とおまわりの記録



ものすごく近くに顔があった。真剣な瞳の中にいるわたしが見えるくらいには近かった。力強く手首を掴まれて、腰に手を回されていて。胸板に胸が押しつぶされるような形で胸がのっかるほど密着していた。髪の毛を耳に懸けられて頬に添えられた手が大きくて骨ばっていて。そして。

「吉井ー!」

びくっと肩が跳ね上がった。先生がわたしを睨みつけている。どうやら当てられたのに、わたしはまた物思いに耽っていて先生の呼びかけを無視していたようだ。

「どこ当たったかわかるか?」

「す、すみません…。わかりません…」

「はーっ、お前はほんっとーにボーっとしてんな」

「ちょっと先生〜幸子いじめないで〜」

「いじめてねえよ」

「いやはたから見たらハムスターをいじめる土佐犬にしか見えないから」

「おい」

派手なグループの友達と先生のやり取りにみんな笑う。確かにハムスターっぽい、とみんなの視線がわたしに注目されて、目立つことに慣れていないわたしは居心地が悪くなって縮こまる。なんとなしに周りを見ると、東堂もわたしを見ていた。みんなと同じようにわたしを見ているわけではなく、じっと真顔で見ていた。

昨日、結局あのあと勉強には集中できず、早々と東堂は帰って行った。送っていくと行ったのだけど『行きも一人で来ることできたんだから帰りも一人で帰れる!では!ハッハッハッ!』と、取ってつけたような笑い声を上げながら高速で帰って行った。顔は真っ赤だった。

わたしも東堂を見ていることに東堂が気付いたようだった。びくっと頬杖をついている手が動いた。頬に赤みが差した。

「…っ」

恥ずかしくなってくる。耐え切れなくなって俯いた。

「はい、吉井。先生優しいから特別に教えてやる。110ページの〜」

先生がせっかく教えてくれたのに、わたしの頭の中はまた東堂で埋め尽くされていて先生の話を全く聞いておらず、先生にお前いい加減にしろよ?と怒られるまで、あと一分。











「幸子ちゃん今日すっごくぼーっとしてたね〜」

と、友達の美紀ちゃんにも言われる始末。美紀ちゃんはハムスターのようにかつ丼を頬張っていた。わたしは苦笑いを返すことしかできなかった。今日は久しぶりに友達と摂る昼食。東堂には『ごめん、今日美紀ちゃんと依里ちゃんに話すことがあるから』とメールを送った。東堂からは『わかった』と返ってきた。昨日あんなことがあって平然と東堂と直面する勇気もそれを誤魔化す演技力もわたしにあるはずがなくて。それに、わたしは誰かに昨日のことを相談してみたかった。

「東堂くんとごはんはいいの?」

「うん、ちょっと二人に聞きたいことがあって」

「わたし達に?」

「なになに?」

興味津々といった目で身を乗り出すようにして訊いてくるけど、のんびりとした空気を纏っている彼女たちなのでせかしているようには感じられず落ち着く。聞きにくいことだけど、これなら聞けやすそう。友達というだけあって波長が合う。わたしは小さく息を吸い込んでから「あのね」と会話を切り出した、その時。

「と、東堂さーん!写真一緒に撮ってくださーい!」

「わ、私も私も〜!」

きゃー!という黄色い声にわたしの声はいとも簡単にかき消されてしまった。食堂の入口を見ると、一年生の女の子たちが東堂に群がっていた。ファンの女の子らしい。少し緊張していることが表情から伝わってくる。

「別にいいぞ」

「きゃーっ!ありがとうございますー!」

優しく応じる東堂。喜ぶ一年生の女の子達。一人の女の子が携帯電話を友達に渡して撮ってもらっていた。可愛い女の子だ。ふわふわのボブがとてもよく似合っている。そういえば東堂は昔髪が短い女の子がタイプだと言っていた。

ちくん、と胸が痛んだ。

「うわー、東堂くんってやっぱり人気凄いね〜」

「ちょっとしたアイドルだよね」

美紀ちゃんと依里ちゃんが東堂をしげしげと見ながらごはんを頬張っていく。

「住む世界が違うわ…」

「幸子ちゃんってああいう人の彼女役やってるんだね〜。すごいね〜」

「え、あ、いや、そんな、うん」

なんと返したらいいのかわからず、しどろもどろになって曖昧な返答をする。依里ちゃんが「で、聞きたいことってなに?」と訊いてきた。

「えっと、それは…」

依里ちゃんの向こう側には女の子に囲まれてハッハッハッと快活に笑っている東堂の姿があった。昨日のこと何も言ってこないし、平然としているし。昨日のあれは、多分、特に何も意味ないのだろう。だいたい、普段からあんな可愛い女の子達にきゃあきゃあ言われている東堂がわたしなんかに何かしようと思う訳がない。

「ごめん、何を聞きたかったのか、忘れちゃった」

にこっと笑顔を作った。きちんと作れただろうか。「そうなの…?」と、美紀ちゃんが疑わしそうな声で訊く。どうやら作れなかったみたいだ。失敗失敗。もう一度笑顔を作ろうとすると、東堂の方をまた見てしまった。東堂の隣に並んでいる女の子はとても可愛くて、かっこいい東堂と並んだらお似合いで、まるでカップルみたい。

