特別な
「今はそんなことを考える暇なんてないだろう」
「…っごめんなさい…」
休憩室に入ろうとした手を止めて立ち止まる。中から聞こえてきたのは零の声と、女性の震えた声。はっとして慌てて休憩室のドアから離れると、涙を流した女性が飛び出してくる。
「…あなた…っ」
「え…?」
「どうして、どうしてあんたなのよっ…!あんたなんかが、どうしてあの人の隣にっ!」
「っ!」
これでも組織に潜入中で、身体能力には自信があったはずだった。しかし、なぜか私は動けなくなって、女性の振り下ろされる手を黙って頬で受け止めた。
激しい音と、じんじんと広がっていく頬の痛み。
通りすがりの人は驚いたように足を止めてこちらを見ている。
「っ何してるんだ!」
流石に休憩室にも聞こえたようで、部屋から出てきた零は珍しく慌てていた。
「…あ…、」
「…気に入らなければ平気で人を叩くのか」
「ち、ちがっ…!」
「もういい」
零は女性を睨むと、私の腕を掴んで歩き出す。なかなかの早足でついて行くのがやっとで、声をかけてみても反応はない。どうやら相当ご立腹の様だ。
途中で風見さんの姿を見つけると、零はいつもより大きな声で彼を呼び止めた。
「風見!」
「は、はい!」
「悪いが、袋かなにかに氷を入れて仮眠室に持ってきてくれないか」
「氷ですか?…え、名字さんのそれ…」
「あはは…叩かれちゃって…わあ!」
心配そうに自分の頬を見る風見さんと話していると、急に腕を引っ張られる。零は頼んだぞ、と風見さんに言うとすぐに近くにあった仮眠室へと入った。騒がしく入ってしまったが、どうやら今は使用者はいないみたいだ。
「…痛かっただろ」
「平気だよ、これくらい…」
「でも、赤くなってるぞ」
すり、と叩かれた頬を撫でられて痛みに少し顔を歪ませた。
「…あのね、そういうことするからダメなんだよ、零」
「何がダメなんだ、心配してるだけだろ」
あっけらかんと話す零にため息しか出ない。まずはこのすりすりしてくる手を止めていただきたい。これが私の叩かれた原因だと気付いていないのか。
「普通はなんでもない人にこんなことしないの」
そう言って頬から零の手を離すと、むっとした顔で見つめられる。
「…お前にとって」
「うん?」
「お前にとって俺は、なんでもない人間か」
「え…」
どういう意味、と聞く前に零は立ち上がって早々に仮眠室から出ていってしまった。…完全にへそを曲げてしまったみたいだ。
仮眠室から出てみると右の通路の奥に零、左の通路に氷袋を持った風見さんがいた。
「風見さん!」
「遅くなってすみません。あの、降谷さんどうかしたんですか?」
「ありがとうございます。あの、どうかしたかって…」
「あぁ、いえ、あんなむすっとした降谷さん初めてだったので…」
普段は多くの部下を動かす立場の零が、むすっとしていただと。ちょっと面白くなってふふ、と笑ってしまう。
「なに笑ってる」
「わぁ!いつの間にこっち来たの…」
「風見と話してた方が楽しそうだな」
いつの間にか背後に立っていた零の顔は相変わらずむすっとしていたが、さっきの言葉を思い出してまた笑みが零れる。
「…零の話してたから楽しそうに見えちゃったのかな」
「俺の?」
「うん。あのね、零」
ネクタイを引っ張って耳元で囁いてやると、零は驚いたように目を見開く。
「…それ、どういう…」
「んー…今ははっきり言えないから、また今度ね」
もう一度風見さんにお礼を言い、頬を冷やしながら自分のデスクに戻ろうと歩き出す。その後ろで零は大袈裟にため息をついた。
「…“零は私にとって特別な人だよ”って…告白みたいなもんじゃないか…」
少しだけ照れたように笑った零の背後で、風見は何も見ていないかのようにさっさとその場を去った。
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