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 花びらを一枚だけかぶったような薄い純白のドレスは男を酔わせるために纏った誘惑の鎧。蝶のように煌びやかに舞う私は今日もまた一人誰かに一夜へと導かれ、私の羽についた鱗粉の猛毒に溺れていく。そして、うつくしさという名の偽りの白い仮面を被り、猛毒に犯されたその男たちから甘い蜜を吸い上げる。私は今日もシャンデリアの下で甘い鱗粉を撒いていた。
 略称CP‐0、正式名称はサイファーポールイージスゼロ。世界政府の諜報機関であるサイファーポールの最上級に位置する世界貴族直属の組織で、世界最強の諜報機関とも呼ばれている。私はそこに所属する一人で、日々諜報活動を行っていた。
 私が諜報する標的とされるのは主に王下七武海と呼ばれる政府公認の海賊、およびその傘下の海賊、その海賊と同盟を組んでいる海賊の監視だ。表向きは政府に都合のいい海賊かもしれないが、所詮は海賊だ。裏で政府に何か都合の悪いことを行っていればそれを十分な証拠に七武海の称号剥奪、または政府が七武海への攻撃を行うことが可能だ。特に私が他の諜報員とは違っている点としては、どんな手を使ってでも露見していない悪事に繋がる情報を手に入れるという点だ。そのためなら自分の肢体を磨き上げ、服を煌めかせ、諜報相手にまやかしを見せることは、呼吸をすることと同じくらいに平然とやってのけた。組織内では白い仮面を着用することが義務付けられているためほとんど仮面舞踏会に参加することが多かった。お互いの顔が見えないことはこんなにも素晴らしいことはない。そこにいる私はこの世にいるどの女にもなれず、この世にいるどの女にでもなれるのだから。
 今回の標的である男に接近しようとシャンパングラスを片手に歩き始めた。時々見知らぬ名もなき男に声をかけられるものの、私は笑顔で断り先に進む。集めた情報や心理結果で彼が好む容姿である私が話しかけてしまえば例え博識そうな彼でも口を滑らせてくれそうだ。右耳にだけつけられたピアスがパーティを照らす白と黄金の光に当たってきらりと輝く。彼を取り巻いていた男が消えて私と彼との距離は残り5メートル。あと1歩ヒールで踏み出せば届く距離――――。
 けれど、決して捕まることのない蝶の猛毒の羽根を恐れず、私の腕を掴む一匹の蜘蛛がいた。私は腕を掴まれて振り返る。このままだと、標的の彼が別の誰かとどこかへ行ってしまう。

「お前からはいい匂いがする、甘いとは形容しがたい、けれどそれは他の女とは違う……」

 突然の自体に慌てる私など知らない男は口元を三日月に歪めていた。

「……例えば?」
「ひどく爽やかな香りだな」

 その彼がかけていた色つきのサングラスには、確実に白い仮面を剥がした私が写り込んでしまっていた。

「あなたはどちら様……?」
「のちに七武海になる男だ」
「し、七武海…?」

 潜入したパーティ会場で、この男には誰でもない私は何も知らない金持ちの箱入り娘のフリをした。だが、標的の彼と同様博識な彼に私の術は通用しなかった。

「何しらばっくれてんだよ。それなら申し分ないだろう、サイファーポールイージスゼロの夜蝶、名前」

 声、嗤い顔、しぐさ、匂い、色、形。新たに七武海になると宣言した彼の情報が私の脳内メモリーにインプットされる。確かにこの男なら七武海になるのは申し分なさそうだ。なぜならこの男は私を知っているからだ。サイファーポールイージスゼロも甘く見られたものだ。予想外の自体に私は苦笑した。視線を先ほどの標的がいた場所に向けるものの、そこにはもう彼はいなかった。
 私の腕が3メートル以上はあると思われる身体に引き寄せられた。私の腰に彼の長い指先が回る。寄せられた顔に社交辞令のキスを一つ落とした。彼からは麻薬のような甘ったるいフレグランスの香りがする。私が思っている自分の匂いと似ているはずのその匂いは彼が形容したものとは程遠かった。