なんだろう。体が重い。呼吸がしづらい。苦しい。お腹が痛い。

「わたし、なんか、ちょっと体調悪いみたい」

「えっ」

「保健室に行ってくる」

嘘はついていないし、本当の事だ。「幸子ちゃん!」と心配そうにわたしを呼ぶ声が背中に届いた。申し訳ないけど、答えることはできなかった。

東堂が真ん中にいる人の群れの横を通り過ぎる事でいっぱいいっぱいだった。東堂から必死に目を逸らす。気にしない。気にしないようにする。

何も見ないようにして小走りで保健室に向かっていると、誰かにぶつかった。二、三歩よろめいたわたしに「あっぶねーな!」と怒声が降り注ぐ。

「ご、ごめんなさ…、荒北くん?」

「おめーかよ。ボーッとしたまま走ってんじゃねーヨ」

「ごめん…」

「んだヨ、そのシケた面。これから飯食いに行こうっつー時に」

「ごめん…」

謝ることしかできない。そんなわたしが鬱陶しかったのか、荒北くんはハァーッと盛大にため息を吐いてから「東堂となんかあったァ?」と、面倒くさそうに耳をほじりながら訊いてきた。

「…わたしにはあったんだけど、東堂にとってはたいしたことなかったのかもしれない…」

「はァ?」

「よく考えたら、わたしは地味だけど東堂は派手だしわたしは聞き役が多いけど東堂はお喋りだし」

「おい、お前何べらべら喋りだしてんだヨ」

「東堂はかっこいいけど、わたしはこんなんだし…。釣り合っていないにも程がある…」

自然と顔が俯いていく。ハァ、と、ため息が漏れた。

「…変なこと聞かせちゃってごめんね!それじゃあね!」

ぱっと顔を上げて笑顔を作ってから、荒北くんの横を通り過ぎようとした時、荒北くんが言った。

「楽しかったらいいんじゃねーのォ」

何を言っているのかよくわからなくて、振り向いて荒北くんに「どういうこと…?」と首を傾げて問いかける。

「お前、東堂と一緒にいて楽しいんだろォ」

「う、うん。まあ」

楽しい事ばかりじゃなくなってきたけど。

最近はいっしょにいる、それだけで心臓がバクバク言うようになってきたし、よくわからない沈黙が流れることも多くなってきた。でも、それでも楽しい。一緒にいることが嬉しい。ウサ吉が二番目に懐いているのは俺だと豪語する東堂を見る事とか、好きな作家の話で盛り上がったり、気になるバンドの話とか。昔からしてきたそういう話をすると、時間を経つのも忘れていつまでも笑うことができる。

楽しい。だから、ずっと一緒にいたい。
できれば、もっと近くにいたい。

「じゃあ、それでいいんじゃねーのォ。東堂もお前といる時きもちわりーほど楽しそうだし」

「え」

吃驚して、声を漏らしてしまった。口をぽかんと開けてしまう。

「少なくとも、女子の中じゃ、東堂と一番仲良いのお前だろ」

わたしが、一番、東堂と仲良い。

「っつーか、ダチとしてっていうよりアイツは…。あ、今の無しネ。流石にこれは本人が自覚してから言うべき…って聞いてねーな」

わたしが一番、東堂と仲良い女の子なんだ。

口元がむずむずする。嬉しい。どうしよう。嬉しすぎて、笑ってしまいそう。

「…ふっ、ふふ、ふへっ」

あ、だめ。出ちゃった。

「…え。何笑ってんだヨ」

「ご、ごめっ。へへっ、ふへっ」

「きもちわりーんですけど」

「ごめんね、つ、つい、嬉しくて…っ、あははっ」

「意味わかんねーヨ。あ、そうだ」

荒北くんは何かを思いついたように声を上げてからポケットに手を入れて携帯電話を抜き取った。携帯電話をわたしに向けて、パシャリと音が鳴った。…え?

「きっもちわりー顔」

硬直しているわたしに、荒北くんはニヤニヤ笑いを浮かべながら携帯電話の画面をわたしに見せてきた。そこには頬を緩ませてだらしなく笑っているわたしの姿が。どうしよう。このわたしものすごく気持ち悪い。普通に気持ち悪い。

「東堂に送ろ」

「わー!!駄目!!それは駄目!!」

「東堂ぜってー喜ぶから」

「駄目!!」

背伸びして携帯電話を奪い取ろうとするけど、身長差がありすぎて全く届かない。意地悪な笑顔でわたしを見下ろしてくる荒北くんが憎たらしい。

「どうしても消してほしいっつーんならァ…ペプシとォー、ハーゲンダッツとォー」

「きょ、恐喝…!?ハーゲンダッツはちょっと高くない…!?」

「つまんねェ愚痴きいてやったんだからこれくらい奢れヨ」

「…た、確かに。そうか。うん…、わかった」

納得して頷くと、荒北くんが小さな声で「ちょろい」と呟いたのだけど、それは聞こえなかった。

一陣の風が吹き抜けて、キキーッと、ブレーキを踏むような音が聞こえた。何が起こったのかわからず、瞬きをしていると、東堂がぜえぜえと息を切らしながら立っていた。髪の毛がものすごく乱れている。

