ディア・マイ・ヒーロー


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鳴子くんは、インターハイに向けての練習で忙しいので、丸一日遊ぶ暇はないらしい。なので、部活帰りに、前、自転車競技部の皆さんと一緒に食べたファミレスで食べようということになった。

『めっちゃ楽しみ!!』

という文字が浮かび上がっている画面から、鳴子くんの声が聞こえたような気がして、ふっと口が緩んだ。もうすぐ、鳴子くんと一緒に晩御飯を食べることができる。久しぶりに、一緒にごはんを食べることができる。19時に駅前で待ち合わせをしている。待ち合わせまで、あと、三ぷ―――、

「お待たせー!!」

びゅんっと、一陣の風が眼前を横切ったかと思うと、キキーッと、ブレーキ音が響いた。ブレーキ音がうるさくて、思わず耳を両手で抑えた。真っ直ぐ向けた視線の先には、少し腰を落としながら、息を切らして、手を挙げている鳴子くんがいた。

「だ、大丈夫…?」

「大丈夫大丈夫!ちょっとチャリ飛ばしてきただけやから!」

「チャリ…?」

自転車の姿はどこにも見当たらない。きょろきょろと辺りを見渡していると、鳴子くんは「ああ」と頷いた。

「さっき、とめてきた。あ、ちゃんと駐輪オッケーのところにやで!楠木さんは歩きやろと思ったからな。一緒に歩きたいし!」

へへっと笑いながら、鼻の下を人差し指でこする鳴子くん。また、恥ずかしいことを言って、この人は…。鳴子くんを見ているのが恥ずかしくなって、視線を少し下に落とす。

「一回帰ったんやなあ、私服や」

「うん。鳴子くんは制服ってことは…」

「部活終わって、即来た!」

「道理で汗臭いと思った」

「…なーっ!?ほ、ほんまや…!」

自分の腕を鼻に近づけてくんくん匂ったあと「汗臭っ!」と、目をひん剥きながら、すごい勢いで腕を離した。

「エイトフォーいる?」

「えっ、ほんまに!?おおきに!」

カバンからエイトフォーを取り出して、鳴子くんに差し出す。鳴子くんがそれを受け取って、服の中に突っ込んでから、シューッと噴射した。繊維の隙間からエイトフォーの煙が漏れる。

「楠木さんっていつもこれつこうてるん?」

「うん」

鳴子くんは「じゃあ」と歯を見せて、嬉しそうに笑った。

「今、ワイは楠木さんと同じ匂いなんやな」

そう言われて。夏の暑さとは違う熱さが体を包み込む。いや、包み込んでいるんじゃない。私から発されているんだ。にこにこと嬉しそうに笑っている鳴子くんから目を逸らす。

「…はやく行こ」

「うん!いこいこー!」

嬉しそうに弾んだ声が、私の鼓膜を揺らす。なんだかむず痒くて、下唇を少しだけ噛んだ。


ファミレスに入って、テーブルに案内された。向かい合うようにして座る。鳴子くんはメニューを開きながら、「うわー、どれも美味そう!」と舌なめずりをしている。涎が口から垂れている…。部活後だし、ものすごくお腹減っているんだろうな。お腹空いているのに、急いできてくれて…。

「ハンバーグ&チキン南蛮かデラックスチーズインハンバーグかどっちかにして…これだけじゃ足りんな。ポテトも食おう、そんでチョコバナナパフェと…オムライスと…」

うーん、と唸りながらメニューと睨めっこしている鳴子くん。

「…自転車って、ほんとに体力使うんだね。食費すごくない?」

「すごいな!自転車は金かかんで〜。おかんにいつもどやされとるわ!まあ出世払いで返すっちゅーことで許してもろてる!」

鳴子くんは、カッカッカッと元気に笑ってから「まあ、絶対そうするしな!世界一の自転車乗りになって、ばんばん優勝して、めっちゃ稼ぐねん!」と、鼻息荒く語った。なんてスケールの大きな夢。鳴子くんらしい。私は冷めているところがあるので、他の人が“世界一になる”と言ったら薄っぺらいなと思うけど。鳴子くんだから、本当になれそう、と思ってしまった。

