優しい人は嫌いです

元親様が私を探しているらしい。
そう聞いた私は、今日は座っていることをやめた。あちこちを歩き回ることにしたと言ったほうが正しいかもしれない。

「御方様、朝から殿が探していらっしゃいましたよ」
「あら、名前様。先程まで殿様がこちらでお待ちだったのですが……」
「さっき、アニキが、まったくあいつはどこにいやがるってぼやいてましたよ」

このお城には本当に姿も仕事も口調も様々な人がいる。
皆忙しい中、私を見ると必ず声をかけてくれた。それはあの人が慕われている証だと思うが、今はそれすら厭わしい。

「お会いしたほうが良いのではありませぬか」

ある人にはそう言われた。
どうせ夜には会わなければいけないのかもしれない、ならば昼から会って話をしなくてもいいではないか。それとも、夜にはもう話す時間が取れないということだろうか。宴になるのだろうから。

「絶対に、会わない」

海を見下ろす高台で呟く。
絶対に会ってなんかやるもんか。だって、会ってしまったら――。
それなら最後まで会わなくていい。

「モトチカ! オタカラ!」

片言の言葉と共に羽音が聞こえる。重みを感じて横を見れば、鸚鵡が私の肩に留まっていた。目が合う。きっとこの子はかなり賢い。そしてこの子に会ったということは、まずい。

「こんなところにいたのかよ」

大きな足音が、こちらに向かって走ってくる。ああ、ほら、まずい。あなたのせいよ。どうしてそんなに主人に忠実なの。私はとてもそうはなれない。

「おい、名前」
「モトチカ、オタカラ!」
「そうだな。お前は本当にお宝を探すのが上手ぇよ」
「オタカラ!」
「ありがとな」

鸚鵡と話す夫の声はとても優しい。羽音が離れていく。きっと居心地の良い、逞しい肩に戻っていったのだろう。

「名前?」

そして、私を呼ぶ声もいつもより優しく聞こえる。いまだ振り向かない、無礼な妻なのに。

「何の御用でしょう」
「何のって……一緒に海でも行かねぇか」
「船の準備の進捗状況を見に行かれるのでしたら、お一人でもよろしいでしょう」
「まあ、そりゃそうなんだけどよ……そのためだけに行くんじゃねぇからな」

そこで口ごもる。表情だけでなく、声音にも感情が表れる人だ。顔を見なくても困惑しているのがよくわかる。
今日の海は少し緑がかった青だ。その海の方に向かって、鸚鵡が嬉しそうに飛んでいった。

「いつもは、そんなことはおっしゃらないのに」
「いつもじゃねぇからな。お前も知ってるだろ?」
「ええ……いつもなら、お仕事はともかく、野郎共たちとからくりをいじったり、船を出して釣りをしたり、酒盛りをしたり、私を探すことなんていたしませんもんね」
「何で怒ってんだ?」

声が近くなる。
元親様はすぐ後ろに立っているようだ。

「駄目か? 出発の前くらい、お前と一緒に居たいって思っちゃ」

もう、この人は。女心がわからないくせに、だからこそ時々女心を鷲掴みにする。

「出発じゃなくて、出陣でしょう」
「変わんねぇよ。なあ、」

逞しい腕が後ろから伸びてきて、腕と胸にすっぽりと閉じ込められる。遠く見える潮の香りが近くなって、動けなくなってしまう。

「今日は、お前の顔を見ていてぇんだよ」
「そんな、こと……」

どうして、こんな日だけ、こんなに優しくなるの。

「嫌いです、元親様なんて」
「なっ……」
「毎日、今までも明日からも、そう言ってくださればいいのに」
「それは……」

嫌いなのは、元親様だけじゃなく。
こんな日に我儘を言ってしまう、私自身。
こんな日に笑えない、私自身。

「名前、泣いてるのか?」

会ってしまったら、こうなると思っていた。

「嫌いです……」

太くて節くれだった指が、似合わない優しさで涙を拭う。あまりにもそっと拭われるので、拭いきれない雫は頬を伝っていった。意味があるようなないような。
こみ上げる笑いを抑えたが、ちょっと肩が震えてしまった。

「ん? 笑ってんのか?」
「笑ってませんけど……くすぐったい」
「わかんねぇなあ……」

元親様が軽く溜息をつく。

「なぁ、俺の新しい服、縫ってくれてありがとな」
「いえ……今までの物がもう破けていましたから」

繕うのも無理だなというくらいひどく。どうやったらあんなにぼろぼろにできるのか見当もつかない。
元親様の派手な上着は、もともとは航海で見つけてきたものらしく南蛮風の作りで、同じように作るために布を裁つのも縫い合わせるのもかなり大変だった。

「野郎共の服も繕ってくれたんだろ?」
「それはさすがに私ひとりでは無理なので、女達でやりましたよ。皆にも御礼を言っておいてくださいね」
「……ああ、わかったよ」

抱き締められている腕に、そっと手を添える。西海を、この国を、民を、私を、すべてを守るこの腕は逞しく、そして頼もしい。それなのに、私はいつも出立前には不安に襲われる。もうこの人が帰ってこないのではないかと思ってしまう。

「留守を頼んだぜ」
「……かしこまりました。ご武運をお祈りしております」

声を震わせないように、お腹に力を込めて答えた。

「土産、楽しみにしてろよ」
「京友禅がいいです」
「着物ぉ? 良し悪しが俺にわかると思うか?」
「私に似合いそうだと思うものにしてくれればよいのです」
「そうかぁ? それが難しいんだがな……」

顔を斜め上に向けて見つめれば、嫌そうに顔をしかめている。困らせ甲斐のある人だ。

「おっ、笑ったな」
「そう……ですね」

はっとして口を押さえる。確かに涙はもう止まっていた。
肩をつかまれ、元親様の方を向かせられる。夫は青い空を背景に笑っている。

「名前の笑顔があるここに、俺は帰ってくる」
「え?」
「だから、笑って待っててくれや」
「……はい、お待ちしています」

微笑めば、今度は手を握られた。

「じゃあ、海行くぜ」
「待ってください、私はまだ行くとは、」
「おいおい、お前が探し回らせるから、もう陽があんなところにあるんだぜ。ぼやぼやしてたら陽が暮れちまう」
「それは……申し訳ありません」
「もういい。笑ってんならいいんだ。笑顔を見てから出かけたかったからな」

空を見上げて笑い、私の手を引く。何と言えばいいのかわからないので、後について足を進めた。いつもよりゆっくりと歩いてくれている。

今日だけじゃない。
いつも一緒に居られるわけではないけれど、この人は私に優しい。後ろめたいこともあるからなのだろうけれど、でも。

「優しいけど……」
「アアン? 何か言ったか?」
「いいえ」

この優しさにまた、暫く会えなくなるのだと思うと。もしかしたらずっと会えなくなるのかもしれないと。きっと私はまた、寂しさと不安で押し潰されそうになる夜を迎えるのだろう。幾つも幾つも、そんな夜をまた越えるのだろう。
だから――。

「だから、やっぱり嫌いです……」

前を歩く広い背中に聞こえないくらいの小さな声は、近づいてくる波の音に掻き消された。
鴎が青い空を斬るように飛んでいる。遠くから、船の準備をしている者達の声が聞こえてきた。