「ぐ、偶然だな」

東堂が息も絶え絶えになりながら手をあげて、わたしと荒北くんの間に割り込むようにして入ってきた。

「偶然じゃねーだろ。お前、どう考えてもすっげー急いできただロォ」

「いや俺は吉井にちょっとばかし用事があってそれでちょっとランニングも兼ねて走ってたのだが、そうしたら荒北と何やら話していて楽しげで…吉井!!」

「はい!!」

突然名前を大きな声で呼ばれて、先生に名前を呼ばれたかのように返事を返してしまった。東堂が力強くわたしを見たかと思うと、手首を掴んできた。

「ちょっとこっちに来てくれ!」

「え、え、わ」

東堂は力強くわたしを引っ張って行く。困ったように荒北くんを見ると心底どうでもよさそうに耳をほじくっていた。




「と、東堂〜、どこまで行くの〜?」

いつまで経っても歩くのをやめない東堂の背中に向かって声をかけると、ようやく足をとめてくれた。しばらくの間、静止していたけど、こちらをくるりと振り向いた。真剣な顔でわたしを凝視してくる。

「な、なに?」

あまり見ないでほしい。ただでさえ人気のないところに二人きりで緊張しているのに、東堂にじっと見られると。もう。視線に耐え切れなくなって、俯いた。

「正直に、答えてくれないか」

真剣な声色だから、きっと真剣な顔をしているのだろう。見えないけど、そうに違いない。

「お前は、その、もしかして…」

東堂は一旦、言葉を区切ってから、決心したように言った。

「昨日の、嫌だったか?」

へ。

驚いて、顔を上げた。東堂の顔は真っ赤でいつもはよく回る口が鈍かった。

「女子の部屋に上がり込んで、強引に密着させて。友人にあんなことされて幻滅するのは、その、当然のことだとは思う。俺もあの時何であんなことしたのかよくわからなくて、お前が俺の上に乗っかっているって思ったら離したくないって思って…、あー、何言ってるんだ俺!!」

東堂がぶんぶんと顔を振ったのでさらに髪の毛が乱れた。カチューシャを邪魔だとでも言いたげに取った。はらりと落ちた前髪を鬱陶しそうにくしゃっと掴んで、真っ赤な顔でボソボソと呟く。

ファンクラブの女の子達は、東堂のこんな姿、見たことないだろう。
わたしだって、初めて見る。
こんな、全然余裕のない東堂を。

「避けられたって仕方ないとはわかってるんだが、その、」

髪の毛はぐしゃぐしゃ、顔は真っ赤で、口が回っていなくて。
ああ、おっかしい。

こらえきれずに、ぶっと噴出してしまった。お腹を抱えてアハハと声を上げて笑ってしまう。

「は…!?な、何笑ってる!」

「ご、ごめん、あははっ。だって〜、いつもあんな自信満々なのに〜、トークも切れるって自分で言ってるくせに〜っ、あは、あはははっ」

もう駄目だ。面白くて仕方ない。
可愛くて仕方ない。

東堂は「しょ、しょうがないだろう…!」とふくれっ面で抗議してきた。

「お前が俺を避けるから、いや、あんなことをした俺が悪いのだが…っ」

「嫌じゃなかったよ」

「…え」

目尻の涙を人差し指で拭ってから、東堂を真っ直ぐに見据えた。ぽかんと呆けた顔をしている。間抜けな顔だなあ。また笑い声が少し漏れてから、もう一度同じ言葉を東堂に送った。

「嫌じゃなかったよ。すっごく緊張したし恥ずかしかったけど、嫌じゃなかった。東堂だから、嫌じゃなかった」

あんなことを他の人にされたら、何が何でも脱出するけど。東堂だったから、抵抗しなかった。

東堂はへなへなと力なくしゃがみこんだ。吃驚して「だ、大丈夫!?」と視線を合わせるためにわたしもしゃがみこんだ。

「よかった…」

心底ほっとしたように、東堂は呟いた。

「昨日、本当にやりすぎたと思っていたから気持ち悪がられていたらどうしようかと…。はーっ、よかった…」

よかった、よかった、と何度も繰り返す東堂を見て、胸が不思議と暖かくなっていく。

「もしかして、今日ずっとそのこと考えてたの?」

「いや昨日からだな…。部屋で発狂しながら考えてたから荒北にうるせえと怒鳴られた」

「…あははっ」

「笑うな!」

「あははっ、ごめんね、あははっ」

ふくれっ面の東堂と、笑い転げるわたし。こうやって流れていくなんてことのない時間がすきだ。だいすきだ。

東堂と一番仲良い女の子はわたしで。わたしと一番仲良い男の子も東堂で。ずっとずっと、こういう関係が続いていけばいい、と思った。何も変わることなく、ずっと、ずっと。

変わらないなんてこと、あるわけがないのに。





アプリコットの唇にきらり



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