…なんか、本当に最近の私おかしいな…。

調子が狂わされっぱなしだ。気付かれないように、小さく息を吐く。平静を装って口を開いた。

「…メンバーに選ばれたお祝いするよ。なんか奢る」

「えっ!?ほんまに!?…あーでも、ええでええで!ワイはこの前楠木さんが作ってくれた弁当で、十分!っちゅーか、十分すぎるわ、あんなん。も〜ほんま美味かった!ほっぺが落ちそうやったわ〜」

頬を包み込むように揉んで、うっとりと言う鳴子くんに、大袈裟だと苦笑する。メニューを決めている間も鳴子くんはよく喋った。巻島先輩がグラビア大好きということ。ワ、ワイは興味ないけどな!と言っていたけど、目が泳いでいたから嘘だろう。今泉くんがとにかく生意気であるということ。小野田くんは素直なので教え甲斐があるということ。私はそれに「へえ」とか「ふうん」と相槌を打つ。気乗りしていないように見えるかもしれないが、ものすごく楽しんで話を聞いている。鳴子くんの話を少しでも聞き逃したくなくて、一心に聞いている。

「そんでな…」

「ご注文はお決まりでしょうか?」

「おーっと。えーっと、じゃあワイは〜、」

店員さんが来て、一旦鳴子くんのお喋りがとまった。男子にしては高い声がメニューを並べていく。うるさい人は苦手、関西弁も苦手、落ち着いた声が好き。春までの私はそうだったのに。頬杖をつきながら、鳴子くんをじいっと見る。すると、ばちりと大きく目が合った。電流が流れたように、びくっと震えてしまった。

「どないしたん?」

不思議そうに、きょとんとした面持ちで問い掛けてくる鳴子くんに「いや、えっと…別に」と意味を持っていない言葉を並べる。鳴子くんはニカッと笑った。

「次、楠木さんの番やで」

何のことを言っているのかわからず、一瞬呆けた後、ああと気付いた。メニューを言えということだ。こほんと咳払いしてから、店員さんに顔を向けた。騒がしい心臓を抑えるように、胸元の服を握った。

本当に、最近の私はおかしい。



「やー、食った食った!」

ファミレスの入口を出たところで、鳴子くんは膨れたお腹をパンパンと叩きながら、カッカッカッと大きく笑った。本当にたくさん食べていた。この小柄な体型に、あれほどの量がよく入るなあ…。一緒にお昼ご飯を食べていた時から思っていたけど…。

紺色の空に、膜を張った月がぽっかりと浮かびあがっている。綺麗だなあ、と、一瞬気をとられている隙に、鳴子くんの動きがピタリととまった。鳴子くん?と声をかける。すると、ハァーッと大きく息を吐いて。

「楠木さん」

私の手を握った。

…え。

鳴子くんの掌は意外と大きかった。ごつごつと角ばった指に包み込まれるようにして掴まれる。掴まれたところから熱が広がっていく。鳴子くんが手を握った意図がわからず、無言で狼狽えていると、鳴子くんは走り出した。

「―――逃げんで!」

「え、あ、ちょ、ちょっと…!?」

「うわっ、気付きやがった!」

「は、はわわ〜!皆さん待って…ぶべしっ!」

「小野田がこけたああ!!」

聞きなれた声が背中に響く。ぐいっと、私を引っ張って駆け出す鳴子くんに、私はただついて行くだけ。足がもつれそうだ。運動神経が悪くなくて良かった…と、そっと胸を撫で下ろす。鈍足だったら、このスピードについていけず、転んでいたことだろう。それにしても、速い。どんどん風景が変わっていく。

これが、鳴子くんの見ている景色。

そう思うと、呼吸が乱れて苦しいはずなのに、楽しくて、嬉しくなってきて。口元がむず痒い。きっと、今、私、笑っている。目の前にある、男子にしては小さな背中が大きく見える。繋がれている掌に力が入っているのすら、心地よく感じた。


「…はあっ、はあ…っ、撒けたよう、やな…」

私と鳴子くんは息切れをしながら、繁華街まで逃げ込んだ。ここなら人が多いから、自転車競技部の人たちに見つかることもないだろう。木を隠すなら森の中。人を隠すなら人の中、というやつだ。

