Box

創作

「せんせ、おかしちょうだい」
「はいはい、ちょっと待っていてね」
 テーブルに広げていたお菓子を山積みにしたお皿を、校庭に面した窓の前で持っている生徒の前に持っていってやった。
「フィナンシェだよ、どうぞ」
「ありがと! あ、これあげる」
 皿からとった焼菓子を口に含んだ彼女は、私の持った皿に個包装のチョコレートを置いてくれた。どうやらお返しにくれるようだ。
「チョコレートって美味しいよね。あとで、ゆっくり食べさせて貰うよ」
「はーい」
 ひらひら、と手を振りながら彼女は帰路についていった。差し出していたお皿を調理台に戻してから、すっかり冷えてしまった紅茶に口をつけ、自分が作ったお菓子へと手を伸ばす。
「……貴方、そんなに食べると太りますよ」
「ふふ、だって美味しいんだもの。きみもいる?」
「いりません」
 聡くんはブラックコーヒーを飲みながら、お菓子に目を向ける事なく、ただ紙束に目を通すのに専念していた。唯一の男子調理部員で、現在生徒会長もこなしている彼にはお茶をする時間すら惜しいらしい。
「全くなんで俺の先代は、放課後に菓子を配る為の集金を認めたんだか」
「きみと違って頭の柔らかい子だったんだよ」
 調理室の端っこの開け放たれた窓を、彼は冷ややかな目で見ながら言う。『おかし』とやけにポップで可愛らしい看板がくくりつけられたそこは、帰り道の生徒へ作ったお菓子をあげる為の場所である。最初は無償で数人に作ってあげる程度だったが、段々と皆から食べたいと要望を受けるようになって、流石にただでは出来ないとお金をとる事にしたのだ。勿論、無断でとる訳にはいかず彼の先代の会長に頼んだ所、ろくに審査もなく集金の許可をくれた。彼はそれが未だに理解出来ないという。
「部活を作るのに部員が足りないからと、いつの間にやら調理部に名前を貸されていたし」
「だって調理実習も楽しそうにやっていたじゃない」
「それと、これは違うだろう」
 唯一の男子部員である彼を、部活に引き込む手だてを作ってくれたのも前の生徒会長さんである。彼が何を言ったか知らないけれども、聡くんが朱印のついた調理部への入部届けを私に渡すように差し向けてくれたのだ。当時はほとんど話したことの無かった聡くんが、不機嫌そうな顔で持ってきたのは今でも覚えている。
「そうかな。……あ、今日は生徒会で集まらないの?」
「集まるは集まるが、もう少したってからだ」
 クラス展示についての会議やらで皆、忙しいらしい。と言ってから、カップに入った珈琲を一気に胃へ流しかんだ彼はまた珈琲のおかわりを注いでいた。
「やっぱり忙しいんだね。まぁ、これが楽しいのだろうけど」
「俺にとっては最後の文化祭だから、早くから準備がしたいけど……我儘は言えないでしょう」
 ボールペンをくる、くる、と回しながら、彼は資料に文字を書き込んでいる。後に綺麗にタイプされて『生徒会からの文化祭についての意見書』という名で私の机まで来るであろうそれは、赤いインキで細々と修正がはいっていた。
「きみも頑張り屋さんだね」
「好きでしているだけなんで」
「そう。……あ、会議に差し入れはいる?」
「終わる寸前でいいです。最初からあると、食べてばっかで進まなくなるし」
「ふふ、そんなに誉めてもらえると嬉しいよ」
「貴方という人は……」
 彼は、ため息を吐いてからペンで窓の方を指差した。それにつられて外を見れば、お菓子が欲しいらしい生徒がこちらを見ていた。「ごめんね、今いくよ」と皿から一つとった焼き菓子を渡してやれば、生徒は嬉しそうに頬張りながら帰っていった。まだカラメル色をした焼菓子が残っているけれど、生徒会へ差し入れするのには足りない量である。また焼かなくては、と思うと嬉しくてたまらなくなった。あの甘い香りに包まれるのが、なによりの幸せなのである。
「そうだ。今日の会議は三人とも揃うのかい?」
「全員来るらしいが、どうかしたのか」
「なんでもないよ。……ちっちゃい焼菓子なんかじゃなくて、ケーキでも焼こうかな」
「あなたは相変わらず、生徒会には甘いんだな」
「お菓子に囲まれた生活を続けられているのは、生徒会のお陰だからね」
「学校の教師なんかにならないで、パティシエの方が良かったんじゃないか?」
「いやだよ。だって原価以上のお金は取りたくないもの」
 (理解してくれる人は少ないけれど)私はお菓子を作るのが好きなだけで、趣味で儲かろうとは更々思っていないのである。店を構えた方が沢山作れるけども、ただ他人に喜んで貰う為に作っているお菓子で、金を必要以上に巻き上げるなんてしたくないのだ。学校で細々とやるだけなら店代も光熱費もかからないし、ケーキを着飾るのに白い化粧箱もいらない。原材料費、ただそれだけで他人を喜ばせる事が出来る。これ以上、お菓子を作るのに最適な場所を私は知らなかった。他の先生方にこんな事を言ったら、不純な理由で教師をやるなと怒られてしまうかもしれないけど。
「本当、変わり者ですね」
「私は自分に素直なだけだよ。……ところで会議は何時からなのかい?」
 聡くんは壁掛けの時計を眺めてから、あ、と声を漏らしていた。もう会議が始まってしまっているのか(それとも、もうそろそろ始まるのだろうか)鞄の中に急いで荷物をしまっている。
「出来上がったら、生徒会室に持っていくね」
「手で掴んで食べられるものにしてくれ」
「はいはい。じゃあ、行ってらっしゃい」
 ぱたん、と扉を閉めて彼が出ていくのを、忙しい子だなぁ、と思いながら見送る。それから出店状態になっている窓のサッシに『用事があったら呼び鈴を鳴らしてください』というパネルを吊るしてから、無造作に食料を入れている冷蔵庫へと歩を進めた。



