はじめて恋をした記憶


体温計は35.8℃を表示していた。なあんだ、熱じゃなかったのか。風邪じゃなかったのか。これなら、病院に行かなくていいや。ぼさっと、ベッドに仰向けになったあと、ごろんと寝返りを打つ。

…新開くんの好きな子って誰なんだろう。

友達の好きな人って、気になる。だから、新開くんの好きな子も気になった。でも、知るのは怖くて仕方なくて、聞けなかった。

ボケてる子、かあ。

新開くんの周りのボケてる子、ボケてる子…。新開くんのクラスの子かなあ。

天井を見ながら、思いを巡らす。“新開くんの好きな子”というキーワードが頭の中をぐるぐる廻る。

そういえば、新開くんって。

まだ、わたしが新開くんのことを知らなかった時のこと。東堂くんと、幸子ちゃんが付き合い始めたころだった。なにやら、東堂くんが慌てていて、幸子ちゃんがほんのり顔を赤くしていて、あの時傍にいたイケメン。あれ、新開くんだ。思い出した。そう、新開くんが楽しげで。おお、イケメンに囲まれてますなあ、って、わたしはぼんやりと眺めていた。

そう、確か、あの時新開くんは幸子ちゃんのこと、好みのタイプって言っていた。

おっとりした子が好きって。

おっとりしていて、ボケてる。二つの点と点が結びついて、閃いた。目を見開いてしまう。わかってしまった。

新開くんの、好きな子って。



「『此方でいくら思っても、向うが内心他の人に愛の眼を注いでいるならば、私はそんな女と一所になるのは厭なのです』」

夏目漱石のこころを音読をしている幸子ちゃんの背中をじいーっと見つめた。吉井さん、と指された時、またぼうっとしていて、怒られていた。わたしなんて漫画を読んでいても、耳はきちんと授業を聞いているから、いつ当てられても平気なのに。でも、そういう計算高くないところが、東堂くんとか新開くんは好ましく思ったのだろう。わたしもそういうところが好きだし。

ノートに関係図をだらだらと書く。先生が東堂くん。Kが新開くん。お嬢さんが幸子ちゃん。これだ。これに違いない。わたし、は。…『私』だろうなあ。三人の関係に入れない、部外者。後から話を知る人。

新開くんも、自分がどれだけ想っていても、幸子ちゃんが想ってくれないなら…と思ったのだろう。でも、新開くんは先生と違って、アタックするのではなくて、身を引いた。優しいもんなあ。オレが身を引くことで二人が幸せになれるなら…、と、涙を引っ込めて、身を引いたんだ。

ぎゅうっと心臓が雑巾絞りされたみたいに、痛む。わたしは、友達の悲しみをダイレクトに感じられる優しい人間だったようだ。そんな自分を誇らしく思いたいのに、悲しい気持ちで胸がいっぱいになる。また視界がぼやけてきた。ゴシゴシと拳で擦って、視界をクリアーにする。

東堂くんのこと、好きだ。いい人だって思う。
幸子ちゃんはもちろん大好き。いつでもわたしに優しい。お菓子もくれる。
いつまでも、二人で仲良くしてほしい。

でも。それだと。新開くんは?
わたしの大好きな新開くんの想いは、どこにやればいいの。
目が『好きだ』って言っていた。想いが瞳に溢れるほど、幸子ちゃんのこと好きだって思っているのに。

悲しい気持ちを隠して、無理して笑っている新開くん。

…嫌だ。そんなの。

ぎゅうっとシャーペンを強く握りしめる。同情なんていう生易しい想いではない、身を切るような熱い感情が、溢れ出してくる。

新開くんが悲しい気持ちでいるなんて、そんなの、“わたし”が、嫌だ。

よし、と小さく頷いてから、ノートに計画を書いていく。

「『つまり私は極めて高尚な愛の理論家だったのです。同時に尤も迂遠な愛の実際家だったのです』」

ゆっくりと物語を読み上げていく、小さくて可愛らしい声が、やけに大きく耳に残った。


寝てる振りをして、機会を虎視眈々とうかがった。さながら草食動物を狩る肉食動物のように。そういえば、依里ちゃんにも『会った日に告白!?美紀ちゃん肉食女子だね!?』と驚かれたなあ。

「尽八ー、数学の教科書、頼む」

…きた!!

カッと目を開きたくなるのを必死にこらえる。これは間違いない。新開くんの声。新開くんの声は絶対に聞き間違えない。確固たる自信が胸の中にあった。

「おう。…隼人、最近忘れ物多すぎやしないか?」

「たまたまだよ」

「…へえ」

「…あれ、堀田さん寝てんの?」

わたしの名前が飛び出できて、心臓が少し跳ね上がる。今、新開くんに見られてるんだ。どくんどくんと鼓動が大きくなる。

「ああ、そうだな。あれは…寝てるな。堀田さんに用事か?」

「や、別に」

わたしの話題はいいから。はやく、はやく。
焦る気持ちを抑えつけて、機会をうかがう。

わたしの話をしないで。わたしを見ないで。心臓がうるさくなるから。

「わ、新開くんだ」

「おー、吉井さん」

…きた!!

