ディア・マイ・ヒーロー


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「―――暇やったら観にこーへん?迫力あって、おもろいでー!」

空元気であることが伝わってくる笑顔と声色。無理矢理浮かべた笑顔は、鳴子くんに不釣り合いだった。

私と鳴子くんは、一人分の距離を空けた状態で肩を並べて歩いていた。インターハイ、暇なら良かったら観に来ないか、と誘われたのだけど、生憎その日は山梨のおばあちゃんの家に帰省することになっていた。視線を道路の端に遣ってから、「…ごめん」と力なく謝罪を落とした。

「その日、家族で山梨に帰省することになってるの」

「…そっかー!しゃーないな!」

カッカッカッと大きく笑う声が、虚しく響き渡る。鳴子くんに、こんな笑い方をさせている自分が、心底嫌で、嫌いで、拳を握りしめて掌に爪を食い込ませる。痛い。もっと痛がれ。痛がってしまえ。

「…っちゅーか、付き合っとるわけでもないのに、インハイ来いとか、馴れ馴れしいよな、ほんま」

悲しみと虚しさを帯びた、“らしくない”声音に、驚きの視線を鳴子くんに滑らせる。どくんと心臓が動いた。寂しそうな横顔に、きり、と胸が軋む。何か言いたいのに、声が喉に絡みついてうまく出てこなくて、一旦口を開けてから、閉じた唇がわずかに震えた。鳴子くんが、視線を私に寄越した。目が合う。にかっと細めて、笑いかけられた。どくん、と胸が熱くなる。

「そんじゃ、またな!」

気付いたら、もう駅に着いていた。うん、と頷いたあと、鳴子くんが私に大きく手を振ったあと、背中を向けた。駅から去っていくその背中に、何か言うべきことがあるのに、何を言えばいいのかわからなくて。足は根が生えたかのように動かない。頭で考えてばかりで、何も動かない。それが私。

「…消えてしまえ」

心の中で、何度も思った言葉を口の中で小さく呟く。駅の出入り口は中途半端だ。クーラーによって作られた人工的な涼しさと、うだるような自然の夏の暑さの間に立っている私は、涼しいのか暑いのかもよくわからなかった。

それから。私と鳴子くんは、無視はしないものの、廊下で会っても適当な挨拶を交わすだけで、きちんと話をすることはしないまま、夏休みに突入した。








「結衣ちゃん、ごめんねえ」

「ううん、大丈夫」

背中にある熱い重みを、おばちゃんに受け取ってもらう。山梨に来ると、自分より数個年下の従弟達と遊ぶ。今、私が背負ってきた子は花火ではしゃぎすぎてしまい、帰りは眠さのあまり歩けなくなって、私が背負ってきたのだ。中一の弟は、同じく中一の従弟とギャアギャアと騒いでいる。中一男子達が同い年トークで盛り上がっている中、年上の女子の私が入っていったら水を差すだろうと思い、与えられた寝室に、ひとり、横たわった。

ミーンミーンという蝉の声が聞こえてくる。クーラーをつけたばかりの部屋はまだ暑い。

…レースって、もう終わったよね…。確か、今日って二日目だよね。

ロードレースのインターハイは、なんと三日間に及ぶらしい。私はロードレースのインターハイについて、何も知らなかったので、ネットで色々調べてみた結果、体力と精神力を根こそぎ使う過酷なものということがわかった。脱落者が出るのは当たり前、全員でゴールできないのは当たり前、らしい。

ごろんと寝返りを打って、箱根にいる鳴子くんのことを思う。ニュースの天気予報で確認したら、今日の箱根の気温は32度だった。そんな中、自転車を半日漕いだら熱中症になっちゃうんじゃないの?水分とか、きちんと小まめにとったの?鳴子くんからしたら、余計なお世話なことで頭が埋め尽くされていく。

私と鳴子くんの関係性は謎だ。友達、ということになるのだろうか。でも、なんかしっくりこない。“友達”という言葉は最後のピースではない気がする。鳴子くんは私のことを好きだと言ってくれた。たくさん自分を知ってほしい、振るのはそれから、と、太陽のような笑顔を浮かべて、言ってくれた。