「なにを作ろうかな……」
 冷蔵庫の中身は使いかけのものばかりで、好き勝手に作れそうに無かった。とりあえず使えそうな材料をテーブルに片っ端から並べていく。卵 、生クリーム、クリームチーズ、レモン、と並べた所でチーズケーキをつくる事に決めた。これなら早く作れるし、細長い形で作ればクッキングシートにくるんで手を汚さずに食べられる。我ながらいいものを思い付いたと、新調したてのミキサーに全てを突っ込んでスイッチを押す。最新式だというそれは、けたたましい音をたてて材料をぐちゃぐちゃとかき混ぜてくれた。あっこれいいなぁ、私物でも購入しようかなぁ、とジップロックに入れたビスケットを綿棒でばりばりとミキサーに負けない音で割りながら考えていた。家に導入するか否かはともかく学校では、必死に泡立て器を使わなくてすむので、よりいっそう沢山のお菓子を作れるし、下校時間ぎりぎりで今までお菓子にありつけなかった生徒にも配れるようになったのが嬉しい。
「上になにを塗ろうかな」
 クッキングシートを敷いた上に細かくなったビスケットを敷き詰めた長方形の型へ、どろどろとした生地を流し込みながら上に塗るソースを思案する。かといって実がごろごろ入った豪華なものはクッキングシートにくるむ事が出来ない。というか果物類は一切冷蔵庫に無かった。
「……まぁ、今日はアプリコットでいいか」
 温めておいたオーブンにケーキをつっこんでから、鍋でお湯を沸かす。確か使わずに余っている干しアンズがあった筈だ。

