ディア・マイ・ヒーロー


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高くて青い空に、うだるような夏の暑さ。熱い日差しが私の肌を突き刺した。そんなどこにでもあるひと夏の、小さな赤いヒーローのお話。










「あっつい…」

ぱたぱたと、手をうちわ代わりにして仰ぐ。日差しが痛い。麦わら帽子を目深にかぶり直す。小さな従弟に行かないでえ、と泣きつかれて、なかなか出発できなかった。びええんと大声で泣く従弟を必死で宥めすかして、電車に揺られて、箱根にやってきた。そこからバスを乗り継いで…。こんな長距離を一人で移動するのは初めてのことなので、緊張した。でも、まだ緊張は解けない。左を見ても右を見ても、知らない人ばかり。

「今、箱学がトップなんだってー。で、二位が総北」

「あーやっぱそうか」

「今年も箱学で決まりかなー」

観客の男の人たちの声が聞こえてきて、眉間に皺が寄ってしまう。悪気がないのはわかっているんだけど。

『なんか箱学?っちゅー強いところあるらしいけどな!ワイの敵ちゃうわ!かっかっか!』

そう大きく笑った鳴子くんを思い出す。箱学のことを調べた時も、この台詞を思い出して、鳴子くんってば、王者になんてことを…、そんなこと言っていたら足元すくわれるよ…って思ったけど。

総北も、すごいんだから。一度も総北の走りを見たことがないくせに、男の人たちの背中を軽く睨みつけた。

っていうか、総北は今どのあたりを走っているんだろう…。幹ちゃん…は色々忙しいだろうから、電話して聞くのもなあ。よくわからなくて、道を歩いているうちに、山登りになっていたし…。私はぜえぜえと息を切らしながら山を登る。

調べていくうちに知ったことがある。こういう山や坂を登るのが大好きなロードレーサーもいるらしい。…失礼を承知で思うけど、変態じゃないのかな…。こんな坂を登るのが好きって…。歩くだけでも辛いのに。

鳴子くんはスプリンター。平坦を走るのが得意。スピード勝負のジャンルらしくて、鳴子くんらしい…と頷いた。

あれ、じゃあ、山登っていたら、駄目なんじゃ…?鳴子くんは、もっと平坦で活躍するんだろうし…。え、でもゴールは山で…。じゃあ、ゴールで鳴子くんを待てばいいのかな…?

付け焼刃の知識しか持っていないので、どうすればいいのか全くわからない。もっと鳴子くんや幹ちゃんにきちんと聞けばよかった…と今更ながら後悔する。考えがまとまらないまま、歩く。

このまま歩いていくと、ゴールにたどり着いてしまう…。それで…いい、の…かな…?そこで待つ…べき…?

ロードレースはサッカーやバスケと違ってどこで観戦すればいいのかよくわからない。難しい。うーん、と首を傾げていると、わああっと大きな歓声が聞こえてきて、びくっと肩が跳ね上がった。

な、なに…?

恐々と振り向いて。

―――あ。

ただ、それだけを思った。

小さいはずなのに、大きく見える。ヘルメットからはみ出た赤い髪の毛と、赤いロードバイク。

坂とは思えないスピードで、走っていた。

いつからだろう。全然興味ない自転車の話を、面白いと思うようになったのは。

鳴子くんがそんなに好きなスポーツなんだ、と、わざわざネットで調べるようになった。

ロードバイクの値段に目が点になったり、色んな用語を知ったり。

鳴子くんに出会わなければ、知らないままで終わったことを、たくさん知った。

ハンドルを大きく左右に振っているのが遠くからでもわかる。

やっと、見ることができた。

鳴子くんって、そうやって走るんだ。

本当はずっと見たかったのに、ひねくれ者の私は“見たい”の一言が言えなくて。見たい、と言ったら、鳴子くんは快く見せてくれただろうに。

変に意地を張り過ぎて、箱根にまで来ちゃったよ。

鳴子くんの走りを見て嬉しいからか、それともここまで意地を張り過ぎた自分が馬鹿すぎてかわからないけど、自然と笑みがこぼれた。

―――あれ、でも。

笑みが強張る。鳴子くんが、ふらついている気がする。どんどんと、私と鳴子くんの距離が近づいてくる。小野田くんが必死の形相で、鳴子くんに懇願するように、怒鳴るように、言っていた。

