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透き通るような声は、たっぷりの愛情をこめて、俺の名前を呼んでくれた。そーちゃん、と、俺と同じ色の瞳を優しく緩め、「一緒に帰りましょう?」と、小首を傾げて問いかけてくれる、微笑みが、大好きだった。姉上が持ってきてくれた傘をさしながら、姉上と肩を並べて帰る、あの時間が、大好きだった。
ザアザアと雨が屋根を打つ。あー、こりゃしばらく降るな。バケツを引っくり返したような音を響かせる雨を冷静に観察しながら思う。こういう、雨の日は。ちらりと横の視線を滑らせると、ぶっと噴出してしまった。
「やー、相変わらずの焼きそばっぷりだねィ」
焼きそばのようにぐるぐるねじれている小春の髪の毛を見て、嘲笑した。小春はうっすら涙を浮かべてぷるぷると震えている。小春の髪の毛は湿気に弱く、旦那ほどではないが普段必死に抑えつけている天パが顔を出す。
「ひ、人のコンプレックスをォ…」
「やー、わりーわりー。俺、さらっさらのストレートヘア―だからなァ、気持ちわかってやれねェや」
ごめんな?と小首を傾げて、眉を八の字に寄せて、申し訳なさそうに謝る。小春は「こ、このォ…」と何か言いたそうに睨みつけてくる。けど、ビビリだから正面切って反論することができずに、ぷるぷると震えているだけ。ああ、面白い。愉快愉快。
「…はあ、ケータイ、置いてきちゃったのしくじったなあ…」
小春はベンチに座って、ハァッとため息を吐いた。両手で握っているスーパーの袋が揺れる。その中には大量のマヨネーズ。土方さんのために買い出しに行った小春を手伝うために、俺もついて行った。…といえば聞こえはいいが、本当の目的はマヨネーズに毒を混ぜるため。髑髏マークが描かれたビンが今もこっそり俺のポケットの中で眠っている。
「俺もケータイ置いてきちまったしな」
「…総悟くんって…今、勤務中だよ、ね…?」
「当たり前だろィ」
「…勤務中にケータイ置いていく人って…」
「ぐちぐちうっせーぞ小姑か」
「いだいいだいいだい!!ごめぇぇん!!」
うるさいことばかり言う小春の頬をぎゅうーっと思いっきり引っ張って離す。相変わらずよく伸びる頬だ。餅のよう。小春はうう…とめそめそしながら赤くなった頬を摩った。
「ヒマだな。なんか話しなせェ。腹抱えて笑える奴以外デコピンな」
「え、ええええ…!!ちょっ、ちょっと待っ…!!」
「はい、さん、にー、いち」
「うわああ、え、ええっと…っ、銀ちゃんがこの前、」
「はいアウトー」
「ぎゃあああああ!!」
小春の後頭部を捕まえて、容赦なくデコピンする。しゅうう…と煙が小春の額から沸いた。額を抑えながら悶絶している小春を見ると暖かい気持ちになれる。この前ザキに『時々隊長にサイコパスの毛を感じます』と真顔で言われた。その横で土方さんが『俺は毎日感じている』とぼそっと同調していた。
「そ、総悟くんはなんかないの?」
「滑らない話?」
「す、滑ってもいいから、その、昔の話、とかそういうの」
小春は指で手遊びをしながら、なにやらごにょごにょと呟いている。目ん玉はずっと泳ぎっぱなしだ。
「昔の話、ねェ」
腕を組みながら、どんより曇り空を見上げる。ザアザア降りしきる雨。それらは、寺子屋の帰りに突然雨が降ってきた、あの日を連想させた。
「ガキの頃、雨宿りしていたら、姉上が迎えに来てくれたんでィ」
小春の肩がぴくっと動いた。姉上の話をするのは、久方ぶりだった。俺の大好きな、女の人。小春とも、仲良さそうにしていた。小春が姉上と仲良くしているのを見ると、胸の奥がむず痒くなった。美人な姉上と、平凡な顔立ちの小春。全然似ていないのに、姉妹みてェ、と思った。そう思えたことが、嬉しかった。
「傘忘れた馬鹿なガキのことなんか、放っておけばいいのによ。…体弱ェのに、雨の中、迎えに来てくれて、嬉しかった」
そう言って、俺は黙った。本当に、それだけだった。姉上が迎えに来てくれて、嬉しかった。何のドラマ性もない、面白くねェ話。欠伸もんのつまんねェ話。もうちっと、気の利いた話をしろよ、と自分でも思うが、剣一筋で生きてきた田舎者は話題のレパートリーが驚くほど少ない。