「ほんま、あいつら…!おもしろがりやがって…!」

くそっと忌々しそうに後ろを見る鳴子くん。もう、自転車競技部の人たちはいないのに。手は、まだ握られたまま。嫌ではないのだけど、心臓がうるさくて敵わない。

「…鳴子くん」

「ん?」

鳴子くんが私に顔を向けた。ん、と唇を合わせてから、口を開く。頬がやけに熱い。

「鳴子くんって、手、結構おっきいんだね」

「…手?」

首を傾げながら、鳴子くんは私の手に視線を落とした。そして、ぎょっとしてから、顔が真っ赤に染まり上がる。どうやら今気付いたようだ。ばっと、勢いよく離される。体温を失った掌が、寂しく感じた。けど、鳴子くんはそんな私に気付く余裕なんてないようで、慌てふためきながら「ご、ごめん!」と謝ってきた。

「ちゃ、ちゃうねん!あんな、あいつら撒くために急がなって思ってな!」

鳴子くんは、説明を始めた。

「って、これ言い訳になるんか!?いや、言い訳なんてことしたくないんやけど、いやほんまやねん、決してやらしい目的ちゃうくて!って、やらしいってなんやねーん!」

激しく身振り手振りをしながら、必死にべらべらとまくし立てる。ノリツッコミをしたあとに、バシンと大きく自分の頭を叩く。

そんな風に、あんまりにも、一生懸命、説明するから。
それが、とても面白くて。

私はぶっと噴出してしまった。

「…そ、んな、必死に言わなくても…っ、ぶっ、わか、ってる、よ…っ」

掌で口元を覆いながら、目を細めて笑う。鳴子くんは何事にも全力投球だ。手を握ってしまったことに対する弁解にまで、全力を尽くして。本当に面白い。鳴子くんは何も返してこない。細めた視界の中で、鳴子くんが少し頬に赤みをさして、ポカンと口を開けながら、私をじっと見つめていた。すると、不意に、口元を覆っていない掌が熱い熱に包み込まれた。

―――え。

不意に訪れた熱い温度に、ビックリして、目を見開いてしまった。真っ直ぐ向けた視線の先には、真剣な顔をして、私を見据えている鳴子くんがいた。

「…手、繋いでも、いい?」

いつものはしゃいだ声とは打って変わって、真剣な声。力強い瞳を真っ直ぐ向けられて、心臓が音をたてて跳ね上がる。呼吸がしづらい。体が麻痺したみたいで、うまく動けない。ふわりと掌と掌の間に空気が入っているような、緩い握り方なのに、掌がやけに熱い。私の掌が熱いのか、鳴子くんの掌が熱いのか。どっちも、なのだろうか。

うん、と頷こうとした時。視界に、違う高校に行った中学の時の同級生が入った。

―――『男好き』

脳裏に、クスクスという甲高い笑い声と伴って浮かんできて。冷水を浴びせかけられたような気分になる。

気付いたら、私は鳴子くんの手を大きく振り払っていた。

「―――あ、」

呆然と大きく目を見開いている鳴子くんに気付いて、間抜けな声が漏れた。さあっと、血の気が引いていく。違うの、と口を開こうとするよりも前に、鳴子くんがニカッと笑って、私は固まってしまった。大きな笑い声が鳴子くんの口から放たれた。

「カッカッカッ!ちょーっと、やりすぎたな〜!やー悪い悪い!っちゅーか、さっきのワイ、ちょっと、いやかなりキモいな!何マジトーンで聞いているんやって感じやで!彼氏でもないくせになあ!」

「なる、」

「恥ずい恥ずい!お、もうこんな時間やん!帰ろ帰ろー!」

無理して笑っている鳴子くんが痛々しい。誤解を解きたくて、大きく名前を呼ぼうとして、躊躇する。手を繋ぎたくないわけじゃないの。そう言って、どうするのだろうか。どうしたいのだろうか。私は、鳴子くんと手を繋ぎたいのだろうか。

頭がぐるぐると回る。初めて感じる胸の熱さ。痛くて切なくて苦しくて。訳がわからない。考える時間が欲しい。

「楠木さーん」

鳴子くんが首だけを私に向けてニカッと笑いかけた。

「帰ろ?」

優しい声を放つ口元は、上がっていたけど、眉毛が少しだけ垂れていた。初めて見る悲しそうな笑顔に、何も言えなくなって、私はこくりと頷くことしかできなかった。

鳴子くんにあんな顔させるとか、最低だ。
でも、謝るのも違う。
手を繋ぎたい、とも、何故か言えない。

…意味わかんない、最低、私、最低。

仲間外れにされた時だって、こんな自己嫌悪しなかった。こんな自分、消えてしまえ、と。心の底から願った。





ちぎれた小指


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