とおまわりの記録



友達は友達の幸せを喜ぶもの。友達が楽しそうに笑っていたなら、それを快く思うはず。
だって、友達なんだから。


ちゃぷんと水が動く音が浴室に響いた。湯船に浸かっている時ですら、考えるのは東堂が楽しそうに笑っている顔。その笑顔はわたしにではなく、他の女の子に向けられていた。わたしじゃない。それだけ。笑っているのだから、楽しそうなのだから、いいじゃないか。友達が楽しそうに笑っている。幸せなことじゃないか。

なのに、わたしの心は重くなるばかり。

そんな顔を、他の女の子に見せないでほしいとか思うなんて。

「わたしは何様のつもりなんだろう…」

自分でもそう思うのに。あんな顔しないで、と思う気持ちはやめられなかった。











「おはよう、吉井!」

下駄箱でスリッパに履き替えていると、びくっと肩が震えた。恐る恐るといった調子で振り向くと、そこには東堂の姿。

「…おはよ〜」

平常心、平常心。心の動揺を悟られないように、いつも通りにっこり笑う。

「数学の課題きちんとできたか?」

「うん。前、東堂が教えてくれたところが殆どだから、なんとか解けたよ〜」

肩を並べて、階段を昇りながら、東堂は得意げに鼻を伸ばした。

「そうか、よかった。俺は教え方すらもうまいのだな…。三物どころか四物も与えられているとは…」

「そうだね〜、東堂はたくさんの物を持っているよねえ。でも、それに甘えることなくて、努力もすっごくしていて、ほんと、」

わたしと全然違う。

冗談として言おうとした言葉は、あまりにも鋭い真実だったから、冗談としても言えなかった。

特に可愛くもなくて、頭も良くなくて、運動神経だって悪いし、何か人に誇れるものなんてわたしにはひとつもない。

福原さんは、可愛くて、綺麗で、性格も良くて。頭も良いらしい。運動神経も良いらしい。

しかも、東堂をあんな楽しそうに笑わせることができるんだ。

「…吉井?」

「え…ひゃっ!!」

また物思いに耽ってしまった。東堂に名前を呼ばれて顔を上げた瞬間、足がもつれた。階段をふみはずしてしまって体が宙に浮いた。

…へ。

ぱちぱち、と瞬きをして状況を呑みこめずにいると、腕を力強く掴まれた。背中に手を回されて、ぐいっと前に引っ張られて、東堂の匂いが鼻をかすめた。

「…っぶねー…!」

東堂が心底焦っている表情でわたしを凝視していた。驚きで目が見開いている。

掴まれた腕が熱い。

ドキドキと心臓が鳴っている。こんな時ですら、東堂にドキドキするのか。自分のお気楽加減が恥ずかしくて、ドキドキする心臓から目を逸らしたくて、ははっと笑って見せた。

「ご、ごめん〜、ぼーっとしすぎちゃった〜。ありがとうね〜。わたしってほんといつ車に轢かれても仕方ないくらいぼーっとしているよね〜」

そう笑うと、東堂の眉毛がつり上がって。

「ふざけるな!!」

怒声が響いた。周りの人が驚いて、東堂に視線が集まった。でも、東堂はそんなこと一向に気にしない。

「そんなこと冗談だとしてでも言うな!!今のだって俺がたまたま助けられたから良かったものの…!なんでそんな自分のことに無頓着なんだ!もっと自分を大切にしろ!!」

そう怒鳴ってから、東堂はハッと我に返った。茫然としているわたしを見て「…す、すまん」と頭を下げてきた。

「俺は、お前が怪我とかしたら嫌で、もっとお前に自分を大切にしてもらいたくて」

「…ううん」

いつもあんなに優しくて。特に女の子には優しい東堂が怒るくらい、不注意なことをして、馬鹿なことを言ったわたしが、どう考えても悪い。

「わたしが、悪いよ」

せっかく笑えたのに、声が震えていたせいで、東堂が悲しそうな顔をしてしまった。

「…ごめん」

違うのに。
そんな顔を、させたいわけじゃなくて。
わたしは、あの子のように東堂を笑わせたいだけなのに。












無心になって箒でゴミを集めていく。掃除は好きだ。こういうモヤモヤしている時に打ってつけの作業。今日掃除当番で良かった。

東堂は、昼休みは自転車競技部のみんなで何か会議があったので、一緒にごはんを食べることはなかった。正直ほっとした。こんなもやもやした気持ちを抱えたまま、東堂と一対一でごはんを食べることなんてできない。