…忘れていた訳ではないけど、私って鳴子くんに、好きって言われたんだ…。

カァッと頬に熱が集まる。鼓動がはやくなったのを体の内側で感じ取る。熱を振り切るように、ごろんと寝返りを打った。すると、視線の先に私の鞄があった。

…お疲れ様、ってメールくらい、しようかな。

鞄の取っ手を掴んで引き寄せる。ケータイを取り出して、開くと、着信がかかってきた。画面に浮かび上がった文字は『寒咲幹』。幹ちゃんからだ。気分が明るくなる。ピッと通話ボタンを押して、耳にあてながら「もしもし」と言った。

「こっ、こんにち、いや、こんばんは!!」

裏返った声が鼓膜を揺らした。どこかで聞いたことのある声…、この、男子にしては高い…。首を傾げていると、相手から名乗ってきた。

「ぼ、僕、小野田坂道っていいます!ファ、ファミレスでご一緒させていただいた!」

とても礼儀正しく。電話の向こうでピシッと背筋を正しているのではないだろうか。私は「ああ」と頷いた。

「久しぶり」

「は、はいっ、お久しぶりでござっ、いたっ、し、舌かんだ…!」

声にならない悲鳴が聞こえる。私の苦手なうるさいタイプとはまた違う、騒がしいタイプだ。大丈夫?と気遣うと「お、お気遣いなく…!」とたどたどしく返された。…小野田くんって、ずっとどもっているなあ…。


「どうしたの?幹ちゃんのケータイだよね、それ。なんで私に電話してきたの?」

「え、ええっと…。はい、わざわざ寒咲さんのケータイを借りてまで、楠木さんにお話したいことは、その、鳴子くんのこと、でして…」

鳴子くん。

その名前を聞いただけで、心臓が跳ね上がったのを、体の内側で感じ取った。はやくなった鼓動の音をそっと隠すように、胸に手を当てる。

「な、鳴子くん、すごかったんです。一日目のスプリント、箱学のすごい二年生を抑えて、二着だったんです…!」

「えっ」

驚きで声をあげてしまった。ロードレースについて調べていくうちに、私は箱根学園という名の学校を強く認識するようになった。鳴子くんが一度あげていた名前だけど、その時は興味なくて、すぐに記憶の隅っこに置いた。箱根学園、通称箱学はロードレースの強豪校。王者と呼ばれている。

そんな、王者と呼ばれている人たちの、しかも年上を抑えるなんて。

「…あれ、でも、二着ということは…。一着って…」

「田所さんです」

…よかった…。そっと胸を撫で下ろす。他の学校の人じゃなかった。同じ学校なら、うん。

「鳴子くん、田所さんに負けたことをすごく悔しがってて…お風呂で暴れてました…」

…同じ学校とか、そういうの、もう関係ないんだね…。

鳴子くんらしくて、くすりと笑う。

うん。君はそういう人だよね。超がつくほどの負けず嫌いで、派手好き。欲しかったのは、二番じゃなくて、一番なんだろう。

ロードレースのことをネットで色々調べたけど、実際にどんな風に走るのかを、私は知らない。

…鳴子くんは、どんな風に走るんだろう。スプリンターだと、豪語していた。平らな道を真っ直ぐに、全速力で走る鳴子くん。真っ赤なロードバイクを漕ぐ姿を、想像してみる。

「…見たかったなあ」

するりと、願望が口から勝手に漏れた。小野田くんが「え?」ときょとんとした声をあげて、はっと我に返る。

「なっ、なんにもないよ」

慌てて取り繕って、押し黙る。鳴子くんの走りを見たい。別に恥ずかしい願望ではないのに、他の人に、特に鳴子くんの友達である小野田くんに知られると、すごく恥ずかしい。

「…僕、鳴子くんには、本当にいつもお世話になっていまして」

おずおずと、小野田くんは伺うように話し始めた。その声は、真っ直ぐな響きを持っていて。真剣に、私に何かを届けようとしていた。

「初めて会った時から、強引で、人の話を聞かなくて、でも、会ったばかりの僕の為に怒ってくれて、優しくて、」

「…うん」

私もそうだった。心の中で、そう呟く。

「こういうの、おせっかいだってわかっています。巻島さんが言う、ベタベタした友情ってやつなんだと、思います。でも、僕は、」

一旦言葉を区切ってから、小野田くんは声を振り絞るようにして、言った。

「友達が、悲しんでいたら、なんとかしたいんです!!」


人が人を、心の底から想う声。純粋に、真っ直ぐに、何の憐みもなく、計算もなく、ただひたすら友達を気にかけている思いが、私の胸に、そっと染みこんできた。

「は…っ、で、ですぎた真似を…!すみません!!ほんっとーに、すみません!!違うんです、そういうことを言いたいのではなく!!僕は鳴子くんの良いところを、楠木さんに伝えたかっただけなんです!誤解を解きたかっただけなんです!!」

