とおまわりの記録



東堂の様子がおかしい。

いつもなら、大会が終わったあとの平日、今回の巻ちゃんとのレースはうんたらかんたらと、わたしに饒舌に話しかけてくるのだけど、今回は何も話しかけてこなかった。ずっと頬杖をつきながら、無表情で自分の席に座っている。

「東堂?」

心配になって一時間目が終わったあと声をかけてみると、「おお」と笑顔で返された。だけど、その笑顔はどこか嘘くさかった。いつもの自信に満ちた笑顔ではない。

「どうしたの?昨日のレースでなにかあったの?」

ぴくりと、東堂の眉毛が動いた。どうやら当たっていたらしい。東堂の表情が強張ったものになる。少し俯いて、目線を泳がせながら言いよどんだ。東堂の膝に置かれた掌が拳になった。ぱっと顔を上げて、綺麗だけど作り物めいた笑顔をわたしに向けて何てことなさそうに言った。

「巻ちゃんとは、走れなかった!」

「…へ?」

わたしの脳みそは鈍くて、なかなか言葉の処理ができなくて、東堂の言っている意味が理解できなかった。ぱちぱちと瞬きをする。ようやく、言葉の意味を理解できた時「なっ、なんで!?」と声を大きくしてしまった。

「巻ちゃんのロードがパンクしてしまってな。仕方がない。そういうこともある」

なんてことなさそうに話しているけど、無理して笑顔を作っているのがバレバレだ。東堂は「よしっ」と喝を入れるように声を上げた。

「俺はな、これからもっと精進せねばならん!これで巻ちゃんとの走りは、今年のインハイが最後になった!だから、もっと今以上に速くなる!速くならねばならない!」

じゃないと。
それまでの明るい声とは打って変わって、暗いものになった。

「走りたくても走れなかったアイツに失礼なことになる…!」

一拍置かれて紡がれた言葉から、東堂の悔しさ、悲しさが、ありありと伝わってきた。

東堂の悔しそうな顔を見て、胸がきゅっと痛んだ。

確かに、そうだ。走れなかった巻ちゃんとの勝負を果たすためには、東堂はこれからもっと速くなって万全の状態で巻ちゃんとの勝負を出迎えなければならない。それはわかっている。正論だ。でも、何か嫌な予感がする。

「すまんな、こんな話を聞かせて」

「っ、“こんな”んじゃ…!」

反論しようとしたら、先生が教室に入ってきた。まだ席についてないわたしを見て眉間に皺をよせてから次に東堂へ視線を移して苦々しく言う。

「こら東堂、吉井を引き留めるんじゃない」

「え、ちっ、ちが」

「いや〜すみません先生。ちょっと会話がとまらなくなってだな!」

「お前はお喋りが過ぎる。ほら吉井、座りなさい」

「先生、ちがいま、」

「吉井、話を聞いてくれてありがとう」

東堂はわたしの言葉にお礼を重ねて、誤解を解く暇を与えない。悲しそうな目を東堂に向けると、穏やかに笑っていた。

東堂はいつだってわたしに優しくて、わたしを守ってくれて、わたしは東堂になにかをされてばかりだ。だから、わたしだって、なにかをしたい。こんなに東堂が悲しそうなのに。悔しそうなのに。わたしはなにも。

下唇をぎゅっと噛むことしかできない自分が、情けなくて仕方なかった。



それから東堂は、練習に必死に撃ち込んだ。今までだって必死だった。いつだってひたむきに練習していた。けど、最近の東堂は尋常じゃない。朝練も人より二時間もはやく来て練習をしているらしい。そのせいか、授業中はずっと寝ている。

「東堂」

「…え…。…す、すまん!俺、寝ていたか!?」

「うん…」

「すまん!なんの話をしてたっけな!?」

慌てふためきながら東堂はわたしに謝ってくる。昼休みも東堂はよく眠そうにこくりこくりと首を動かすようになった。半分寝ながら食べるものでお箸を鼻の穴にさしていることもある。偶然通りかかった荒北くんが指さして大笑いしていた。

