天邪鬼のラブソング
 

青い空、白い雲、さんさんに輝く太陽が夏だということを教えてくれる。

「わーい!プールだプールだー!」

ひゃっほー!と叫びながらプールに向かって駆け出そうとしたら、ベシッと頭を叩かれた。

「ストレッチしろ、ボケナス」

振りかえると、馬鹿を見る目で私を見下ろしている荒北がいた。今日もまあなんという悪人面…、としげしげと見ていると「何見てんださっさとしろ」ともう一度殴られた。

「ちょっと!馬鹿になったらどーすんの!?」

「元から馬鹿だろ」

「それを言っちゃあおしまいだよのび太くん…!」

「誰がのび太だ誰が!」

そう言いながら、腕を伸ばす荒北。意外とこういうところで真面目なんだよね…。仕方ないので、私も荒北にならって屈伸をする。

荒北がちらっと私を見て、そして逸らした。

「…上、なんか羽織った方がいいんじゃナァイ。防水加工のパーカー俺に見せびらかしてきただろ。あれ、着とけヨ」

「えー、お母さんに言われて持ってきたけどさー。暑いもん。やだよ」

「日焼けすんぞ」

「…それはやだな…」

荒北の助言に確かにと頷き、ロッカーに戻ってパーカーを取りに更衣室に行った。鍵を回してロッカーを開ける。白いパーカーを羽織って、荒北のところへ戻ろうと出入り口の前を通ろうとした時、鏡があったことに気付いた。

オレンジ色の花柄がプリントされたフリルがついたビキニに、ボトムを合わせた自分の姿が鏡に映っていた。胸がないのをフリルで誤魔化したことは否定しない。とりあえずパッドは詰めた。パッドを詰めている時私何やってんだろとは虚しくなった。

無理矢理作ったおっぱいを見て思う。うーん…なんか私って色気がないな…もう十八歳なのにこれでいいのかな…?

荒北も巨乳の方が好きらしいしなあ…。

昔、荒北との口喧嘩に負けそうになった東堂くんが苦し紛れに『荒北の巨乳好きめ!淫乱ナース好きめ!!』と口走っていた。そう言われた時、荒北は一瞬私の方を見た。東堂くんも私を見ながら『あ』と言った。

『あ、荒北、すまない、今のに悪気は…』

『東堂ォォォ!!』

『ギャアアアア!!』

眉を吊り上げた荒北にプロレス技をかけられている東堂くんの顔が崩れていて面白かったので盛大に笑いながら、荒北って巨乳好きなのかーと落ち込んだあの日のことを思い出す。

なんか、ショックだった。なんか。AV観ていることがショックとかじゃなくて。

変なの、と苦笑してから私は出入り口から出た。



「お待たせー!」

私が出てくると、荒北は既に空気が入った浮き輪を抱えていた。

「やっててくれたの?ありがとー!」

「ヒマだったからナ」

おらよ、と私に浮き輪を差し出す荒北。笑顔で受け取る。

「交代交代で使おうね!」

「いーヨ、別に。俺たいていのとこ足つくしよ。お前のがいんだろ」

「うわ〜身長高い俺アピール〜足長い俺アピール〜」

「してねーヨ!」

「あはははっ」

けらけら笑いながら浮き輪に体を通しながら思う。

今日、私は荒北を何が何でも楽しませる。あー今日楽しかった!やっべ!夏休み最高!ひゃっほー!それくらいのことを思わせる。

私は馬鹿だから、良い事なんて何も言えなかった。だから、代わりに、私と遊ぶことによって、元気にさせる、そう決めたのだ。

浅瀬からどんどん深くなっていくタイプのプールに足を踏み入れた。冷たくて気持ちいい。

「荒北足つかなくなったら私の浮き輪掴んでねー。助けてあげよう」

「なんで上から目線なんだヨ」

「っていうか、交代してほしかったら、マジで言ってね!ていうか今からでもいいよ?ほら、あれやってあげる!荒北が浮き輪の中入って私が引っ張って、優雅にプール漂わせてあげる!」

そんなことを話しながら、プールに浸かっていくと。

「あれ、楽しいよねー!私あれ大好きでさ、よくお父さんに頼んでやってもらってたんだ」

「へーえ」

その時の記憶を思い出して、へへっと笑ってしまう。深さが丁度良いくらいのものになってきた時、荒北が浮き輪の穴の中に手を入れた。私のお腹と荒北の手の距離が近くて、え、っと吃驚していると。

すいーっと、そのまま引っ張られた。

「お、おお〜」

勝手に引っ張られていくこの感覚。プールが少しだけ深くなって足が少しだけ浮いた。

た、楽しい…!