 ぐつぐつと柔らかく煮てから裏ごししたアンズを、適当量の砂糖と水と一緒に鍋に加えてどろり、とするまで煮詰めてやる。その作業が終わる頃にちょうどケーキも焼き上がってオーブンから美味しそうな匂いを漂わせていた。いそいそとオーブンから出してから、はみ出たクッキングシートを引っ張って型からケーキを取り外す。少々しぼんでしまったが、中々の出来上がりに満足してから、ケーキクーラーに置く。ソースの粗熱が早くとれるように、水が張られたボウルに鍋ごと突っ込んでやる。
「まぁ、急いで作った割には上出来かな」
 人肌程度に冷めたケーキの上にソースを塗り、それがある程度乾くまでの間に使った道具を洗う。このお菓子を見たら生徒会の子はどう思うだろうか、と考えながら。
 聡くんは「今回は食べやすそうですね」と認めてくれるだろうか、きっと無理であろうけれども、淡い期待をしてみたいものだ。ならば生真面目な副会長は? 彼は昼以外に教室でものを食べてはならないという校則を事細かく気にしているようだし、いつも通り申し訳なさそうに食べるかもしれない。
 ならば、彼女はどうだろうか? 親に心配されるからだか知らないけれど、下校時間ぎりぎりまで残る事がまれな彼女(文化祭以外の雑務は会長がほとんどこなしてしまうから、遅くまで残る必要がないのかも知れないけど)でも文化祭が近付いたこの季節だからか残っているみたいだし。彼女も副会長と同じくらい真面目だから、聖くんみたいに申し訳なさそうに食べるのであろうか。それとも帰りにお菓子を貰いにここを覗いてくれた時みたいに、砂糖菓子のようにとろけそうな笑みを浮かべてくれるのだろうか。そう、考えるだけで楽しかった。
 細く棒状に切り分けたチーズケーキをクッキングシートで、キャンディをくるむように両端をねじって覆う。もっと時間があれば紅茶でも淹れてあげるのだが、時間的に厳しそうなので自分の荷物をまとめてから、生徒会室へと向かう事にした。



「みんな、お疲れ様」
 差し入れだよ、と小さな手提げからケーキを取り出して、会長と副会長に二つ、彼女には三つ渡してやる。会長はため息をひとつ溢してからケーキを口に含み、副会長は矢張りばつが悪そうに食べていた。
「あの、私だけ多くていいんですか?」
 その中、彼女は食べずにおろおろとしていた。予想外の反応である、てっきり喜んで貰えると思ったのだけとも。
「私の分だからね、食べていいよ」
 自分の取り分である、八等分した最後の一個の包装を剥がしながら言えば「ありがとうございます」と彼女は嬉しそうに笑ってから、食べ始めてくれた。
「で、なにか決まったのかい? 私に話しても構わないのなら、いますぐ聞きたいな」
 調理部の出展場所とか、と言えば彼女が見取り図を見せてくれた。シャーペンで書いては消してを繰り返したらしく、薄く黒鉛で汚れた地図にはどこになにを割り振るかが事細かに書かれていた。クラス毎に出された出し物の内容を踏まえて、誰からも苦情が来ないように部屋割りをするのは大変だろう。それなのに教師に頼る事なく三人でこなしてしまう生徒会に感心するしかない。学生の時から調理にばかり勤しんでいた男には到底出来ない芸当である。
「ありがとう、石田さん。聡くんも聖くんも大変だっただろうに」
「全然です。だって会長、凄いんですよ。私たちが困っていると的確な指示をしてくれて」
「会長なのだから、当たり前でしょう」
「来年になったら僕はいないから、二人に学んで貰わないと、いけないから、必要最低限しか手を出していないんです」
 相変わらずにこにこと目を細めながら語る聡くんは、後輩から見ると徳のある子なんだなぁと改めて思った。本当に世渡り上手なタイプの人である。後輩二人に敬意を含んだ目で見られている彼が羨ましかった。まぁ、今更羨んだ所で、なにも変わりやしないのだけど。
「それはいい事かもしれないね。石田さんも、聡くんも、聖くんもちゃんと考えているんだ……下校時間を過ぎてるのを除けば、完璧なんだけど」
「え、あ……あっ! 今日は解散するよ」
 腕時計を見た聡くんは、机の上に広げられた紙類や、散らばった文房具をかき集めながら号令をかけた。石田さんと聖くんの二人も、それに倣うように片付けをはじめる。そのどたばたとした動きを見ながら、私も生徒会に入っておけば、こんな感じに充実した学園生活が送れたのだろうか、と他人事のように思った。



「あれ、今日は車じゃないのですか?」
 三人の帰り道にお邪魔させて貰えば、石田さんが不思議そうに首を傾げてきた。
 ちょっと調子が悪いから朝、検査に出してきたんだ。帰りに取りに行くつもりだよ。と答えてやると、なにもなければいいですが、と心配してくれた。
「貴方のメンテナンスが杜撰だったのでしょう」
「野々村さん、それは言い過ぎなんじゃあ……でも、車ってそんな簡単に壊れるものですかね?」
「一応車検には出しているのだけど、足りなかったのかな。……あ、私こっちだから、また明日ね」
 また明日、と手を振りながら駅へ向かう三人を見つつ、ちょうど来たバスに乗る。あと少しで文化祭だなぁ、と思いながら。


