ずっと抱き締めていたい
誰かをこんなに愛しいと思ったのははじめてで、本気で攫って行ってしまいたいなんて考えて。 想いが通じ合ってもまだ不安、まさかこの俺がここまで溺れるなんて。 「予想もせぇへんかったわ……」 悩ましげに濡れた髪を掻きあげて、千秋はバスタブの中ひとり呟いた。 バスルームに響くのは、セミファイナルで星奏が演奏した曲。 同時に俺の考えを覆して、小日向に興味を奪われた曲で、俺が好きな曲でもある。 それが音を奏でるのも、夏のあの日に小日向からもらったバススピーカーで。 「……ほんまに、溺れすぎやろ俺……」 はぁ、とちいさく息を吐いて、天井を仰ぎ見ながらつぶやいた。
夏が終わって、神戸へ戻って来てからも、横浜と行き来をする日が続いた。 理由はもちろん、かなでに逢うため。 金曜の夜から押しかけて、日曜の晩まで居座る。それが俺の週末のお決まりパターンと化していた。 あいつに逢えるのはしあわせで、苦なんかじゃなかったけど。 横浜に出向いてばかりじゃ俺ばっかりが逢いたいみたいで、すこし面白くなくて、ある日ふと提案してみた。 「なぁ、お前も神戸に来いよ。案内してやる」 その提案に一瞬きょとんとした表情を浮かべたかなでだったが、すぐに笑顔になった。 返ってきたのは、ふわり柔らかい笑みと、心弾む返事。 「本当ですか?……それじゃあ、今度の週末は私が神戸に行きますね!」 二つ返事で、快く承諾。 ちょっと待ってくれ、なんていうか、正直心の準備ができてない。 小日向に逢いに来るぶんには、菩提樹寮に泊まればいいから気にしてなかった。 でも、神戸に来るとなると話は別だ。 ……必然、泊るのは俺の家だろ?同じ屋根の下、なんて。 毎日電話してメールして、連絡取っててもまだ足りなくて、毎日、日ごと愛しくなっていってる。 だから顔が見たくて、直接声が聞きたくて、俺だけに笑いかけて欲しくて、かなでに触れてたくて、毎週のように通ってるってのに。 神戸に来て、ひとつ屋根の下、なんて。 (いくらなんでも、普通でいられる自信なんかねぇぞ……俺だって) 意外に大胆なお前は、応援やお願いや祝福のキスはかんたんにくれるのに、いざってなったら照れるから。 恋人になって、口付けるたびに頬を染めてはずかしそうに視線を逸らせる。 なぁ、そういうところも可愛いなんて……、お前は気付いてないだろ? その表情に、触れてたいって衝動は強くなる一方だって……、知ってたか?
柄にもなく思い出して、浸って、今現実にひとつ屋根の下に、同じ空間にかなでがいるって思ったら。 どうにも落ちつかなくて、くすぐったくて、幸せをかみしめる反面、愛しさが制御できなくなる。 「……っとに、逆上せた」 冗談半分、バススピーカーをもらったときにコレのせいでのぼせでもしたら介抱しろよ、なんて言ったけど。 まさか、本当にここまで自分が長風呂をすることになるなんて。 考え込んで、落ちつこうとして失敗して、頭の中をぐるぐるあいつのいろんな表情が駆けめぐって。 どんな顔して逢ったらいいかわからなくなるくらい、うれしくて。 ひとりごとで方言が出るなんて、よっぽど気が抜けてリラックスしてるときでもなきゃ……ないのに。 かなでといたら、落ちつくってのもある。けどそれよりなにより、本当の、素の俺を見て欲しいって想いもあって。 夏の間は、舐められないようにってよそいきの言葉で、お前に対しても好きだって気持ちとか、存外虚勢を張ってたんだ。 ……だってな、あんだけ地味子地味子って言ったヤツに、たった数週間でここまで惚れこむなんて。 考えてもなかったし、想定外すぎた。それに、お前が俺の恋人になるっていうのも。 好かれてる自信はあった、けど鈍感そうなお前のことだから、気付いてないんじゃないかって、心のどこかで思ってた。 だったらその想いに気付かせてやろうって、絶対俺の方を向かせてやる、俺のことばっか考えちまうくらい、惚れさせてやるって。 最初はそう思ってたのに。蓋を開けたら、このザマだ。 俺の方がいっぱいいっぱいで、かなでのことばっかり考えてて。……なんか、俺ばっかりお前に惚れてるみたいで、悔しくて。 横浜に通ってる間も、ずっと心のどこかで思ってた。 お前は笑顔で俺を迎えてくれるし、愛の言葉にはずかしがりながらも応えてくれるけど。 なんか、俺ばっかお前に逢いたいみたいで。俺ばっかお前をどんどん好きになっていってるみたいで。 負けたみたいで、なんか釈然としなかった。実際問題、勝利のキスをもらったときから、俺はお前に完敗してるワケなんだが。