「わーひゃっほー!」

「そこまで楽しいかヨ」

「うんっ!」

大きく笑顔で頷くと、荒北も口角を少しだけ上げた。

わーい、ゆ〜らゆ〜ら、楽しいな〜るんらら〜。

鼻歌を歌いながら、荒北の赴くままに優雅に揺られる。

「…って、駄目じゃん!」

「あ?」

「私ばっか楽しんでいるよ!駄目だ!荒北駄目だよ!今日は荒北私のこと好きにして!!」

そう詰め寄ると、荒北の口がポカンと開いて、カァーッと赤くなっていった。

「お…まえ、何言ってんだ!?」

「こんな私のパシリみたいなことしてちゃだめだよ!ほら、私を好きにして!なんでも言うこと聞くから!なんでもしてあげるから!」

「あそこの二人大胆だな…」

「やべーなオイ…」

「ダーッ!!お前、ちょっ、黙れ!!」

荒北が慌てふためきながら私の口を掌で塞いだ。それでも何か言おうとする私に「黙れつってんだろーが!!」と頭突きしてきた。痛い。普通にものすごく痛い。私と荒北は額を抑えながら悶絶した。

「な、なんで、私頭突きされ…?」

「てめーの胸に聞いてみろバァーカ!」

私の質問をにべもなく切り捨てる荒北に、ムッとするが、ここは我慢我慢。今日はいつもみたいな口喧嘩しないと決めたのだ。全身全霊で荒北を楽しませると決めたのだから。

「でも、ほら、何かあるでしょ、ひとつくらい」

顔を覗き込むようにして訊くと、荒北の顔がまた少し赤くなった。ぷいと顔を背ける。それでも構わず、じーっと見続けていると。

「…ウォータースライダー」

「へ」

「ウォータースライダー乗りてェつったんだよ!おら、いくぞ!」

そう怒鳴ったあと、ふんっと鼻を鳴らす荒北。

ウォータースライダー…、と視線を上に上げると、長いウォータースライダーが視界に入った。

「よし、いこいこー!」

プールから上がって、肩を並べて歩きながら言う。

「他に何かすごいことしたかったら言って!私なんでも」

「その言い方やめろつってんだろーが!」

ベシッと頭を殴られた。この時、私は荒北を楽しませることにいっぱいいっぱいで、自分が周りに誤解を与えるような言い方をしていることに気付かなかった。

そんな風に、私が訳わかんないことを口走ったり、荒北が私を殴ったり、ウォータースライダーに乗ったり、ウォータースライダーの水の衝撃をもろに顔面に食らった私の鼻から鼻くそが飛び出していて荒北が死ぬほど笑ったり、焼きそばを食べたり。逆ナンされている男の子を見て「東堂くんとかもされんだろうねー」「そのままアジアに売り飛ばさればいいのにネ」とかそういう話をしたり。

そんな感じで、時間は過ぎて行った。







こっくりこっくり。首ががくんと落ちて少し目が覚める。でも、眠すぎてまた首ががくんと落ちる。それの繰り返しだ。

ホームで電車を待ちながら、荒北が横目で私を見ながら言った。

「寝とけヨ。来たら言うから」

「うん…」

それから電車が来るまでの五分間、私と荒北は何も喋らなかった。電車が来て、荒北が来たぞ、と言う。私は「うん」と小さく返して、足を前に進めた。

「混んでんな」

「うん…」

「席空いたら言うから、それまで立ったまま寝とけ」

「うん…」

肩を並べて、つり革を掴むが、何も言葉は交わさない。荒北楽しませるために何か面白い事を話さなくちゃ、という思考は睡眠欲によって隅に追いやられていた。

楽しかったなあ、今日…。私の顔を見て急にげらげら笑いだすから何事かと思ったら「鼻くそがターザンしている」と息も絶え絶えになって言いながら言われた時は焦ったけど…。いやそれにしても鼻くそターザンって…。うら若き十八歳の乙女がしていい姿じゃない、けど…。まあ、荒北楽しそうだったし、いいか…。

一緒にやきそば食べて、歯に青のりついているって笑ったら、『ッセ!鼻くそターザン!』と返されたのは悔しかったな。絶対私これしばらくターザンって呼ばれるやつじゃん…。他の人に言わないように口止めしなきゃ…。

