はじめて恋をした記憶


お風呂から上がって、化粧水をつけおわったあと、わたしは「うーむ」と唸りながら、鏡に映っている難しい顔のわたし自身を睨んだ。

ブサイク、というわけではない。うむ。けど、美少女!とは言えない。あ、おでこにニキビが。アクネスを塗ろう。引き出しからアクネスを取り出して、ニキビに塗り込みながら、自分の顔をまじまじと穴があくほど観察する。子供っぽい顔つきだ。締まりもない。悲観して言っているわけではない。わたしはどちらかというとポジティブ寄りだ。ありのままの現実を受け止めている。

新開くんは、大人っぽくて、格好いい。廊下を歩いていたら、どのクラスの女子かわからないけど『新開くんってかっこいいよね〜!』『落ち着いてるしね〜!』と、きゃっきゃっと盛り上がっていた。そして、次に、こうも言っていた。

『最近、なんだっけ、堀田…さん?って子の面倒も見てるっぽくてさ〜。いいよね〜』

『あ〜、見る見る。なんかお兄ちゃんと妹って感じで微笑ましいよね〜』

わたしの最新の友達の新開くんはかっこよくて落ち着いている。わたしは平凡でアホっぽいオーラを放っていて落ち着きの欠片もない。うん、お兄ちゃんと妹に見えなくもない。顔立ちの格差はあるけど。

…でも。

「お兄ちゃんと妹じゃないし…。友達だし…」

鏡に映ったわたしは、面白くなさそうに唇を尖らせて、眉間に皺を寄せていた。少し膨れていた頬の空気を押し出す為に、顔を挟む。ぷう、という風船の破裂音のような音が唇から漏れた。

好きな人ができたら。彼氏ができたら。
わたしも、可愛くなれるかもしれない。大人っぽくなれるかもしれない。

そして。お兄ちゃんと妹みたいだよね、なんて思われなくなるかもしれない。

頬を両手で挟んだ間抜け面で、もんもんと思いを巡らせる。両手を頬から離したあと、拳に変えた。強く、握りしめる。

好きな人兼彼氏を、早急に作らねば…!!

強く誓うように、大きく頷いた。



強く誓った次の日。わたしはひとりで街にきていた。数少ない友達は、みんな用事やら受験勉強で忙しかった。わたしは専門学校なので、受験勉強をする必要はなく、今、ものすごく暇を持て余している。だから彼氏が欲しいってのもあるんだろうなあ。暇だもん。彼氏いたらデートとかで時間潰せそう。っていうか、潰していた。中学時代、あの彼氏なのかなんのかよくわからない男子と。

ベンチに座って、たい焼きを頬張りながら、元カレ(多分)との思い出を掘り起こしていく。わたしの元カレ、谷口くん。サッカー部で、そこそこモテていた。そこそこモテている男子に告白されて、嬉しくなって、『いいとも〜!』とオッケーしたあの日。

懐かしいなあ…。今何しているんだろう…。

もっさもっさと、たい焼きを頬張りながら、ノスタルジックな思いに浸っていると、肩をとんとんと叩かれた。また宗教勧誘かなあ、と振り向くと、そこには谷口くんがいた。わあ、と吃驚して目を見開く。

「やっぱり堀田だった。久しぶり」

「おおー!久しぶりー!」

久しぶりに見る谷口くんは背が伸びていた。少し、大人っぽくなっていた。あらあら、すっかり大きくなっちゃって…と親戚のおばさんのような心境になる。

「一人でたい焼き食ってたの?」

「うん」

「相変わらずよく食うな、お前」

谷口くんは笑いながら、すっと自然な動作でわたしの隣に腰を下ろす。

「久しぶりだねー。音信不通になって…二年目?」

「なんか自然に連絡取り合わなくなったよな、オレら。堀田って箱学だったよな、確かチャリが速いところ」

「そうそう。チャリが速い。すごい。そんで面白い人が多い」

「へー」

そうやって、とりとめのない会話を繰り広げている間に、たい焼きを食べ終わった。まだ足りない。お腹がすいた…と悲しげに呟くと、苦笑されてから「なんか食いに行く?」と訊かれた。ぐう、と鳴る腹の虫。いく、と即答して、わたしは立ち上がった。

元カレで、同い年の男子と、なんか食べに行く。おお、デートみたいだ。

口の中にまだ残っているたい焼きの味を舌で堪能する。これは美味しい。新開くんはたい焼き好きなのかなー、好きだったらお勧めしよう、なんて、ぼんやりと考えた。


すっかり日が暮れて。もうそろそろ帰るねー、と言うと。

「あの、さ」

と、言い辛そうに呼び止められた。ん?と首を傾げて、谷口くんが何か言うのを待つ。谷口くんは少しの間逡巡したあと、意を決したように、言った。

「ヨリ、戻さない?」

ヨリを戻す。

ほうほう。

ほうほう。

…ん?

