わたしが東堂のよくわからない彼女“役”を務めるようになってから大分たった。始めた時は二年生だったのに、もう三年生になってしまった。アツアツのうどんをふうふうと冷ましながら食べているわたしの目の前で、東堂は電話をしていた。
東堂は何度もその人にしつこく電話をかける。彼女“役”をやる前、東堂が食堂でその人に電話をかけているのを何度も見た。初めてその名前を聞いた時、女の子かと思ったけど、女の子ではなくて、男の子らしい。その名前は。
「もしもーし、巻ちゃーん」
巻ちゃん、さん。うん、やっぱり、女の子の名前のように聞こえる。下の名前じゃなくて、苗字らしいけど。
「まあまあそんな怒るではない。カルシウム不足じゃないのか?」
ワッハッハッと楽しげに笑う東堂を見ながら、ジュースをストローで吸う。本当に巻ちゃんさんのことが好きなんだなあ。東堂はよく巻ちゃんさんの話をわたしにしてくる。この前のレースで巻ちゃんがうんたらかんたら。巻ちゃんは生涯の俺のライバルだ、と嬉しそうに言っているのを見た時は、なんだかわたしまで嬉しくなったものだ。
昼休み、ごはんを食べたあと「久々に巻ちゃんに電話してみるか」と東堂が言った。「この前はいつ電話したの?」と訊いたら「一昨日だ」と答えた。それは久々なのだろうか。
「今日は紹介したい奴がいてな。そうそう、いつか話しただろう。そいつだ。吉井ー」
「へ」
このタイミングで呼ばれると思っていなかったわたしは腑抜けた声を漏らしてしまった。何故かどや顔で携帯電話を渡される。わたし?と言うように自分を指すとこくりと頷かれた。またしてもどや顔で。はあ…と思いながら受け取って、耳に当てる。
「も、もしもし」
「もしもし…」
お互い急に話すように仕向けられて、なんと会話したらいいのか全くわからなくて、気まずい沈黙が流れる。
と、とりあえず自己紹介しなきゃ、だよね。
「わたし、東堂の友達の吉井幸子っていいます。巻ちゃんさん、ですよね?」
「巻ちゃんさん、って」
巻ちゃんさんはクハッと特徴的な笑い声を上げてから「アンタが、あの」と言った。
その口振りが、以前からわたしのことを聞かされていた風に聞こえた。そういえば先ほど東堂もわたしのことを巻ちゃんさんに話したことがあるみたいな口振りだった。
「わたしのこと東堂から聞いてるんですか?」
「あー何度かな。っつーか、同い年なんだからタメ語でいいぜ、堅苦しいのはなしッショ」
「あ、うん」
「炭酸見て急に笑い出したかと思ったら、アンタが炭酸振って、開けた途端炭酸直撃したっつー話とか聞かされた」
「ええ!?」
「友達に炭酸を呑む前振るとおいしいって騙されたんだろ?にしても信じるかねえ。っつーか、それまで飲んだことなかったわけ?」
「あ、あったけど、振ったら駄目って今まで言われてきたのはみんなわたしに意地悪してきたんだよって言われて」
「それから卓球ですっげー空振りしたんだろ?卓球できるとか言っておいて」
「そ、そんなことまで…!」
恥ずかしい過去を暴露されてしどろもどろになりながら説明するとくつくつと喉で笑う声が聞こえる。かあっと顔に熱が集まっていくのを感じる。恨めし気に横目で東堂を見ると「む?」と不思議そうに首を傾げられた。
こうなったら…!
「わたしにも、なにか、何か教えて巻ちゃんさん!」
「えっ、それはつまり…東堂の?」
「うん!」
「急にそう言われてもな…。アイツ言動すべてが恥ずかしいところあるし…。あー、なんかアイツな、いつものってやつがあんだよ」
…なんかものすごく馬鹿なことやっている気がする…。
横目でちらりと東堂を見ると不思議そうに首を傾げたままだった。
「なんだったけな、登れる上に、トークも切れる、さらにこの美形、天は俺に三物与えた、箱根の山神、天才クライマー東堂とは俺のことだ。…あー覚えちまった、なんか悔しいッショ」
巻ちゃんさんは棒読みで東堂の“いつもの”の台詞を言った。
そう言っている東堂が、ものすごく簡単に想像できて、ぷっと噴出してから、声を上げて笑ってしまった。
「あは、あははは!言ってそう〜!」
「言ってそうじゃねえ。言ってるッショ」
「そうなんだね〜、あははは!言われた相手なんて返せばいいかわからないよねえ、あはは!」
「前から思ってたけどよ、自分で自分のこと美形って言うか、普通?」
「うーん、でもまあ実際そうだしねえ」
「正直人によっては新開のがイケメンだと思うッショ」
「巻ちゃんって結構毒舌だねえ。…っあ、ごめん、なれなれしかったね」
「別にいいッショ。馴れ馴れしいのは東堂だ東堂。あいつの馴れ馴れしさには誰も勝てねェ」
「あはは!」
笑いながら、ちらりと横目で東堂を見て、驚いた。東堂の頬が少しだけ膨れいてた。むすっとした顔つき。これは…拗ねている?
