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 昔から、混じり気のない白が好きだった。汚れのないその色にいつも憧れていた。


 昼間の華々しさとは打って変わって、二人きりの部屋は静かだった。透き通る純白のヴェールもレースを幾重にもあしらったドレスもとっくの昔に着替えて、広々としたベッドに腰掛けるのは普段と変わらぬ私だ。唯一そのときのまま華やかな空気を残しているのは、手元の花束一つ。くるりと回して、踊り子が身を翻すようなその姿を飽きもせず眺めていた。

「いつまで見てるつもりだ」

 痺れを切らした様子で話し掛けてきたスモーカーさんは眉間に深く皺を寄せた顔で私を見ていた。長時間窮屈な格好を強いられていた反動か、シャツのボタンはないも同然に。ただ羽織るだけの状態と変わらなかった。普段と変わりないそれも二人きりの状況だと妙に気になって目を逸らしてしまう。

「そんなに、見てました?」
「ずっとだ」
「夢みたいな時間だったから、つい確かめたくなって」

 この日にあったこと全てが現実であると。私はまた、手元に視線を落とす。生花で作られたそれはまだ美しいままの姿で花を咲かせていた。



 親しい人間だけを招いたこぢんまりとした式だった。街外れの教会で、ひっそりと誓いを交わして。共通の知人といえば同じ職業である以上ほとんどが海軍の人間で、普通の雰囲気とは少し違う気もしたけれど飛び交う祝福の言葉は何よりの幸福だった。お互い派手なものは望まなかったからそれで十分だった。

「馬鹿が」
「いたっ……」

 コツンと、拳骨代わりに指の節で額を小突かれた。加減されているとわかっていてもそれなりに痛い。

「ちゃんと隣にいただろうが」
「勿論、覚えてます」

 愛しい人が隣にいて、大切な人達にそれを祝福される。本来ならそんな幸せを周りに分け与えてもいいくらいなのに。欲張りな私は花束一つ手放せず、今もまだ握り締めていた。

 何より幸せなはずなのに、時々不安になる。
 この幸せは今だけのものなのかもしれないと。私だけを見ていてくれるこの人も、きっと明日になればいつもの彼に戻ってしまうだろう。正義の文字を背負う海兵に。スモーカーさんの心の中に私はどれくらい存在できるのだろうか。公私混同なんて求めるつもりはないのに、時折どうしようもなく我が儘な感情が顔を出す。

 真っ白な姿が彼に似てたから――そんな理由で選んだ花に顔を寄せると甘くどこか悩ましげな香りが鼻孔を擽る。

「なァ」

 甘美な空気に浸る私を呼び戻すように声が響いた。その声音から張り詰めた空気を感じ取り、僅かな沈黙に息を飲む。
 視線が何かを探るように絡み合い、スプリングの軋む音がやけに遠く聞こえた。スモーカーさんはベッドの隣に腰掛けると私の背中に腕を回す。そこに漂うのは部屋に染みついたものと同じ――否、それ以上に強い香り。

「後悔、してねェか?」

 耳元で囁かれた言葉は普段の様子からは到底考えられないものだった。

「何のことですか」
「俺を選んだことを、だ」
「してませんよ」
「……なら、何故選んだ」

 何故――その一言に見合う答えが見付けられずにしばらく考え込んでしまった。そんな私を急かすわけでもなくスモーカーさんは沈黙したまま待っていた。


「何となく、……ですかね」
「……はぁ?」

 さすがにその言葉は予想もしていなかったのか不満そうな声が漏れる。実際それ以上に的確な言葉はないのだから私にはどうしようもない。

「気付いたときにはもう、貴方の側にいたくて仕方なかった」

 最初は一人の部下として、だったけれど。多分、気持ちの根本は変わらない。ずっと前から、どうしようもなく憧れていた。

「大丈夫。――幸せですよ、今の私は誰よりも」

 腕の中で、今までのことに想いを馳せるように目を細める。この場所でなら何もかもが赦されるような、そんな心地がした。

「でも少しだけ、怖い」

 閉じ込めていたはずの不安を零すことさえも、そう。

「明日になっても、普通の日常でも、私は貴方の特別でいられますか――――なんて」

 口に出してみるとそんなことを考える自分がおかしく思えて、自嘲にも似た笑いが込み上げる。側にいられたらどんな形でもよかったはずなのに、いつの間にかどんなときも想われたいと願ってしまうようになっていた。私はどれだけ欲張りなのだろうか。
 優しく添えられていた腕が離れたとき、周囲の空気がやけに冷たく感じた。呆れられただろうかと咄嗟に上げた顔を無骨な指に捕えられる。

「テメェは、よそ見し過ぎなんだよ」

 ただ吐き捨てるようにそう言った。まるで他のことなんてくだらない、とでも言うように。

「俺だけ見てろ」

 その言葉通り、全てを奪われるくらいに強く真っ直ぐな視線から目を逸らせない。はい、と唇を僅かに動かせば向こうは至極満足そうな表情で。にやりと口元を吊り上げ顔を寄せた。

「……甘ェな」

 私の髪を一房掬い上げ鼻先を近付けると、眉をピクリと動かしそう呟いた。それはまだ微かに残る、白い花の甘い匂い。

「花の香りですかね。嫌いですか?」
「いや――ただ、気に入らねェ」
「えっ……?」

どういう意味かと問おうとするもその口は彼によって塞がれる。数秒間の口づけに呼吸は乱される。

「あ、の……」
「言っただろ。お前が見るのは、俺だけだ」
「ブーケにまで妬かないでくださいよ」

 この花に惹かれた理由を知ればこの人はどんな顔をするだろうか。結局私は貴方しか見えていないというのに。


「ねえ、スモーカーさん」
「……なんだ」
「たとえどんな立場で出逢ってたとしても、きっと私は貴方が好きです――」

 何度でも貴方に惹かれる自信はあるから。愛しい想いを込めて目の前の相手に微笑む。細めた目を開くと自然と視線が重なった。
 優しく降りてくる唇をそっと受け入れると口づけは次第に深くなる。夢心地になる意識の中でも、これは紛れもなく現実なのだと今ならはっきり言える。今胸を満たす幸福は何より鮮明であたたかいから。この手で触れたあの人のぬくもりと同じように。
 どんなときも、私が望むのはただ一人。指先から滑り落ちた純白の花束はシーツの上で静かに眠りに落ちた。


ジャスミン

私はあなたについていく