桜の花がもう半分青葉に変わっていた。ぽかぽかとした暖かい陽気が爽やかな暑さに変わっていく。散っちゃうのはやいなあと少し残念に思いながらぼんやりと歩く。下腹部にわずかな痛みを感じて顔をしかめた。今朝起きた瞬間からお腹に存在している痛みはわたしの気分を下げるには十分すぎる効力を持っていた。…はあ、生理やだなあ。ため息を吐くと、肩をぽんと叩かれた。
「おはよ」
「おはよう、依里ちゃん」
依里ちゃんがわたしの隣に並んだ。二人で他愛ない事を話しながら歩く。友達と喋っていると生理痛も自然と和らいだ。
「幸子ちゃんは三年生になってもぼうっとしてるね」
「あはは。…それにしても、一年生って可愛いよねえ」
周りの新入生を見ながら、ほうっとうっとりしながら息を吐く。カチカチに固まっている感じが可愛い。伸び伸びと過ごしていても可愛い。わたしは小さな子が大好きだ。
微笑ましく見ていると、また下腹部の痛みが強くなった。今日は重い日のようだ。薬を持ってきてないことを後悔する。
「幸子ちゃんって一年生大好きだよね。えーっとほら、あのいかつい子にまで可愛いと言ってた時は、耳を疑ったよ…」
「銅橋くん? 可愛いよねえ〜」
「…もう、突っ込まないからね。ていうか、さあ」
依里ちゃんは、恐る恐ると言った調子で問いかけてきた。
「東堂くんと幸子ちゃんって、まだ、友達なわけ?」
「? うん。わたしは、ずっと友達でいたいと思ってるよ」
依里ちゃんは、…と口を綴んだあとハァーッと息を吐いた。え、え、なんだろう…。依里ちゃんのため息の意味がわからなくて、頭の上にハテナマークを浮かべる。
「東堂、もしかして、なんかわたしに怒ってた…?」
疑問は不安に変わった。依里ちゃんが「は?」と意味が分からないと言うように、片方の眉をあげた。
「春休み、一回だけ一緒に遊んだんだけど、その時、わたし何か余計なこと言っちゃってた感じ?それでもう、わたしと友達やめよう、って」
「わたし、幸子ちゃん抜きで東堂くんと話すほど仲良くない…って、え?ちょっと待って?一緒に遊んだ?」
「遊んだっていうか、一緒に晩御飯食べた。ホワイトデーのお返しに一緒に焼肉屋に行った。全部奢るって言ってくれたんだけど、わたしマドレーヌしかあげてないのに、2980円分奢ってもらうのは割に会わないから、500円分奢ってもらったんだけど…、あ、そういえばあの時…!」
記憶がよみがえる。わたしは、東堂に確かこう言ったのだ。
『いいよ〜、わたし、今月たくさんバイト入れて高給取りなんだから。東堂は、無収入なんだし』
その時、東堂がウッと呻きながら胸を抑えたのを覚えている。あれは間違いなくショックを受けていた。あの時は気付かなかったけど今ならわかる。あの時はお肉をたくさん食べられて幸せで舞い上がっていたから気付けなかった。
「わ、わたし男の子のプライドを…、傷つけてしまって…!」
動揺で小刻みに震える掌を口に当てているわたしを、依里ちゃんは白い目で見た。
「…まァ、傷つけたことは傷つけただろうけどさ」
「わ、わたし謝って、」
「謝られた方が余計辛くなるよ。もう、違う。そういうことじゃない。あのね、東堂くんと幸子ちゃんの距離感は、おかしいの」
「…へ?」
「へ、じゃないの。もういい加減言っちゃうけどさ、いくら彼女“役”だからって距離が近いよ。傍から見たらカップルだからね?…わたし、自分の彼氏に、幸子ちゃんくらい仲良い女友達いたら、すっごく嫌だよ?」
目を丸くする。ぱちぱちと瞬きをしてから、依里ちゃんに質問した。
「彼氏が、その子と友達でも?」
「嫌だよ。もうちょっとその距離感何とかしてって言う。彼女よりも女友達の面倒ばっか見るとかどんな彼氏よ。だからさー、もうさー、そういうまどろっこしいことはやめてさあ…」
“嫌”という言葉が頭からこびりついて離れられない。依里ちゃんの言葉が、耳から耳を通り抜けて行った。もしかして、東堂に彼女ができないのは、わたしのせいかもしれない。東堂がわたしの面倒ばっか見ているから、他の女の子に目を向ける余裕ができず、好きな人も作れなくて。