「東堂、その…練習、無理しすぎてない…?」

素人がですぎたことを言っているのはわかる。でも、このままだと東堂が壊れてしまいそうな気がして、怖くなって、おせっかいなことを口にしてしまった。

「別に、無理はしてないぞ」

「でも、練習メニューも今までの倍してるんだよね?」

「まあな。巻ちゃんとのレースのためだ。俺達には、もう今年しかないんだ」

ぎゅうっと、お箸を掴む手に力が入ったのがわかった。

いつもの明るい顔が、暗いものになって、ぽつりぽつりと言葉を落としていく。

「もう、あんなライバル、見つからないかもしれないんだ。いや見つかる見つからないじゃない。…だから、」

そこまで言って。東堂はハッと我に返った。すぐに元の明るい表情に戻って「いやー、すまんな!少しばかり変なテンションになってしまった!」と笑い飛ばした。

東堂は優しくて、気遣いができる人だから。わたしに気を遣わせないために、元気な振りをしているのだろう。わたしを心配させないための行動だってわかっているけど。

悔しいという気持ちの方が、遥かに大きい。

東堂の空元気な姿を見るのが耐えられなくて、わたしは、視線を下に落とした。




東堂のために、なにかできることをしたい。なんでもいい。遣る瀬無くて、誰かに八つ当たりしたいのなら、わたしに八つ当たりをしてほしい。

何かあったらその時はよろしく頼む、って言ってくれたのに。全然頼ってくれない。

…東堂が優しいからってのもあるけど、わたしが頼りないってのもあるんだろうな…。

廊下を歩きながら、はあ、とため息を吐く。今まで、散々東堂に迷惑をかけてきたわたしだ。頼られないのは仕方ないことなのかもしれない…。けど、悲しくて、寂しい。

もう一度、ため息を吐くと、前方に見知った金髪の男の子がいた。後ろ姿だけど威圧感と金髪でわかる。福富くんだ…とぼんやり思っていると、とある考えを思いついた。

今、東堂と一緒にいても、東堂は始終眠そうだからきちんと話すことができない。でも、運動の後なら細胞が活性化されているから目が冴えているはずだ。なら、きちんと話すチャンスと言えば、部活後の時。夜は疲れてはやく眠ってしまう可能性大だし。

おせっかいだと鬱陶しがられるかもしれない。でも、それでも。

わたしはよしっと息ごんでから、福富くんに向かって小走りで駆け出した。














「お、お疲れ様〜」

東堂は口をあんぐりと開けて、ひらひらと手を振りながら出迎えたわたしを凝視していた。ヘルメットを小脇に抱えて「な、なんでお前が…?」とわたしを指さす。

「大丈夫!きちんと福富くんに部室で東堂待っててもいいって許可もらったから〜!」

ポケットから折り畳んだ紙を広げて東堂に向ける。そこに書かれた文面は『吉井幸子を東堂が戻るまで待つことを許可する。福富寿一』。それをしげしげと読んだ東堂は「何をやっているんだフク…」と掌で目を覆った。

「こんな夜遅くまで…危ないだろう。帰りはどうする。バスはもう全て出ただろう」

「お母さんに迎えに来てもらうよう頼んだから大丈夫!」

「そこまでして、何をしたいんだ?」

東堂が訝しがるように問いかけてくる。わたしは「えっと…」と言葉を濁らせてから、真っ直ぐに東堂を見据えた。

「東堂とちゃんと話がしたくて」

じっと、真っ直ぐ、東堂を見つめる。東堂の顔が少し固まった。ふい、とわたしから目を逸らして、椅子に腰かける。

「そこまでするような話はないだろう」

「あるよ。最近の東堂おかしい」

「おかしくなんかない」

「おかしいから、わたしの無理なお願いも福富くんも許可してくれたんだよ。部活終わっても、部外者のわたしが部室で待つなんてお願いおかしすぎるよ。福富くんも東堂のことを心配してるよ」

「心配されるようなことを俺がしてるとでも言いたげな口振りだな」

苛々したように言う東堂を初めて見た。東堂はいつだってわたしに優しく話しかけてくれる。だから、こういった態度をとられることは正直辛い。心がしゅんと落ち込む。でも、わたしはそれでも、東堂ときちんと話がしたかった。

