とおまわりの記録



お母さんがロビーで受け付けしている間、暇なのでケータイをかちかちと弄る。すると、ケータイが一通のメールを受信した。東堂からの空メールを見て自然とぱあっと顔が明るくなる。どこにいるんだろうと辺りを見渡すと、ケータイをパチンと折り畳んだ東堂が柱にもたれていた。目と目が合う。笑顔で手を振ると、東堂は、ゆるりと目を細ませて、わたしを見つめた。

大晦日である今日、わたしは、お母さんと、東堂庵に泊まりに来たのです。





『幸子〜、彼氏ともお友達と大晦日はすごさないのよね?』

『うん。あと、彼氏はいないよ』

『あら、そうなの。あのね、お隣の山田さんねー、インフルエンザになっちゃったんですって。だからね、代わりに温泉いかがですか〜?って言われちゃったの。ということで…大晦日は温泉に浸かりましょう〜!』

『わ〜い!どこの?』

『箱根のよ』

『近いねえ』

『まあいいじゃない。東堂庵っていうところよ。すごい老舗なんですって〜』

『へえ〜、…え?』

ぱちくり、と驚きで瞬きをしてしまった。お母さんはわたしの顔を見て、『すごく間抜けな顔してるわねえ』とのんびりと言った。

「まさか東堂の家に泊まることになるとはね〜。人生色々あるねえ」

「オレもかなり吃驚した。今までも、友人が何回か客として泊まりに来ることはあったが…吉井は特に驚いたし、くるまでそわそわした。ワハハ」

「わたしって温泉嫌いそう?」

「いや、むしろ好きそうだ。温泉で鼻歌とか歌ってそうだ」

「あはは、歌う歌う。ねえねえ、卓球ある?」

「もちろん、あるが」

「わ〜い!ねえねえ、じゃあ、卓球勝負しようよ。お母さん卓球嫌いだからやってくれなくて」

「おう、やるか。…けど、お前…」

東堂はじいーっとわたしを疑わしそうに見据えた。疑心が宿った瞳に映るのは首を傾げている間抜けなわたしの顔。

「卓球、できるのか?」

…!
し、失礼な…!

「で、できるよ!」

「本当か…?」

「できるもん!!」

とんでもない言いがかりをつけられ、手を拳にして怒りを表して食って掛かる。東堂は「ワッハッハッ」と楽しそうに笑った。…こ、これは、目に物を見せてやるしかない…!とわたしは固く決意する。そんなわたしを見て東堂はさらに楽しげに笑うのだった。



わたしが温泉からあがってから、勝負するということになった。待ち合わせ場所に向かうと、東堂がもう立っていた。東堂がわたしに気付いて手を挙げる。周りのおばちゃんが「あの子かーわーいーい」と東堂に何度も視線をちらちらと寄越していた。おばちゃんの視線に気付いた東堂が流し目を送る。キャーッと歓声が起こる。わたしすごい男の子と友達だなあ、ほんとに…と感心しながら小走りで近寄った。

「湯加減はどうだったか?」

「気持ちよかったよ〜。お母さんなんか、もうちょっと入ってるって」

ドライヤーで乾かしたての髪の毛の内側にほかほかと熱気がこもっている。少し暑いので髪の毛を耳にかけ、ぱたぱたと手で仰いだ。

「…なあ、浴衣、ちょっとでかくないか?」

「ああ、まあ、大丈夫だよ〜」

「そう、か」

東堂はわたしから目を逸らした。喋っている時もどこか視線を彷徨わせていてきちんと目が合うことはなかったような。…なんでだろう?という疑問は卓球台を見た瞬間、どこかへいった。

「わーい、卓球〜!」

はしゃぎながら卓球台に近づく。きらきらと眼を輝かせながらわあわあと歓声をあげた。

「そんなに卓球好きなのか?」

「うん!わたし、小学生の時唯一得意なスポーツが卓球で…!得意っていうか、人の平均だけど…あはは…」

「ふむ…。よし、じゃあ、いくぞ」

「うん!」

東堂がサーブの構えをとった。ワンバウンドしたやつを返せばいいだけ。『卓球、できるのか?』と疑わしい目つきで言ってきた東堂が脳裏に浮かぶ。

…絶対、眼に物を見せてやる!

「とりゃっ!」

何故だろう。

何故か、ラケットに、球が当たる感触がしなかった。わたしはリターンのポーズをとったまま、固まった。

てん、てん、てん、と、球が床を転がる音が無慈悲に響いた。

あ、れ…?

