『吉井、今日はバイトないのだな?』
『うん』
『今日部活がそこまで遅くならないし、待っていてくれないだろうか?』
『いいよー。なんで?』
『ふっふっふ、それは…内緒だ!』
東堂はふんぞり返って、高らかに言っていた。
教室で小説を読みながら東堂からの連絡を待つ。気付いたら空がオレンジ色に変わっていた。小説を読み終えたあと、頬杖をつきながら、オレンジ色の空を横切って行くカラスをぼんやりと眺めていると、携帯電話が小さく振動した。携帯を開くと、『終わったぞ!校門で待っている!』という東堂からのメールがあった。
それはいいんだけど…、なんで写メまでつけているの?
自分で撮ったのだろう。内カメラに向かって決め顔をしている東堂の想像をすることは容易かった。東堂を白い眼で見る荒北くんまで想像できる。
『はーい、今いく。東堂って自撮りうまいね』
何も触れないのは悪いと思い、とりあえず褒めておくことにした。メールを送信しました、の文字を確認してから鞄に携帯を仕舞い込み、わたしは教室を後にした。
「お待たせ〜!ごめんね、待った?」
「いや、そんな待ってないぞ」
「…と、東堂!今のカップルっぽい会話だったよー!これ未来の彼女さんとのやり取りに使えるんじゃない!?」
「は…っ!ほ、本当だ!今の!今のもう一度頼む!もっとかっこよく彼女を出迎えたい!」
「わかった!」
わたしは頷いてから、三・四歩後ずさり、もう一度小走りで東堂に駆けだした。
「お待たせ〜!ごめんね、待った?」
東堂は、髪の毛をさらっと掬い上げ、靡かせてから、きりっとした笑顔で言った。
「いや、全然待ってないよ、子猫ちゃん」
とてもいい声で、そう言った。
…。
東堂は“どうだ!”とでも言いたげな懇親のドヤ顔でわたしを見つめてくる。鼻の穴が膨らんでいる。
「え、ええっと…、世間一般的にはどうかわからないけど…わたしはちょっと…反応しづらいかな、それ…」
「なに!?なんでだ!?」
「なんていうか、そんなかっこつけなくていいから、もっと普通にやってくれた方が未来の彼女さんも接しやすいと思う。さっきのでいいと思う。さっきので。自然が一番いいよ」
「ふむ…。そんなものか。難しいな、彼女との付き合いってのは」
東堂は顎に手をあてて難しい顔でうむむと唸っている。
「お前がいなかったら、俺はとんだ失敗を未来の彼女に見せていたよ。ありがとう」
「いやいや、わたしは何もしてないよー。で、なんなの?」
「おお、そうだそうだ」
東堂はこっちへ来てくれ、とわたしを校門の外へ手招きした。門の横に置かれているものを見て、ぱちくりと瞬きをした。
「自転車…?」
そこにあるのは普通の二輪自転車。東堂が大会で乗るようなものではなくて、わたしが普段乗っているようなもの。東堂はスタンドを片足で蹴りあげて、わたしの目の前に自転車を持ってきて、ひらりとサドルに跨った。
「さあ、乗れ!」
意気揚々と、高らかに言われた。
「う、うん」
特に反論する理由もないし、乗れと言われたなら乗ろうと思って、荷台に跨る。
「よし、行くぞ!」
東堂がペダルを踏んで、地面を蹴って、自転車が動き出した。
荷台は不安定だ。タイヤの振動が直接伝わる。しかもわたしはバランス感覚が悪い。少し怖くなって、東堂に問いかけた。
「と、東堂」
「む、なんだ」
「腰、つかんでもいい?」
「怖いのか?」
「少し…」
「構わんぞ」
わたしはほっと息を吐いて、東堂の腰をそっと掴んだ。女友達と二人乗りをしたことはあるけど、男友達と二人乗りをしたのは初めてだ。女の子とは少し違う感触がする。
なんだか、変な感じだ。
「東堂の香水って良い香りだよね」
風がふわりと運んでくる香水の匂いが鼻孔をくすぐったあと、わたしはそう言った。
「そうだろう、ちゃーんと考えて買ったからな。この俺に相応しい匂いを身に纏わなければな…と思ってな!」
「うん、この匂い東堂っぽいよ〜。東堂ってお洒落さんだよね〜。わたしも見習わなきゃなあ」
「見習う?」
「わたし服好きだけど、なんかダサく組み合わせちゃうんだよねえ…。香水も素敵だなーって思うんだけど、わたしには恐れ多いものというか…」
「ふむ。休みのときに買い物に付き合ってやろうか?」
「えっ、ほんと?」
「本当だ」
「ありがとう!は…っ、これ、未来の彼女さんとのデートにつかえるんじゃないかな!買い物デートの予習を!」
「…!名案だな!」
東堂の明るい声が返ってきた。よかった、役に立てそう。頬が緩んでいると、東堂の慌てた声が耳に入ってきた。
「あ、でも違うからな!予習とかそういうのではなくて、俺は純粋にお前に何かしてやりたいと思って…!」
「わかっているよ〜」
安心させるように穏やかな声で言うと、「そ、そうか」と安心したように言う東堂の声が面白くて、自然と笑ってしまった。
ふと気が付くと、道は坂に変わっていた。
これを二人乗りは流石にきついんじゃ…。わたし、軽くないし…。
