どれだけ考えてもわからない。ぐるぐると同じ道を何回も回っているみたいだ。どうやって歩けばいいのかすらもわからない。ああ、もう。
「わかんないよ〜…」
数学の教科書と睨めっこするのも疲れた。はあ、とため息を吐くと「どうした?」と東堂の声が上から降ってきた。悲壮な顔をしているわたしと数学の教科書を交互に見て「ああ」と合点がいって納得したらしく、頷いた。
「お前数学苦手だもんな〜。確か一年の時16…」
「わー!それは!それは忘れて!なんで恥ずかしいことばっか覚えているの!?」
皆まで言わせないように声を張り上げて抗議すると、東堂はハハッと楽しげに笑った。
「忘れたくても忘れられんだろう、あれは。どれ、今回はどういうところがわからないんだ?」
東堂がわたしの前の席を引いて座って、わたしに向き直る。東堂は数学が得意だ。これは教えてくれるってこと、なのかな?自然と胸が高鳴って、「あのね!」とわからないところを指していく。
「こことね、ここと、ここと、あと、ここと、ここと、それで、ここと、ここと…」
言っているうちに冷や汗が垂れてきた。
ちょっと待って…。わたしこれ、もしかして…。
「…吉井…」
「…はい…」
「それってつまり、全部わかっていないということではないか…?」
何も言えなくて、代わりにこくり、と首を縦に動かした。ああ…わたし…本当に数学ができないんだな…。がっくりと肩を落とす。休み時間の短時間でなんとかなるようなものではない。せっかく教えてもらえるチャンスだったのに…。せめてもう少し数学わかっていたら…。気分がどんどん沈んでいっているわたしを見ながら、「…今度の日曜の午後、空いてるか」と、言い辛そうに東堂は言った。
「空いてるよ?」
「その日、部活午後ないんだ。だからその、教えてやろうか?」
わたしから少しだけ目を逸らして、髪の毛をいじりながら訊く。
目が見張っていくのを自分でも感じた。
「お願いします!」
即答で勢いよくお願いすると、東堂はびっくりしたように目を見張ってから噴出した。
「えっ、わたし今なんかおかしかった…!?」
「おかしいというか、なんというか。そんな意気込んで答えるものでもないだろう」
「そっ、そうかな…?」
「勉強教えてやるってだけだから、そんなに楽しいものでもないだろうに」
くつくつと喉を鳴らして笑う東堂に、言いそうになったところで言葉を奥へ押し込む。
楽しいよ。東堂に数学教えてもらえるの。東堂と同じ時間を日曜日も過ごせるの。絶対、すっごく楽しい。
「どこでするか?」
「うーん、そうだね〜…」
顎に手を当てて考える。学校、図書館、ファミレスなど色々な場所が浮かんだけど、ここはどうだろう、と深くは考えずに提案してみた。
「わたしの家とかどうかな?」
「…え!?」
東堂からうわずった変な声が出た。
…そんなに変なことを言ったかな?
首を傾げながら東堂を見ると、東堂は何故か硬直していた。
「嫌なら他の場所でも、」
「よろしく頼む!!」
そんなに意気込まなくても…。東堂は勢いよく頭を下げて、何を頼むのかはわからないけど、頼んできた。その迫力に「う、うん」と気圧されてしまう。
こうして、わたしの家に東堂が来ることになった。
ピンポーン、とインターホンが鳴って、肩が跳ね上がった。
今更だけど、東堂が家に来るって、なんかすごいことのような気がしてきた…!な、なんかすごい。どうすごいのかわからないけど、よくわかんないけど、緊張する…!