ヨリを戻す、という言葉の意味を、ゆっくりと咀嚼する。ヨリを戻すということは、もう一度、谷口くんが、わたしの彼氏になるということ。

目を丸くして、谷口くんを見る。目を泳がせたあと、谷口くんもわたしを見た。

今、わたしが一番欲しいもの。それは彼氏だ。前は、楽しそうだったから、という理由で欲しかったけど。日々を過ごしていくうちに、理由が変わった。彼氏ができたら、可愛くなれるから。大人っぽくなれるから。そうしたら、新開くんの隣にいても、妹みたいなんて言われなくなるだろうから。

なので。

「うん、じゃあ、ヨリを戻そう!」

意気揚々と、二つ返事でオッケーした。谷口くんの顔がぱあっと明るくなって「マジで!?」と弾んだ声で言う。マジでマジでーと、笑って頷く。

「よかったー、クリスマスに彼女いないの嫌だったからさー、あー、よかった!」

ほっとしたように胸を撫で下ろしている谷口くんを見て、ほうほう、なるほど、と頷く。確かに、付き合っている状態で、クリスマスを過ごすのは楽しそうだ。わたしはチキンとケーキが食べられれば文句ない。

「よし、じゃあね」

くるっと背を向けて、帰ろうとすると、「あ、待って」と、声をかけられた。振り向くと、「もうちょっと、一緒にいない?」と頼まれた。腕時計を確認すると、まだ門限は迫っていなかった。めんどっちいなあ、と横着な気持ちが起こるけど、彼氏と彼女というものは二人の時間を大切にするらしいから、「わかったあ」と頷いた。

谷口くんが行きたいところがある、と言うので、わたしは「はいはい」と頷きながら、ついていった。夜が深くなっていく。落ちた葉っぱを踏んでいくと、ざくざくと良い音が鳴る。わたし、この音好きなんだよねえ、と言ったら、ふうんとどうでもよさそうに返された。新開くんはこの音好きかなあ、とぼんやりと考える。おお、綺麗な月だ。促されて、ベンチに座る。わたしは月を見上げたまま。新開くんとデートした時も、綺麗な月だった。舞い上がったわたしは、勢いのまま告白して、あっさりとフラれた。そういう対象では見られない、と。

妹みたいで子供っぽい、からかな。

胸がちくりと痛んだ。ん?と首を傾げる。

まあ、いっか。

せっかくだし、何か話そうと思って、わたしは月に関するうんちくを得意げに話し始めた。

「谷口くん。月の模様ってね、ウサギが餅をついてるように見えるらしいよ。だから、ウサギが月で餅をついてるなんて話ができたんだって」

「ふーん」

「わたし、中三までウサギは宇宙服を着て、餅をついてるんだろうなって思って、」

「堀田」

乱入してきた真剣な声によって話の腰を折られた。声と同様の真剣な瞳がわたしを捕えるように、じいっと見る。ゆっくりと、口が開かれた。

「キス、しよ」

…。

……。

………。

…へ…?

谷口くんの言っている意味がわからなくて、目が点になってしまった。盛大な間抜け面を披露していることだろう。え、えーっと、キス。つまり、チュー。ネズミ。ミッキー。じゃなくて。

…ええっと…。

「…そういうのは、まだ、はやくない?」

嫌だ、と思った。けど、彼氏と彼女はチューとかをするもの。否定はしたらいけない、と思って、やんわりと断る。嫌だ、と思ったのは、うん、まだそういう段階じゃないからだ。一週間…いや、一か月…いや、一年…一年くらい経ったらいけるようになる、はず。言い訳するようにそう思って、やんわりと拒絶した。瞬間、谷口くんの眉間に僅かに皺が寄る。

