はじめて恋をした記憶


「堀田さん」

「あ、はい」

「次、読んでくれる?」

「わかりましたー」

教科書を盾にして読んでいた漫画をそっと机の中へ忍び込ませてから、立ち上がり、わたしは音読を始めた。


「美紀ちゃん、現文の時何の漫画読んでたの?」

「オオカミ少女と黒王子」

「いいなー。貸して」

「あー、ごめん。もうちょっと待って。今勉強中だから」

「勉強中?」

お弁当をお箸でつついていた依里ちゃんが怪訝そうに首を傾げる。わたしは力強く頷いた。

「恋愛の勉強だよ。恋愛とはね、依里ちゃん。犬になれ、って言われることから始まるんだよ」

「絶対に違う」

「佐田くんとエリカはそうやって始まったじゃん」

「そこはめちゃくちゃ珍しいケース」

力説するが否や、力強く否定された。わかってないなあ、と指を三度振る。

「あのね、依里ちゃん。恋愛とは最悪な出会いから始まるものなんだよ。わー、遅刻だ遅刻だ〜!と走ってたらイケメンにぶつかって『どこ見てんだよこのブス!!』って言われて『なっ、なによアイツ…!!』とぷんぷん怒ってたら、そのイケメンが転校生で…という始まりから、恋は始まるんだよ。ね、幸子ちゃんも東堂くんとそういう出会いだったんでしょ?」

「い、いや〜、一年生の時に普通にクラスがいっしょで…って感じだけど」

「えっ、ブスって言われなかった?」

「え、えええ」

「東堂くんが言う訳ないでしょ…」

「え、二人とも、初対面でチューされなかったの?」

「さ、されてないよ」

「初対面でチューされたら吃驚だよ。変質者として警察署に突き出すよ」

「未来の彼氏でも?」

「わたしは初対面でチューしてくるような奴を彼氏にしません。あと別に最悪な出会いでもなかったよ。普通に塾で知り合ったよ」

依里ちゃんはきっぱりと言い切った。ドラマチックな出会いをしていないのに恋愛をしている珍しいケースだ。恋愛とは最悪な出会いから始まるもの、と様々な漫画を読んでわかった。裏の顔を見てしまったりいじめられたり…だいっきらいなアイツ!でも、この胸の鼓動は…何…!?これだよ、これ。うんうん。

新開くんのこと、だいっきらいなんて思ったこと一回もない。だから、わたしは新開くんのことを本当に好きじゃないんだろうなあ、とぼんやりと思う。

大嫌い、どころか。

あの日、日が暮れていたのに、新開くんは来てくれた。涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃのわたしを見て、ははっと笑ったあと、ぽんぽんと頭を撫でてくれて、送ってくれた。すごく、嬉しかった。

いいことなんてなにも言えない、なんて言っていたけど。どんな偉い人の言葉よりも、新開くんの言葉は、わたしの心を震えさせた。

そういや、新開くんも、恋愛がよくわからない、と言っていた。

…よし!

「ちょっと、新開くんと話してくる」

二人に断ってから、席を立つ。「…なんかこんなの幸子ちゃんの時もあったような…」「へ、わたしの時?」「もおお…ほんと…またまどろっこしく…」背後で二人が何やら話していたとか、そうじゃないとか。

新開くんの教室に入って、きょろきょろと辺りを見渡す。すると、ぽんと肩を叩かれた。

「堀田さん、どーした?」

微笑まれただけで、きゅうと胸が締め付けられる。イケメンってすごい。初めて会った時もきゅーんとなった。

いや、でも、初めて会った時とは、違う。

初めて会った時は、締め付けられはしなかった。きゅーん、と胸が高鳴って。舞い上がって。

じゃあ、今は、一体。

「…堀田さん、どうした?」

東堂くんに呼びかけられて、はっと我に返る。なんでもないです、という意味を込めて首をぶんぶんと左右に振ってから、口を開いた。

「新開くんさ、前、オレも恋愛のことよくわかんないって言ってたよね?」

「…あー言ったなあ」

首の裏に手を当てながら、“そんなこともあったなあ”と懐かしむような表情を浮かべる新開くん。

「あのね、二人で勉強しない?」

「勉強?」

首を傾げる新開くんに、背中に隠していたものを見せた。恋愛映画のDVDだ。新開くんがぱちぱちと目を瞬かせる。

「わたし、偉そうなことを言っておきながら、恋愛のことよくわかってないから、あんな大参事を引き起こしたんだよね。で、新開くんもわかってない。と、いうわけで、二人で恋愛の勉強をしよう。新開くん、今日暇?」

「暇、だけど」

「新開くんの部屋ってDVD観れる?」

「観れる…って、え」

新開くんが目を大きく見開くのと同時に、わたしはぱあっと顔を輝かせた。

「じゃあ、お菓子持って、お邪魔するね!」

「え」

「ばいばーい!またねー!」

くるっと背を向けて、小走りで自分の教室に戻っていく。呆然とした眼差しが、わたしの背中を見続けていたとか、そうでないとか。



というわけで。今、新開くんの部屋にわたしはいる。

「あんなに仲悪かったのに、最終的にはあんなちゅっちゅっして…すごかったね〜!」

両腕をくんで、うんうんと感慨深く頷く。映画は終わって、エンドロールが流れている。新開くんは「そーだな…」と乾いた笑い声をあげた。わたしはラブシーンを食い入るように観たんだけど、新開くんは気まずそうに部屋の隅っこに視線を遣っていた。けど、ラブシーンを見て、すっかり興奮しきっているわたしは気付かなくて、鼻息荒く語った。

