん…」と顎に手を当てながら唸った。さてさて。今度は何を考えているのやら。面白くなってきて、堀田さんの前に立ってみた。堀田さんはその間も、穴があいてしまうのではないか、というほどオレを凝視していた。子供が何かを興味深そうに覗き込んでいるような瞳だ。

堀田さんはゆっくりと口を開いた。

「新開くんの走り、見たよ」

「マジ?」

「マジ」

堀田さんは淡々と言う。全然気づかなかった。ああ、そうか。見たのか。別段見られてやましいことなんて何もないけど。

過去の、苦くも甘くもない出来事が脳裏に浮かぶ。オレは所謂彼女いない歴イコール年齢というやつだ。自転車ばっか漕いでいたら、いつのまにかそうなっていた。けど、付き合う直前までいった子なら、結構いる。けど、新開くんの走っているところ見たいなあ〜、と甘えた口調で懇願されて、いいよ、と了承して。オレのあの顔で走っているところを見た女子達はみんな、似たような顔で、似たようなことを言った。

口の端を引きつらせて、無理矢理上げて、無理矢理作ったのがみえみえな可愛らしい声で、言った。

『すっごく、恰好良かったよ』

頑張って無理して褒めてくれていることがバレバレで。そう言われると、どんなにオレの好みのゆるふわな女子でも、気持ちがすうっと冷めていった。

女子にかっこいいって褒められたいからやっているわけでもないんだから、無理して褒めなくていいのに。

堀田さんを見下ろす。丸い瞳でパチパチと瞬かせて、オレをを凝視し、ほうほうと頷いている。…この子もそういうこと言うのだろうか。言ったら、興味が削がれそうだ。いや、間違いなく削がれる。せっかく面白い逸材、見つけたのになあ、と、諦めモードに突入していると。

堀田さんは、あっけらかんと、とんでもないことを言い放った。

「新開くんって、すっごい犯罪者顔で走るね!」

にっこりと、邪気のない笑顔で。

空気がピシッと氷が張ったように固まった。尽八、吉井さん、靖友、黒田、泉田がこちらをぎょっとした目で見ているのがわかる。見ていないのは寿一、葦木場、真波の天然だけ。「わ〜、トンボですよ〜」「ほんとだ〜」「秋だな」と言うのほほんとした声が耳に入ってくる。あいつ等はほんと、自転車のこと以外になると呑気だなあ。

「吃驚しちゃったよ!すっごいね!この顔見たら110番って顔で走るね!」

「え、えっと、堀田さん、あのだな」

「すげーな、あの女の先輩…今までオレがずっと思ってたことをあっさりと言いやがったぜ…」

「ユキ!!お前はそんな失礼なことをずっと思っていたのか!?」

尽八が冷や汗を額ににじませながら、オレと堀田さんの間に入ってくる。尽八は結構気遣い屋だ。黒田が泉田に叱られている声を背中で受け取る。

…あ、駄目だ。

堪えるために、顔を俯ける。

「すごかった〜!ほんとすごい変な顔だった〜!すごい!今年の節分の鬼役は新開くんで決まりだ〜!あのね、うちんちずっとお父さんがやっていたんだけど、お父さんが腰を痛めてね…、あ、でもあの顔で追いかけられたら怖いや。やっぱりいいや」

…ヤバイ。

体が震える。

「あ、あの、新開くん。違うの。美紀ちゃんは悪気はないの。ほんとにすごく素直な子ってだけで…」

「そ、そうだ、隼人。吉井が言うんだ。堀田さんは悪気はなくてだな、だからその」

「新開くんちって、みんなあんな凶悪面で走るの?荒北くんより怖い顔だった!」

「なんでオレまでディスられてんのォ?」

「ふふっ、自転車漕いでいる人って変な人ばっか〜!東堂くんも変なこと言うんだよね〜?自分で自分のことスリーピングビューティ…ふふっ、ふふ〜っ!変な人〜!!」

「なっ!?」

「あの人すごすぎんだろ、オレがずっと思ってたことを笑いながら…」

もう駄目だ。堪えきれねェ。

ぶーっと、勢いよく噴出して、体を九の字に折り曲げて大笑いした。

「堀田さん…っ、あは、あははははっ!!マジで、もう…!!」

変な顔って、凶悪面って、怖い顔って…!!

今まで、面と向かってきて、そう言ってきた奴は男女ともにいなかった。真剣に走っている人間に、そんなことを言うのは失礼だろう、というスポーツマンシップだろう。女子の場合は、『新開くんの走ってるところ、絶対かっこいい〜!』と言った手前、引っ込みがつかなくなったからだろうけど。

オレとしては、そんな気を遣ってもらうよりも、『お前が本気で走ってる顔マジやべーよな』とあっさりと言ってほしかった。

それを、苦楽を共にしたチームメイトでもなく、尽八にとっての吉井さんのような大好きな彼女にでもなく(そんな存在いないけど)、最近仲良くなりたての友達に言われるなんて。

「堀田さん、サイッコー、マジ、もう…!あはは、あはははは!!」

「は、隼人の笑いのツボがわからん…」

「…コイツも螺子飛んでんだヨ」

「ねえねえ東堂くん。スリーピングビューティって東堂くん以外誰が呼んでいるの?ねえねえ、ねえねえ、ねえねえ」

「美紀ちゃん、やめてあげ…」

「えー、幸子ちゃんだって笑ってるじゃん〜。だって自分のこと自分でスリーピングビューティって黒歴史そのものだよ〜」

「…ぷっ、あは、あはははは!!」

「吉井ーー!?」

「ご、ごめ、あは、あははははは!!」

「ユ、ユキ、笑うなよ…!」

「お前だって笑ってんじゃねーか…!」

「確かにそうですね〜、オレ、東堂さんが山神とか森の忍者って呼ばれているのは聞いたことあるけど、スリーピングビューティって呼ばれてるのは聞いたことないや〜」

「葦木場やめろ、マジでやめろ、オレ、東堂さんのこと、そんけ…ぶっ、あっはっはっはっはっ!!」

「く、黒田、お前まで!?」

「すみま、せ、あ、あはははは!!」

げらげらと腹を抱えて笑っている黒田を、尽八が信じられない目で凝視している。吉井さんも手を口に当てながら、必死で笑いを噛み殺そうとしている。笑いすぎて思考が追い付かない。靖友が気の毒そうな目で尽八を見ていることだけが、かろうじてわかった。

堀田さんは言いたいことを言えてすっきりしたのか、うーんと手を伸ばした。この空のように、晴れやかな笑顔だ。大分笑いが引いて、やっと体を真っ直ぐ背筋を伸ばせるようになった。堀田さんが、オレの顔を覗き込んでから、大きく笑った。

「また、レース見せてね!あの変な怖い顔、もう一回見たい!」

隠そうともせず、直球で失礼な言葉をぶつけてくる堀田さんが面白すぎて、ぶっと笑ってから、オレは涙を人差し指で拭いながら、言った。

「オッケー、今度走るとき、呼ぶよ。…ぶっ」

まだ笑いが少し残っていて、またしてもオレは、体を曲げて、ひいひいと笑い始めたのだった。




世界は空回りしか知らない


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