「素人のわたしが口挟むことじゃないとは、思う。でも、東堂の今の練習量、どう考えてもオーバーワークなんでしょう?駄目だよ、そんなことしちゃ」

「お前に何がわかる!!」

東堂の怒声が部室内をびりびりと震わせた。びくっと肩が震えたのを感じた。東堂は目を吊り上げて、わたしを睨みつけながら怒鳴る。

「巻ちゃんとのレースは今年の夏が最後なんだ!もうないんだ!その時しか俺の走りをアイツにぶつけられないんだ!その時に最高の俺でいなかったら、アイツのあの時の悔しさを踏みにじることになる!そんなことになったら俺は自分のことを許せない!」

そこまで言って、東堂は我に返ったようだった。あ、と口から声が漏れる。

「…すまない」

東堂は俯きながら、ぽつりと、小さな謝罪の言葉を紡いだ。

東堂にとって、巻ちゃんと走るということは、何物にも代えがたいかけがえのない大切なことだ。前回は負けてしまったが、今回は勝つ!今回は勝ってしまったが油断はできん!と楽しげに目を輝かせて饒舌に喋る東堂の姿を見て、思った。

自分のすべてを懸けて、ライバルと競い合う。
わたしは、今までひとつのことに捧げてきたことがなくて、だらだらと生きてきた。だからかもしれない。東堂から聞く勝負の世界はとても魅力的だった。心の底からかっこいいと思った。あんまりにも楽しそうに話すものだから、東堂の目になって、東堂が見る世界をいっしょに見てみたいと思った。

でも、それはできない。わたしは東堂の目ではない。ロードレーサーでもないから東堂の話に共感することもできない。東堂の世界を見ることも、共感することもできないけど。

「東堂」

一歩、足を前に出したところで自分の足が震えていることに気付いた。さっき、怒鳴られちゃったもんなあ。正直怖かった。けど、怖いって思うのと同時に。

東堂の前へ立つ。東堂は俯いたままだった。

「嫌だったら、突き飛ばして」

「…え」

東堂が顔を上げるのと同時に、東堂の頭をそっとわたしのお腹に寄せた。汗の匂いがする。

怖いって思うのと同時に、嬉しかった。
東堂の怒った顔を、初めて見れたことが、嬉しかった。

「わたしね、恥ずかしいけど、東堂みたいに何かに一生懸命になったことが今までで一度もないの。ライバルとか、そういう人もいなくて。だから、東堂の悔しさに共感することはできない。でも、東堂が本当に本当に本当に悔しくてたまらないってことだけはわかっている、つもり」

出過ぎたことを言っている。しかも、こんな抱きしめたりするなんて。おせっかい。出しゃばり。自分でもそう思う。

「巻ちゃんとのレースも本当に楽しみにしてる、ううん、楽しみなんて言葉で片付けられないくらいのものだっていうこともわかってる、つもり。だからこそ、おせっかいやく。このままだと東堂の体がまいっちゃって、来年巻ちゃんと走るまでにダウンしちゃうような気がする。そうならないかもしれないけど、今みたいなことを続けていたら、その可能性が大きくなっちゃう。もし、そうなったら」

そうなったら。東堂が体を壊しちゃって、巻ちゃんと走れなくなっちゃって。そう考えてぞっとした。

「嫌だよ、わたし、そんなの嫌、東堂が悲しむところなんて、見たくないよ。嫌だよ、やだ」

後半は涙声になってしまった。ぎゅうっと、東堂の頭に回す腕の力が自然と入る。

「   」

小さい掠れた声が聞こえたような気がした。え、と目を見張らせてから耳を澄ませる。すると、また、掠れた声だけども、今度は捕えることができた。

「ごめ、ん」

涙声で紡がれた小さな謝罪の言葉が聞こえた。わたしの腰に手が縋り付くように回された。ぐい、と引き寄せられる。

「…っ」

鼻を啜る音に続いて、小さな嗚咽が聞こえた。

まだ最後じゃない。もう一回だけ、一緒に走れる。けど、そういう問題ではない。ただ、走りたい。競争したい。自分を限界まで引き出させてくれる相手と走れる機会をひとつ逃してしまったのだ。