×××


「すごい人……」
 弁当を忘れてしまったから、久しぶりに訪れた食堂は酷く混んでいて、食券を買うだけでも長蛇の列が出来ている。例えご飯を買えたとしても、食べる為に設置されたテーブルも人で溢れていて座れそうにない。いつも一緒にご飯を食べている美加が体調を崩して休んでしまっているから、私が食券を買っている間に席をとって貰う事も出来ないし、今日は昼を抜くか売店でパンを買うしかなさそうである。パンにしたって売っている数が少ないし 早く買いに行かないと。そう思い、方向転換をした時だった。
「あれ、石田さん。どうしたの?」
 小さな手提げ袋を片手に持った先生に声をかけられた。教師は基本的に職員室でご飯を食べるだろうし、売店にも生徒がいない授業中に買いに行くと思っていたものだから、すぐに反応が出来なかった。
「お弁当忘れちゃって」
「だから食堂にいたんだ。いつもみたいに教室にいると思ったから、驚いたよ。……で、もうお昼は食べたのかい?」
 食べましたと言うつもりだったのに、言葉よりも空腹を訴える音が返事をしてしまった。食べていない事がばれたのもそうだが、それ以上に正直に鳴ってしまった腹の虫の音を聞かれたのが恥ずかしくてたまらなくて、顔がかっと熱くなるのを感じた。
「いや、その、今から売店に行こうと思って」
「大丈夫だよ。今日のお弁当の中身、昨日の晩御飯の残りなんだけど……沢山作りすぎてしまってね。良かったら、私と一緒に食べてくれないかい?」
 ここじゃ人が多いし、調理室でいい? と遠慮する時間を与えてくれない内に、どんどんと話が進んでいってしまった。


×××


「はい、どうぞ」
「ありがとう、ございます」
「どうぞ遠慮せずに食べて」
 口に合えばいいのだけど、と言いながら小ぶりな方のお弁当箱を渡してあげた。彼女はバンダナを丁寧に広げてから、お弁当のフタを開けていた。(がっつくように食べる下校拒否生徒とは大違いだ)
「美味しそう……いただきます」
 手を合わせてから、一口一口上品に食べている姿はとても綺麗だった。ちゃんと家で教育を受けた子なのだろう。
「どんどん食べて。お料理は食べられるのが一番幸せなんだから」
「はい」
 彼女を見続けている訳にもいかないので、弁当に手をつける。ぱか、と開いた蓋の中身は色とりどりで綺麗で、時間をかけて作ったおかずばかりだから美味しい。けれど自分で作ったものだから、見た時にぱっと目を輝かせるような――それこそ、彼女みたいな反応は出来ない。ただ機械的に口に含んで、咀嚼して、嚥下するだけである。ただ不味いものを食べたくないから、とちゃんと味付けされた料理。塩が少しばかり足りないけれど、及第点をあげてもいいような出来上がりである。
「おいしい?」
「凄くおいしかったです。……私、あんまり料理が上手くないから」
「そうなのかい? 暇な時……そうだね、文化祭が終わった頃にでも教えてあげるよ」
「本当ですか?」
 そう言えば、彼女は嬉しそうに笑んでいた。ふわ、と口の中に砂糖菓子が広がるような、優しい笑い方である。私にもこの位の妹がいたら、さぞ楽しい学生生活が送れていた事だろう。こんな可愛らしく上品に笑ってくれるのなら、どんなに高級なものでも、面倒な事も喜んでやるだろう。
「勿論。まずはきみが、一番好きなものを教えてあげたいな」
「本当ですか? 楽しみです」
 うんうん、と相槌を打ちながら、ふと疑問に思った事を口に出す。
「あ、そういえば石田さんって、生徒会に女の子と二人で入ったよね。あの子を最近、生徒会で見ないけど……どうしているの?」
「美加なら……会長目当てで入ったのだけど、『かっこよすぎて直視出来ないッ』とか言って来なくなりました」
 見かけによらず純情な子なんです、とちょっと困ったような笑みを浮かべる彼女の頭をぽんぽん、と優しく叩いてやる。まったく生真面目な子である。友人がやめてしまったというのに生徒会を続けているなんて。こりゃあ聡くんが自分の部下として使いたがり、生徒会の意見としての草案を作る段階から会議に参加させるのもわかる気がする。
「やっぱり生徒会に聡くんとか、聖くんを目当てに入る子がいるんだ」
「会長は敏腕だし、相原くんも気が利くし…」
「やっぱり美形はモテるねぇ。ところで石田さんは、どっちが好みなの?」
「い、いや、わた、私は会長の事は素敵な先輩だと思っているし、相原くんもただのクラスメイトだし、そんな事は一切ないです! かっこいいな、って思うだけで……先生だって生徒や先生見て可愛いとか綺麗とか……そう思う事だってあるでしょう?」
「そうだね。石田さんも、可愛いし。可愛いって言われない?」
 食べ終わった箸を置き、肘をついて彼女を見れば、かっと朱が顔にのぼっていた。その反応がとても初々しくて可愛くて、頬をつつきたくなる。が、腕を伸ばすのをすんでの所で止める。彼女は自分の大事な教え子なのだ、手を出すにはいけなかった。
「そ、そんな可愛くなんてないですよ!」
「そう? お化粧して、おしゃれしたら絶対可愛いのに」
 私が上手く化粧をしてあげられたらなぁ、と思う。料理やら裁縫やらといった女性らしいの趣味を持っていても、やっぱり化粧は出来なかった。まぁ、化粧をして可愛らしく着飾った姿を、学校でしか会わない私には見られる訳がないのだけど。
「私は上手く出来ないから……美加に教えて貰ったのだけど、駄目みたいで」
「でも、今度上手く出来たら、その写真を見せて貰いたいな」
「私が何をしたって可愛くないですよ。……あ、もう行かなくちゃ! 明日の文化祭前日準備日は生徒会に付きっきりだし、当日も忙しいから、今日はクラスの準備に参加しなくちゃいけないんです」
「頑張ってね」
 ひらひらと手を振っていた所、彼女がぐるりと踵を返した。そして彼女は嬉しそうに笑いながら、「ごちそうさまでした」と言いつつ頭をさげたかと思えば、ぱたぱたと他の生徒よりちょっぴり長いスカートをはためかせながら家庭科室を出て行った。