東堂とわたしの間に、少しの間静寂が流れて、そして。東堂がぶっと噴出した。

「…っ、ちょ…っ、いま、の、は…っ」

東堂はお腹を抱えながら膝から崩れ落ちる。笑いすぎて喋れないらしい。あれだけ大見得切っておいて空振りしたという事実が、ただ恥ずかしくて、わたしは何も言えない。顔が羞恥で熱くなる。

時間を、巻き戻したい。あれ。ちょっと待って。本当にいつもは。というか、中学の時は、もうちょっとできたんだけど。あれ、あれ、あれ。

「さけ、ん、で、おい、て…っ、く…っ」

東堂はいつまでも笑い続ける。面白すぎて声が出ないようだ。

「わ、笑いすぎ…」

「いまの、は、笑うし、か、ねえ、だろ…っ」

…確かに。反論が思いつかないわたしは東堂が笑い終わるまで、真っ赤な顔を俯けて、ぷるぷると震えることしかできなかった。


「…はーっ、面白かった。まさか今年の最後にこんな面白いことがあるとは…」

「…笑いすぎだよ…」

「あれは笑うしかないだろう。…ぶっ」

「も、もう、あのことは忘れよう。続き、しよう」

「お。まだやる気は失われていなかったか。感心感心」

完璧にわたしを馬鹿にしている東堂を睨むと、怖い怖いと茶化された。腹立つ。そうして、また卓球を再開することにした。今度は、東堂からのサーブをきちんと返すことができた。

「と、東堂うまいね…」

「ワッハッハッ、オレは運動神経も良いからな。そう、天はオレに三物を与えた!」

なんなくとわたしのレシーブを笑いながら返す東堂。東堂が積極的に攻めてくることはないから、負けてはいないけど、ものすごく手加減されていることがありありと伝わってくる。運動神経がとても良い東堂と、運動神経が悪いわたし。…普通に考えたら、卓球でも実力差あるよなあ、と心の中でこっそりと嘆く。

「ワッハッハッ、もっと積極的に攻め―――」

東堂の目が見開いた。動きがとまる。こ、これは…千載一遇のチャンス!わたしはその隙を逃さず、パコンと打った。わたしの打った球が、ワンバウンドしてから、東堂の横を通り抜けた。

「や、やった〜!」

歓喜の声が自然を沸いた。嬉しくて両手を上げてから丸め、喜びのポーズをとる。

「バ…ッ」

顔を真っ赤にした東堂がわたしを凝視していた。口を魚のようにパクパク動かしている。ん?と首を傾げながら、東堂を見た。

「馬鹿!下を見ろ、下!」

「下…?」

言われた通り、下を見る。わあ、胸の谷間がこんにちは…ブラもちょっと見える…。

…。

……。

………!!

卓球をしていたせいで、浴衣の帯が半分ほどけていた。衿が開いてしまって、胸が露出するという、だらしのない恰好をしてしまっていた。慌てて衿を合わせる。すると、とうとう帯が解けて、下に落ちた。

しーん、と、先ほどとは違う静寂が流れる。気まずい沈黙だ。

東堂はお箸の使い方とか、背筋の伸ばし方とか、とても綺麗だ。礼儀に厳しい家で育ったことが、とてもわかる。そんな人の前で、はだけた浴衣を見せてしまう、なんてことをしてしまった。不快に思っただろう。

顔を俯けている東堂に、気まずい沈黙を破っておずおずと謝罪をする。

「と、東堂、ごめんね」

「…は?」

「こ、こんな、えっと、なんだっけ、こういうの。猥褻物露出罪…?」

「…は!?」

「わ、わざとじゃないんだよ、ほんとだよ、露出狂じゃなくて。ごめんね、汚いものを見せて」

パニックになっているので、自分でも何を言っているのかよくわからない。東堂はポカーンと口を開けてわたしを見ていたかと思うと、頭が痛い、とでもいうようにこめかみを抑えた。

「…ちょっと、ここに座れ」

東堂は備え付けの椅子を指した。よくわからないけど、座れと言われたので、座る。衿を手で合わせたまま、座った。東堂もわたしの隣に腰を掛けた。なんだろう。この、お父さんに怒られる前みたいな雰囲気は…。東堂はハァーッとため息を吐いてから。

「お・ま・え・は・馬・鹿・か!!」

雷を落とした。

ピシャーンゴロゴロゴロ…。

反射的にびくっと震え眼を閉じるわたしを叱る東堂の声が響き渡る。

「汚いものってなんだ!何故その点で謝る!警戒心がないとか、そういうことに対して、もっと注意するべきであってな!!」

「だ、だって、変なところじゃん。オジサンの下半身を見せつけられた、みたいな感じになっちゃうんじゃないの?」

「…お前、それ、本気で言ってんのか…?」

「う、ん」

「頭が…痛い…」

「えっ、大丈夫…!?」

こめかみを抑えながら苦しげに瞑目する東堂に心配の声をかけると、東堂はぎろりとわたしを睨みつけてきた。

「…吉井」

「は、はい」

先生と生徒みたいだなあと思いながら、背筋を正す。東堂はじとりとした目で、わたしを睨み続けたままだ。でも、不意に、遣る瀬無さそうに視線を落として。

「…頼むから、もっと、自分を、顧みてくれないか」

ぽつりと、懇願するように、つぶやいていった。

「オッサンの下半身と、お前の、…胸、じゃ、全然違うだろ。わかってくれよ。っていうか、わかれよ」

「今のだって、オレに怒れよ。何見ているんだ、とかそう怒鳴ったっておかしくないんだ。謝るな。怒れよ」

最後に、

「…これだから、目が離せない」

そう言うと、ふうっと息を吐いた。

東堂は、面倒見がいい。後輩にも慕われている。一年生の時から、わたしの面倒を見てくれた。ひとりでぽつんと立っていたら、声をかけてくれた。たくさん迷惑をかけてきた。けど、今回のは、特に、わたしは迷惑をかけてしまったようだ。東堂が、やりきれない、という表情を浮かべている。