「あなたはそんな私でもお相手してくださるの?」

 この日、私は生まれて初めて任務遂行を失敗した。そしてこの日、私は生まれて初めて私はこの世にいるどの女でもない名前という名の自分を知った。








 四方八方からパーティ会場を照らすライトは1時間ほど経てば慣れてしまった。無駄に着飾った人々に私は笑顔の仮面を貼り付けて愛想よく振りまく。

「お嬢さん、少しいいかな?」

 薄い板のような身体に黒い背広をつけた男の腕に似合わない太さの金の腕時計が誇らしげに存在を主張していた。下品だと吐き捨てたくなるぐらいに財力や権力の匂いがする。
 真摯に耳を傾ける素振りで、私は彼の話ではなく腕に絡みついた金の時計に集中する。無駄に光を反射する金は男の服装のコントラストをまったく無視したチョイスだ。それを敢えて選択したところに、財力や権力を主張する以外の意志を感じた。
 すると、金の輝きが呆気なく死んでいく。マシンガントークのように男が自慢する金の話、自分の持っている財や権力の話へ適当な相槌を打って、私は苦笑という名の作り笑顔を見せる。
 そうとは知らない男は私に感心したまままだ喋り続けている。私が一瞬で心奪われた男は、決してこんな男ではなかった。 
 心の中で深くため息をつき、私はその男の話を聞いているふりをして、パーティ会場を見回していた。その私の目は確実に獲物を狩る時の目をしているだろう。アルコールの水面下で踊らされている人々には決してわからない目の奥にひそめた眼光を宿し、私は探している。
 ピンクのファーコート、ふんわりと柔らかい、ライオンのたてがみのような金糸の髪、隠せるのにあえて隠そうとしないだらしない真っ赤な舌に、高級な素材で仕立てられたワインレッドのスーツ、そしてその下に潜む硬い鉱石さながらの重々しさと鋭さが漲った筋肉。一度きりだとしても私の脳内から消えることのない彼という形容は私の身体にはっきりと刻まれていた。
 あれから私のお目当ての彼は本当に王下七武海という札付きの海賊になっていた。どのような経緯で七武海になったのかは心底興味がない。彼は私と初めて会ったときとは違って、今日は王下七武海という海軍に協力する海賊の肩書きを持った、正式にパーティに参加するはずだった。諜報する私にはありえない行動をしていた。彼はきっとここに来る。確実性のない根拠に動いていた。
 彼に対してはもはや一般人となってしまった私が潜入できる範囲はここまでが精一杯だった。任務を失敗したあの日以来、私は王下七武海ドンキホーテ・ドフラミンゴおよびその彼の支配下にある国ドレスローザを諜報する権利を失った。上からの命令であろうとなかろうとこの私には諜報する気など湧かないのだから外されるのは当然の結果だ。
 でも、パーティ会場からは麻薬の甘ったるいフレグランスの香りがする気配などしない。背の高いあの男ならばいたら一目でわかるのに――――。そう思うと白い仮面の下の憂愁に沈む。