 文化祭前の二日間は準備に一日中使用してよく、帰る時間も八時までと延長されている。といっても、二日前の今日は前日よりも残る人は少ない。彼女のクラスも六時台に解散したようだが、(一緒に生徒会に入っていた奈倉さんが帰っているのを見た)彼女は生徒会の方へ向かったらしい。時計を見ると、もう七時を軽く過ぎている。流石の生徒会でも、もうそろそろ終わっただろう、と自分の荷物を持ってから生徒会室へ向かった。
「お疲れ様。おやつだよー」
「また貴方ですか」
「いやぁ、文化祭で販売するクッキーの試食用を作りすぎちゃったんだよ」
 いつものこぢんまりと会議をしている時とは違い、一般教室より少し広いそこには二十人位の生徒がいた。大きな紙皿にざららっ、と中身を出せば、皆寄って集って食べてくれた。口々に美味しい美味しい、と言いながら手を出してくれるものだから、すごい勢いで減っていく。いつもの三人ぼっちの会議に持っていくのとは大違いだ。
「それ食べたら今日は解散するから、片付けをしますよ」
 聖くんがぱんぱんっ、と手を叩きながら指示を出せば、生徒会の子らは思い思いの声を漏らしながら床や机に広がった荷物の山をのろのろと片付け始めた。強制下校時間まであと三十分程、中々考えられた時間配分だ、と感心した。

「え、きみらはまだ帰らないの?」
「今までの遅れを取り戻すために、明日の計画を変更しなくてはならないので」
 貴方は帰っていいですよ。と冷たく言われた会長の言葉を無視し、椅子をずるずる引きずって会議をしている彼らの机の端を陣取ってやった。はぁ、と聡くんは溜め息をついたものの無理矢理追い出す気はないらしく、大量にメモが書かれたタイムスケジュールを見ながら、まるで私がいないかのように会議が始まった。「これは優先順位が低いから後回し」「これがすすんでないから午前中に仕上げましょう」等あがった意見を元に、タイムスケジュールを作り直すという、大変な作業だったが、三人とも要領がいいらしく、強制下校時間ギリギリにまでに時間調整を終えていた。