がちゃり、ドアノブを回す音が響く。 扉の向こう、視線の先に……愛しくてたまらない人がいる。 逆上せきってぼんやりしてて、上手く思考がまとまらない頭で、ぐるぐる考えながら。 「どうしたんですか、東金さん!……顔、真っ赤ですよ!?」 驚いた声をあげるお前の方に、一歩一歩近づいていく。 まだ少し湿った髪が、すこしだけいつものかなでとは違う雰囲気を醸し出して。 俺を心配そうに見上げてくる瞳に、熱に浮かされた熱い視線を絡ませて。 倒れこむように、その華奢な体躯を抱きしめた。 (……あ、やばい、俺と同じ、俺がいつも使ってるシャンプーのにおいが、する) 俺の家で風呂に入って、同じシャンプーを使ったんだから当たり前のことのはずなのに。 どきんと心臓が跳ねて、自然と笑みが浮かんでくる。 「……東金さん?」 「……千秋、だろ?」 心配そうな声音で、でも状況が飲み込めてない、探るような声に。 間髪いれずにそう切り返せば、おずおずとその声が俺の名を紡ぐ。 「千秋……さん、どうしたんですか?」 (嗚呼、相当俺はお前に入れ込んでるな。名前呼ばれただけで、口元が緩んで仕方ない) 「バススピーカー、」 唐突に、それだけ言葉にして。 多分いまお前は、不思議そうなカオをしてるんだろうな。 「もらっただろ、かなでに。おかげで最近はすっかり長風呂でな、今日なんて、うっかり聴き込んで、逆上せちまった。 ……前に、言ったよな?のぼせたら、責任とって介抱しろって」 ほんの少しだけ埋めていた顔を離して、真正面至近距離で、かなでをじっと見つめる。 「あの、でも……っ!介抱って言われても、何をすればいいんですか……っ!」 嗚呼もう、そんなに緊張するなよ。せっかくの可愛い顔が台無しだぜ? まぁ、照れを隠そうと必死なその表情も、俺からすれば最高に可愛いんだけどな。 そんな反応も含めて、ぜんぶ、どんどんお前を好きにさせてく。愛しさが募って、止まらなくなる。 かなでの質問には答えず、問答無用で唇を重ねた。 ふたりとも風呂上がりだからか、いつもより少し湿ったくちづけ。 驚いてびくりと震えた肩から、力が抜けたのを確認してゆっくりと唇を離して、満足そうに笑みを浮かべる。 それからまた、かなでを抱きしめてその明るい色の髪に顔を埋めた。 「んー……、まだ、もう少し、しばらくの間…こうして抱きしめられてろ」 「……はい」 心なし柔らかくなった声音で返ってきた返事に、きゅっと濡れた髪と背中に回ってきた、抱きしめ返す手。 驚いて目を見開いて、でもじんわり胸の奥の方があったかくなって、ゆっくりと瞼を下した。
鼻腔をくすぐる、あまいかなでのにおいと、混ざった嗅ぎ慣れたシャンプーのにおい。 まだいまはもう少しだけ、この感情に浸っていたくて抱きしめた腕に少しだけ力を込めた。 (……いっそ、このままずっとお前を抱き締めていたいなんて、口が裂けたって言わないけど)
'10,0322 企画サイト、「君と過ごす夏」様提出お題です。 元々千秋の発言を受けて書きたいと思っていた作品で、このお題を見たときからコレを書くと決めていました。 千秋視点で、プライドの高い彼の見せない独占欲を書きたくて。すこしでも甘さが伝わっていれば幸いです。 せっかく神戸にかなでちゃんが来てる設定なので、関西弁を盛り込みたくて冒頭のようになりました。 普段標準語で話す千秋だからこそ、方言のときとのギャップが余裕のなさや気を許している感じが出る気がします。 素敵な企画に参加させて頂いて、ありがとうございました。少しでも楽しんでいただけていれば幸いです。
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