今日は、私、ずーっと笑ってたけど、荒北は、どうなのかな。

インハイの悔しさを忘れられるようなことはないと思う。けど、ほんのちょっとでも、今日の楽しさで心が軽くなってたら、いいなあ。

そう思った時、お尻に小さな違和感を覚えた。何かが当たっている感覚。鞄か何かだろう、と思っていたけど、それは少ししてから動きを覚えていた。さわり、さわり、と伺うようにして撫でてくる。

…え。

目が覚めてくる。撫でられている感覚は揉まれる感覚に変わった。不必要に体を押し付けられている。

え、ちょっと待って、これ。

冷や汗がじんわりと体中から滲んだ。

だって、私胸ないじゃん。色気とかそういうのないじゃん。こういうのって、もっと、さあ。私ってそういう対象になるような女子じゃなくない?あ、だからお尻か、そうか。

頭の中がぐるぐるしてうまく考えがまとまらない。

荒北に助けを求める、という考えは一瞬浮かんで消えた。

せっかく今日、荒北に楽しんでもらおうと思ったのに、一日の最後の終わりを痴漢で締めくくるとか最悪すぎる。痴漢ももしかしたら次の駅で降りるかもしれないし。

ちょっとの間だ、我慢しよう。

そう決めて、気持ち悪い感覚から目を逸らす。

だいたい、こんなのみんなあってるんだから、たいしたことないない。とりたてて騒ぐようなことじゃない。

小刻みに震える体を、二の腕を右手で掴むことによって落ち着かせる。

舐めるように撫でてくる掌の感覚がお尻から離れない。気持ち悪い。気持ち悪いけど、長い人生で見ればこんなの一瞬、一瞬だ。

ショーパンの中に、指が入ったような感覚がした。びくっと体が大きく動いた。はあっと荒い息遣いがすぐ後ろで聞こえて、吐き気がする。

こんなのすぐ終わるすぐ終わるすぐ終わるすぐ終わる、と心の中で唱えていた時だった。

「ざっけんなよクソジジィ!!」

聞きなれた声が怒りに満ちていた。

え、と驚いて顔を上げると、荒北が私の後ろにいるおじさんの胸倉を掴んでいた。

「な、私は何も」

「触ってただろーが!!しらばっくれてんじゃねーぞ殺すぞ!!」

視線だけでおじさんを殺してしまいそうだ、というくらい荒北の目は怒っていた。目だけではなく、体中全てから怒りのオーラを発していた。周りの人たちが何事かと驚いている。荒北の剣幕がすごくて、小さな子が今にも泣きだしそうだ。

「あ、荒北、落ち着いて」

私は荒北のTシャツの袖を引っ張る。すると、荒北はものすごい形相で私を睨みつけた。びくっと体が震える。

その時、電車が止まって、ドアが開いた。荒北はおじさんの手首を掴んで、降りていく。私も慌ててそのあとを追った。ひいっと小さく声を上げているおじさん。どうやら駅員室に向かっているようだ。

「荒北、もうすぐ門限なんじゃ、はやく帰んないと」

「てめーは黙ってろ!!」

いつもとは違う怒鳴り方をする荒北が怖くて、びくっと体が震えあがって、何も言えなかった。










虫の声と足音しか聞こえなかった。あれから、おじさんを連れて駅員室に行った私たちは駅員さんに色々と訊かれた。警察に通報するということになると時間がかかるので、いいです、と断ったら荒北が目を吊り上げて『はァ!?』と怒ってきた。

『時間なんていくらかかってもいいだろーが!』

『門限…』

『んなもんどーだっていいんだヨ!!バァカ!!』

『…もう、その人に関わりたくない』

消え入りそうな声でそう言うと、荒北が言葉に詰まったのがわかった。糞が、と吐き捨てるように言った。駅員さんにあとは任せておいてと言われ、私たちは駅員室を後にした。

寮とは反対方向の、私の家の方面行きのバスに一緒に無言で乗る荒北に『え、いいよ!』と声をかけたのだけど、無視された。降りたあと、短く『お前んちどっち』と訊かれて、こっちと答えるとスタスタと歩き始めた。そして、曲がり角がある度、どっちと訊いてくる。そのあとはずっと無言だ。

「…荒北」

前を歩く荒北の背中に向かって、小さく声をかける。何も反応してくれない。ずっと、怒っている。痴漢に対して、ずっと怒っているのだろう。私が痴漢にあったことが単純に許せないのだろう。いいやつだから。