「もう遅いし、駅まで車で送るよ。ほら、乗って乗って」
「しかし、大宮さんの迷惑になりませんか?」
「私が言っているんだから、きみ達はなにも気にしなくていいんだよ。四人はちょっと狭いけど……あ、聖くんと聡くんが後ろで石田さんが助手席ね」
 ほら、他の先生に見つかる前に、と躊躇う三人を車に乗っけてから、キーを差し込んで車にエンジンをかける。低く唸るような声をあげてから、昨日修理から帰ってきたばかりの車が発進する。
「一応、シートベルトは締めてね」
「貴方、いつもやってない癖に」
「だって締めるとギアチェンしにくいんだもの。今はなるべく締めるようにはしているけどさ」
 がちゃ、と音をたててしめたシートベルトが邪魔だと思いながらも、生徒の前で堂々と交通ルールを破る訳にもいかない。肩を押さえつけられる感覚は決して好きにはなれそうないけども、彼女彼らを送るまでだと言い聞かせて、アクセルを踏む。
「そういえば石田さんと聖くんはどの辺りに住んでいるの?」
 二人は近くにある建造物やら最寄り駅の名前を出しながら、わかりやすく教えてくれた。近くもなく、遠くもなく、中々通いやすい場所に住んでいるようである。
「先生はどのあたりなんですか?」
「車でひとっ走りで行ける距離だよ。きみたちの中で一番近いんじゃないのかな……」
 対向車が来ない事を確認してから、駅のロータリーへ入るため右折する。この時間はお迎えの車が多いのか車が鈴なりになっていた。流れに乗ってじりじりと前進し、一番駅へ向かう階段が近い場所で一時停止をしてやる。
「石田さんは乗っていていいよ。ここより××駅の方が近いでしょ?」
「え、あ、はい。そうですが……わかりました」
 車から降りた二人へひらり、と手を振ってから駅をあとにした。

「あの、先生」
「どうかしたの?」
 赤信号で足止めを食らっている最中、ずっと無言だった石田さんが口を開いた。それにつられるように彼女の方を向けば、なんだか気まずそうに目線を逸らされてしまった。どうかしたのだろうか、と思いつつも、目の前の信号が青に変わってしまったので、仕方なしに前を向く。
「どうして、私に優しくしてくれるんですか」
「どうして? んー……きみが大事な生徒だからだよ。それじゃ、理由不足かい」
彼女の方をちらり、と見たけれど、窓の方を向かれてしまって、どんな顔をしているかわからなかった。

「ここまでありがとうございます」
「きみみたいに可愛い子は心配だからね、……また明日」
 彼女は困ったような、泣きそうな顔をしてから私に向かってお辞儀をしたと思えば、一目散に駅へ向かって走っていってしまった。私がなにかしてしまったのだろうか、と考えてみるけれど思い当たる事は一つもない筈だ。もうそろそろ電車が来る時間だったのだろうか、と暫くロータリーでぼう、とホームを眺めていたけれど、彼女が乗るべき車両は全然来なかった。


×××


「聡くん、聡くん、ちょっと来てくれない?」
「普通に無理です」
 文化祭の当日に配布するアンケートの作成を終えてから、休憩がてら購買で相原くんと会長に頼まれた物を買って帰って来た所、なにやら会長と先生が揉めていた。昨日、逃げるように帰ってしまったから、先生がいる空間に居る事が気まずくて教室へ逃げてしまいたくなった。けれども、会長と相原くんのおつかいの品を渡さない訳にはいかなくて、先生と会長の方を見ないように相原くんへ近付く。先生と会長はどうしたの? と頼まれた飲み物を渡しながら聞いてみると、ぱちぱち電卓を叩いた手を止めてから「大宮さんが、野々村さんを調理室に連れていこうとしている」と一息に言うとすぐ作業に戻ってしまった。
「だってきみ、部長さんだし」
 生徒会に張り付きっぱなしだった会長に、部活の活動をするよう頼みにきたようだった。掛け持ちって大変だなぁ、と思いながら、頼まれていたコーヒーを差し出せば嬉しそうに受け取ってくれた。
「試食くらい誰だっていいじゃ……あ、おかえり石田さん」
「お疲れ様です、会長」
 おつかいという気晴らしも終わったし、相原くんの予算書を手伝ってあげようかな、と踵を返そうとした直後、会長に腕を捕まれた。
「石田さん、とりあえず仕事終わっているよね?」
「終わっていますが……どうかしましたか?」
「先生、俺の代わりに石田さんでもいいでしょう。……行ってらっしゃい、石田さん」
「え、ちょ、私調理部じゃないんですが」
「だって、うちの部員の子たち装飾で忙しいみたいし」
 ね? と、念を押されるように言われれば断る訳にもいかなくて、先生について行く事になってしまった。会長は相変わらずにこにこ笑いながら、見守るだけである。自分が行きたくなかっただけなんじゃあ、と、思ったけれど言い出せる訳なんてなかった。