「鳴子くん、僕が引くから!!」

鳴子くんは不敵な笑みを、浮かべた。大丈夫だ、と言うように手で制する。何やら呟いているけど、ここからじゃ聞こえない。

総北が私の目の前を通り過ぎる。

その時。鳴子くんは。息も絶え絶えになって、誰もいない空間に向かって、手を伸ばし、話しかけていた。

四つのロードバイクは、すぐに私の前を通り過ぎた。

周りの人たちが目を白黒させたり、顔を見合わせてざわついている中、私は目を見張らせて、ただ、茫然とするばかり。

「あの子どうしたのー?」

「あー…あれ、一時的に視野落ちてんだろうな」

「なんで?」

「確かアイツ、スプリンターだった。なのに、あんなスピードで山を登って…。ありゃあ、はなからもたせる気ねーわ。ちぎれる気だ」

「ちぎれるって?」

ちぎれる。調べていくうちに知った、用語の一つ。どくんどくんと心臓が嫌な風に打つ。

「脱落するってことだよ」

その言葉を聞いた瞬間、私は走り出した。帽子が舞う。けど、拾っている暇なんかなくて、山を、ただ、夢中になって走る。十秒走っただけで、息切れしてきた。鳴子くんは、こんなことを、何分もしていたんだ。

なんでサンダルで着たんだろう。走りにくくて敵わない。煩わしく思った時、石にけつまずいて、転んだ。顔をしかめながら起き上がると、膝小僧から血が出ていた。でも、こんなのにも構っていられない。周りの人たちの驚きの目も、気にならなかった。

汗まみれで、砂まみれになって、私は走った。

ただ、追い付きたかった。

鳴子くんの全てを懸けた走りを、ただ、見届けたかった。

呼吸が苦しい。右足と左足を交互に動かし続けていくと、また、遠くから、大きな声が聞こえてきた。もうひと踏ん張り、と思って、足を大きく動かす。人だかりができていた。

「すみま、っ、はあ、ちょ、っと、どい、て、くださ…い…っ」

人をかき分けて、前に進んでいく。やっと、開けた世界には、ぼろぼろになった、鳴子くんが担架に乗せられていた。

汗まみれで、髪の毛はボサボサ。久々に見る鳴子くんは、今までで一番、みすぼらしい姿をしていたのに。

―――鳴子くん。

ぼろっと涙が頬を伝っていく。

心が震えるということの本当の意味を、初めて、知った。





表彰式の前、私と鳴子くんはテントの裏にいた。死角になっている、ここは、絶好の場所だと、思った。

「いっやー、色んなところ見せてしもうたなあ!」

鳴子くんは、カッカッカッと大きく笑いながら後頭部に手を当てた。

「すごかったやろ、ワイたちの走り!!すごかったやろ!?」

鳴子くんは、子供のように目をきらきらと輝かせてはしゃぐ。優勝と知った瞬間の、鳴子くんの号泣っぷりは一生忘れられない。

ううん、なにもかも。なにもかも、一生忘れられない。

うん、と真剣な表情で頷く私を見て、鳴子くんは、少し笑顔を強張らせた。鳴子くんとは、あの日からろくに喋っていない。今、私と気まずかったことを思い出しているのだろう。視線を彷徨わせてから、ニカッと作った笑いを浮かべた。

「…ここまで来てくれるって思わんかった。どしたん?箱根観光のついで?やー、それやったら良い観光になったやろ〜。なんせ通っている高校の優勝やからな!どうせやったら、ゴール観に行けばよかったのに!ずっとワイの傍におって〜、つまらんかったやろ〜」

