とおまわりの記録



まだ暑さが残る九月だ。六時間目、炎天下の中でやる体育はただただ暑くて、ただでさえむさ苦しい男子更衣室は男の熱気と汗によってむさ苦しさが倍増していた。

「あっち〜」

「死ぬ」

「さっさと涼しくならねーかな」

「よし、俺のこの美しい顔を見て元気を出せ!」

「あーはい、うん。わかった」

「おいなんだその態度は!!」

「東堂うるせー」

「あーはやく夏終われ」

各々が夏への不満を垂れ流していると、たったひとりの男子が「え、暑いの最高じゃん」と夏を褒めた。「は?お前気が狂ってんの?」と暑さのせいか苛立ちを含んだ返答をされて、そいつは、わかってないなあと言うように、肩を竦めた。

「暑いとさ、夏服じゃん。つまりさ、まあ、透けるじゃん?」

ああ、まあ…。

「それはそうだな…」

男子一同、深く頷いていた。俺も含めて。

「キャミのさ〜ずれたとこから見えるあのブラ紐が拝めるのは夏だけだもんな…」

「時々ずれたブラ紐を直す仕草が好きなんだよな〜」

「あっ、それわかるわ」

徐々に会話がそういう方向へ持っていかれていく。話題は仕草から女子へと移って行き、A組のなんたらが可愛いだの、C組のなんたらも可愛いだの、そういう談義に花を咲かせる。ほう、と頷きながら話に耳を傾けていると「東堂は誰が可愛いと思う?」と話を振られた。

「俺は…」

顎に手を当てて、考える。思い浮かんだのは、のほほんとした笑顔の持ち主だった。

「吉井だな!」

自画自賛する時と同じような調子で、自信満々に吉井の名前を挙げた。吉井は可愛い。前々から思っていたが、最近特にそう思う。流石この俺の友人だけなことはある。そう思っているので、すぐに同調が返ってくると思ったのだが、返ってきたのは「あー…」という微妙な反応だった。

「吉井はな〜、ブスってわけじゃねーけど、可愛い顔っていうとちげーよな」

「性格とかすっげえいいんだけどな〜」

「確かに、顔立ちは俺ほど整っていないが…」

でも、アイツは可愛らしいんだぞ。俺の話をいつもニコニコしながら聞いてくれて、カッコいいと褒めてくれて、気遣いもきちんとできて、誕生日おめでとうと言われるだけで、心底嬉しそうに笑ってくれる。山頂で見せたあの笑顔は、本当に可愛らしかった。

そう言おうとした、口を噤んだ。

何故だか、そういう吉井を知られたくなかった。俺だけの秘密にしておきたい、という気持ちが勝った。

俺が口を閉じている間に、吉井の話題は進んでいった。

「でもさ、吉井って胸でっけえよな」

「お前も思ってたんだ」

…は?

思いもよらぬ展開に、俺は戸惑う。

「母性愛強そうだし、なんつーか、団地妻って感じじゃね?」

「団地妻って、おい。ぶほっ。女子高生だろーが。でもわかる」

「そういえば俺の兄ちゃんが吉井に似てる女優が出てるやつ持ってたわ」

「マジ?」

「団地妻もん」

そう言って、どっと沸き上がる笑い声の中に、俺の声は含まれていなかった。

なんだろう、この、沸々と湧き上がる苛立ちは。

「…よさないか、この話は」

聞くに堪えなくて、くぐもった声で言うと、「東堂が言ってきたんだろー?」といなされた。

「なあなあ、彼女“役”になってもらってんだろ?なんかエロいことした?」

「アイツ優しいからなんでもやらせてくれそう」

普段は好ましく思っている友人たちが、嫌らしくて、醜い、獣として俺の瞳に映った。はっきりと、その場の明るい雰囲気に似つかわしくない嫌悪感をたっぷりこめた固い声で俺は言った。

「してない」

いつも快活に饒舌に喋る俺の固く尖った声は、その場を静まり返らせるくらいの効力は持っていた。

「あ、えっと…」

「な、なんかゴメンな東堂…」

謝られたのにも関わらず、俺の怒りはなかなかと消えてくれなかった。













「尽八どうした?」

練習の後、スポーツ飲料を喉に流し込むようにして飲んでいると、聞きなれた穏やかな声が俺を呼んだ。声の先に顔を向けると、隼人がちょうどカロリーバーを食べ終えたところで包装紙をくしゃくしゃに丸めていた。

「お前、今日の練習ずっと苛々してただろ」

「…俺はそんなに顔に出やすいだろうか」

「ああ」

あっさりと返されて、そうか…と脱力した。副キャプテンになったのだから、簡単に負の感情を外には出していけない。部にまで影響を及ばしかねん。精進せねば…。

「何があった?」

優しく諭すように問いかけてくる隼人の口振りは、兄貴のようだった。そういえばこいつ弟がいるんだったか。

少し口ごもってから、俺は口を開いた。

「友人を性的な目で見られていたら、どう思う?」

「あースッキリした」

俺が言ったのと同時に荒北が部室に入ってきた。ピッピッと手を振って水を払い飛ばしている。トイレに行ってきたのだろう。全くハンカチを持ち歩けとあれほど…と荒北に説教しようとした時に気付いた。荒北はポカンと口を開いて俺を凝視している。そして隼人も。何故か、部室に奇妙な静寂が流れる。隼人は「えーっと…」と気まずそうに笑っている。

「お、俺にはそっち方面のことはよくわからなくて…」

「…は?…って、ちっがああああう!!女子だ女子!!女子の友人だ!!」

とんでもない誤解を受けていたことに気付き、慌てふためきながら誤解を解く。隼人はほっとしたように「あ、そうなのか…」と息を吐いた。荒北は「あーびびった…」と言いながらドッコイショと床に胡坐をかいた。