…今日は荒北のこと、ずっと楽しませたかったのになあ…。

せめて、最後の最後だけでも良い気分で終わらせたくて、私は明るい声を作った。

「やー、痴漢されるとはねー、吃驚した!ああいうのって、胸がでかい子狙うと思ってたからさ〜、あ、お尻ですか!みたいな?マジでびっくりしたなー、私痴漢あうの初めてなんだ、痴漢デビュー、ってか。あはは!」

けらけらと笑い声を作る。荒北の足が止まった。私の足もつられて止まると、荒北がゆっくりと振り向いた。

街灯に照らされた荒北の顔は、怒りと悔しさで満ちていた。

「…んで言わなかった」

「…え?ごめん、もう一回言ってくんない?」

よく聞き取れなかったので、訊き返す。すると、荒北の眉がつり上がった。

「なんで言わなかったかって訊いてんだよ!!」

荒北の怒鳴り声を一身に受けて、体がびりびりと震えた。

「あんな近くにいてなんで何も言わねーんだよ!裾引っ張るとか触るとかして伝える方法あんだろーが!!

荒北、すっごく怒っている。

「ふっざけんな!てめー何分触られてた!?そんな気にしてねェなんて面すんじゃねーよ!!震えていたくせに!!泣きそうだったくせに!!無理に笑うなキモいんだよ!!」

「あらき、」

「うっせえ!!」

大声でまくし立てたからか、荒北はハアハアと肩で息をしている。荒北とは何度も口喧嘩をしてきたし、怒鳴られたことだってたくさんある。でも、こんな風に怒鳴られたことは初めてで、私は何も言えなかった。荒北が、畜生と小さく呟いた。

「んで、すぐ気付かなかったんだよ俺…!」

悔しそうに呟く荒北の声が、耳にゆるりと届いて、目を見張った。

荒北は怒っている。痴漢したおじさんに。痴漢されても何も言わなかった私に。でも、一番怒っているのは、私が痴漢されていても、すぐに気付かなかった自分自身に対してなんだろう。

そう気づいた瞬間、涙がぶわっとあふれ出た。

「っ、う、荒北…っ」

なんで涙が出ているのかわからない。

痴漢されて怖かったからなのか。荒北の優しさが嬉しいのか。

荒北が驚いたように私を凝視しているのが、歪んだ視界からでもわかった。私、こんな風に泣くの、初めてだもんね。人前で泣くの何年振りだろう。

「きょ、お、たの、し、かった…?」

「…は?」

唐突に今までの話題とは違うことを振られて、荒北が戸惑ったのがわかった。でも、荒北にとっては唐突でも、私にとっては唐突ではない。今日、ずっと考えていたことだ。荒北が楽しめているか、どうか。少しでも悔しい事や悲しい事を、せめて今日だけでも減らせていたらいいな、ってずっと思っていた。

「だって、わた、し、なんもできないから、こういう、いっじょに、あぞんで、たのしませる、ぐらい、しかできな、いっておもっで」

鼻水まで垂れてきた。ぐすっと啜る。

「荒北はァ〜、きょお〜、楽しかった〜?」

うわーん、と子供のように泣きながら訊く。何やってんだ、私。ほんと、子供かっての。

うっうっと眼を抑えながら泣くと、荒北が近づいたのがわかった。そして、ハァーッと息を吐いて。頭の上に掌を乗せられた感覚がした。

「ごほごほ咳込みながら、鼻くそ出している女を見れて楽しくねェわけねェだろ」

そう言って、ガシガシと私の頭を乱暴に撫でた。

「水中で変顔してくっしよ。面白すぎんだろ」

手を顔からのけて、荒北を見る。街灯が眩しくて、目を細める。

ガシガシと私の頭を撫でる手がとまった。細い眼でじいっと私を見てから、ぶはっと噴出した。

「すっげー、ブサイクな面。マジで、お前って飽きねェ」

ニタッと小馬鹿にするものだったけど、少し、柔らかみを帯びていたその笑顔を見た時、私の中で何かが弾けた。

荒北の胸の中に飛び込んで、頬を擦りつける。

え、と荒北が声を漏らした。

「荒北ァ〜!!」

う〜、と泣きながら頭をぐりぐりこすり付ける。

「怖かったよお、気持ち悪かったあ、でも、荒北が楽しんでくれててよかったあ」

わんわんと泣きながらこすりつける。荒北が息を呑んだのが聞こえた。ゆっくりと、私の頭を不器用に撫でてくる。

うっうっと肩を震わせて泣いている私の背中に手を回そうとして宙を彷徨ってからやめた荒北の右手の存在を、私は知らない。






あの夏を諦めた水槽の中で





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