「…わかった」

そう言うと、東堂は顔を上げた。じーっと、わたしを疑わしそうに見つめる。

「…本当だな?」

「うん。浴衣をはだけさせるなんてこと、二度としないし、もうちょっと、警戒心、とかも持つよ」

どういう方向に警戒心を向ければいいのかわからないけど…。

「…なら、いい」

東堂は、今度は安心したように息を吐いた。

「というか、オレの方こそ、不可抗力とは言え、悪いことをしてしまったな」

「ううん!全然!大丈夫大丈夫〜」

ひらひらと手を振って笑顔で「気にしないで」と言う。

まあ、男の子とは言っても、友達なんだし。うん。

そう思う。そう言い聞かせて、胸の奥が今更どくどく鳴りはじめたのを必死に誤魔化す。ドキドキから目を逸らすために、わたしは話題を返ることにした。

「でも、わたしがしっかりしちゃったら東堂が面倒見てくれないのかと思うと、寂しいなあ」

咄嗟に出てきた言葉だけど、本当の事だ。わたしがしっかり者になったら、東堂は今ほど一緒にはいてくれなくなるのだろう。わたしは、そんなに面白いことが言えるわけでもないし、スクールカーストで言う同じ層に位置しているわけでもない。こんなに関わっている方が、不思議なのだ。

寂しさが胸を襲ったのに、気付かない振りして、あははっと笑い声をあげる。

すると、ずっと真顔だった東堂がふいに破顔した。ふっと優しい笑みを浮かべながらわたしを見つめる。

優しくて慈愛が浮かんだ瞳にわたしが映っている。
とくりとくりと心臓が心地よく震えた。

「それは一生ないな」

「え…?」

心臓がどくんと大きく動いた。一生、ということは。

一生、傍に。

「吉井がしっかり者になるとか、どこの世界線だ」

「そっ、そこまで言う…!?」

また、からかわれて。東堂に食って掛かる。痛くもかゆくもなさそうに、笑われた。

「浴衣、直すから、ちょっと後ろ向くね」

「あ、お、おう」

くるりと背中を向けて、浴衣の帯をもう一度結ぶ。後ろに東堂がいるって変な感じ。少し手こずりながら結び直して「お待たせ〜」と笑ってみせた。

「吉井って、浴衣とか、着物、似合うよな」

「えへへ…ありがとう…。地味顔の特権です」

「ワッハッハ、確かに、そうだな。…でも、」

大きく笑ってから、東堂は優しく目を細ませた。ファンクラブの女の子が見たら卒倒ものだな、と見ながら思う。

「本当に似合っていた」

…卒倒しちゃうだろうなあ。

友達のわたしですら、どきんと胸が高鳴ってしまったのだから。

「へ、へへ。ありがとう」

後頭部に手をあてながら、笑ってお礼を言う。軽く受け流しでもしないと、本格的にくらくらしてしまいそうだった。

「部屋、戻らなくていいのか」

「…あ」

時計に目を遣る。かなり時間が経過していた。お母さん、ひとりで暇してるかもしれない。

「じゃあ、わたし、部屋に戻るね」

「おう。暖かくして寝るんだぞ」

「ほんと、お母さんみたい」

あははと笑ってから、わたしは立ち上がった。じゃあね、と手を振ると、手を振りかえされた。部屋から出る直前に、振り返ると、東堂がわたしを見ていた。視線がかち合って、お互いパチパチと瞬きする。何か言おう、と思って出てきた言葉は、ありふれたものだった。

「来年も、よろしくね」

にこっと、笑いかける。

「…ああ」

東堂も、穏やかな笑みを浮かべながら、頷いた。

「おやすみ」

「おやすみ」

そう言ったあと、自然を笑みがこぼれた。もう一度ひらひら手を振ってから、前を向き直して、歩いていく。

『それは一生ないな』と言いながら、ふっと笑った東堂の顔を思い出す。

きっと、東堂は、たいして意味も込めず言ったのだろうけど。わたしには、一生友達でいてくれる、一生仲良くしてくれる、という風に、聞こえた。

「…都合の良い耳だなあ」

ぽつりとつぶやいた言葉。拾ってくれる人は誰もいなかったけど、それで丁度良かった。





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