×××


 彼女の前にパスタを差し出す。トマトをベースにしてバジルとモッツァレラチーズをちらしたそれは、ピザを作ろうとした所、会長に(経費と手間の問題で)ダメ出しを食らった結果の妥協案である。
「トマトは大丈夫?」
「大丈夫、です」
 彼女はいただきます、と前回のように礼儀正しく手を合わせる。スプーンに上手くチーズとバジルを少量乗せてからパスタをフォークで巻いて口に運ぶ。育ちのよいお嬢様のような食べ方である。
「美味しい?」
「とっても美味しいです。あの、ところで先生」
 気まずそうに目を逸らしながら、彼女は口を開く。昨日、なにも言わずに帰ってしまった時と同じ表情である。嬉しさと、悲しさがない交ぜになったような、困惑した顔。相槌を打つのも気が引けるし、かといって彼女の顔を凝視する事もできなかった。仕方なしに自分用に作ったもう一皿あるパスタとか、部員の子が作ってくれた装飾とかをぼう、と眺めて時間を潰す。
「部員の子は装飾で忙しい、って言いましたよね?」
「あぁ、言ったよ。……だってその位、切羽詰まった状況だと言わないと、聡くんが来てくれると思えないもの」
「だったら、どうして会長の代わりに私を連れてきたんですか? 私を呼ぶくらいなら、部員の子の方がいいでしょう」
 カトラリーをテーブルに置いて首を傾げる。怒って、今にも帰ってしまいそうな彼女の手を私は無意識の内に掴んでいた。
「会長の代わりにきみが来るのなら、昨日のお詫びにしようと思ったのだけど……昨日、私が言った事が気に障っていたんじゃないのかい?」
 白い彼女の腕は強く掴めば花茎のように折れてしまいそうな位細かった。その儚い感じがとてつもなく愛おしい。謝罪をしている最中なのに、そんな事を考えてしまうなんてなんて駄目な教師なのだろうか。
「謝らないでください……謝られたら、私は、私はどうしたらいいんですか」
私から手を振りほどいた彼女は両手で目元を覆って、俯いてしまった。今にも泣いてしまいそうである。どう慰めてやればいいのか、と咄嗟に考えを巡らせるけど名案が思い付かない。もし、彼女がこんなに年がはなれていなかったら、自分の教え子なんかじゃなかったら。抱き締めて宥めてやるだけですむのに、と彼女と私の立場の差が歯痒くて仕方なかった。
「泣かないで、石田さん」
 きみはなんにも悪くないんだから、と言いながらハンカチを差し出せば彼女は受け取ったものの、使おうとはしなかった。
「…………先生、どうして先生は、そんなにも私に優しいんですか」
 ぎゅ、と私のハンカチを握りしめながら、涙ぐんだ目でこちらを見てくる。昨日、彼女の機嫌を損ねる寸前にされた問いであった。どうして、そんな事を聞くのだろうか。大事な生徒だから、と言う答えだけでは足りなかったから今、もう一度聞いているのだとしたら。
(彼女が私に恋をしているみたいじゃないか)