がちゃり、とドアが開く音が聞こえた。わたしが階段を下りて行っている最中にお母さんが玄関のドアを開けたようだ。
「あら〜東堂くん久しぶり〜」
「お久しぶりです。この前は娘さんにとんだご迷惑を…」
「いいのいいの!というか今回迷惑かけているのは幸子の方でしょう〜?それにしても相変わらずイケメンね〜」
「いやまあそんなことはありますが」
「そうやって卑屈に謙遜しないところもいいわ〜」
お母さんと東堂が話しているのを壁に隠れてこっそり様子を伺う。すぐ出て行けばいいものの、緊張のあまりそんな訳のわからない行動をとってしまった。あ、私服だ。そうだよね。休日だもん。久しぶりに見るなあ…。
「吉井?何やってるんだ?」
「わっ」
名前を呼ばれて、跳ね上がる。東堂がしげしげとこちらを見ていた。お母さんも「幸子何やっているの?」と振り向きながら不思議そうに訊く。…本当にわたしは何をやっているんだろう…。「ご、ごめんね。今行く」と返してそっと玄関に向かった。
「や、やっほ〜」
「お、おう」
「東堂くん上がって上がって〜」
「あ、はい。お邪魔します」
お母さんが何故かにやにやしながらわたしと東堂を見てからリビングに戻った。ものすごく楽しそうだったな…。なにがあったんだろう…。
「わたしの部屋、二階だから、こっち」
「お、おう」
さっきから東堂同じ台詞しか言っていないことにも気づかないほど、わたしも緊張していた。階段を上がっていく。後ろに東堂がいることが緊張するし恥ずかしい。ワンピースに皺とかついてないかな、といつもなら気にしないことすら気になってきた。
「ここです〜」
自分の部屋のドアを開いて、東堂に中に入ってもらう。東堂はしげしげと部屋を見渡していた。
「女子の部屋って感じだな…」
「そ、そうかな?」
「良い匂いがする…」
「リセッシュしたからかな〜」
「そうか…、はっ、いっ、今の変態臭かったけど変な気持ちは全くなくてだな!健全に普通にただ女子らしい良い香りだ…って違う!いや違わなくもないんだが!!」
突然、身振り手振りをしながらあたふたして何かの弁解を始める東堂に、きょとんとせざるを得ない。
「なんだかよくわかんないけど…お茶とお菓子持ってくるね〜」
「え、あ、おう、ありがたい」
ドアを閉めてから、少しドアに背中をもたれさせた。息を吐いてから、胸のあたりに手を置く。落ち着け、落ち着け。そう言い聞かしてから、お茶とお菓子を取りにリビングへ降りた。
「お待たせ〜…って、なんで正座してるの東堂」
東堂はカチンコチンに固まって正座していた。
「つ、ついな!おお、すまん!美味そうだなありがとう!!」
お茶とお菓子をお盆からテーブルに移した。東堂は早速お茶を一気に飲んだ。そんなに喉渇いていたんだ…。ささっと東堂のコップにお茶を注ぐ。
「ありがとう」
「いえいえ〜、なんか空のコップを見ると注がなきゃいけないっていう…職業病?」
「職業病か」
東堂がははっと笑う。少し緊張が解れたのかな?わたしも男の子を部屋に入れたの初めてだけど、東堂も初めて女の子の部屋に入ったのかな…。
「よし、ではそろそろやるか」
「うん、お願いします東堂先生」
「ハッハッハッ、お願いされてやろう」
軽口を叩き合って、数学の問題集とノートをひろげた。
ここはこう、あそこはこう、こうなって…そうそう、それでいける。そういった感じに勉強を教えてもらっていたら、気付いたら二時間経過していた。
「一旦、休憩にするか」
「うん。あーでも、この時間でよくわかった!わかりやすかったよ〜!ありがとう!」
「ワッハッハッ、この俺の手にかかればなんてことはない!」
東堂は腕組みをしながら得意げに鼻を伸ばし、そしてぐるぐると肩を回した。肩凝ったのかな?そう思ったわたしは、東堂がもたれているベッドに上がった。
「肩をお揉みしてあげます、東堂先生」
「え」
数学教えてくれたんだし、これくらいのお礼はしないとね。そう思って、肩を揉む。けど、解れるどころか肩に力が入っていっているような気がする。んん?怪訝に思って力を強める。
「ここを揉んでほしいとかないですかー?」
「え!?いや、それで大丈夫だ!!」
「そうですかー。それにしてもこっている?ね。こってるとはちょっと違うような気もするけど…でもこってる以外にありえないしなあ…」
肩を揉んでいる間、東堂は一言も声を発さなかった。いつもあんなに喋るのに…。どうしたんだろう…。奇妙な沈黙が流れる。
東堂って、肩意外と大きくて、背中も大きいんだな。そうだよね。普段からロードにのっているから体とか鍛えているわけでして。筋肉もついていて。東堂は男の子な訳でして。