焼肉の時、帰り道、溝にはまりかけたわたしの腕を引っ張って呆れたように『ほんと〜、に、お前はボケッとしてるな』と言った東堂の顔を思い出す。電燈に照らされた顔は、苦笑に満ちていた。
わたしって、東堂の優しさに甘えすぎているのかもしれない。
「三年間東堂くんと連続同じクラスとかさ、ほら、運命だと思って、ここはもう新たな関係へ一歩ぜんし―――、ちょっと、幸子ちゃん?え、ちょ…聞いてなかった感じ…!?」
下腹部の痛みが、どんどん、強くなっていく。
吐き気がする。気持ち悪い。ジャージになんとか着替えることができたものの、どんどん吐き気は強まっていくばかり。
生理痛もあるけど、多分精神的なものも関わっている。わたしは落ち込むと気持ち悪くなることがちょくちょくある。
「幸子ちゃん、顔、真っ青だよ?」
「え、ほんと?」
「うん…。それじゃ体育できないよ。保健室行ってきなよ。わたし、ついて行こうか?」
「ううん。大丈夫。ありがとう。保健室くらい、ひとりで行ける」
頭を振って、心配してくれる美紀ちゃんと依里ちゃんの有難い提案を断る。今日は50メートル走の計測をするから、休んだり遅刻したりしたら、放課後補習を受ける事になってしまう。そんな煩わしさを二人に負わせたくなかった。
ただでさえ、わたしは甘ったれなんだし。これくらい一人でしないと。
よろめきながら更衣室を出る。眩暈がする。吐き気がひどい。顔を俯けながら手を口に当てながらふらふら歩くと、後ろから声をかけられた。顔を見なくてもわかった。ぴたりと足がとまる。俯いているから、視界がコンクリートで埋まっていたところに、大きな運動靴が入ってきた。
「どうした」
ゆっくりと顔を上げると、東堂が心配そうに眉を寄せて、わたしを見下ろしていた。
「ちょっと、気持ち悪くて」
「ちょっと、じゃないだろう。顔が真っ青だぞ」
「だいじょ、」
笑って、大丈夫、と言いたかったのに。強烈な吐き気が込み上げてきてその場でうずくまってしまった。掌で口を抑える。
「え、吉井さん大丈夫?やばくね?」
「…ちょっと、オレ、遅れていく。場合によっては休む」
「あ、保健室連れて行く感じ?東堂の吉井さんに対するその優しさ、オレにも分けてほしいわ」
クラスメートの男の子から見ても東堂はわたしに優しいんだ。自分がいかに甘やかされているかを知って、恥ずかしくて顔に熱が集まる。高3にもなって、こんな、友達におんぶにだっこされて、恥ずかしい。
よろめきながら、立ち上がった。
「だいじょうぶ、ほんとに、ひと―――、」
くらっと眩暈がした。満足に立つこともできないで、足元がよろめく。肩に大きな掌の感触がして、なんとか立つことができた。
「…どう見ても、大丈夫じゃないだろ」
はあ、とため息が降り注いできた。掌の感触が肩から消えた。東堂はわたしに背中を向けるようにしてしゃがみこんだ。
「背負ってやる。ほら」
…え。
「わたし、重いから、」
「いいから、ほら」
東堂はじれったそうに促してくる。でも、とわたしは躊躇してしまう。ただでさえ、東堂に甘えているのに、また甘えてしまうなんて。いつまでも背負われようとしないわたしを東堂はじろっと睨んだ。
「…横抱きにして、無理矢理連れて行くという選択肢を強行されたいのか?」
…へ。
「おお、東堂、それってお姫様抱っこってやつじゃ〜ん」
「よ!流石箱学一の美形スプリ…間違えた、クライマー!」
ヒューヒューとクラスメートの男の子達が囃し立てて、わたしの顔は赤くなる。けど、東堂は平然としていた。冷やかしに動じることなくまだわたしを睨んでいる。この分なら本当にやりかねない。
「わ、わかった。お願い、します」
観念したわたしは東堂に、おぶわれることにした。
「こういうときに限って、先生は出張か」