「ううん」

真剣な表情のまま、首を振る。ゆっくりと、口を開いた。

「あのね、鳴子くん。私、最初、鳴子くんのことね、」

鳴子くんを見据えた。何を言われるのだろう、と身構えている鳴子くん。

「正直、ウザいって思ってた」

ひゅるるるる…と夏なのに寒い風が、私と鳴子くんの間を通り抜けた。

鳴子くんは腕を組みながら、「そ、そっか。ま、まあ、わかっとったで。は、はははは」と乾いた笑い声をあげる。目にうっすらと涙が浮かんでいた。

「うるさい人苦手だし関西弁苦手だし派手な人苦手だし、っていうか男子関連に良い思い出がないし、ずっと付き纏って来るし、食べている時に面白いこと言って噴出せるし、」

「楠木さん、き、きっつう…」

ひとつ、ふたつ、みっつと。指折り数えて、鳴子くんと過ごした日々を挙げていく。

まだ、春と夏しか一緒に過ごせていない。

欲張りな私は、それだけでは、足りない。

「困ってたら、助けてくれて、変な人に付きまとわれてたら、背中に隠してくれて、―――私の知らないところで、私を守ってくれて、」

鳴子くんが、へ、と間抜けな表情をしている。ゆるりと目を細めると、顔が髪の毛以上に赤くなった。一歩、二歩、と距離を詰める。真っ赤な顔がもうすぐ前だ。背伸びをしたら、もっと距離を縮められる。

「え、ちょっ、楠木さん!?」

どうやら、追われるのには、弱いらしい。目がぐるぐると回っている。でも、やめてあげない。今度は、私が、追う番だ。恨むなら、追えばいいんじゃないですか、と言った今日の優勝者を恨んでほしい。

髪の毛も、ロードバイクも、顔色も、全て真っ赤で。本当に戦隊モノのの、ヒーローみたいだ。

ううん、ヒーローみたい、じゃない。紛れもない、ヒーローだ。

あんな走りは、ヒーロー以外にできるはずがない。

生温かい風が火照った頬を撫でる。ほのかに芽生え始めた思いは、どんどん大きくなっていって。あとはただ溢れるだけだった。

たくさんの笑顔をくれたあなたを。

「鳴子くん、好き」

これからは、ずっと。私が、たくさん、笑顔にしてあげたい。

暑い日差しが降り注ぐ中、静寂が流れる。ポカンと開いていた口が、震えた。

「―――ドッキリ?」

…ん?

「や、だって、ちょい待ち。ワイ、手ェ振り払われて。しかもそのあとろくに目も合わされんくて。っちゅーか、今日、優勝までしたのに、楠木さんにまで告られる…?いやいやいや、おかしいおかしい。流石にこれははない」

頭を抱え込みながらぶつぶつ呟く鳴子くんに、苛立ちが沸いた。ドッキリって…。人の一世一代の告白を…。むうっと膨れる私に気付かず、鳴子くんは手を叩いた。

「いや、でも、楠木さんがこんな悪質なドッキリをするわけがない。そーか!わかったで!スカシになんか弱み握られとんのやろ!!あのスカシめ…!!楠木さん!大丈夫やで!ワイがなんとかしたる!!」

ドンと胸板を強く叩いたあと、親指を立てた鳴子くんに向かって、私は、ハァーッと盛大なため息を吐いた。へ、ときょとんとした鳴子くんのジャージを軽く引いて、少しだけ背伸びをして、その頬に唇をずらす。

柔らかい頬っぺたに唇を落とすと、ちゅっとくすぐったい音が小さく鳴った。

「…ドッキリじゃないって、わかってくれた?」

呆然としている鳴子くん。二歩、後ずさってから、べえっと赤い舌を出す。鳴子くんは目を点にしたまま、恐る恐る、頬っぺたを触った。

鳴子くんの鼻から垂れてくるものを見て、ぎょっとした。

「ちょっ、鳴子くん、鼻血…!」

「え…?のわーっ!?」

「ちょっ、ジャージが…!このあと表彰式なんでしょ!?」

「楠木さん近づいたらアカン!今楠木さんが近づいたら、ワイ、余計にこうふ―――」

「鳴子何して…!?なぜ鼻血を出してるんだ…!?」



青い空、白い雲、うだるような暑さの中。

小さくて、うるさい、でも誰よりもカッコいい真っ赤なヒーローは鼻血を出していて、ちょっとかっこ悪かった。






ディア・マイ・ヒーロー

fin.


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