「ほんと、すごかった〜」

ほう、と感嘆の息を吐く。クッションを両腕で抱え込みながら、ずるずると背中をベッドの脚立から床に移動させて、足を折り曲げて、ごろんと寝転がる。

天井を見上げると、眩しくて、目を細める。光を遮断するように、腕で目元を隠した。

「最悪な出会いかー。したことないなあ。新開くんとは、友達の紹介で普通に知り合ったしねえ。そりゃあ、恋にならないよねえ」

しみじみと、実感を込めて言う。新開くんは何も言わない。カチ、カチ、と時計の針が進んでいく音が聞こえる。

新開くんは、わたしのこと、最初、好きでも嫌いでもなかったのだろう。無関心、という好意から一番遠くかけ離れたもの。わたしの何かが、何かはわからないけど、何かが新開くんのツボに入って、それでようやく興味を持たれたのだろう。

恋に、なるはずがない。
だから、新開くんもいとも簡単にあっさりとわたしを振ったのだろう。

すとんと、胸にそんな考えが落ちてきて、パズルのピースのように当てはまった。

胸の奥が、ぎゅうと痛む。

…ん?痛い…?と、首を傾げていると「あのさ」と言葉をかけられた。

「その体勢、だめだろ」

腕を退けて、新開くんを見る。わたしから、頬を背けていた。まるで、見ないようにしているみたいだ。ああ、下品だからやめろということか、と納得して、きちんと座る。きちんと、と言っても、正座ではない。正座を若干崩したような、膝から先を腿より外に開いて、床をお尻につけている、女子にしかできない座り方をする。

「やー、つい寛いじゃってね。ごめんごめん」

軽く笑いながら謝る。けど。新開くんは、顔をわたしに向けて、厳しい眼差しで射抜いた。

「男の部屋に上がり込んで、寝転がるとか、堀田さん、危機感なさすぎだろ」

険のある声で言う。若干、苛立っているようだ。なんで苛々しているんだろう?と首を傾げる。それにしてもこの物言い。わたしが危機感なしの馬鹿だとでも言いたげだ。や、実際馬鹿なんだけど。だから、むっとして、唇を尖らせた。

「新開くん。そりゃね、わたしだって、この前のことで懲りたから、危機感持ってるよ。他の男の子の部屋だったら、寝転がったりしないよ」

新開くんの目が、少しだけ大きく見開かれた。わたしは滔々と語る。

「だって、新開くん、わたしのこと“そういう対象で見れない”って振ったじゃん。だから、こうやって、安心快適楽々に、部屋に上がり込ませてもらってるんだよー」

ね!と、得意げに胸を張る。

張って、張ったあと、よくわからない寂しさが、胸を襲う。

そういう対象で見れない、と振られたのはもうだいぶ前のことなのに。
今更、鮮明にあの時のことを思い出すなんて。

少し、視線を落として、ベッドの脚立に背中を預ける。すると、影が落ちて、声が降ってきた。

「堀田さんって、何もかも、ずっと、同じまんまだって思ってる?」

そっと、わたしの腕のすぐ傍に片手が置かれた。ベッドの脚立と、新開くんの片腕の中に囲まれる。ゆっくりと、視線を上げると、真剣な表情の新開くんが、わたしを真っ直ぐに見ていた。

「会ってから、ずっと、同じ気持ちのまんまって、思ってる?」

じいっと、わたしを見てくる瞳は、苛立ちと渇望と焦燥を宿していた。新開くんの瞳が、言葉が、麻酔のように、体を駆け巡る。

ぱちぱち、と瞬きをすることと、空気を吸うことしかできない。

すう、と小さく呼吸をした時。

トントン、とドアが叩かれた。

「隼人、オレの電子辞書、お前のところにないか?」

ゆっくりと、新開くんがドアに視線を滑らした後、東堂くんの声が聞こえた。

「ああ、あるよ」

落ち着いた動作で立ち上がって、机の上の電子辞書を掴んで、ドアを開ける。東堂くんが「あー、やっぱり、お前のところにあったか」と安心したように笑った後、わたしの存在に気付いて「え」と小さく声を漏らした。新開くんは、首だけをわたしに向けて、いつものように笑いかけてくれた。

「もうそろそろ、遅いし、帰った方がいいよ、堀田さん」

「…あ〜、うん。そうだね。帰る」

「送ってく」

「いやいや、いいよ。バス停、すぐそこだし。じゃあね」

鞄の取っ手を掴んで、新開くんの横を通り過ぎる直前「新開くん、東堂くん、バイバイ」と手を振って、足早に出ていった。人に気付かれないように、こっそりと、かつ、俊敏に、寮を後にした。

ばくばくと鳴っている心臓。近かった。すごく、近かった。

ああ、そうか。イケメンだからだ。

新開くんがイケメンだから、ドキドキしているんだ。そうだ。

両手で頬を包み込む。熱を帯びた頬は、肌寒い秋の夜を歩くにはちょうど良い体温だった。




息継ぎなしで丸かじり


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