泣くほど悔しくない訳がないのに、みんなに心配させまいと無理をするものだから、こんなに貯めこんでしまって。

…馬鹿。

そう思いながら、湧き上がるのは暖かい気持ち。わたしは東堂の頭をゆっくりと撫でた。








「…すまない、こんな時間まで…」

それから少し経って、東堂がわたしの腰から手を離した。すくっと立ち上がって、わたしを見下ろす。

東堂の鼻の頭が少し赤くなっている。気まずそうにわたしから目を逸らしてぼそぼそと謝ってくる。

「いいよいいよ、わたしが好きでいたんだし。東堂は寮の門限を特別に長引かせてもらっているんだっけ、練習のために」

「ああ。…そんな顔するな。もう元に戻すから」

心配そうに眉でもひそめていたのだろうか。ふっと安心させるように笑いかける。

…って。

驚きで目が見開いてしまった。

「周りの者に、やり過ぎだと言われてもやめなかった。お前の言うとおりだ。無理して練習しても体に負担がかかるだけ。体調管理だって大切だ。…そんなことすら見えなくなっていたなんて、俺はだいぶテンパっていたな」

東堂はそう言ってから、ははっと自嘲した。

馬鹿って思ったけど、東堂が自分のことを自嘲しているのを見るのは辛かった。

「わたし達、まだ高校生なんだから、テンパるよ。箱学の副キャプテンでも、山神でもテンパるよ」

そう言うと、東堂は優しい眼をわたしに向けて、「お前は本当に優しいな」と、穏やかな声色で言う。

優しくなんてない。
ただ、わたしは東堂には笑っていてほしいだけ。

そう言えばいいのに、東堂に“優しい”と思われていたくて何も言わないまま、東堂をじっと見つめる。そのままじっと見つめていると、東堂の顔が赤くなった。

…?

首を傾げて東堂を見ると、さらに東堂の顔が赤くなって、上ずった声をあげる

「あ、あのな、ああいうこと、他の男にするなよ」

「ああいうこと?」

「お、男を抱きしめるとかそういうことだ」

東堂の目がずっと泳ぎっぱなしだ。男を抱きしめるとか、そういうこと。そう言われて、先ほどまで自分がとんでもないことをしていたことに気付き、ぼんっと体温が上がる。

「い、嫌だった?」

「嫌じゃない!!嫌じゃないんだ。男はその、邪なことを考える生き物だからお前の優しさにつけこんでなにか嫌らしいことをするかもしれなくて、いや俺はそんなこと考えていないのだが!」

「東堂は嫌じゃないの?」

「嫌じゃない!」

「それで、他の男の子にはしてほしくないってこと?」

「…そういうことに、なるな」

ああ、何を言っているんだ俺は…東堂はそう呟きながら片手で顔を覆う。そんな東堂が面白くて、可愛くて、笑いが込み上げた。

「しないよ」

真っ直ぐに東堂を見る。優しい気持ちが溢れる。東堂が手を顔からどけて、わたしを見返した。ぱちぱち、と瞬きをしている。

「だって、男の子で抱きしめたくなる人って東堂だけだもん」

言ってから照れてしまって笑って誤魔化す。東堂は瞬きを数回繰り返したあと、またまた顔を赤くした。

「…校門まで送らせてくれ。それで、吉井の母さんにお詫びをさせてほしい」

「えっ、な、なんで。わたしが勝手にした事だよ?」

「俺はお前を心配させて八つ当たりして、こんな時間までいさせたんだ。お前にもお前の母さんにも謝らないと気が済まない」

東堂は真摯な目をわたしに向けて真剣に言う。

お喋りで軽薄な人。東堂はそう思われることが多い。そう思っている人は、本当に損をしていると思う。

こんなに真面目で紳士的な人ということを知らないで生きているなんて、勿体ない。

「着替える。すまないがちょっと出てってくれないか?」

ほんと、不思議。

「…お前、またか…」

なんでだろう。こんなにかっこいいのに。

「はい、起きろ!」

ぱん、と目の前で叩かれた。「わ!」と驚きの声をあげて、物思いの世界から帰ってくる。

「またぼーっとしていたぞ!」

「ご、ごめん〜」

「すまないが着替えるから出てってくれないか?」

「あ、うん。わかった」

部室を出てって、壁にもたれる。今日も星がきれいだ。山に囲まれていて、他に建物がないから星の輝きが濃い。

あんなにカッコいい男の子に彼女が今まで一度もいたことがないなんて。

「不思議だなあ…」

ぽつりとつぶやいた一言は、星空の中へ消えていった。








六等星の存在証明



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