もしかして、わたしが巻ちゃんと仲良くしているから、わたしに嫉妬したのかなあ。
東堂の大切な友達をわずかな時間だけど、独占してしまってなんだか申し訳なくなって、会話を切り上げることにした。
「巻ちゃん話してくれてありがとう。すごく楽しかった。また話してくれる?」
「おう、俺も楽しかった」
「じゃあ、東堂に代わるね」
「え、別にいい―――」
巻ちゃんがまだ話していることに気付かず、わたしは東堂に携帯電話を返した。
「はい」
「…うむ…」
まだ頬が少し膨れている。東堂は拗ねたまま電話を受け取った。テンションが低いまま電話に出て、二言三言会話した後、電話を切った。
いつもの豊かな表情の変化が東堂の顔に現れない。むすっとしたまま。
「東堂…?」
どうしたのかな…?
顔色を伺うように、恐る恐る名前を呼ぶ。
「…俺と初めて話した時より、よく話したな」
「へ」
「ものすごく、楽しそうだったぞ」
「まあ、うん。楽しかったし」
何故か沈黙が流れる。やっぱり東堂はわたしにヤキモチを妬いているのかなあ…。東堂を元気づけるために「大丈夫だよ!」と声を張り上げた。
「巻ちゃん、東堂のこと大好きだよ!」
「…巻ちゃん」
「そうだよ!言い方はあれだけど、それはよく見てるってことであって!」
「俺の苗字呼び捨てにするの時間かかった」
「じゃないとね、電話も着信拒否にすると…ん?」
会話がかみ合っていないことに気付いて、パチパチと瞬きをしながら固まった。
「しばらくの間、ずっと東堂くんって、他人行儀だったじゃないか。吉井から話しかけてくることだって少なかったし。しかし巻ちゃんとは会話して三分くらいで仲良くなって…」
東堂はむすっとふくれっ面で話す。
もしかして、これは。わたしに、じゃなくて。巻ちゃんに嫉妬しているのかな?
「…くそーっ!ずるいぞ巻ちゃん!俺だって仲良くなるの時間かかったのに!巻ちゃんめー!!」
東堂は頭を抱えながら叫んだ。それが決定的な証拠となった。
東堂、嫉妬しているんだ。巻ちゃんに。
そう実感して、頬が熱くなる。そして、緩んだのを感じた。
「わたし、巻ちゃんが東堂の友達じゃなかったら、こんなにはやく仲良くならなかったよ」
頭を抱えている東堂に向かって、穏やかな声音で話す。東堂がわたしに顔を向けた。目と目が合う。東堂の瞳の中にわたしが映っていた。わたしがどんな顔しているかまでかは見えないけど、多分、幸せそうな顔をしているのだろう。
「そ、そうか」
東堂が照れ臭そうに笑って、首の裏に手を回した。
「ねえ、なんでわたしを紹介したの?」
「いつか紹介したいって思っていてな。お前は大切な友人だし」
「えへへー、嬉しい。でもね…なんでわたしの失敗談義を広めてるの!?」
「お前と言う人間がどんな人物が知ってもらうにはいいエピソードだろう」
「何もあれを言わなくたっていいじゃん〜!」
今度はわたしがふくれっ面になる。すると東堂は楽しげに「ははっ」と声を上げて笑った。
その笑顔を見たら、まあいっかと許してあげようと思えるのだから、わたしって単純なやつだ。
「今度、大会あるんだよね?」
「おお、そうだ!巻ちゃんも出る!」
「がんばってね!」
「おう!」
心から巻ちゃんとの勝負を楽しみにしている東堂の笑顔を、これからも、ずっと近くで見ていきたい。そう思いながら、東堂の笑顔を見た。
この時は、この笑顔が曇ることを、この時のわたしは、まだ知る由もなかった。
もう還らないと言う
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