…あれ。なんか、肩揉むの恥ずかしくなってきた。
すると、東堂が「もっ、もういい」と声を上げた。
「もういいの?」
「あ、ああ。ありがとう。気持ちよかった」
「そ、そっか。よかった」
名残惜しいような、ほっとしたような。よくわからない気持ちになって肩から手を離した。ベッドから降りて、東堂の横に腰を下ろす。まだ奇妙な沈黙が流れたまま。
前は、こんなことなかったのに。東堂が途切れず話していて、わたしはそれをうんうんと笑顔で聞いていて。最近は時々こんなふうに変な沈黙が流れる。気恥ずかしくて、くすぐったい。
「卒アルとか、よかったら見せてくれないか?」
ぽつりと沈黙を破る言葉が落とされた。東堂を見ると、「あーいや、嫌なら構わんのだが…」とぽりぽり頬を掻いている。
「い、いいよ〜」
立ち上がって本棚から卒アルを取り出す。再び腰を下ろしてテーブルの上に卒アルを広げた。
「ほ〜。お前のところの制服セーラーだったのか」
「うん。結構好きだったなあ」
「あ、これ吉井だ。幼いな…中一の頃か?」
「わ〜そうだね。なんか恥ずかしい」
「大丈夫だ。今と大して変わっていない」
「それはそれで問題だよ」
他愛ない会話をしていると、東堂が「あ、ここにも」と指さした。
「どこ?」
「ここだ」
「んーっと…」
東堂の方に距離を詰める。あ、これか。
「これはね〜」
東堂の方を見て、説明しようとしたら、固まった。固まるしかなかった。だって、東堂の顔がものすごく近くにあった。東堂がぱちくりと瞬きをして、睫が揺れた。わたしの間抜けな顔が東堂の瞳に映っているのが見えるくらい近かった。肩と肩が、触れた。
「うわっ」
東堂が真っ赤な顔で後ずさりをしてタンスに後頭部をぶつけた。ずるずるとずり落ちて、床に寝転びながら「〜っ」と痛そうに頭を抱えて悶絶している。
「だっ、大丈夫、とうど…わっ」
わたしはわたしで。慌てたせいでワンピースの裾を膝小僧で踏んでしまい、体勢をうまく保てず。
信じられないことに、東堂の胸へ飛び込んでしまった。
男の人の香水の香りと、東堂自身の香りがする。固い胸板が東堂は男の人だっていることを主張しているみたいだ。東堂を押し倒す形で硬直しているままのことにようやく気付き、「ご、ごめん!」と謝って離れようとした時だった。
ぐい、と手首を捕まえられて、上へ引っ張り上げられてから、腰に手を回される。
東堂の顔とわたしの顔が、さっきと同じくらい近くにあった。
「へ…東堂?」
何かの冗談かと思って、へらっと笑ってみせるけど、東堂は真剣な表情をしていた。
東堂の真剣な瞳を見ていると吸い込まれそうで怖くなって、目を逸らしたくなるけど、何故か逸らせない。手首を捕えていた手が、わたしの頬に移動した。びくり、とわたしの体が動いたあと、耳に髪の毛をかけられて。
―――コンコン
「幸子〜?あのね〜、HDDの録画ってどうやって消せばいいんだっけ〜?」
お母さんの呑気な声がドア越しに聞こえてきた瞬間、東堂ががばっと高速で起き上がった。手はわたしの腰に添えられたままなのでわたしは弓のように背中を反らしている状態だ。
真っ赤な顔で口を真一文字に結んでいる東堂の顔が至近距離にある。さっきのあの怖いくらい真剣な顔はもうなかった。
と、とりあえず。なにかお母さんに言わないと、怪しまれる。
「わ、わかった〜、すぐ行くからリビングで待ってて〜」
「は〜い」
震えそうになる声を必死で抑え、いつものような調子でドアに向かってしゃべりかけた。お母さんが階段を下りていく音が聞こえる。
東堂の手がわたしをゆっくりと離した。腰と手首に東堂の熱がまだ残っている。どっどっどっどっと心臓が激しく動いている。
「ちょっ、ちょっ、ちょっといってくるね」
「お、う」
東堂の顔はこれ以上ないというくらい赤くて。わたしの顔も赤くて。部屋から出て、ドアを閉めて熱い頬を両手で抑える。
あれは一体なんだったんだろう。あんな真剣な顔、レースの時以外見たことない。あんなの、まるで、東堂がわたしに、キスをしようとしていたみたいだった。
「…な、なんてね!ないない!」
笑い飛ばしてから、リビングに向かう。
それでも、腰と手首に残る熱は消えなかった。
高鳴る心臓パッチワーク
「あああああああああ!!」
バタンッ!!
「だァァァッ!!お前なんっかいうっせえ言われたら気が済むのォ!?その口縫い付けてやろうかァ!?」
「口よりも手を頼む!!真剣に頼む!!」
「縋り付くな気色わりーんだよ!!」
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