東堂は足でドアを開けて、保健室の中に入った。保健室のドアに『先生は出張中です。何かあったら〜』云云の張り紙は貼られていたのだ。
東堂が足でドアを開けてるところ、初めて見た…。ほんとはそういうこと、あんましたくないんだろうなあ…。東堂行儀いいもん…。申し訳ない気持ちが更に強くなる。
「ごめんね、ありがとう。もういいよ」
「せっかくだから、ベッドまで連れて行く」
東堂はすたすたとベッドに向かって歩いていき、ベッドにわたしをゆっくりと下ろした。
「ありがとう…」
「気にするな。寒くないか?」
「うん」
「そうか。でも、寒くなくても、布団は被っておけ」
包み込むように布団をかけられた。暖かくて気持ち良くて、目を細める。
「吐き気はどうだ?」
優しく労わってくれる声に気分が解れていく。胸の奥がきゅうと鳴いた。東堂の優しさが体中に染みわたっていく。
「…なんか、東堂が傍にいたら、マシになったかも…」
「そ、そうか。ワッハッハ、流石オレ!」
腰に手をあてながら、東堂は高笑いをした。照れているのが伝わってきて、ふふっと笑ってしまった。東堂は適当な椅子をベッドの近くに持ってきて座った。
「もういいよ。ほんとに、ありがとう」
「先生いないし、もう少しここにいる」
「補習になっちゃうよ。部活の時間減っちゃう」
「たまにはいい」
「速く走っているところ、女の子に見られて、きゃーきゃー言われるチャンスだったのに」
「立っているだけでキャーキャー言われるから大丈夫だ」
こんな感じで取り合ってくれない。わたしの面倒をとことん見るつもりだ。
東堂は、どこまでも優しい。わたしはいつまで、この優しさに甘えるのだろう。情けなくなって、申し訳なくなって、わたしはぽつりと小さく言った。
「…東堂、彼女ができたら、こういうの、やめた方がいいと思う」
「…え?」
きょとんとしている東堂に、わたしは言葉を続けた。
「彼女以外の女の子にあんま優しくし過ぎちゃ駄目だよ。彼女、嫌がっちゃうよ。…東堂は優しいから、つい、わたしの面倒見ちゃうだけだろうけど、できたら、やめなよ?わたしも、しっかりするから」
ね?と、安心させるように、笑いかけた。
お腹とは違う痛みが胸を襲う。東堂があまりわたしに構ってくれなくなる。いつか絶対そういう未来がくるのに、わたしはまだそのことを受け入れる準備ができてないようだ。初めてできた友達に、わたしはいつまでおんぶにだっこされているのだろう。友達離れもできない自分が情けなくて、自嘲が漏れた。
東堂は、ゆっくりと、口を開いた。
「…嫌だ」
そして、真面目な顔をして頭を振った。
「…へ」
「彼女ができたら、お前と今まで通り過ごせなくなるとか嫌だ。これからもこうしていたい。お前がしんどそうだったら、オレが一番に駆けつけたいし、一緒に飯だって食いたい」
「彼女が、」
「吉井との時間を蔑ろにしろなんて言ってくる女子とは、付き合えない」
きっぱりと、言い切る東堂。依里ちゃんが今の東堂の発言を知ったら、なんてことを言うの!?と卒倒してしまうかもしれない。
わたしも、駄目だなあと思う。好きな子を一番にしなきゃ。彼女を特別にして、彼女だけに優しくしなきゃって言わなきゃいけないのに。
「…そっかあ」
どうして、こんなに安心しているんだろう。
自然と笑みが広がる。もやついた気持ちが消えてなくなっていく。
ぽん、と頭に手を乗せられた。反射的に目を閉じる。ゆっくりと開くと、穏やかに微笑んでいる東堂が視界にいた。
「とりあえず、寝ろ」
わたしの髪の毛を梳くように、柔らかく、優しく、撫でる。暖かくて大きな掌が気持ち良くて、安心感に包まれる。ピンと張っていた糸が緩むように、眠気がやってきた。徐々に、視界が狭まっていく。
そっと、瞼を閉じる。視界の向こうに、東堂がいる安心感に包まれながら、わたしは意識を完全に手放した。
瞼の裏で君がかけた
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