「そのだな、女子の友人が、男どもに性的な目で見られていることを知って、たいそう不快だったというか」

「しょうがないんじゃナァイ?男なんて皆そんなモンだろ。お前だって女子のことエロい目で見ない訳じゃねェんだろォ?」

うっと言葉に詰まる。山神と言えど健康的な十七歳男子。そういうことに興味がないわけではない。というかむしろある。俺だって人のこと言えない。あいつらを責める権利などない。わかっている。

「わかっているのだが…」

手を拳に丸めた。力が入って爪が掌に食い込む。

「あいつがそんな目で見られていると知ってから、授業中も気が気でなくてな。部活中の時だって、そうだ。副キャプテンのお前が何やっているんだという話だが。あの時あいつに話しかけていた男子も、あいつの胸とか太腿とかを嫌らしい目で見ていたのかと思うと、苛立ちしか湧いてこなくてだな」

見るな、と俺の背中の後ろに隠したくなった。俺の腕の中に閉じ込めて、この世のすべての嫌らしいものから吉井を断絶してやりたい。

腕の中に閉じ込めたら、あいつはなんて反応するのだろうか。どうしたの、東堂?と優しく気遣ってくるのだろうか。多分、そのような反応をするに違いない。いつだって、自分のことより、他人のことばかり優先するのだから。

「お前さー、そんだけ吉井のこと考えててさァー、まァだ気付かないわけ?」

「気づく?何をだ?…って、ん?なっ、なんで吉井のことだとわかった!?」

「おめさんと一番仲良い女友達と言えば吉井さんだろ」

「バ、バレバレだったのか…!気付かせないように名前を伏せていたのに…!お前ら…できるな…!」

「わかってたけど、馬鹿だわ、お前」

「どこがだ!?」

「あ〜マジで馬鹿だわ。めんどくせェ」

本当に面倒くさそうにふわ〜っと欠伸する荒北に、俺のことを見透かされているようで悔しい。

「東堂気付いてないのォ、マジで」

「気づくって、なにを」

「すげーわ、ここまで鈍感だと」

「だから、何をだ!?」

荒北の言わんとすることが全くわからず、苛立ちが募っていく。隼人が「まあまあ」と俺と荒北の会話に入ってきた。

「尽八はさ、吉井さんのこと、大切なんだろ?」

「当たり前だ。友人だからな」

「違う方の意味で大切だと思わないのか?」

「どういう、」

「お邪魔しま〜す」

「おお、…ん!?吉井!?」

聞きなれた声をスルーしてしまいそうになったところで、違和感に気付いた。この場にいないはずなのに、いた。声の先に顔を向けると吉井は「そんなに吃驚すること〜?」と楽しげに笑っていた。

「はい、これ西川くんから〜。漫画借す予定だったのに東堂がさっさと部活行っちゃったから渡せなかったんだって。行き違い?すれ違い?になっちゃったんだねえ」

「西川に頼まれたのか?」

「まあそうだねえ。でもわたし暇だったし。流石に部活中に渡しに行くのはどうかなーって思って図書室で小説読んでいたんだけど、その小説がすごく面白くてね〜。得しちゃった」

吉井はニコニコと笑いながら紙袋を俺に渡してくる。受け取ると、三十冊は入っている重みがあった。この重さのものを、校舎から離れたここまでわざわざ持ってきたのか。嫌な顔ひとつせずに。しかも、部活が終わるまで待っていたのか。

「お前って将来幸せになる壺とか買わされそうだよネ」

「ぶっ」

荒北が吉井にそう言うと、隼人が確かにとでも言いたげに噴出した。だが俺は笑えない。全く笑えない。サーッと血の気がひいていくのを感じた。

「壺かあ…。今のところ特に興味ないんだけど、素敵な物だったら…」

ほら、またこういうトンチンカンなことを、こいつは言って!

これだから目が離せない!

「吉井!!」

「ん〜?」

がしっと肩を掴んだ。

「何か危ないことがあったり、嫌なことがあったり、怖いことがあったり、いやお前自身がそう感じてなくても、とにかく何かあったら俺に言うんだ!」

「え」

「わかったな!?」

吉井は俺の剣幕に押されてたじたじとしていたが、うーんと唸ったのち「わかった〜」と。いつも通りの見ているだけで脱力しそうなのほほんとした笑顔で返してきた。本当に脱力してしまった俺は本当にわかってるのかこいつは…と思いながら、肩から手を離す。

「東堂もなにかあったら言ってね。嫌なこととか、怖いことあったら」

「俺?」

「うん、東堂もあるでしょ?」

嫌なこと。

そう言われて、思い浮かぶのは、今日の更衣室での出来事。

もやもやとした怒りと得体のしれないどろっとした感情が合わさって、非常に不快だった。それは部活中にまで長引いた。

でも、吉井のこののほほんとした空気にあてられてから、完全には言えないが、心がすっと軽くなった。

前々からこういうことがあった。どんなにやりきれなくても、悔しくても、悲しくても、吉井に名前を呼ばれるだけで。顔を見るだけで。いくらか、心が軽くなる。

不思議な存在だなあ、吉井とは。

「…そうだな。その時はよろしく頼む」

吉井の傍にいると、優しい気持ちになれる。自然と笑みが漏れた俺に釣られてか、吉井もへらっと笑った。









パステルピンクに耽溺

「新開こいつら超うぜェんだけど」

「まあまあ、いいじゃないか、青春で」

「よくねェよ、うぜェよ、俺がうざく思っているんだヨ」


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