「わたし、面白い話知ってるから、その話しよ。あのね、アンパンマンの中身のあんこはこしあんじゃなくてつぶあんなんだけどね、なんでかっていうと、」

「そんなんどうでもいいって」

険のある声が、覆いかぶさってきた。ハァッと重くため息を吐いている。あ、苛々している。苛々、させちゃった。

わたしはよく、人を無自覚に苛立たせてしまう。どうでもいい話を長々とするから、らしい。ハイハイと適当に受け流しているように見えて、きちんと聞いてくれる依里ちゃんや、ええ、そうなんだあと驚いてくれる幸子ちゃんは稀有なケースだ。

落ち葉の踏む音が好き、とか、月の模様がウサギが餅をついている姿に見える、とか、アンパンマンの中身とか、わたし以外の人にとっては、どうだっていいこと。

…ああ、でも。

新開くんは、楽しそうに聞いてくれたなあ。

楽しそうに笑っている新開くんの顔が、頭に浮かんだ時、掌の感触を耳が覚えた。包み込まれて、顔を持ち上げられる。谷口くんと目が合った。

え、あ、これ。

だんだんと縮められる距離。ぞわっと背筋に悪寒が走って、気が付いたら。

「やだ!!」

勝手に、そんなことを口走っていて、両手で谷口くんの胸板をどんっと押してしまった。はっと我に返ると、茫然とした表情でわたしを見ている谷口くん。ごめん、と謝るよりも前に、谷口くんの顔が怒りで歪んで、ハァーッと重苦しいため息を吐いたあと「帰る」と吐き捨てるように短く言った。

わたしに背を向けて、一歩足を踏み出した後、顔だけをわたしに向けて「付き合うの、無しな」と、機械的に言い放った。

「あ…う、ん」

言いつけられた子供のように、こくりと首を縦に動かすわたしを、谷口くんは嘲笑った。

「お前さ、付き合うって何、ママゴトとでも思ってんの?」

「…楽しい事って、思ってるよ」

「楽しい事って? まさか、あんなくだらない話をオレに延々と聞かせるつもりだったってわけ?」

カァッと羞恥で顔に熱が集まる。その通りだった。ああいうことを話して、そうなんだ、って頷いたり、笑い合ったり、そういうことをしたかった。けど、谷口くんの嘲笑でそれがどれだけ“お子様”な考えだったのか、ようやく思い知った。

「…高校生になったことだし、ちょっとはマシになったかって思ったけど。やっぱ、お前と付き合うの、無理だわ。一日中意味わかんねえくだらねえつまんねえ話ばっかしてくるし」

そう言い捨てて、谷口くんは、踵を返した。どんどん足音が遠ざかっていく。ぽつん、と公園に一人取り残された。ぼんやりと首を上げると、綺麗な月がわたしを見下ろしていた。そのまま、ぼんやりと過ごす。

…新開くんの声が聞きたい。

何故だか、わからない。けど、ふと、そんな考えが舞い降りてきた。ケータイを取り出して、新開くんに電話をかける。少し経ってから「…堀田さん?」と、いつもと同じ新開くんの声が聞こえてきた。

いつもと同じ。
いつもと同じの、暖かくて、深い落ち着きのある声。

「堀田、さん?」

聞いていると、安心して、安心しすぎて。

「…ぐすっ」

安心しすぎて、泣いてしまう。

ぴんと張りつめていた糸が緩むように、涙腺が壊れた。一滴、涙が落ちると、どんどんあふれ出てきて、「うええ」と、わたしは呻くように泣き始めた。「

「…え、堀田さん?泣いてる?」

「うう、うええ、うえええ」

「…泣いてるな」

「うう、うう〜、ぐすっ、うえっ」

「堀田さん、ちょっと、深呼吸」

言われた通り、深呼吸する。すう、はあ、と息を吸って、吐いて、必死で呼吸を整えながら、丸めた拳で涙を拭う。

「…話せる?」

優しく、諭すように問いかけられる。電話だから見えないのに、わたしはこくっと頷いた。

「今日、元カレと会って、ちょっと遊んで、告白されたの」

「…」

「で、フラれた」

「…え?」

「キス、されそうになって、嫌だから、突き飛ばしたら、フラれた。わたしが話すこと、つまんなくてくだらないって。お子様だって」

「…」

新開くんは何も言わない。呆れて、口も塞がらないのかもしれない。それが、当然のこと。彼氏にキスされかけて、嫌がって突き飛ばすなんて。意味がわからない。フラれて当然だ。