「大丈夫かい?」

 紳士的に話しかけてきた男に愛想笑いをして、頭を深く下げて私はパーティ会場から逃げるようにして闇を求めた。今の私にこれ以上光が当たっていたらいつか光に溶かされそうだ。闇が欲しい、この世にいるどの女にもなれず、この世にいるどの女にでもなれる白い仮面のような私を包む闇がほしかった。
 昔から、生まれた時から仕事ひとつだった私には仕事ではないことをするのは慣れないことだったらしい。パーティ会場の酒に酔ったのか人に酔ったのか、黄金と光に包まれた偽りだらけの世界には本当の私の居場所はどこにもなかった。
 私は一人バルコニーに立ち、真っ暗な夜空を仰いでいた。持ったシャンパングラスの中の炭酸の抜けた水が輝きもなく揺れていた。
 もう彼と会う機会などないかと思うとグラスを持つ手が強くなる。ここまで私をおかしくする人はいなかった。私に与えられた執行猶予は今日までだ。実力がついてしまった私が所詮この程度の失敗だけでは、任務を休むことはできないことを初めて恨んだ。明日からは別の任務が入る、今度は新世界で怪物と呼ばれている男の監視をしなければならない。だから、もし彼と会うのなら今日だけがチャンスだった。
 眩暈を抑えるためにシャンパングラスに入った水を飲み干した。もうこんなくだらないことはやめよう、と私は頭を横に振る。

「こんな胡散臭ェパーティには似合わない爽やかな匂いがすると思ったら、そういうことだったか。前に会った時よりも強く香ってるな」

 甘い匂いが一瞬で私の体内を侵した。振り返ったそこには闇にも光にも溶けこめる男が立っていた。ピンクのファーコートが風に揺れてそこにつけられていた一枚の羽根が私の手に舞い落ちた。

「どうやって潜入したか教えてもらいてぇなァ。VIP限定、海軍の上層部しか立ち入れないこのパーティ会場にとても海兵とは思えない女がこんな機密情報が溢れまくってる場所に入り込んだなんて聞いたら、上は血眼でお前を探すぜ?」

 私のために彼が用意してくれたシャンパングラスが渡される。そのシャンパングラスには会場に並べられていた上品そうな見た目のわりに安っぽい味のゴールドシャンパンとは違い、ピンク色の光に輝いていて、匂いだけで眩暈がした。

「あなたは血眼で探してくれなかったの?」
「おれは血眼で探さなくたって見つけられた」
「なら、なぜ私を待たせたの?」
「本当はここに参加するつもりはなかった。自国の復旧作業に忙しくてな、」

 彼は黒革の手袋を外す。その現れた長い指が私の顎を捉えた。

「参加するのは面倒だと思っていたが、上が顔ぐらいは出せってな……まあ結果論としては来てよかったな」

 輪郭をなぞるように頬、目尻、耳へと指が滑っていく。そして白い仮面が剥がされてしまえば、もう私はサイファーポールイージスゼロではない、ありふれたどこにでもいる女の一人、名前となる。

「どうしてあの日あなたは、海軍主催のパーティにまだ七武海という称号のない海賊にもかかわらず参加できたの?」
「おれには上がいる、世界政府よりも海軍よりも上の、」
「上……?」
「お前にはそれが欲しいとは思わねえか。サイファーポールイージスゼロなんて所詮は世界政府の手下、そんな下にいて、有能なお前は満足なのか?」

 奪われた白い仮面はバルコニーの外へ投げ出された。赤裸々になった私は目を1回、2回と瞬きをしてみせる。

「きっと、満足では、ないと思う」

 サングラスの奥に潜む彼の瞳を捕らえてしまえばもう後戻りなどできない。バルコニーの柵に置いた私の手の上に彼の大きな手が重なる。

「なら、おれの下につくのはどうだ。お前には、海軍の諜報なんて朝飯前だろ。ワリィ話じゃねぇと思うけどなァ…?」

 私は確実にその言葉を待っていた。あの日からずっと、望んでいた。
 私の理性は悲鳴をあげて死んでいく。生まれて初めて心の底から顔が綻んだ。

「それなら、ドフラミンゴ様」

 私がこの男を利用するか、この男に利用されるかはまだわからない。でも一度掴まれた腕を振り払うことは、囚われた蜘蛛の巣から逃げることは、できなかった。

「もう一度、愛してくださる?」

 二つのシャンパングラスがぶつかって、控えめに音を立てる。パーティ会場のバルコニーの闇に人知れず男女が紛れていた。二人は、再開の夜と二度と戻れない夜に乾杯した。


ミント

もう一度愛して下さい