楽しげに言葉を交わす二人の声が耳に入ってくる。何故か、少し心臓が軋んだ。それを取っ払うかのように、わたしは勢いよく立ち上がった。つかつかと三人に近づく。新開くんが、真っ先にわたしに気付いた。

視線が重なったのに、気付かない振りをして、わたしは彼の名前を呼んだ。

「東堂くん!」

東堂くんは突然そこそこ大きな声で呼ばれて、驚きで目を見開いた。

「な、なんだ?」

「ちょっと、しゃがんでくれない?」

「…こうか?」

怪訝な表情を浮かべながら、わたしに視線を合わせてくれる東堂くん。おお、綺麗な顔立ちがすぐそこに。眼福眼福、と手を合わせてから、そっと頭に手を伸ばして、カチューシャを奪い取った。

「…え」

「…へ」

ぽかんと口を開ける新開くんと幸子ちゃん。その中でも、東堂くんが一番驚いていた。声も出せていない。はらり、と落ちた長い前髪が、綺麗な顔立ちを覆った。手持無沙汰のカチューシャを装着してから、わたしは東堂くんに指を突き付けた。

「カチューシャ、取り返したいなら、わたしを捕まえて」

「…は?」

「はい、よーいどん!おーにさんこちら!ここまでおいで!!」

わー、と叫びながら、教室を出て、走っていく。「堀田さーん!?」と大きくわたしを呼ぶ東堂くんの声が背中に響いた。

別れろ、なんて言わないし思えない。

でも、少しだけでもいいから、新開くんに、好きな子と二人っきりの時間をあげたい。

好きな子と二人っきりで話す時間って、すごく大切なものだと思うから。

きちんと恋愛をしたことないのに、その大切さをわたしは知っているような気がする。

…変なの。

はあはあという荒い息切れが、誰もいない廊下に響く。このあたりは昼休みはいつも静かだ。壁に背を預けて、息切れをする。

東堂くん、今どこらへんなんだろう。東堂くんと鬼ごっこか。東堂ファンクラブの女子から、羨ましい!!と羨望の眼差しを受けること間違いなしだなあ。

「おーにさん、こーちら。こーこまでおーいで」

小さく口ずさむ。すると、足音が聞こえた。お、東堂くんかな。しばらくここで東堂くんと会話をして、新開くんと幸子ちゃんを二人っきりにしてあげよう。そうしたら、きっと新開くんすごく喜ぶ。

楽しそうに、幸子ちゃんと話している新開くんを思い描く。
大好きな友達が、二人とも楽しそうなのに。

どうして、こんなに苦しいんだろう。

ぎゅうっと胸の奥がまた痛んで、胸元のセーターを握り締めると、名前を呼ばれた。

深く、落ち着きのある声で。

「堀田さん、結構はえーな」

よ、と手を挙げている新開くんの姿があった。どくん、と心臓が動いている間に、どんどん距離を詰められて、あっという間に、すぐそこに新開くんがきた。

「な、なんで、新開くんが」

「オレが取りかえしてくるって、尽八に言った」

「え…!?」

パクパクと口を動かすことしかできない。なんなの。新開くんって、馬鹿なの?せっかくわたしが作ってあげたチャンスなのに。思わず頭を抱える。すると、暖かい温度が、頭に触れた。

え、と顔を上げると、真剣な顔をしている新開くんが、わたしの頭を触っていた。そのことを意識した瞬間、熱が全身を駆け巡って、痺れて、身動きがとれなくなった。指が、カチューシャをつまんで、するっと抜き取った。

「…没収」

茶目っ気たっぷりに、そう言ったあと、にこりと笑いかけられた。それだけで、へなへなと足から崩れ落ちそうになる。

友達の恋は、応援したい。それが、許されない恋だとしても。
大好きだから。大切だから。だから、新開くんの恋も応援したい。

なのに。応援したいのに。だから計画が失敗したことをもっと悲しがらなくちゃいけないのに。

どうしてどうしてどうして。

「堀田さん、昼休み終わる。もどろ」

どうして。
東堂くんじゃなくて、新開くんが来てくれたことが、こんなに嬉しいんだろう。

「う、ん」

いつからこんなに性格が悪くなったんだろう。からからに渇いた口で、やっとの思いで言葉を返す。

『とにかく恋は罪悪ですよ』

何故か、こころの先生の言葉が、脳を駆けた。




わたしの想いが足手纏い




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