「新開くん、いつかの指切り、無しにしよう」

「…なんで?」

「だって、わたし、無理だよ。多分、付き合うのとか、一生無理だ。付き合うのって、もっと、頭が大人じゃないと駄目なんだよ。無理だよ。わたし、くだらなくて、どうでもいいことしか言えないし、思えないもん。アンパンマンの中身がつぶあんとかで、すごいってなるもん。このままだと、新開くん、針千本飲んじゃう」

ぐすっと鼻を啜る。

すると。今まで、ぼそっと籠った声で喋っていた新開くんが、はっきりと言った。

「くだらないとか言うなよ」

はっきりと。僅かに、怒りを孕んだ声で。

初めて聞く声に戸惑って、鼻を啜る動きをとめてしまった。つー、と鼻水が鼻の下を流れる。

「くだらねえ、ってソイツが言っただけだろ。ソイツ以外の人間も、堀田さんの言うこと、くだらないって思ってる訳じゃねえよ」

「でも、」

「オレは、」

否定しようとすると、新開くんが声を張った。いつも、わたしの話を最後まで聞いてくれる新開くんが、最後まで聞かずに、言葉を挟んできた。

「…オレは。救われたよ。堀田さんの言葉に」

大きく、目を見開いた拍子に、涙がころころと頬を転がり落ちた。

新開くんは、ぽつりぽつりと、言葉を落としていく。

「子供じゃねえよ。大人だよ。ウサ吉のときとか、すっげえしっかりしてたし、なんか、色々知ってるし」

それは、図鑑を読むのが好きなだけだよ。挿絵とか、写真とかついてる本が好きだから。そう言いたいのに、嗚咽が邪魔して、言えない。

「ひいたけど、オレのこと好きだって言ってくれて。すげえ、嬉しかったよ。ひいてないよ、大丈夫だよ、とか言われてたら、オレの嫌なところに蓋をして、見ない振りしてるんだって、思ったと思うけど。堀田さんは言わなくて。ちゃんと、オレのこと、見てくれて、だから」

ああ、もう、とじれったそうに舌打ちをしたあと、新開くんは「ごめん」と小さな声で謝ってきた。

「…堀田さんみたいに、偉い人間の言葉とか、知らねえから、いいこと、一つも言えねえ」

遣る瀬無くそう言ったあと、はあ、と重いため息が、電話越しに聞こえてきた。

「し、ん、がい、ぐん」

嗚咽がとまらない。涙もとまらない。鼻水もとまらない。頭の中はぐちゃぐちゃで、視界はぼやぼや。偉い人の言葉をつかって、お礼を言いたいのに。駄目だ。

新開くんの言葉が、嬉しくて、嬉しすぎて、頭も心もいっぱいにしているから、新開くんの言葉以外考えられない。思い浮かばない。

「あ、り、が、」

お礼すらも言えなかった。声は途中で、うわーんと子供のような泣き声に変わって、わたしはわんわんと泣いた。

電話の向こうで、小さな話し声が聞こえる。

「尽八、ちょっと頼みがある」

「なんだ?」

「オレ、今から外出るから。門限までに戻って来れねえと思うから、言い訳頼むぜ」

「…は?」

「トーク切れるんだろ?」

「いや、ちょっ、おい、隼人!!」

茶目っ気たっぷりの新開くんの声のあとに、東堂くんの焦っている声が聞こえてきた。

「堀田さん、今どこ?」

優しく問いかけられる。来ようとしてくれてるんだ。寮生なんだから、門限あるのに。来ちゃいけないってつっぱねなきゃいけないのに。

「ごごどごがよ゛く゛わがんな゛い゛げどじらべるぅ゛〜」

寂しいから、とか、泣いてるから、とかを抜いて。

今日一日、ずっと新開くんに会いたかったわたしは、泣きながら言った。

りょーかい、と小さく笑う声が耳を擽った。







宇宙の果てまで逢いに来て

ドイツの詩人、ローガウは言いました。
「恋が入ってくると、知恵が出ていく」と。




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