ペコペコと頭を下げている小野田くんが容易く想像できて、ぷっと噴出してしまった。私はううんと頭を振る。

「…こっちこそ、ごめん。私、小野田くんの大切な友達を、傷つけちゃった」

「すみません!ほんとーにすみませ、…え?」

ぽかんとしている小野田くんの声。どんな表情をしているのかもわかる。わかりやすい男子だ。

多分だけど、鳴子くんは落ち込んでいる訳を、何気なく、ぽろっと、小野田くんに零してしまったのだろう。私を責めるようなことは言わず、自分を責めるようなことを言って。それで、小野田くんは、私が鳴子くんを誤解から嫌うようになったのだと早とちりして、こうやって電話をかけてきたんだろう。

「…鳴子くんの良いところ、たくさん、知ったよ。今日、また。…そっか。全国で二番目か。そんなに、速いんだね」

天井を仰ぐ。電灯が眩しくて、目を細めた。

おせっかいで、負けず嫌いで、派手好きで、いつも突然私の前にやってきたうるさい男子は、思っていたよりも、すごくて、遠い人間だったようだ。

そんな人に好意をもたれているなんて。…いや、過去形かもしれない。あんな仕打ちをしてしまった。告白の返事もいつまでたっても宙ぶらりんなまま。これから、すごくモテるようになって、私のことを、忘れてしまうかもしれない。

あの時、手を振り払った時、私と鳴子くんの間に、見えない距離が、大きく開いた。

「…鳴子くん、遠いなあ」

光が眩しくて、そっと瞼を閉じる。瞼の裏で、たくさんの人に囲まれながら、大きく笑っている鳴子くんが浮かんだ。

「遠いなら、追い付けばいいんじゃないですか?」

当たり前のように紡がれた声色に反応して、目を開けた。え、と声を漏らす。小野田くんは、平然と、普通のことを言うように、言った。

「えっと、鳴子くんが遠いなら、追い付けばいいんじゃないですか?」

「…どういうこと?」

「…えっ、えっと。追い付けばいいっていうか。ペダルをその分回せばいいだけの話というか…?距離があるなら詰めればいいだけっていうか…。追いかけている時って、すっごく楽しいですし…」

小野田くんはしどろもどろになって言う。

遠いなら、追い付けばいいだけのこと。

その言葉に、鳴子くんがメロンパンをかじりながら『小野田くんはな、ああ見えて、めっちゃガッツのある男やねん。や〜流石ワイの友達!』と自慢げに語っていた日のことを思い出す。あの時は信じられなかった。

けど、今は。

一見似ていないけど、鳴子くんと小野田くんは、根っこのところでは似ている。類は友を呼ぶ。昔の人は上手い言葉を思いつくものだ。

「…あっ、ロ、ロードレースの話じゃない…!?す、すみません!!僕、勝手に勘違いを…!!」

あわてふためきながら弁解を始める小野田くんに、私はふるふると首を振ってから、真剣な声で、言った。

「…違う。そう。それだけの話なんだよね」

「え」

「ありがとう、小野田くん。そうだね。ペダル漕げばいいんだ。くだらないことでぐちぐち考えている暇があったら、行動に移せばいいんだ」

そう、鳴子くんのように。頭で考えてばかりでも、行動に移さなければ何も始まらない。そんな簡単なことを、教えてくれたのは、うるさい赤毛の男子と、頼りなさそうなメガネの男子。

私の心は、もうとっくの昔に決まっていた。

「小野田くん、お願いがあるの。明日、何時から大会があるか、教えてくれない?」

心が叫んでいる。

必死にペダルを漕いでいる君に、会いたい、と。





たぶんずっと、きっともっと

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