「東堂、わたし降りるよ。この坂二人乗りは…」
「わっはっは!何を案じる必要がある!俺は山神、またの名をスリーピングビューティと畏怖される男!お前がいようといまいと問題ない!」
東堂は高らかに言った。
「…はあっ、ぐっ、こんな…はず、では…っ」
自信に満ち溢れた声は、荒い息に変わっていた。
いつものロードバイクに乗っているんじゃない。普通の自転車に乗っているんだよ、東堂…。憐れみの視線を東堂の背中に投げかける。
「やっぱり降りるよ…」
「降りるな!いける!くそ、今度からはロードバイクで…!」
「ロードバイクだったらわたしどこにも座れないよ…」
「そう、だった…!だから俺は普通の自転車を借りてきて…ぐっ」
東堂のシャツがどんどん汗で透けていく。ぴったりと皮膚に張り付いている。嗅いでみると、東堂の汗の匂いがした。夏特有の空気の匂いと、東堂の香水と汗の匂いが混ざっている。
いつまでも終わりが見えなかった坂にやっと終わりが見えてきた。
「もうすぐだよ、東堂」
「ああ…っ」
懸命にペダルを踏んでいく。わたしは応援することしかできない。
レースでも、いつもこんなんだなあ。
東堂は一心不乱にペダルを踏んで、わたしは応援するという。いつもせわしなく口を動かしている東堂が静かにペダルを漕いでいるのを見た時『誰この人』と思った。
東堂が坂を登りきった。
「よ…し…っ」
はあはあと肩で息をする東堂に向かってお疲れ様と言う。
自転車から降りて、町を見下ろすと自然と感嘆の息が漏れた。
優しく灯る家の光を包み込むのは紫色とオレンジ色が入り混じった空。空の中には一番星がぽつりと哀愁を持って煌めいていた。
「いいだろう」
わたしの隣に並んで、東堂が優しい声色で言う。
「うん、すっごく綺麗…!東堂よくこんな場所知っていたね〜…」
「まあな、流石は俺と言ったところだろう」
ふふんと得意げに鼻を鳴らして、髪の毛を人差し指に巻きつけて得意げに言う。
「彼女ができたら、ここに連れてきてこの美しい景色を美形な俺とともに鑑賞できるというスペシャルプランを決行しようと思うのだが…どう思う?」
「いいと思うよ〜」
「よし!だが…移動手段がな…」
「ああ…二人乗りはあの坂きついよね」
「そうなのだ…。醜態を彼女に見せてしまう…」
「…醜態…?」
「この俺の彼女になる人間は、きっと俺の美しい登りを好きだと思う人間に違いない。あのような不格好なダンシングを見られたらもしかしたら少し幻滅してしまうかもしれない…」
東堂は顎に手を携え、うーむと思案顔で唸る。わたしがきょとんとしているのに気付いた東堂が「なんだ?」と不思議そうに問いかけてきた。
「そう思わないんじゃないかなあ」
「どういうことだ?」
「醜態とか、不格好とか、幻滅とか思わないんじゃないかなあ。だって、全然かっこ悪くなかったよ?」
東堂とわたしでは美意識が違うだけのことかもしれないけど。わたしには、全く分からなかった。東堂のあの登りの何が醜態なのか、ちっとも。
「好きな人が、自分に綺麗な景色を見せようと思って連れて行ってくれるんだよ?全然醜態じゃなくない?それどころか、とてもカッコいいと思う。少なくとも、わたしは、今日の東堂、すっごくカッコいいって思ったよ」
鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている東堂はぽかんと小さく口を開いて、わたしを凝視している。どうしたんだろうと首を傾げたあと、言っておくべきことを言っていないことに気付いて、わたしは東堂に向き直った。
「素敵な景色を見せてくれてありがとう」
心からのお礼を言って、にっこりと笑った。
「え、あ、ああ…」
東堂は何故かしどろもどろになって言葉を返す。ぽりぽりと頬を掻いてから、わたしから目を逸らす。かと思うと、ちらりちらりとわたしに視線を寄越してくる。
おかしいな。いつもならカッコいいって言われたら鼻を伸ばして得意げに笑うんだけど…。
「東堂?」
詰め寄って、東堂との距離を縮めて見上げると、東堂の頬に朱がほんのりと差した。え、と思ったのも束の間。次の瞬間に、東堂は「帰ろう!」と裏声で声を上げた。
「もうすぐ門限だ!締め出される!」
「東堂寮生だもんね〜。そうだね帰ろう〜」
「よし!帰るぞ!さー帰るぞー!」
「なんか変なテンションだね、東堂」
「夜だからな!」
「わかる〜夜ってハイテンションになっちゃうよね〜」
東堂が変なのは今に始まったことではないし、まあ、いっか。
東堂の頬が赤くなったのは、まあ、気のせいだろう。だいたい暗くなってきたから顔色なんてよくわからないし。
東堂がサドルに跨ってから、わたしは荷台に座る。東堂がどんな顔をしているのかは、もちろん見えなかった。
マジカルハート滅亡説
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