「…そんだけでさァ」
少しだけ羞恥を覚え、この話は終いだと言いたげに、小さな声で話を切り上げる。ざあっと降りしきる雨音。続いて、儚げな声とは程遠い、能天気な声色が、そっと鼓膜を揺らした。
「…ミツバさんだなあ」
嬉しそうな声音を漏らした唇は、ゆるりとだらしない弧を描いた。筋肉が抜けきったのではないかというくらい、緩んだ両頬のくぼみを俺に向ける。
「わたし、総悟くんから聞くミツバさんの話が大好きなの。…ミツバさんから聞く、総悟くんの話も大好きだった」
過去形であることを悼むように、一瞬だけ、そっと悲しげに目を伏せた。でも、また笑顔を俺に向ける。
「わたし、ミツバさんと総悟くんのお話たくさんしたんだよ。自分よりもひとまわりも大きい男の子を泣かして、謝りに行った日のこととか、土方さんと殴り合いをして、近藤さんに叱られて、ふくれっ面でごはんを食べる頬っぺたが可愛かったとか、そういうこと、色々教えてもらったの」
―――だから、今度は。
一旦、言葉を区切って、草木が水を弾くような笑顔を浮かべ、もっと、とせがむように隊服を掴んで、言ってきた。
「総悟くんが、ミツバさんのお話を、わたしにたくさんしてほしい。なんでもいいの。なんでも、すごく気になるから」
小春はうへへ、と笑う。へらっと緩むだらしない口元は、お世辞にも整っているとは言えない。姉上の微笑みは、綺麗だった。もともと整った顔立ちが、笑うんだ。儚さの中に一本の芯が通っているような、強くて、優しくて、綺麗な笑顔。小春のと比べものにならない。
それなのに、なんでだ。小春の笑顔は、姉上の笑顔と同じくらい、でも、違ったところで、俺の胸を、熱くさせる。
うねっている髪の毛が、揺れて、小春の頬に当たった。本当にうねうねだ。よくここまでうねるものだ。人差し指と中指で一束摘み上げて、じっと見つめる。
「へ、そ、総悟、くん?」
不意に、俺に髪の毛を触られて、小春は目をぱちくりさせた。間抜け面。人差し指に、小春の髪の毛を巻きつけていく。柔らかくて気持ちいい。一瞬、そっと目を閉じた。
「…よくもまァ、ここまでうねるもんでィ」
がーん、とタライを落とされたかのように、跳ね上がる小春。唇をキュッと噛んで、目に涙を浮かべて。あーあ、ブサイクな面がもっとブサイクになってらァ。
恨めし気に俺を軽く睨む瞳。でも、それは、すぐに変わった。
「…十歳の時、姉上の誕生日に、」
そう話しはじめただけで、小春の瞳は恨めし気なものから、きらきらと輝きを宿らせたものに変わった。うん、うん、と興味深そうに頷いてくる。とりとめのないこと。姉上に竹とんぼを作って渡した。それだけの話。それだけのことを、楽しそうに聞いてくる。次の年は何を渡したの?と訊いてくる。また、つまらない話をする。
「それで、その次はどうだったの?」
―――総悟くん。
緩みきったその声で名前を呼ばれるこの瞬間。自分の名前が、世界で一番特別な響きを持っているように感じる。バカバカしい。本当に、バカバカしくてたまんねェや。
ザアザアと降りしきる雨の中、傘をさしながら姉上と肩を並べるのが、大好きだった。あの時間はもう、絶対に返ってこない。俺と姉上が肩を並べることは未来永劫ない。
でも。
「小春」
名前を呼ぶと、小春が体を固くして、頬を赤く染めた。じいっと目を合わせると「な、なんでしょうか」と口をもごつかせる。何ビビッてんでィ、と訊くと。
「…総悟くんに名前呼ばれるの、実はまだ、ちょっと…緊張、していまして」
その、あんまり呼ばれないし、と目を泳がせながら言う。
…俺だけじゃねえってことか。
「そんなら、まァ、許してやらァ」
「…えっ、なにを許さないつもりだったの…!?」
今は、小春がオレの横で、百面相していて。姉上より数段見劣りするその表情は、俺の心を柔らかく暖かく溶けさせていくのだった。
それは目の眩むような
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