「愛してる」、何度でも伝えたい
風にのって届いた、もういくぶんか聴き慣れた音に、千秋はそっと目を閉じた。 聴き慣れたものの、あきない音。どちらかといえばずっと聴いていたいとさえ思える音だ。 暑さの盛りもすぎて、秋も、冬もこえて。ふたりで過ごすはじめての春も終わり、初夏に差しかかった頃。 涼しげな風と、おだやかな日差し。 目を閉じて思いはせるのは、この一年にも満たない期間で得た、たくさんの思い出たち。 脳裏を駆けめぐるのは、くるくると変わるかなでの表情で。 ふとひとりでに零れ落ちる笑みもそのままに、千秋はその音色に身を預けた。 (ああ、やっぱり……かなでの音がいちばん心地いい) さわりとそよぐ木の音、風のにおい、陽光の色、それらと合わさって届いた音に、千秋はぼんやりとそう考えた。 目を閉じているのにもかかわらず、浮かぶ情景。 ゆるやかに瞼を開いて、たゆたう音色に溺れながら千秋は口端に笑みを浮かべた。
何処か現実離れした、おだやかすぎるくらいの日差しとやさしく吹き抜ける風。 風にそよぐ梢の音、奏でられる鳥たちの音色。 全身にそれらを感じて、かなではそっと弦から弓を離した。 まだ、風に余韻が残っているようで、閉じていた瞳をゆっくりと開く。 ぱちぱちと数度瞬きをくりかえして、空を見上げる。 きらきらと眩しいばかりの日差しが降り注いで、思わず目を細めた。 傍らに置いたヴァイオリンケースに、そっとヴァイオリンを戻すとかなでは視線を空に戻した。 近くの木に背を預けて、思いきり深く息を吸いこむ。 肺いっぱいに満ちる空気に、かなではくすりと笑い声をあげた。 早朝の空気は清々しくさわやかで、心が洗われるような気分になる。 地面に置いていたヴァイオリンケースを手にすると、ベンチへ腰を下ろす。 ほとんど人もいない、独特の時間軸を持つこの時間帯ゆえの、たゆたうような感覚。 ふわりやわらかな笑みを浮かべたかなでは、そっと目を閉じると音に耳を傾けた。
しばらくして、難しいカオで腕を組み、足を組んでいた千秋はそれを解いた。 足を地面に下ろした瞬間、そのまま足に力をこめて立ち上がる。 その手に握られていたのは、ヴァイオリンケース。 かちゃ、とちいさな音を立てて開いたヴァイオリンケースの中から出てきたのは、彼の愛器。 赤いボディに光を反射したカンタレラは、いつも以上に輝いて見えた。 軽く弓を弦に触れさせて、音を確かめる。 ちいさくうなずいて口角をあげると、千秋はすっと弦を走らせた。 ついさっきまで、かなでが弾いていたのと同じ曲。 その曲が、まったく違う解釈で、テンポで、音色で……響く。 空気を震わせるように、熱く、どこか甘い音が空間をかき鳴らす。 目を閉じていたかなでは、聞こえてきた音に目を開けた。 音に乗せられた千秋の心に、ふとはにかむような笑みをこぼして。 おそらく、何度も彼の演奏を聴いたことのある人ならば、今の音に違和感を覚えるだろう。 ただ、今この場にいる人の中でその違いがわかるのが、かなでだけだっただけのことで。 普段の彼の音は、情熱的で甘くはあるけれど、どこか冷めた部分もあるものだったのだけれど。 今の音は、ちがった。割り切った感情や、押し殺した感情は見えなかった。 それよりもむしろ、響いてくるのは感情の揺れ、切なさ──…、切実に迫った音色だった。 「千秋さん、」 ちいさな声で呟いて、かなではベンチから立ち上がった。
心臓の音が、うるさい。 はぁはぁと荒い呼吸が耳に響いて、彼の音がかすんでしまう。 それでも。 一刻も早く、とかなでは足を止めなかった。 ……ただただ、かなでの音を聞いたら弾きたくなった。 気付いた時にはもう、本能的にカンタレラを手にしていた。 目を閉じて、外部からの情報をすべて遮り。 自分の中にある、大きな想いに向き合って、ひたすら弾き続ける。 不思議と、感情というものは音に乗りやすいらしい。 ずっと不安定に揺れる音は、ときどき理由もなく不安にかられる気持ちのようで。 自分に自信が持てないなんてこと、かなでに逢ってからがはじめてなんだぜ? ……お前に言ったら、嘘だって笑われそうだけど。 それくらいに。 (俺はお前のことを愛しちまってるんだよ、) 困ったような笑みを、千秋が浮かべた瞬間だった。 答えるように鳴り響いたヴァイオリンの音に、千秋は閉じていた目を開けた。 それは、恋い焦がれた音色。俺の音とは正反対の、やさしくておだやかで、可愛らしい音。 「……かなで……」 消え入りそうなほどにちいさく、呟いた声に、ふわり心を包む微笑みが返ってくる。 言葉ではなくて、いっそうあたたかくやさしくなったかなで音に、笑みを返して。 愛してる、その想いを込めて。
何度でも、この想い伝えるために奏でるから。俺たちふたりだけの音楽を。 このあふれんばかりの想いを伝えるには、言葉だけじゃ足りなくて。 俺とかなで、ふたりのためだけのマエストロフィールドを、そこに広げるから。 (愛してるぜ、かなで) そっと、音に乗せてそう、呟いた。
'10,0424 企画サイト、「君と過ごす夏」様提出お題です。 すでに第一弾「恋」でED後を書いていたので、第二弾の「未来」というテーマに悩んだ末、舞台を未来に移しただけに……。 時間が経つにつれて、どんどん千秋はかなでちゃんに弱くなっていくような気がするのです。お互い必要不可欠、というか。 ちなみに、場所的には東金家のお庭か東金家所有の公園、閑静住宅街の中の公園をイメージしています。 お題を見たときから「何度でも伝えたいけど、言葉では足りない」というのを考えていたので、このようなお話になりました。 素敵な企画に参加させて頂いて、ありがとうございました。少しでも楽しんでいただけていれば幸いです。
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