「きみが大事な子だからだよ」
「……はい」
「君の事をなんとも思ってなければ、こんなに優しくする訳がないでしょ? ……ほら、早く感想を教えてよ」
「さっき美味しい、って言ったじゃないですかぁ……」
 涙を見せまいと必死に目元を拭って誤魔化す彼女がいじらしかった。それでも誤魔化しきれずに頬に伝って跡となっている涙を指でなぞってやれば、彼女の頬にぽっと朱がさす。それは完全に恋をしている時にする、顔であった。
 彼女は私のどこを好いたと言うのだろうか。可愛らしく、男など探せば五万と捕まえられそうな彼女とは違い、私は料理なんて女々しい趣味しか持ってない教師だ。それに年だって十近く離れている。授業を持っている訳でもなく、ただ生徒会と聡くん経由で知っただけである。そんな、さして関わりのない彼女に昼食を振る舞ったりしている自分も端から見たら奇妙な光景かと思うが。
「あぁ、そう、だったね。美味しかったみたいで良かった……でも、泣きながら言われてもなぁ」
「泣きたくて泣いた訳じゃなくて、その」
「泣きたいなら泣いていいんだよ。…………きみが生徒じゃなかったら、よかったのに」
 あ、と急いで口をつむぐ。猫可愛がりしたい衝動に駆られるものの、彼女はただの生徒の筈だ。彼女が生徒で無かったら出逢う事は早々なかっただろうし、生徒でない彼女と出逢っていたら、どうなると言うのだろうか。友人として意気投合するともあまり思えない。(頭の中がごちゃごちゃする、私は一体なにが言いたいのだろうか!)
「私が生徒じゃなかったら?」
「抵抗なく、泣いているきみを抱き締めてあげるのに。あぁ、違うな……ちょっと待って、私も何を言っているのかわからないんだ」
 無意識の内に頭皮へと手をあてて掻いていた。そう、わからないのだ。自分が彼女になにを言ってやりたいのか、本当は彼女にどう接したいのか。
「どうしたんですか、先生」
「私はきみをどう扱っていいかわからない、ってだけだよ」
「……すみません」
 しゅん、と眉尻を下げる彼女が本当に可愛らしかった。泣いているのを宥める為じゃなくて、ただ純粋に抱き締めてあげたくて堪らなくなる。でも、駄目なのだ。自分は先生なんだから、生徒である彼女に手を出してはならない。と、わかっているのに。
「…………ごめんね、石田さん」
 相手に好かれてるとすると、余計に意識してしまう。なんて名前だったかは覚えていないけど、そんな精神状態もあるんだっけ、と他人事のように思った。パスタが服につかないよう皿を横へずらして、彼女へ向かって腕を伸ばす。え、え、と今の状況を理解出来ていない様子の彼女を置いてけぼりにして、机に身を乗り出して、少しだけ赤みのさした白く綺麗な頬へ口付けを落とす。ちゅ、とリップ音すら鳴らない、拙くて幼い触れあうだけのバードキス。なんて事をしているんだろう、生徒に好きだと言い寄られた事は初めてじゃないのに、なんで今回ばかりキスなんてしているのだ。
「……え、いま、なにを」
 彼女は頬、そう私が顔を近付けてしまったそこに手をあてながら、顔を真っ赤にしつつ、期待と戸惑いがない交ぜになったような顔で私を見てくる。
「だってきみが泣き止んでくれないから」
 そんな彼女の顔を見ているとこちらが恥ずかしくなってきて、空いたパスタの皿を持ってシンクへ行こうと立ち上がる。彼女の方を見れば、なにがなんだかさっぱりと言わんばかりに座って茫然としている。皿を置いた帰りに作って置いたケーキを手にとって、彼女のいる席へと戻る。
「きみが卒業したら、私ときみの関係も変わるのかもしれないね」
 卒業するまで私の事を思っていてくれたら、その時はどろどろに溶けてしまいそうな位あまい時間を過ごさせてあげよう。そう思いながら、自分のケーキにフォークを刺す。一口食べると、生クリームに覆われたそれはいつも以上に甘く感じた。



×××


 今日は待ちに待った日。いつものラフな格好とは違い、ジャケットなんて洒落た服なんて着て。改札を出てから腕時計を見ると、待ち合わせよりも一時間も早かった。これじゃあ小さい子供みたいだ、と思うけどもそれほど楽しみにしていたから仕方ない。駅前の広場にあった筈のベンチに腰掛けて時間を潰そうか、それとも近くの喫茶店にでも入ろうかと悩んでいると、あのう、と小さい声が後ろから聞こえてきた。
「……待ち合わせは、もっと先じゃなかったっけ」
「先生こそ、まだ一時間前に居るじゃないですか」
 ふふ、と可愛らしい笑みを浮かべた彼女に対して「もう先生じゃないよ」と言えば、真美は恥ずかしそうに私の名前を呼んでくれた。

2012/02/28
etc
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