…明日もまだモヤモヤしているんだろうなあ…。これは一日でなんとかなるタイプのモヤモヤじゃない…。…なんとかして避けなきゃ…もういっそのこと学校休んじゃおうかな…。

避ける方法について一所懸命考えていたので後ろで砂利を踏む音があったことに気付かなかった。だから、突然名前を呼ばれて肩が跳ね上がるのは仕方なかった。

「吉井」

「っ」

東堂に名前を呼ばれたから、というわけではない。

振り向くことができず、背中を向けたまま「なあに〜?」と呑気な素振りを装って返す。

「東堂は掃除当番じゃないでしょ〜?」

「朝のことについてきちんと話したくて」

「あれはわたしが悪いよ〜」

「違う、俺は、お前にあんな顔をさせたいわけじゃなくて」

箒を持つ手が震える。わたしだって、あんな顔をさせたいわけじゃない。振り向けない。多分東堂はあの時と同じ悲しそうな顔をしている。わたしのせいで。

「…吉井?」

しまった、体が震えていることに気付かれた…!?

これ以上背中を向けたままなのはさすがに不自然だ。すうっと息を小さく吸い込んでから東堂の方を向く。なんてことないと言うような笑顔をつけて。

「なんですか〜?」

そう言って振り向いた時。福原さんの姿が向こう側にあった。東堂に用事があったんだけど、わたしに真剣な調子で話し始めたから声をかけられずに戸惑っていたのだろう。わたしと目が合う。

…あ、そういうことか。

目を見てわかった。女のカンというやつが初めて働いた。

「東堂〜、福原さんが東堂に用あるみたいだよ」

にっこりと笑って、東堂の向こう側を指しながら言う。「え」と声を漏らして東堂が振り向いた。福原さんの肩が跳ね上がって顔が真っ赤になった。

「どうした?」

「え、えっとねー、そ、その、ちょっと…聞いてもらいたいことがあって」

可愛い子が顔を真っ赤にしてもじもじしていると、本当に可愛いなあ。
カッコいい男の子が不思議そうに可愛い女の子を見ている。まるで少女漫画のような構図だ。

わたしは、なんだろう。エキストラと言ったところだろうか。
いや、もうちょっと上の存在だと思いたい。

「東堂、行ってらっしゃい」

友達の背中を後押しする友達、くらいのポジションではいたい。

東堂に近寄って、背伸びをした。肩に手を置いて、こっそりと耳打ちした。

肩に触れた手が熱くてドキドキする。自分から近づいたのに、鼓動がはやくなる。

「多分、告白だよ」

そう言うがいなや、ぱっと身を離した。「…え」と吃驚したように目を見開いた東堂に笑いかける。

「じゃあ、あとはお二人で〜」

わたしは箒を持って東堂の横を通り過ぎた。福原さんの横も通り過ぎようとした時、小さな声で「ありがとう」と言われた。ぱっと見ると、優しい微笑みをわたしに投げかけている福原さんは、どこまでも可愛かった。

「…わたしは何にもしてないよ」

笑顔を作って、平静を装いながら言う。わたしは笑顔を作るのが苦手だから、バレバレかもしれない。だから、すぐに顔を俯けて見えないようにしながら足早に進む。

これで、わたしの役目も終わり。

東堂は気付いていないだけで、心の底では福原さんのことを好きなんだろうなあ。だって、あんな風に笑いかけるんだもん。嬉しそうに、頬ゆるゆるにしちゃって。どんな嬉しい事を言われたんだろう。

わたしで予行演習してきたことを生かせるように頑張るんだよ。あんな可愛い彼女さん、なかなかできないと思うんだ。生まれて初めての彼女さん、東堂にぴったりの素敵な子で良かった。

わたしも、嬉しい。

「うん、嬉しいよ」

声に出してまで言ったのに。それでも胸に空いた深い穴は大きくて、埋まりそうになかった。






溶けて無くなる最終段階


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